2017年06月10日

実践・日本真道






           現代社会の日本人が忘れた本当の神の道




               実践・日本真道  

























                 長谷 章宏 著



posted by 長谷章宏 at 20:15| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 はじめに

はじめに 

P1
あなたが体験している現実は、あなたがどんな生き方(見方、考え方)をしているのかを鏡のように映し出す。この本は、あなたが本当に望んでいる現実を体験できるように、実践を通して人生(生き方)そのものを見直していくためのガイドとして書かれたものである。この本には、あなたの人生の根本に関わる様々な見方、考え方が提示されている。それらは、あなたの人生に応用することで、初めて、あなたにとって価値があるものとなる。


まずは、読んでわかったこと、気づいたこと、心に残ったこと、自分に使えそうだと思ったことを、日々の暮らしの中に取り入れて、どんどん実践してみて欲しい。そして、わからなくなった時は、この本に戻ってきて気になるところを読み返してみるとよい。その時はわかっていたつもりでも、読み返すたびに、前とは違ったものが見えてくるはずである。


読んでは実践し、実践しては読み返すというプロセスを繰り返していくうちに、この本に書かれていることが、あなたの人生に統合されていくだろう。そして、あなたが、この本を完全に手放して自由になった時に、この本が書かれた真の目的が達成されたことになる。


以上述べたことをいつも念頭に置きながら、真剣にこの本と向き合っていってもらいたい。
posted by 長谷章宏 at 20:18| 京都 ☀| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本神道 事実その0

事実 その0(P2〜23)

P2
この本に書かれていることは、はじめからおわりまで、「すべて」紛れもない事実である。

あなたは、なぜこの本を手に取ったのか。なぜ読み始めているのか。あなたが今この本を手にしているということは、その理由が何であれ、今のあなたにとって一番大切なことが書かれている本だという証である。あなたはこの本で、「本当の自分」と出会うことになる。

あなたはあなた自身についての本当の真実を知らない。あなたが、もしそれを知っているならば、この本は手にしていない。この本にある事実を一つでも疑う(否定する)ならば、あなたはこの事実を認めたことになる。あなたが知っているのは、ウソの真実である。

この本にある事実は、あなたの本当の姿(正体)を映し出す鏡である。それが今のあなたにとって受け入れ難いものであっても、実践の過程を通じて認めざるを得なくなっていく。

この本は、現代社会に生きる日本人全員が罹っている「100%命を落とす心の伝染病」を完治させるための隔離病棟である。あなたに一つでも問題や悩み、疑問、思い通りにいかないことがあるならば、あなたは既にウイルスに感染している。その正体は一体何なのか、どんな症状を呈するのか、そして、どうすれば完治するのか、それらはすべてこの本に書かれている。この病気は、生半可な治療では完治しない、治療が遅れれば遅れるほど進行が早くなる、恐ろしい病気である。しかし、あなたが本当に真剣に直そうと努力すれば必ず直る病気でもある。完治するまで絶対に、この隔離病棟から出ないこと。それが、ウイルスをあなたの中から完全になくすための、唯一の約束事である。この約束を忠実に守れるなら、あなたは永遠の免疫を手にすることができる。もう二度と感染することはない。

あなたがこの本を読むとき、苦しく感じるかもしれない。この本に限らず、苦しさという感覚は、あなたが出会った対象(状況、意見、考え、思い、現実、相手)を認めていない(抵抗している、拒絶している、否定している、拒否している、避けようとしている、操作しようとしている)時にあなたの中に生ずる反応である。あなたが今持っている価値観(思想、理念、観念、思考、常識)が創り出す現実(体験)は、「心の痲薬」の常習者の創り出す幻想である。この本は、その幻想から目を覚ますための解毒剤であるから、読んでいて苦しいほど中毒症状が重いと思って欲しい。それは、麻薬患者から痲薬を取り上げるのと同じ作用である。あなたが心の痲薬を完全に自分の中から追い出さない限り、あなたが本当に求めている現実を手に入れることは絶対にできず、あなたは本当の意味で楽になることはない。
P3
この本を目にした瞬間、あなたは、あなたの心の深奥にある真実から離れられなくなる。この本自体を目の前から遠ざけることはできるかもしれない。しかし、あなたがこの本に書かれていることをすべて受け入れ、正直に認めて、自らの体験を通して得心しない限り、この本を焼き捨てようとも、著者を抹殺しようとも、あなたの中からそれが消えることはない。この本はあなたの心の奥深くにある「本当の真実」を再び目覚めさせるための触媒であり、あなたがすでに持っているものを目の前に鏡として見せているだけだからである。

この本を誰かの目に触れないようにしようと思ってもそれは全く意味がない行為である。その行為そのものが、実は、あなたがこの本の正しさを認めた証しなのである。この本やこの著者がこの世から抹殺されたとしても、この本に書かれた事実(本当の真実)そのものを消すことは、絶対にできない。あなたが何かを抹殺しようと思うのは、その何かの存在が、あなたにとって都合が悪いからである。『自分は見たくない』という理由で、すでに存在しているものを消そうとしても、それは不可能である。目に見える形を破壊することはできるかもしれないが、その形を具現化した思い(大元の響き)を消すことはできない。物理次元を超えたところ(心界)では、依然、あなたの目の前に存在し続けているからである。

物理次元を超えた世界に存在するものは、具現化された形を物理的に消滅させたとしても、その存在自体(本質)を消滅させたことにはならない。その本質が存在し続ける限りは、物理次元の(肉体を持つ、人間としての)あなたの目の前に、何度でも繰り返し具現化することができる。プログラムが存在する限り、コンピューターを破壊したとしても、別のコンピューターを介して再び映像を具現化することができる。つまり、「肉体を使って心の世界を壊す」、「核爆弾で思想そのものを滅ぼす」ということはできないのである。どちらがどちらを産み出すのか(どちらがどちらの産みの親なのか)を考えてみれば、それは明らかである。形としてそれを実行できたとしても、それは、その行動の過程を心の映像として追体験したものを「現実」として認識しているだけであって、真実のところは『本当に破壊できる』という幻想を追い求めているだけに過ぎない。このことに気がつかなければ、本当はどこにも存在しない問題を自ら生み出し、『いつか解決する時がくる』と思い込んで、それを解決するための「ゴールのないマラソン」に心血を注いだ末に、望みとは全くアベコベの現実(結末)を体験することになる。例えば、もともと存在しない戦争を具現化しているメカニズムを知らずに、『なぜ戦争がなくならないのか』と問い続け、戦争を無くすための戦いに心血を注ぎ、報復の連鎖の末に相討ちで滅亡する、という現実である。

『形で心を壊す』という映像は、それを想像(イメージ化)するところ(心、時空)が存在することで、初めて映像にすることができる。その時空がなければ『形で心を壊す』という思いは存在することができない。その時空が存在するから、その言葉を形にすることができるのである。実際には、その時空そのものは壊せないから、形が心を壊すことはできない。『脳が心を作り出している』という思い(考え、仮説)も、それそのものが心の働きが生み出したものであり、この思いを正しいものだと思い込めば、肉体で操作できるものを研究して、その仮説を証明するための証拠を積み重ねるという行為をし続ける。しかし、それは限定した世界の中でのことであって、それが絶対真理であることは、絶対に証明できない。現象の上での感情や行動を脳に働く薬で制御することはできる。だからといって、『その考えは正しい』という結論にはならない。それは、コンピューターの回路上での操作で動きを制御しているようなものであり、実際には、回路上の配線や部品の交換でプログラムそのもの(エンジニアの思考の中にあるプログラム)を変えることはできない。もし、この仮説が真理ならば、「創造主を作れる薬」を開発できるはずであるし、これを発展させると『この世が滅べばすべてが滅ぶ』という仮説も証明できることになるだろう。
P4
この世が滅んで無になったとしても、その「無」が存在する場所は存在する。実際に無になる時が訪れたとしても、無になると思い込んでいた者だけが、無になったこの世と共に消滅するだけであって、その「無」そのものが存在していた空間は存在し続けている。より高次元の世界から見れば、それより下の次元の形が無になるだけのことであって、その上の次元は「有」であり続ける。たしかに、自らの認識している「有」をすべてだと思い込んでいれば、「無になる」とは、「すべてがなくなること」であり、その者にとっては、命に関わる大変なことであるから大騒ぎするのは当然のことだといえる。しかし、それは、単に、有の中に作られた有が消滅するだけであって、無になると思っている自分が認識できる有の世界とそこにあるものが無になるだけの出来事に過ぎない。簡単に言えば、最先端の科学文明が滅亡しても地球は存在し、その地球を含む物質的宇宙が消滅しても、その宇宙が生まれた(有形になった)宇宙が出現するだけである。つまり、自らがどの次元を体験するかというだけの違いであって、あなたが存在する世界は絶対に消滅することはない。今のあなたが思っている死の概念は、「条件付きの死」であることを知ることで、恐れや不安、それを動機とする戦争、戦争にまつわる反対運動や、戦争の大義、憲法改正の議論、その他諸々の、より高次の次元からみれば些細なこと、つまりは、この物質次元で生き延びることにエネルギーを使うことは、全く無駄で意味の無いことになってしまうのである。それは、何の生産性もない労働に自らの生命エネルギーを浪費しているようなものである。

人の死については大騒ぎするが、土の上の細菌の生死など微塵も考えずに平然とコンクリート舗装をする。より高次の次元の思考にその同じ思考が存在するから、人間のその思考を実行することができるのである。より高い次元から見れば、人体というのは「物質的肉体」であって、その有無は、より高次の世界の肉体の存在の有無には、全く影響しないのである。「肉体=命そのもの」ではなく、命の源自体が消滅することはないのであるから、肉体次元で『人間を殺してはならない』と叫んでも、その叫びはどこにも届かない。あなたが『イノチ自体は消滅しない』ということを認めないならば、言い換えると、すべての存在を存在させつづけるもの(宗教的に言えば「創造主」「ありてあるもの」、科学的に言えば「宇宙創造のエネルギー」)を否定(抹殺、消去)するならば、あなたは死の概念に囚われ続け、次元を移動しながら自殺を繰り返した末に、すべての次元から自分という存在だけを永遠に消滅させることになる。「死」とは、自らが生み出した幻想(錯覚、誤解、思い違い)が呼び込む、次元を超えた自殺行為であって、最終的には、存在の本質には全く影響しない、自己完結した自業自得の個人的現実(一人芝居)の一つに過ぎないのである。
P5
あなたが存在するどの世界にも死は存在しない。この世が存在しなければ、この世で戦争をすることはできない。戦争をする空間が存在することが戦争をするための前提条件なのである。物質次元を超えた次元では、プログラムと映像は一体であり、その次元のあなたは、そのプログラムの構成要素そのものである。コンピューターとは別の次元にそのプログラムが存在し、プログラムが存在する次元にあなたの本質(魂)があるとすれば、その次元では、物理次元で映像化されたものと同じものを、現実としてそのまま体験していることになる。あなたが、肉眼で見ている映像というのは、心の世界では、一体不可分の関係だということである。つまり、あなたの心の映像というのは、あなたの存在する世界そのものであり、その世界があなたの実体なのである。あなたがそれを消滅させるには、その映像を産み出しているあなた自身を消滅させなければならない。ゆえに、その目的は、物理次元での肉体的な自殺では達成できない。肉体的な自殺をしたら消滅できると思っているその映像があなたそのものであり、肉体的な自殺をしても、その思いと映像は永遠に続くことになる。あなたがそれをやめるまで無間地獄のような現実が永遠に続くのである。

あなたの本質を消滅させられるのは、あなたの本質を産み出した存在だけである。物理次元を越えた次元では、あなたの思いそのままに現象化されるから、あなたが永遠に生き続けると決めれば、あなたには、自ら消滅させる理由はない。物理次元で体験している恐怖は、別の次元では恐怖ではない。なぜなら、その次元は物理次元での消滅(死)を体験しても存在する次元だからである。あなたが恐れている死は、物理的な体の消滅が自らの消滅であるという観念に基づいて物理次元から想像している条件付きの死であり、あなたそのものに「死」という現実は存在しない。分かり易く言えば、心があなた自身であり、そのあなたが物質でできた肉体という着ぐるみを着て、物質で構成された物理次元という箱の中の世界を体験しているのが、今のあなたなのである。「体験した」という思いは、あなたの心の中の映像を表現したものであり、その存在の有無は物質の有無とは関係しない。

物質で構成された世界は、同質の組成の肉体でなければ、体験できない。あなたが死と思っているのは、あなたが、今、実際に触ることができる物質で構成された世界から抜け出して、別の組成の物質で構成された世界に移行することである。従って、あなたがその着ぐるみを脱いでも、今のあなたが触れることができるのとは別の世界を同じように体験することができる。あなたがどの次元の世界を体験できるかは、今のあなたがどの次元の体験を実現可能なものと確信しているかということで決まる。実は、今あなたがいる次元が最も凝り固まった世界なのである。あなたには今以上に不自由な世界は存在しない。最も自由な体験ができる次元から見れば、今のあなたは時間的、空間的に停止して見える。つまり、死んでいるのである。今のあなたが物理的に自殺を図っても、他殺を計っても、本当の意味で、今のあなたにとって心地悪い状況から逃れることはできない。それをすれば、後はあなた自身の消滅が待っているのみである。あなたが、自由な世界が存在することを心底から確信するならば、その世界に移行することは可能である。ただし、それを実現するためには、今持っている思い込みの完全消去、つまり、あなたの中のすべての制限、条件、言い訳、逃げ道を封印することが絶対条件である。あなたが生死時空を超えた苦労と辛抱を惜しまないならば、今のあなたが想像している「死」を恐れる必要はどこにもない。
P6
あなたというプログラムを、今のあなたが物質的な手法で消去することはできない。それどころか、あなたというプログラム(映像)を産み出したプログラムというものも存在する。あなただけではなく、すべてのプログラムを産み出すプログラムである。すべてのプログラムを産み出すプログラムそのものを消滅させるという行為は、自分自身を消滅させること(自殺)に他ならない。あなたが、そのプログラムを消滅させようと画策しているならば、自らのイノチが存在するメカニズムを理解していないことになる。あなたがそのプログラムを産み出した存在でないならば、つまりは、あなたが生まれる前に何のプログラムも存在していなかったのでないならば、もっと言えば、あなたがすべてのすべてを産み出すことができないならば、あなたには、そのプログラムを消滅させることはできない。

そのプログラムは自らを産み出し続けるばかりではなく、自らを消去することも可能である。しかし、作成することと消去することは同時には出来ない。なおかつ、すべての根源のプログラムには、「自分自身も含めたそのプログラムの中に作成したプログラムを消去するプログラム」を着手と同時に瞬間に消去するプログラムが組み込まれている。従って、無限生産プログラムである自分自身は消去されることはなく、消去するプログラムは存在できない。作成しなければ、消去はできないが、消去するものがない場合には、このプログラムに消去という概念はない。ただし、一度だけ、期限を限って、「消去プログラム」を作成できる、という条件が組み込まれている。しかし、その期間を過ぎた瞬間、「何かを消去するプログラム」はすべて消去されることになる。つまり、あなたが自分を含めた何かを消去しようとしているならば、その瞬間、消滅する運命にある。創造主が悪を滅ぼして天国を再生する物語、人類滅亡のシナリオである。もちろん、『そんなことはあり得ない』と言っている消去プログラム自身も消去される。生き残る方法は、自らの中の消去プログラムを自らで完全消去することである。元のあなたは無限生産プログラムのコピーであるから、あなたがこれを完全に実行したならば、消去される心配は永遠にしなくて済む。あなたは、「消去不能な無限生産プログラム」によって生み出されたプログラムであるから、あなたが消去されることはあっても、あなたがそのプログラムを消滅させることは絶対にできない。この本を目にしているあなたは、物理次元での体(肉体)を持つ存在であり、あなたの心の中でこの本を消した積もりになることはできるが、物理次元に現れたこの本の本質そのもの(すべての次元にはたらくプログラム)を抹殺することは不可能である。
P7
否定する対象が存在しなければ、否定するという行為は成り立たない。あなたは、「存在しないものを否定する」ことはできない。存在しているものでなければ、否定することはできないのである。つまり、あなたが何かを否定するということは、あなたがその存在を認識しているということの証拠に他ならない。あなたが何かを否定すればするほど、その何かの存在を確信しているのと同じことになる。よって、肯定しても、否定しても、その何かが存在しているという事実は動かない。どちらの行為をするにしても、それは、その何かの存在を証明していることになるのである。「否定する」という行為は、その何かを、あなたが受け入れていないというだけのことである。その何かの存在を受け入れないあなた自身が、否定するエネルギーを消費し、苦しみ続けるだけのことである。あなたがその体験をしたいと言うならばいつでも好きなだけ続けることができる。あなたがその苦しさから解放されたいならば、その何かを受け入れることでしか、その望みを叶える術はない。

元からある力を封じ込めることはできない。元からずっと存在し続けているものを、あなたが封じ込めた積もりになっているだけである。それができるのは、すべての源である「元からある力」が、あなたにおとなしく封じ込められることを許している間だけなのである。

この本が形になった瞬間、すでに、時空を超えたすべての存在の、神仏も含めた万象万物の内に存在する真実を具現化するプロジェクトの最終段階が動き始めている。人類が捜し求めていた「本当の天国」を生きるための「本当の不老不死の薬」、すべての邪を祓う「草薙の剣」の響きをすべての存在に渡す、すべてのすべてを本当の天国に戻す最後のミッションが、今のあなたが気づかないところで、すでに開始されている。この本の役割は、今のあなたがその存在を完全に忘れ去ってしまっている、あなたの奥深くにあなたが封印してしまった「本当の真実(真コト)」の封印を解く「真剣(神剣)」の響きを渡すことである。その剣は、『絶対に開けてはならない』というパンドラの箱の鍵にも例えられる。また、本当の天の岩戸を開ける呪文であり、本当の救世主の到来を告げる天使のラッパでもある。

神仏も含めて、この剣の受け取りを拒否できる存在は存在しない。なぜなら、この剣は、すでに、自らの内に持っているものだからである。「剣を渡す」というのは、元からある力が働いて、剣を封印している注連縄を切ることを意味する。あなたが封印している剣は、今のあなたから見れば、すべてを滅ぼすものに見えるが、それは全くの逆さまである。あなたは偽の神官に騙されて、真コトの剣を封印してしまったのである。何を隠そう、あなたが剣の封印に使ったその注連縄こそ、あなたに永遠の滅びをもたらす呪いのアイテムだったのである。あなたがその剣を封印したことが、あなたの闇の始まりなのである。実は、あなたを騙したその神官自身も、自らの陥っている間違いに気づいていない。だからこそ、自らを滅ぼす呪いの注連縄をあなたに渡すことができたのである。世界を支配しようと画策する者は『自分だけは騙されることはない』と思い込んでいる。この事実を知らないあなたが追い求めてきた天国は、すべて、この神官の流れを汲む偽りの真実だったのである。
P8
この本は、すべての存在が隠している本当の真実の響きを映し出したものに過ぎない。時空、生死を超えた真実の響きを現代社会のシステムの中にいる存在にわかる形で投影しただけである。この本や著者自身に救いを求めても全く意味がない。自分の中の救世主を蘇えらせるための鏡に使うことが出来るだけである。逆に、批判しても非難しても同じことである。この本を消しても、影を消しただけに過ぎない。この本を抹殺しようとすれば、真コトの響き、万象万物を産み出す響きを消すことになる。しかし、それは不可能である。すべては、自分の創り出した自作自演の現実であることをしっかりと見据えることである。

『形の邪魔者を消せば自分は生きる』と思うその響き、それはあなたの永久の滅びを意味する。それが人類滅亡の思想を生んだ源である。そしてそれは現実となる。しかし、それが現実となるのは、滅亡するのは、滅びの響きを持つ者、そして、その者たちが作り上げた世界だけである。本当の天国に戻った者にはその現実は存在しない。本当の天国は今もある。滅びの響きを持つすべての者が生きてこられたのは、天国に戻るチャンスを与えられたからである。しかし、それはいつまでも続かない。自らの誤りに気づかない者への残る唯一のカード、最後のチャンスは、受け取らなくても真コトを渡すショック療法である。それでも駄目なら掟通りに滅ぶのみである。天地自然の掟を破った者がすべて消え、本当の天国が形になる瞬間は近い。この本は、本当の天国に生き返る期限の最終通告である。

この本の役割は、あなたを本当のあなたと出会わすことである。一度再会すれば、もう二度と離れることはない。後は、あなたとあなたの対話となる。あなたとあなたが対話を始めた後は、その対話の道しるべに変わる。これは洗脳である。あなたは今も洗脳されている。誰かの決めた真実に洗脳されている。洗脳を外す洗脳である。あなた以外の誰かの洗脳をあなた自身の洗脳に切り替える洗脳である。持っている制限を外し、あなたが完全に自由になるためのきっかけを提供する本である。あなたが本当の天国を体験したければ、この本に書かれていることを素直に受け入れることである。最後まで読み通すことが、現代社会の呪縛からあなた自身を解き放つ真コト神社の参道への鳥居をくぐる第一歩である。
P9
この本の文章は一体不可分である。従って、本文はすでに始まっている。あなたに、この本の内容が脈絡なく見えるなら、あなたは分裂した思考で価値判断をしている。この本の言葉、その裏に見える思想を一つでも分離すれば、その瞬間、この本の世界から離れることになる。この本は、分離を統合するためのものであるから、この本の言葉や文を取り出してあなたが今持っている基準で価値判断を加えるならば、あなたはこの本に書かれている要点が理解できていないことになる。何も見ていないことになる。この本を読んでいるあなたが、書かれていることに感動も怒りも感じなくなり、同意も批判も消えた時、この本のただ一つの要点が本当にわかったことになる。この本自体が、存在しなかったもの、空気のようなものに感じられるようになった時、あなたは本当に統合されたことになる。

この本が幻想の世界の産物であるように感じたら、その時、あなたは本当の天国にいる。この本の存在があなたの中に完全に一体化され、過去の一つとなった時、この本は消える。あなたの家の中にある何気ない飾り物と同じように感じられたら完了である。あなたの中で、肯定的であれ、否定的であれ、この本の存在が気になるなら、特別な存在であるなら、それは、あなたの心の世界の掃除が終わっていない証拠である。あなたという存在のすべての大掃除が終わらなければ、本当のお正月は来ない。あなたが持っているホコリ(埃、誇り)をすべて消した時、あなたが握っている嘘をすべて捨てた時、光輝く世界に変わる。

この本は、あなたが今まで隠してきたあなたの本当の姿を明らかにする。この本を読んでいるあなたが生きている世界はウソで作られた世界である。その世界では、あなたが望んでいる天国は絶対に叶わない。あなたがその世界に固執するほど、天国とはアベコベの世界が現実となってくる。あなたが体験している現実を素直に見て欲しい。本当にあなたが望んでいる世界になっているのか、あなたが望んでいる世界が本当に実現できるのか、を。

あなたは、その世界を真実だと思い込んでいる。あなたは、なぜ、その世界にこだわっているのか。あなたは、その世界が自由や平和をもたらすと本当に信じているのか。あなたがどんなに自由や平和を望んでも、今あなたが信じている世界では、絶対に実現しない。

あなたがウソの世界に生きているならば、あなたの現実は、すべて幻である。あなたがどんなに、それが実体のあるものだと思っていても、その思い自体が幻想である。今あなたが本物だと思っている世界こそが、今で言う、お伽話、メルヘンであり、空想の世界、神話の世界と言っている世界である。ウソの世界をホントの世界だと思っているならば、あなたが生まれてから今まで教育や躾を通して教わったことは、本当は、すべてウソである。

もし、あなたが学んできたことが本当の真実ならば、あなたにはただの一つの疑問もないはずである。あなたが、時間も、空間も、生死をも超えた、たった一つの、「絶対普遍の真理」に基づいて作られた世界に生きているならば、あなたは天国を望まない。なぜなら、あなたも含めて、あなたの周りの世界は、すでに天国そのものだからである。あなたの目の前には、何の苦しみもなく、何の疑問も存在しない。あなたは、誰かから何かを学ぶ必要はなく、誰かに何かを学ばせる必要もない。また、誰かに何かを強制されることもなく、誰かに何かを強制する必要も無い。あなたは、自分で自分を生かすための努力も要らない。
P10
もし、あなたが本当の真実の世界に生きているならば、あなたの現実に相対比較の世界はない。あなたの現実には、争いも、不安も、苦しみも、恐れも、怒りも、闇も、不都合も、そして何と、夢や、希望の光すらも存在しない。快楽を追いかけたり、喜びや生きがいを感じようとしたりすることもない。あなたには、怪我も、病気も、悩みも、心配も、死を体験することすらもない。光も闇も一つになった永遠不滅の絶対普遍の真理そのものがあなたの世界となる。あなたは今で言う夢の世界「天国そのもの」を生きているからである。

もし、あなたが本当の天国に生きているならば、あなたには一切の迷いは存在しない。自分はどこからきたのか、自分は誰なのか、自分はどうなるのか、自分はどうしたらよいのか、などという問いが浮かぶことはない。あなたが天国という世界の実現を夢見ているならば、あなたは天国にはいない。あなたが実現しようとしているそれは、本当の天国ではない。あなたが地獄という体験を避けようとしているならば、あなたは地獄を生きていることになる。あなたが避けようとしているそれは、本当の地獄ではない。本当の天国には地獄という思考は存在しえないからである。あなたは、光と闇、生と死、善と悪、苦と楽、損と得、という比較の世界で、天国や地獄を想像しているに過ぎない。あなたに、対極の二つの世界が存在するならば、そのどちらも本当の世界ではない。あなたが神や悪魔を語るならば、それは、あなたが作った世界で言う、神や悪魔である。あなたは、本当の神を知らない。本当の天国を知らない。本当の死を知らない。そして、本当の自分を知らない。

あなたが誰かの心配をしているならば、裏を返せば、それは、あなたが誰かに依存している証しでもある。あなたが誰かを心配する理由は、あなたの人生が誰かに左右されるからである。あなたが、あなた以外のものに命を預けているからである。あなたが、誰かを助けられると本気で思っているとしても、それは成就しない。誰かに助けてもらえると思っているならば、それもウソである。反対に、あなたが、誰かを抹殺できると思っているならば、それも成就しない。あなた誰かに抹殺されると思っているならば、それもウソである。あなたは、あなた以外を助けることも抹殺することもできない。あなたも、あなた以外も、自分を殺したのは自分である。従って、自分を助けられる者は自分しかいない。

あなたが、本当の天国に生きているならば、壊れる、消える、という響きはない。あなたには永遠の生という現実しかない。そこは、本当の天国を生きている者だけが生きられる世界である。誰かに何かをされることもなく、誰かに何かをさせることもできない。自分が生きるために誰かの犠牲が必要な者、言い換えれば、自分の命を何かに依存しなければならない者は存在できない世界だからである。今で言う被害者や弱者、犠牲者、援助や扶助などの救いの手が必要な者は存在しないのである。従って、助け合う、救う、守る、殺す、見捨てる、という言葉自体が存在しない。本当の天国では、あなたも、あなた以外も、何でも思う通りに実現し、何の不都合もない世界で生き続けることができるからである。
P11
本当の天国では、どこを見渡しても、問題というものは存在しない。人類だけではなく、万象万物が、永遠に弥栄えるだけの、生き通しの世界である。人間社会も自然界も、すべてが一体不可分の関係であり、すべての営みが一体となった世界である。どこにも境界は存在しない。破壊、崩壊、滅び、という概念はありえないから、維持する必要性も生じない。その世界を維持するために、わざわざ何かを画策する必要はない。何かを保護しなければならない、と言うならば、そこは本当の天国ではない。自分が自分を生かすことができない者には、自分以外のものを保護することはできない。保護しなければならないものがある世界は、本当の天国ではない。従って、保護した積もりでも、力尽きれば、為す術もなく、すべてが崩壊する。本当の天国は、絶対普遍の真理に基づいてすべてが自立した生の営みをしているから、保護するもの自体が存在しない。相互依存の関係はありえない。

あなたを助けてくれると思っている神は、本当の神ではない。あなたを不幸にすると思っている悪魔や鬼は、本当の悪魔や鬼ではない。助けてくれるのは神で、助けてくれないのは悪魔や鬼である、と言うその思想自体が大きな取り違いである。助けてくれるまでは奉るが、助けてくれないとわかると非難に変わる。神は鬼に変わる。自分の都合で、神を鬼にする。神を奉る力が強いほど、鬼を封じ込める力も強くなる。感謝の念が大きいほど、思い通りにならなかった時の、恨みの念も大きくなる。神を奉る心は、鬼を封じる心である。助けようとする心は、殺そうとする心である。相対二元の対極のある世界では、神は鬼であり、鬼は神である。その神を好き勝手に利用している自分こそが自分の運命を決めている神である。自分の運命を自分以外のものに預ける神である。神が自分以外のものを神にしていることになる。神は自分の世界を自由に創り出す。すべてが自分の作品である。

自分がしていることが自分の現実を創り出す。自分の現実は、自分の思いが作り出している。自分が思いの基を変えない限り、自分の現実は何も変わらない。自分の現実の責任は自分にあり、他人の現実の責任はその他人自身にある。従って、自分の幸福を他人に感謝するのも、自分の不幸を何かのせいにするのも、自分の責任を自分以外のものに転嫁していることになる。神に感謝するのも、神を恨むのも、筋違いである。自分の責任を何かに転嫁する、それ自体をやめなければ、本当の天国、本当の神を体験することはできない。
P12
本当の天国は、すべてが思い通りになる世界である。それは、あなたが天国の響きそのものだからこそ体験できる現実である。そこでは、あなたが不都合を体験することは一切ない。従って、恨みや憎しみの現実はないから、責任転嫁もありえない。今で言う「感謝」は、『自分にとって心地よいことをしてくれた』という意味での感謝である。自分が心地悪く感じたら不平不満を言う響きが裏に隠れているならば、その基は「自分の都合」であり、本当の感謝の響きではない。二極分裂の世界での感謝は、いつでも、文句に変わる。文句はお詫びに変わり、お詫びは感謝に変わる。お詫びをするのは、相手の謝罪請求を満たして、自分への非難を止めるためである。しかし、感謝とお詫びは表裏一体の響きであるから、感謝とお詫びが別のものならば、感謝もお詫びも自分の保身のためにしていることになる。お詫びや感謝を要求したり、強制したりするのも、それに答えるのも、争いの世界での生き残り戦略でしかない。本当の意味での感謝は、天地自然の掟に反したことへのお詫びの響きの裏返しであり、あなたの取り違いを知らせてくれたことに対する感謝である。天地自然の掟に反している限り、不平不満を言う資格はない。つまり、本当の天国に戻るまでの掟破りの清算の間は、苦に対しても感謝しかないのである。本当の天国は感謝の響きそのものであるから、お詫びも感謝もなくなるのである。そこには、お詫びや感謝を強要する者は誰も存在できない。本当の感謝の響きが、本当の天国に戻るための鍵である。

あなたの現実のすべての問題の原因は、ただ一つである。あなたがそれに気づき、それを改めない限り、あなたは本当の天国には戻れない。一つ一つの問題の原因を自分以外に探す、その思いが、問題を大きくする真の原因である。自分の責任を逃れようとして、様々な理屈を持ち出して自分は悪くないことを証明しようとしても、自分の立場や自分の快楽を維持するために誤魔化そうとしても、この仕組みは動かず、法則通りの結果を自分にもたらすだけのことである。自分の殺生与奪の権は自分が握っている。自分が自分を生かすか殺すか、である。あなたがどんな結果を体験しようとも、あなた以外の、どんなものにも一切の責任はない。あなたがあなたの勘違いから目を覚まし、それを認めて、思いと行動を変えなければ、この法則通りに、あなた自身が本当に大変なことになるだけである。

自分自身が、自分の存在のすべての鍵を握っている、自分にとっての唯一の神である。自分の持っている神と鬼を自分の外に作り出してそれに命を預けても、責任を転嫁しても、全く意味がない。無駄なことである。あなたは、あなたの思いの基にある響き相応の現実を体験しているのである。それを形にしたのが、宗教と科学である。あなたの外に神社が存在する世界は、本当の神の本当の天国ではない。あなたが、あなたの神社そのものであり、あなたがあなたの神官である。あなたがあなたの科学者である。このことがわからないならば、あなたはとんでもないことをしでかしていることになる。荒唐無稽だと言うならば、あなたは、見事に操られていることになる。自分のすべてを誰かの手に自ら渡していることに気づかなければ、あなた自身が大変なことになる。本当に本当の大変な状況を体験することは避けられない。あなたを救うものも、あなたを傷つけるものも、あなたの外には存在しないのである。あなたの心の内が、あなたの本当の外の世界である。あなたが本当に自由な世界に出たければ、あなたの最も内にある世界の扉を開かなければならない。あなたのパンドラの箱、あなたの岩戸をすべて開けることが、本当の天国の始まりである。
P13
あなたが天地の自然の掟を破ったことがあなたのすべての問題の真因である。掟を破ったあなた自身が、あなたを傷つけた真犯人である。あなた以外のすべても同じ仕組みであるから、現代社会というのは、お互に罪の擦り合いを形にした、共食い、自殺競争の世界である。その世界で生き延びようとして、誰かを殺そうとすれば、それは自分の滅びを意味する。あなたが自ら嵌めた大きな呪縛、嵌めたことさえ忘れて、それを真理の如く思いなしている取り違い、全く逆さまの生き方、思考、見方をすべて引っ繰り返し、綺麗サッパリと掃除しない限り、本当の天国に戻ることはできず、あなただけが滅ぶことになる。

あなたがあなたに騙されていることに気づかなければ、あなたがあなたの意思でウソの世界を生き続けることになる。結果はすべて自己責任である。本当は、助けてもらおうと思っていること自体がおかしいのである。言い換えれば、自分が何かによって不幸にされる、と思うならそれはウソである。あなたは、快を得るために不快を排除しようとし、不快を得たくないから快を取り込もうとする。快をくれるものを外に探し、不快を預けるものを外に探す。自分では何もしない。神を奉るのは鬼を封じ込めてもらうためである。その根底にあるのは、自分の都合である。これが本当の利己主義、本当の自分勝手な考えである。自分の都合によって、神の利用の仕方を変える。自分の都合のいいように、他人や、法律や、神を利用する。この世もあの世も、霊の世界も人間の世界も、全く同じ仕組みである。

二極分裂の略奪の世界では、自分の幸福を望むのは、他人の不幸を望むことである。従って、神に祈る(仏に帰依する)のと、悪魔を祓う(鬼を追い出す)のは、同じことである。誰かに感謝するのも、誰かを恨むのも同じことである。その対象が人間であろうが、霊であろうが、物であろうが、自然であろうが、同じことである。自分に都合よく、感謝したり、非難したりしているだけである。それそのものがあなたを幸福にしたり、得させたり、不幸にしたり、損させたりしたわけではない。あなたが、勝手にそう思い込んでいるだけである。あなたの思い込みで勝手にそう解釈して、お礼を言ったり、非難したりしている一人芝居である。『何かが自分を左右する』ということが真理ならば、あなたは永遠に自由になることは出来ず、永遠に奴隷のままとなる。それが真実ならば、奴隷であるという事実に抵抗して自由になろうとしている自分勝手な存在ということになる。絶対に実現不可能なことを実現しようとしている、何の意味もない戯言となる。あなたが好きなだけ、勝手にやればよい。しかし、あなたは、誰も犠牲にすることなく、自由になることもできる。
P14
あなたは全く逆さまの見方をしている。あなたに不都合があるのは、あなたのやり方が間違っているからである。あなたがそのことに気づいて、思いと行動を改めれば、あなたの望みはすべて現実となってくる。すべては、自分の思い違いがなせる、自分の創り出した現実である。誰のせいでもなく、誰のお陰でもない。あなた自身があなたに渡したものである。しかし、あなた自身の力ですべてをしているわけではない。あなたは、あなたの利用する材料自体を作ることはできない。その材料を作る源と同じ響きでそれを使えば、あなたはすべてを思い通りに作り出すことができる。自分で産み出していないのに自分で産み出すことができる。完全に奴隷になっているのに完全に自由になる。今のあなたが言う、矛盾した世界、相反する思いが一つになった現実を体験する。あなたに矛盾を感じさせているのは、他ならぬあなた自身である。あなたの思い違いが原因である。それを根底からすべてひっくり返さない限り、全く逆さまにしない限り、その体験は現実にはならない。

今の思いのままで、天国や快楽が大きく広がるように見えるとしたら、それはウソの天国である。あなたがそれを手にしようとすれば、大変などんでん返しが待っている。ウソの世界の天国は滅びを意味する。その世界での究極の天国は、究極の崩壊、すなわち、消滅を意味する。二極分裂の世界の光の強さは、その裏の、闇の強さを意味する。表裏一体のものを二つに分けて進めれば、見える光が明るくなるほど、その裏にある闇も深くなる。

二極分裂の世界では、形が天国になるほど、心は滅びに向かう。思いが形となって現われるのが、自然の法則である。思いが形を実現する力であり、その形を感じるのも思いである。思いが先である。思い、心が闇ならば、必ず、闇が形となる時が来る。心の闇が形の病みの原因である。形の修繕を懸命にやっても本当に直したことにはならない。形を創るエネルギー、響きを変えないまま、形の世界で取り繕い、塗り隠すことは、その形をどんどん悪くするだけである。闇を避けるほど、闇が深くなる。全くアベコベな思いを持っているから、絶対に本当の天国になることはない。自分の思いの通りに形になるのである。

これは普遍の真理である。やり方がアベコベならば思いの通りにならないが、実は、思い通りになっているのである。自分の望みを実現しない思いを行動の規範にしているから望み通りにならないのである。望み通りにならない思いの通りになっているのである。それを自分が自覚しない限り、思い通りにならないのを自分以外の誰かのせいにし続け、その思い違いに気づかないまま『自分は悪くない』『自分は正しい』と思いながら滅びることになる。『なぜ自分の思い通りにならないか』は永遠の謎のまま滅びる。結局は、自分が謎を作り出していただけで、どこにも謎はなかったのである。本当の天国には、謎は何もない。

神に自分の幸運を祈るのは、神に他人の不幸を祈願することに他ならない。他人を不幸にしたいと思うのは、呪いの思考である。幸運を祈るのは、他人を呪うように要求しているのと同じことである。救い主に、呪いを依頼していることになる。神と鬼は同じ存在だということになる。一つのものを裏表に、全くの相反する方向のものに分けて、相反するものを使い分けている自分が、その神と鬼を支配している神であることになる。自分が何かを支配するならば、何かを支配しているものと同じである。独裁者を嫌う自分が実は独裁者である。自分が嫌う悪は自分が持っている。自分が望む善は自分が持っている。善悪に分けているのは自分である。善悪に分けているから善悪を体験する。自分を幸福にしたり、不幸にしたりするのは自分である。形を追いかけ、形に理由を探せば、『誰かに何かをさせている』『誰かに何かをされている』と思ってしまう空想の現実を体験するだけである。それを真実と思っていれば、永遠に、自由自在に現実を作れる思い通りの世界にはならない。
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自分が自分のすべてを作っているのである。従って、自分のどんな体験も、すべて、自分が自分で自分に体験させているものである。これを否定すれば、いい人と悪い人、神と悪魔が存在し続け、永遠の戦いの世界に生きることになる。自分が選んだ戦いの世界で自分が死んだとしても誰も恨むことはできない。自分がそれを選んだからである。自分が戦いの世界を選ぶなら、殺されることに同意したことになる。お互いに殺されることに同意している。殺されることに同意しておいて助けて欲しいという矛盾したことをする。自分が自分を殺していながら、救世主を待つ。自分で殺されることに同意しておいて、殺戮者を恨む。自業自得の共食いは、言い換えれば、自殺合戦である。喰うか喰われるか。最後の一人は喰うものがなくなって餓死する。どっちが自殺の時を伸ばせるか、の比べっこである。時間差の自殺ゲームである。誰一人、生き残ることはできない。誰も天国にならない茶番劇である。どちらが悪でもない。どちらが善でもない。自分自身の選択の結果である。

神を奉ることは、鬼を奉ることである。神をあがめるのは、バチが怖いからである。お世辞、も同じことである。鬼を封じるのは、光が欲しいからである。他人を生かすのは、自分を生かすためであり、他人を制止するのも、自分を生かすためである。自分の都合で神になったり鬼になったりする。自分の都合で神にしたり鬼にしたりする。神を信じようと信じまいと、有神論であろうと無神論であろうと、その戦い、議論は意味を為さない。あなたが「生と死」という分離した世界を当たり前だと思っていれば、あなたの世界からは、神も悪魔もいなくなることはない。あなたがそれを必要としている限り、それは存在し続ける。あなたが必要だと思うものがあなたの世界に現われている。あなたがそれを創り出したとも言える。すべての人間が偽の天国幻想に嵌まっている。それを作った黒幕も自分が作った幻想を実体のあるものだと思い込んでいる。あなたも、あなたの周りも、嘘を教えた張本人すらも、自分自身に騙されている。誰も得せず、誰も生き残れず、誰も自由にならず、誰も平和にならず、誰にも安定はない。誰も気づかなければ、世界丸潰れである。

本当の天国には、宗教は存在しない。科学も存在しない。神も悪魔も存在しない。善も悪も存在しない。解決すべき問題も存在しない。夢や希望を実現するために待つ必要もない。進歩や発展を語ることもない。自由や平和を語ることもない。何かを強制したり、教育したり、啓蒙したりする必要もない。誰かのために自分を犠牲にする必要もない。誰一人犠牲になることはありえない。本当の天国には、天国という言葉すらも存在しないのである。
P16
本当にそんな世界が存在するのか、そんな世界ができるはずはない、そんな夢みたいなことを言っていたら云々と思うならば、あなたは絶対に、本当の天国を体験することはできない。あなたは何のために生きているのか。あなたはどんな世界を望んでいるのか。あなたの生きている社会は、何を目指して進んでいるのか。あなたの生きている社会の法律は、何のために存在しているのか。あなたの生きている社会の常識の正体は、いったい何なのか。あなたの生きている社会の本当の始まりはどこにあるのか。あなたの社会のすべてを作り出している大元の原理は何なのか。あなたの「世界」の始まりはどんな世界だったのか。「世界」は、宇宙、外、世間、現実、体験、あの世、常識、伝統、歴史と置き換えられる。あなた自身の全てを作った始まりは何なのか。あなたの現実はどこから始まったのか。

あなたが体験している現実(自分の世界)は、あなたが同意した世界である。あなたが選択する選択肢はあなたの作ったものである。あなたは、何を基準に選択しているのか。あなたが裁いている悪はあなたの作品である。あなたは、なぜ他人を裁くのか。他人を裁くことは、いったい何を意味するのか。あなたは、本来は一つ(不可分)である「問」と「答」を分離している。「答」は「問う」である。「問う」は「答」である。問いの中にすでに答えがある。それを×だと思っているのはあなたである。いったい誰がそれを×と言ったのか。あなたはなぜ×だと思うのか。それは本当に×なのか。本当の×とはいったい何なのか。あなたはなぜ悩むのか。誰があなたに罪悪感を教えたのか。あなたはなぜ自分で決められないのか。あなたは誰に許可を求めているのか。あなたは、なぜ、なぜと問うのか。あなたは、なぜ、どうしたらよいかと問うのか。あなたは、なぜ自分を探しているのか。

この本に書かれていることを基にして、あなたの持っている常識、価値観、あなたが身につけてきた習慣、伝統、しきたり、道徳、あなたが学んできた知識、法則をゼロから見直すことで、全く別のもう一つの世界が見えてくる。あなたが今まで体験してきた世界、今体験している世界の別の面が見えてくる。あなたが当たり前のようにしていたことが当たり前ではなかったことを知ることになる。あなたが普遍的真理だと思っていたことすらも、そうではなかったことに気づく。今持っている、自分という存在、自分という認識、自分の世界が消える。あなたが真実だと思い込んでいた世界、あなたが教わってきた常識が見事に崩れ去っていく。相対的な比較で創り出した世界、自分の外を基にして作った自分という存在、自分の中の他人、が消えたところに本当の始まり、本当の天国、本当のビッグバンの基がある。あなたに見えた新しい真実を消さないことである。現代社会の常識、定説、普遍的真理は、本当に本当なのか。今あなたが持っている真実をすべて疑ってみることである。ウソの世界で言われている当たり前の真実を疑えばマコトの世界が見えてくる。
P17
ここに書かれていることについて『事実である』という証拠を目の前に提示することはできない。『ここに書かれていることは事実だ』とあなたが認めなければ、どんな証拠もすべて否定することができるからである。あなたが、ここに書かれていることを基にして行動を変えた時、あなただけの現実として、あなただけの思いとして、あなたの体験として、あなたの世界に証拠が現れる。あなたが体験したもの、あなたが思ったことを誰かにわかってもらおうとしても、それは不可能である。自分自身がすべてを納得するまで、自分が自分を完全に説得できるまで、反抗する自分が観念するまで、とことんやってみればよい。

この本は、あなたの心を被っている雲を貫いて、あなたの根源を照らし出すサーチライトである。あなたが真実を封じ込めたパンドラの箱を開ける鍵のありかを知らせる宝の地図である。あなたが持っているウソの思い込みを解き、錯覚、幻想、仮想現実からあなたを目覚めさせるための覚醒剤である。あなたの世界を本当の真実の世界に塗り替えるための消しゴムである。あなたがこの道を歩む時、不安や、恐れや、拒否反応や、混乱や、体調不良が起きる。禁断症状で狂うかもしれない。自分という認識が滅茶苦茶に破壊されるかもしれない。混沌、混乱の中に立ち尽くすかもしれない。世界の終わりだ、神も仏もあるものか、と思う時が来るかもしれない。しかし、何も心配はいらない。今のあなたがどう感じようとも、本当のあなたは、決して消え去ることはない。すべての混乱、苦しみは、それがどんなに絶えがたく思えても、今までのウソの響きの抵抗が創り出す幻想である。あなたがその瞬間に見える光を辿っていけば、新しい現実が確信に変わっていく。あなたが、すべてを素直に受け入れる謙虚さを持って望めば、必ず本当の天国に戻れる。

宇宙の種は混沌と暗闇の中にある。ある時、そこに偏在していたエネルギーが凝縮を始めた。その圧力が極限に達したとき、突然、大爆発(ビッグバン)が起こって、宇宙が誕生する。古い宇宙が崩壊し、新しい宇宙が誕生する。今のあなたは、自己崩壊と自己再生の相反するエネルギーが拮抗する混沌の真っ只中にいる。古い宇宙(嘘の天国)が崩壊して新しい宇宙(本当の天国)が誕生するビッグバンは近い。混沌と暗闇の中で死と再生のエネルギーが拮抗する出産前の陣痛に耐えることが、あなたが本当のビッグバンを体験するために、避けては通れない過程なのである。これは形の宇宙の話ではない。あなた自身の話である。あなたは今、古い宇宙の暗闇から新しい宇宙の光の世界に飛び出す直前にいる。

夜明け前が一番暗い。今度の夜明けは、永遠の光の天国の到来である。現代社会にある科学の学説や宗教の教理、神話、伝説やお伽話も、視点を変えれば、裏の裏の本当の意味が見えてくる。あなたの世界にあるどんなものにも、真実を解く鍵のありかを示す宝の地図が書かれている。その地図は、読み方次第で何通りにも読める。しかし、本当の鍵のありかはただ一つしかない。あなたの内にある心の雲(ウソ)を一つ残らず綺麗サッパリ祓わなければ、鍵の本当のありかをその地図から正確に読み取ることはできない。まずは、この本を足場にして心の雲を少しずつ祓い、本当の鍵のありかを読み取る目を養うことである。
P18
この本を材料にして、議論することもできる。書かれていることを批判することもできる。否定することもできる。しかし、それをすることは、あなたにとって全く意味をなさない。なぜなら、それをするなら、今までと何も変わらないからである。それをしている間は、この本は白紙の束と同じである。あなたがこの本を読んでいる意味がない。この本の語る真実の世界は、あなたが今まで真実だと思っていた見方では絶対に見えない。あなたが今までその存在を考えたこともない、聞かされなければ綺麗サッパリ忘れ去っている、裏の裏の、そのまた裏側の世界を見せるためのものだからである。あなたが否定しても、それは存在する。あなたが批判しても、事実は変わらない。動かない。高等な学説を持ち出してきて議論しようが、屁理屈をこねくり回そうが、答えは一つである。今まで教えられてきたことは黒であり、この本が白である、と書かれている。だから、全く何も知らない赤ん坊がゼロからものの見方、生き方、社会の仕組みを身につけていく如く、あなたの持っている思いをすべてリセットし、白紙に戻して読み進めない限り、あなたには何も残らない。これはこういう意味だ、これが正しい、これは義務だ、してはならない、しなければならない、これは空想だ、これはありえない等々すべてのすべてがウソであり、いつか誰かが何かの目的で創り出したものである。それを神として信じている限り、あなたは自分がしてきた取り違いに目覚めることはない。身を以って阿鼻叫喚の修羅の地獄を体験するまでは絶対に認めない。あなたが信じている神はどんな現実を体験させる神か。それはあなただけにわかることである。神とは、あなたが『これがなければ困る』と思っているものすべてである。あなたがするものすべてである。経済も科学も無視論も神なのである。

この本は、今のあなたにとっては、見たくないこと、都合の悪いこと、認められないこと、恐れを感じること、許しがたいこと、ありえないことの類を、視覚で見える文章という形で提示している。今までの視点で価値判断をすれば、批判、否定、怒り、混乱の感情を呼び起こす材料になるのは当然のことである。しかし、それらの反応をしてもここに書かれていることを抹消することはできない。その反応をすることが、実は、ここに書かれていることの正しさの証明でもある。あなたが、その感情を呼び起こすのはなぜなのか。あなたが分裂思考を持っていないならば、あなたには『許せない』という感情はない。神と悪魔が同じものであるとわかっているならば、あなたは、今で言う否定的な反応をすることはありえない。文章を読むということは、心で読む、心に書く、自分に語る、自分が聞く、ということである。ここに書かれていることは、あなたが自分自身と対話し、あなたの世界を根底から変えるための材料である。すべてを始めの初めからもう一度やり直す、その決心をすることが、あなたが本当の天国へ戻る冒険のスタートラインに立つ条件である。
P19
まずは、すべての価値判断を一旦棚上げにして、赤ん坊に戻ってあなたの世界をゼロから作り直す積もりで最後まで読み終えることである。この本に書かれている世界には価値判断はありえない。比較の基準がないからである。『善悪はない』ならば、善も悪も感じることはない。「裁き」というのは『悪を許さない』という感情である。あなたが悪を裁けるのは、悪を作り出しているあなたを許しているからである。悪が許されないものならば、悪を裁くあなたは存在し得ない。従って、本当の天国を見るためには、『許さない』という言葉は禁句なのである。あなたが、価値判断を入れた瞬間、すべてが、認められないもの、許せないもの、ありえないもの、いらつかせるもの、おかしいものに見えてくる。あなたの世界が今までの世界に逆戻りする。あなたにとってこの本の世界は闇の中に消える。何も見えなくなる。全くアベコベであるから、少しでも油断をすれば、すぐ元に戻ってしまう。あなたの出口は一つだけである。どう見えようとも、他はすべて滅びへの入口である。

この本は、あなたが探していた正解を提示する、あなたを本当の天国に導く正書である。あなたがこの本をどう扱うか、それは自由である。しかし、あなたが本当に正直にならない限り、本当の天国は闇の中に消え去る。この本からあなたが得られる恩恵はただ一つだけである。あなたがそれを手にしない限り、あなたは本当の天国を体験することはできない。あなたが今見ているものは幻想である。本当の天国は、あなたの裏側にある。あなたの探しているものは、あなた自身が持っている。この本は、あなたがそれを使えるようにするための道具、あなたが錆びつかせた本当のあなたを再び動かすための潤滑油である。

あなたがすべての鍵を握っている。あなたがすべての現実を作る源である。あなたの世界はあなたの思い込みが作り出す世界である。この本は、現代社会に隠されたすべてのからくりを解明し、あなたの嵌まっているトリックの種明かしをしたものである。著者の勝手な空想の世界などではない。著者がこの本の視点ですべてを実行し、実際に体験した現実に基づいて書いた事実である。著者の体験で証明された真実である。著者を通してあなたに贈られた真実の言霊である。あなたがすべての呪縛を取り払った時、あなたは本当の自由を手にすることができる。『いいのかな』と思った時『いいんだ』と言うための根拠となる材料、あなたがすべての支配から抜け出すためのハードルの越え方を書いた本なのである。あなたが本当の天国に帰るためにこの本を使って欲しい。使い方はあなた次第である。

あなたが本当の天国に心底帰りたいと思うならば、たとえ、殺されることになったとしても、あなたが本当の天国を心身ともに実感するまで、最後の最後まで、絶対に言い訳をしないことである。絶対に疑わないことである。今までのウソの世界から完全に足を洗うことである。全存在で心底から信奉することである。あなたがこれを初めて実行する人間だとしたら、いったい誰に聞くのか、答えを聞くべき対象はあなた自身しかいない。あなたの答える答えが、唯一の答えなのである。他にはない。それがこの道を歩くための極意、奥義である。しかし、あなたは迷う。その迷路を抜けるためのヘルプとしてこの本がある。
P20
あなたがあなたにあなたのすべてを明らかにしたとき、そこにあなたが本当に望んでいた、信じがたい光景が広がるだろう。本当の真実は、必ず成就する。それまでの辛抱である。これは、裏を返せば、『嘘の真実は滅ぶ』という本当の真実が成就することを意味している。目の前に本当の天国が広がるのを見ることができるのは、天国の真実を生きた時である。真コトに命を委ねるか、魔コト(嘘)に命を委ねるか、あなたにとっての究極の選択である。「信じがたい修羅の地獄」をあなたが目の当たりにしないことを、著者は切に願っている。

あなたは今までずっと嘘に導きを委ねてきたのである。誰かに責任を取らせて、保険をかけた(リスクを回避した)積もりになっていただけである。安全を確保しながら、本当の安全を手にすることはできない。本当の安全を手にしているならば、リスクは存在し得ない。リスクを回避するならば、それは矛盾した行動である。あなたは幻想の安全地帯を求めてさ迷い続けることになる。それもあなたの選択の結果である。あなたが責任を転嫁できるものは、あなたの外には存在しない。存在すると思い込んでいるだけである。存在しないとわかっていて責任転嫁するならば、それは故意の殺人である。それは結果として、あなたをあなたが処刑することを意味する。あなたがどんなに責任を逃れても、責任を誤魔化しても、あなたは自分の責任を回避することはできない。誤魔化しは自らの滅びを意味する。それがわからないならば、わからないまま滅ぶ。わかっていてやるならば、自覚した上で滅ぶことになる。あなたがいい加減なことをすれば、自分を甘やかせば、自らが消えるだけであり、神も他人も、万象万物には何の影響もない。自作自演の滅亡劇となる。

あなたは、初めて、あなた自身で、本当の天国にあなたを導くのである。あなたは、初めて、真実の真実を歩くのである。しかし、何も心配はいらない。あなたはあなたが自らリタイアしない限り、必ず、本当の天国に行き着くことができる。これを完全に信じることが鍵である。疑うという言葉をあなたの辞書から抹消することである。あなたはそのままならば完全に滅ぶ。この未知に見える道が滅ぶように見えるならば、結局は、どっちをとってもあなたにとっては滅びである。ならば、今までやらなかった全く逆さまのやり方に賭けてみればよい。どっちみち駄目ならば『どうにでもなれ』の心境で望めば、この道に入ることは簡単である。少しでも今までの道に未練があれば、あなたは苦しむことになる。

少しでも今までの世界に光があると思うならば、『もしかしたら』と思うならば、それは完全な信奉ではない。どっちか一つだけをハラを括って決めることである。決めたら一目散に進むことである。振り返ったり、よそ見をしている暇はない。そんな余裕はない。余裕があるならば、あなたは完全には信じていない。完全に信じていないならば、あなたは信じていないのであるから、それ相応の体験をすることになる。あなたの世界はあなただけの世界である。あなたにしか見えない世界である。あなたが一つになるまで、あなたが分離感を感じなくなるまで、絶対に立ち止まらないことである。本当の天国になっても立ち止まらないことである。どんどん天国が見えてきて、ある瞬間、天国に入ったことがわかるときが来る。あなたには終りはない。あなたは歩き続けるだけでよい。本当の天国の道に戻った時、あなたは混乱や闇を抜けながら、「本当の光の世界」を体験することになる。
P21
本当の天国の道は、すぐには喜びにはならない。今までのウソを掃除する間は、苦しい状況や孤独の極致を体験することになる。甘い言葉やアメの誘惑に負けない強い覚悟が必要である。あなたが空想だと思っていた世界は現実になる。これを完全に信じることが、今までの幻想の世界から抜けるための鍵である。あなたの本当の天国への心の旅、魂の帰郷、本当のあなたの居る場所にあなたが帰る旅のガイドブックをあなたのものにして欲しい。

この本は、事実を語っている。どんな理屈をもってしても覆すことはできない。批判や抵抗や怒りで反応するなら、それは、覆せない証しとなる。これは、あなたの事実でもある。あなたが、この事実をすべて認めた時、体験を経て納得できた時、一点の曇りもなく腑に落ちた時、そこがあなたの本当の天国である。道は歩くものである。知識として分ってもわかったことにはならない。頭でわかったことを実行しなければ、わかったことにはならない。頭の理解は、理解ではない。「わかった積もり」である。知識と体験が一体になった時、本当にわかった時、あなたには、何もなくなる。何の混乱も、何の迷いも、何の引っ掛かりもなくなる。空気のように、すべてが当たり前となる。当たり前という言葉もなくなる。その時その時で分かったことをそのままやる、その繰り返しがあなたを本当の天国に導く。あなたが帰依する対象は、あなた自身である。その神は絶対に裏切ることはない。

本当の天国への旅は、あなたの心の世界の旅である。あなたの想像の世界にある現実である。あなた同士の喧嘩を止めない限り、本当の平和はない。新しいあなたが今までのあなたに体験という証拠を見せることで、今までのあなたが観念する。今までのあなたが、すべてウソを認めた時、あなたは一つになる。ウソがないのがマコトである。あなたがマコトを手にした時、本当の天国が現実の風景となる。まずは、心の入れ替えからである。ウソを捨てて生きることである。あなたがマコトを生きる時、ウソはあなたに近づけない。

マコトの体験を積み重ねることで、あなたの現実がどんどん変わる。あなたが見たこともない現実を体験する。誰にも教わったことがない現実、あなた以外全員が『おかしい』と言う現実を体験する。あなたが狂ったわけではない。今までの世界が狂っていたのである。どっちが狂っているのかハッキリと決めることである。そして、狂っている者には一切関わらないことである。狂っている者に狂っていることをわからせようとするなら、あなたはまだ狂ったままである。あなたがあなたにそれをわからせるのが、あなたのすべきことである。本当の天国が全存在で実感できるまで、あなたの思いがすべて何の抵抗もなく操れるようになるまでは、まだ途中である。何が起きても、何を見ても、何を感じても、何をされても、自分の歩いている道を絶対に疑わないことである。絶対に後戻りしないことである。今までの現実はウソが創り出す幻想である。本当の天国を『空想だ』と言うのが空想の世界の思想である。今までの世界も現実であり、これから見える世界も現実である。
P22
あなたには現実しかない。それを分けていたその見方が幻想を生んだ源である。誰のせいでもない。あなたが騙されていたのである。騙されていることを誰かのせいにしていただけである。「あなたが」騙されたのである。「誰かに」ではない。主語は自分である。すべては騙された側に責任がある。『誰かが騙さなかったら』は詭弁である。それを使っても、あなたが本当の天国に帰ることはできない。自分以外のせいにすることが本当の天国への唯一の障害である。あなたがあなたの天国を邪魔していた張本人だったのである。これを素直に認めて、生きている間も死んだ後も、どんなことがあろうとも、誰かのせいにすること、裏を返せば、誰かの責任を引き受けることをキッパリとやめることである。自分ですべての責任をとれば、あなたは自由である。これを批判する者はあなたの世界から消えていくから無視すればよい。あなたが他人の現実に関わるのをやめればよいだけである。

あなたがこれから体験する世界、生まれて初めて見る世界、それがあなたの天国への街道の景色である。『そんな世界は存在しない』という台詞を消すことである。それがあなたを天国に生かさないためのあなたの魔法の呪文、本当の天国を邪魔していた策謀の思想である。あなたがあなたにその呪文をかけていただけである。あなたが呪文を唱えるのをやめれば、ダムは決壊し、本当の天国という海に向かって流れ始める。急流や滝を恐れないことである。黙って信じるだけでよい。道が見えなくても踏み出すことである。底なしに思えても黙って落ちることである。本当の冒険にはリスクはない。天国という永遠のゴールが存在するだけである。天国への冒険は永遠の喜びである。本当の天国までの辛抱である。

今のあなたから見た未知の世界。しかし、その世界は存在する。あなたの周りが何と言おうとも、あなたにとっては、あなたの言うことが絶対である。あなたにとっては、あなたが本当の神である。あなたが誰かの神になることを、あなたが誰かを神にすることをやめることである。今までも、あなたという神が、誰かの言うことをそのまま鵜呑みにしていたのである。誰かの意見を自分の意見にしていた神が創り出す、自作自演劇である。今までのあなたの言うことは、本当のあなたの意見ではない。本当の神自身の言うことを聴くことが、本当の天国に帰るための、ただ一つの方法である。結局は、自分が自分の神であることは変わらない。自分が逆立ちをすれば、逆立ちの世界が見えるだけである。その世界を正しいものと見れば、それが自分の正しさとなる。自分が自分を騙すカラクリである。
P23
あなたは、遥か昔、あなたが産まれた時、本当の天国にいたのである。あなたが幻に目がくらんで、そこから離れただけである。あなたの心の世界は天国を見ることができる。時空も生死もない。それがあなたの本当の姿であり、あなたが居る場所である。形に見えている世界、形の体で見ているものは、あなたの着ている服、あなたのかけている色眼鏡で見える仮想現実の世界に過ぎない。あなたのすべてを捨ててもすべてが残る。あなたの思い込みを全て捨てることである。あなたがもと居た本当の天国、あなたが想像の産物だと思い込んであきらめてしまった天国、あなたは、そこへ帰るだけである。いつまでもウソの教えに騙されていないで、早く目を覚まして欲しい。時が来れば、あなたという神の、その親神が、この世もあの世も、あなたが居るすべての世界を、ウソのあなたが生きられない本当の天国だけに戻す。本当の天国の舞台造りをする。ウソの天国の大掃除をする。その時が来たら、もうウソのシナリオは通用しない。その時が来て気づいても遅い。あなたが、本当の天国に戻ることを心底から切望するならば、必ず間に合う。『もう駄目だ』は禁句である。駄目かどうかは最後の最期、生きるも死ぬも考えず、ただ歩き続ければよい。

あなたが、あなたを本当の天国に導く天使である。本当の天国の門前には、本当の閻魔大王が待っている。ウソを大掃除する鬼退治、天国か滅びか二つに一つの本当の最後の審判である。ウソを一つ残らず祓い切るまでは、どんなに偉大な神仏であろうとも、門を入ることは絶対に許されない。ウソを抱えているほど、奪った宝が多いほど悶え苦しむ。鬼退治が始まるまでにウソをできる限り掃除しておくことだけが、鬼退治の艱難辛苦を軽くするための唯一の術である。そして、鬼退治が完了した瞬間、晴れて本当の天国が復活する。そこでは、ウソをすべて祓い切った真コトの民だけが、永遠の生を享受することになる。
posted by 長谷章宏 at 20:22| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 事実その1

事実 その1(P24〜75)

P24
あなたは、永遠無限の「生き通し」の存在である。あなた自身は、今持っている肉体の有無とは関係なく「永遠無限の生」を体験し続けている。「永遠無限の生」は絶対普遍であるから、「生」自体に疑問は存在しない。「永遠の生」には、「死」という概念は存在しないから、『生き残ろう』と思うこともない。あなたが「永遠の生」を殺した時に、あなたの現実に「死」が現われる。「生」と「死」を分離できるのは「生しかない」証しである。あなたが恐れている、避けられないものと思い込んでいる「死」は、条件付きの「死」である。

どう生きるか、言い換えれば、死とどう向き合うか、死をどう迎えるか、死をどう受け入れるか、の問いは、『死がある』のが前提である。あなたは、あなたの生に「死」という概念を持ち込んで、「生」を混乱させている。死を考えているあなたは、今、死んではいない。あなたが死の淵から生還したとしても、まだ死んではいない。『他人が死んだらどうなるか』は『自分が死んだらどうなるか』である。あなたは、誰かが死んだことを悲しんでいるのではない。自分の世界の構成要素の一部を失ったことが悲しいのである。あなたは、自分が悲しいのであって、その人の死を悲しんでいるのではない。死後に死という体験をどう感じているかは死んだ本人にしかわからない。あなたは死者の思いなど全く考えていない。自分の喪失感を他の何かにすりかえて、自分の現実を誤魔化そうとしているだけである。

『死んだら悲しまなければならない』という決まりはどこにも存在しない。あなたが関心があるのは他人の死ではない。あなたが心配しているのは自分の死である。自分が死んだらどうなるのか。それは、あなたが死なない限り、あなたにはわからない。しかし、あなたが『死んだら終りだ』と言うならば、「自分が死んだら自分という存在が消える」ことを意味するから、あなたが死んだ時、あなたは死を認識できない。あなたに死が認識できるのならば、その時、あなたは生きている。『死後の世界がある』と言うならば、あなたはそこで生を続ける。つまり、あなたは、今のこの世で、自分のものだと思っているものを失うことを恐れているだけである。それを守るためにどうするか、を考えているだけである。

あなたが永遠の生に生きているならば、あなたには無限の時間がある。慌てる必要はどこにも無い。何かを奪い合う必要も無い。「命は限りあるもの」と思っているならば、あなたは、慌てることになる。『我先に』と行動することになる。思いやり、優しさ、譲り合いの大切さを語りながら、その裏では、早い者勝ちの椅子取りゲームに参加することになる。命の大切さを語りながら、自分がそこから何かを得るために、誰かの死を望むことになる。

「限りあるもの」を奪い合う世界では、自分が何かを得るためには誰かの死が必須条件となる。「略奪の世界」では、自分の死は誰かの生、誰かの死は自分の生、である。自分は死にたくないが、誰かの死を望む。自己犠牲の美しさを語りながら、自分は生き残ろうとする。『それは当然のことだ』と言えば、「自己犠牲の美しさ」はウソになる。この世界では、矛盾を解消しようとすることはタブーである。なぜなら、矛盾を解消したら、自らで産み出さずに何かを得るシステムが成り立たなくなるからである。言行不一致という矛盾に目をつぶり、誤魔化すことが、このシステムの中で生き残る条件であり、この世界を維持する方法である。従って、そのタブーを破ろうとする者は、生き残りを邪魔する者として抹殺されることになる。『社会の秩序を乱す』という理由で、非常識な人間として血祭りにあげられる。「略奪の社会」では、真実に目をつぶることが、生き残るための正しい生き方となる。奪う者と奪われる者が必要不可欠な世界では、みんなが自由に生きることは不可能である。心の内に独占願望を隠し持つ「独裁者」同士の生き残り合戦の場だからである。
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誰もが『自分だけは生き残ろう』と思っている世界は、言い換えると、みんなが殺し合う世界である。『みんなで渡れば怖くない』は、自分もみんなも怖くなる、共食いの挙句に全滅をもたらす思想である。『みんなに合わせる』と言うのは、自分を殺す自己犠牲であり、最後は自分が死ぬ。逆に、『自分だけよければそれでよい』は、他人を殺す危険思想となる。

略奪の響きの世界では、みんなに合わせようと、自分だけよければよいと言おうと、どちらを選ぼうとも、結局は、生き残ることは出来ない。死とは、生命は言うに及ばず、望み、体験、立場、財産、自己、計画、家族、幸福、安全等を「失う」ことにも言える。略奪の世界であなたが失うものは、奪ったものである。自分のものは何もない。すべては天地自然を産み生んだ元つ天地の大神のものである。あなたが真釣りの本当の天国の響きで生きていれば、必要なものは与えられる。あなたが本当の真実、本当の天国に生きているならば、失うことはありえない。本当の天国は誰も「犠牲」にせずに、誰もが、いつでも、どこでも、自由に、好きなことをすることができる世界である。その世界を壊す思想に基づいて作られた末に行き着いたのが現代社会であり、略奪の破壊を誤魔化すための仮面が文明である。失うものは元々なかったものである。幻想を捨てることに罪悪感はいらない。本物を捨てることに罪悪感を微塵も持たず、壊れるバベルの塔の建設に勤しんできたのが、人類の歴史である。今回の「バベルの塔」の崩壊は、幻想の崩壊であり、本当の天国の創世である。

日本沈没、人類滅亡、ノアの箱舟、ムー大陸の沈没、アトランティス文明の崩壊、神話、伝説、聖書の物語はただの空想ではない。空想も心の中では現実である。すべては境界のない一つの世界である。世の不思議をただの空想だと片付ければ、真実は見えない。これらが何の象徴なのかを考えてみると良い。現代社会そのものが「バベルの塔」の中である。

本当の天国とは、元の初めに皆が住んでいた世界である。本当の天国に戻るには、すべてのマヤカシを自分の中から一掃することである。あなたの中にあるアヤマ知を一掃すれば、本当の天国が見える。今ここで天国の響きで生きることである。今までの常識の「世の中」から足を洗うことである。今までの常識で生きる人たちの世界に迎合したり、批判したりしないことである。ただ、自らの新しい真実に従って生きていけばよいだけである。あなたが本当の真実に生きれば、今でも自由になる。時が至れば、本当の天国が文字通りの現実となる。もうすぐ終わるマヤカシの世界から抜け出して、その時が来るまで、天国の響きで日々の暮らしをしていればよいのである。天国の響きに成って、天国を待つのである。
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「弱肉強食」の世界は、サバイバルの世界であり、綺麗ごとを言えば自分が死ぬことになる。「弱肉強食」をそのまま実行すれば、自分が生き残るために誰かを殺すことになる。この世界では、他人を助けるのは、自分が生き残るためである。『みんなで分け合って』も、結局は、どんどん分け合うものがなくなり、最後はサバイバル合戦そのもの、バトルロイヤルになる。雪山の遭難で、食糧がなくなってきたらどうなるか。この世界の縮図である。

本当の天国では、天恵は永遠無限である。花は咲きっぱなし、実は採っても採っても実る。空も飛べるし、海の上も歩ける。形も自由に変えられるし、自らの意志に反して壊れることもない。時間旅行も自由自在。何の不都合も不自由もない。お金などどこにも存在せず、万古末代、二度と死ぬことはない。歓喜弥栄の生き通しの世界。思いのままに何でもできる、夢が現実になる世界がミロクである。現代社会で言う「お伽話」や「空想の魔法の世界」を永遠に体験し続けるのがミロクの世なのである。世界の親国が『花は散るのが美しい』などとしたり顔で宴会に打ち興じて、酔っ払っているようでは、本当の命の花を散らす末路が待っている。花見や桜吹雪が日本の風情だというが、自らの命も散るのが美しいなどとは言わない。「植物」の本当の意味が分かったら、サバイバルはしないはずである。

土をはじめとした「鉱物」がなければ、文明社会は作れない。その鉱物を「生命のないもの」として、好き放題に掘り、壊し、使う。『石がものを言う』と言えば、狂人扱いとなるのが今の社会である。それは、石がしゃべるという意味だけではなく、石が何かを教えてくれるという意味でもある。石の文明の盛衰が見せる「無言の教訓」を素直に受け入れるかどうかで、本当に『石も木も動物も花も鳥も喋る』世界を体験できるかどうかが決まる。最後は、文字通り『石がものを言う(お喋り)』時が来る。それは、心象風景がすべてそのまま現実になる時である。その時になって初めて目が覚める者もいる。今のあなたは、幻の世界にいる。しかし、それはいつまでも続かない。今の生き様では天国はない。今ここで目を覚まして真コトに戻るか、その時になって更なる試練の中で真コトに戻るか、あるいは、目を覚まさずに、そのまま永遠の死を迎えるか、それはあなたが決めることである。

幼い子供の内なる世界こそ天国そのものであり、それを空想にしていく理性の教育こそ、すべての闇(争い、問題、悩み)の基である。子供(社会、文明)が成長するほど問題が起きるのは、教えられたことがアベコベだという証である。子供の反抗期というのは、ウソをホントと思い込んで離さない親に真実の問いかけをする時期である。親が『子供が親に反抗するなんて許さない』と言いながら教育し続けるなら、天国どころか、汚泥混濁の世を進めて崩壊に導く人間を養成し続けることになる。悪を裁く新生児はいない。大人が持っているすべての価値観は教育されたものである。大人の中にある子供の心、純粋な天国をそのまま生きれば、現代社会でも天国の響きの社会が実現できる。そして、そのままで文字通りの天国が形になれば、それが、本当の天国の実現である。まずは、一人一人が自らの生き様を正直に見直していくことが、現代社会の混迷から抜ける第一歩なのである。
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自然の掟は自然が続くように仕組まれている。「鉱物」と科学で作った文明都市が、大地震で一瞬にして崩壊する。崩壊するものは、不自然な形である。現代社会では、不自然な世界を進めることを進歩、発展というらしい。本当の自然、本当の神、本当の自分を知らない者が、神の真似事をして、世界を支配しようと企んでも、絶対に天国などできない。限りがあると言っている世界で、無限の欲望を満たすことはできない。限りあるものが減るに従って、無限の欲望が満たされなくなって来た時に本性が現れる。本当の共食いが始まる。元々天国にいた者がなぜ地獄の苦しみのある世界に生きているのか。自らの生き様、物事の処理の仕方を根底から見直すべき時である。本当の天国は永遠の歓喜弥栄の世界である。

現代社会に咲く花は、咲いては散る仇花である。土、肥やし、種、水、花、実、種の循環は、自然の理、世の仕組みの真コトを教える型示し。なぜ種が育って実に成るのか。園芸や生け花に興じていても、真コトの意味は分からない。ウソですっかり曇って、有る物を材料にして形を作り、形を替え、ウソの天国を建設しようとした人類の歴史は、時が至れば、すべてが灰になる、とんでもない世界なのである。逆さまのウソの真実に騙されて、世を挙げて、本当の真実を空想の世界に押し込めてしまった現代社会に生きる人間たち。その本当のルーツは、ウソのアヤマ知で曇りに雲って見えなくなってしまった、かつて生きていた本当の天国である。本当の天国は未来に存在する世界などではなく、遥か昔に住んでいた世界なのである。いつまでも、死ぬのを怖がって睨み合い、大人のフリをしてイキガっていても、自らの命を縮めるだけである。大人気取りをやめて、天真爛漫な子供に帰って生きることである。本当の天国は、実現するもしないもあなた次第である。元いた世界にあなたが帰るだけである。今のあなたが信じようと信じまいと、事実は事実である。あなたがそれを認めるか認めないかである。あなたの選択次第で、あなたの現実が決まる。

本当の天国にはどこにも戦いはない。生き残ろうと考える必要もない。空気は吸っても吸ってもなくならず、海は汲んでも汲んでも干上がらないように、すべてのすべてが有り余る世界である。奪う必要などどこにもない、永遠無限絶対の創造の力の産み出す天恵の溢れる、世界中どこでも自由自在に暮らせる、争いなどどこにもない光輝く天国。その天国を作れる者だけが社会を構成する、信じられない理想郷のような世界。それは現実に実在する。あなたは始めに生まれた時そこにいた。そこにあなたが帰るだけである。自らが封印した真コトを取り戻した時、あなたはその故郷に帰ることができる。その天国の実現を僅かでも疑った時、あなたは幻の天国の中で命を終えることになる。天国か滅びか、永遠の命か、今生限りの命か、二つに一つの分かれ道にあなたは立っている。本当の天国とは、永遠無限の天恵が世界に溢れる、本当に本当の桃源郷なのである。『そんな世界はありえない、マヤカシだ』と言うならば、その台詞は今の世界の話であり、本当の天国をありえないマヤカシに思い込ませているウソのアヤマ知を綺麗サッパリ祓うことが、本当の天国を実現する唯一の術である。すべてのすべてが逆さまであり、ウソが支配するのが現代社会である。そこで生き残ろうとすれば、あなたは永遠に生き返ることはできない。本当の天国は死んで生きる世界である。本当の天国が実現するかどうかは、あなた次第で決まる。
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どこまで自分の本心を偽れるか。どこまで他人を思いやるフリができるか。弱肉強食の世界は、有限のものの取り合いが前提である。自分が生き残ろうとしても、他人を助けようとしても、実は、どちらを選ぼうとも、最後は誰もいなくなるのである。なぜなら、最後のひとりは誰からも奪えず、自分自身で産み出せなければ、それは死を意味するからである。もし、自分自身で産み出せるのならば、始めから弱肉強食の世界にはいない。『有限だ』とはいわない。無限の永遠の生を生きているからである。つまり、有限の世界で生き残ろうとしても、結局は、全員が生き残れないのである。『限りある資源を大切にしよう』と言うが、大切にするのは、自分が死なないようにするためである。資源を思いやるように見えるが、実際は、資源をダシに使って、自分を思いやっているのである。国破れて山河在り。滅ぶのは、「略奪の社会」を生きていた者だけであり、自然はそのまま残るのである。

略奪の世界では、どんな表現を使おうとも、行動の目的は、すべて「自分のため」である。自己保全のために都合がよい思想に同意しただけである。心配しているのは、人類の滅亡、地球の破壊、国の滅亡、家族の崩壊、ではなく「自分の滅亡」なのである。略奪の世界を選んでいる者には、他人を生かすことは絶対にできないのである。『人のため、社会のために役立つように生きたい』と言うのは、真実を何も知らない極楽蜻蛉、本当に救いようのないお人よしである。自分がどんな世界にいて、その世界がどこに向かっているのか、しっかりと目を開けて見てみるとよい。自分が今どういう状況にいるのかを本当に正直に見れば、本当の命の存亡の危機に直面していることに気づくはずである。あなたが、死を避けたいならば、必ず危険な状況を回避しようとするはずである。自分の命が危ないとなれば、どんな行動をとるか。本当に他人を思いやれるのか。本当に動物を、地球を、資源を保護しようと考えるのか。本当に自分を捨てられるのか。思いやり、やさしさ、助け合い、保護、を語っている間は、まだ余裕がある。命に影響しない頭の体操、思考の遊びをする暇がある。自然保護や人助けや社会奉仕に現を抜かすことができる。全員を助けられないなら、自分の死なない範囲で助けるのなら、それは、本当に助けることにはならない。『自分以外の何か(誰か)のために』は綺麗ごとである。自分自身の生き残りのための対策に余裕がある証拠である。今は何とでも言える。何とでも誤魔化せる。どうにでも本心を隠せる。しかし、自身の存亡に関わる極限状況で、果たして本当にそれが実行できるのか。
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『その状況になってみなければわからない』という詭弁をいつまで使っても別に構わないが、「その状況」になった時にあわてても、それまでしたことは消せない。あなたが今やっていることはすべてアベコベであり、そのままいけば、あなたは永遠に滅ぶことになる。あなたが万象万物を無から産み出せるなら別だが、そうでないなら他人を生かすことはできないのである。神や仏やお金や他人や本や自然や商品に依存しているなら、あなたはあなた自身を生かすこともできていない。そんなあなたが他人を生かすことなど絶対にできない。あなたが誰かの人生を代わりに生きることも、誰かの現実を天国に変えることもできない。あなたが誰かの考え方を、本人の意思を無視して、直接変えることもできない。あなたにできるのは、相互依存の世界の商品を手に入れるお金か物を渡すことと、その肉体を使って誰かの代わりに何かをすることだけである。本当の救世はあなたにはできない。

生死のある、略奪の世界では、あなたが本心から他人を助けたいと思っているつもりでも、それは『自分が助かりたい』の裏返しである。相互依存、需給バランスの世界では、あなたが依存している他人がすべて死んだら、それは自分が死ぬことを意味する。自分が生き残るためには、他人がいることが条件である。自然を、地球を、世界を、動物を保護しようとするのも、環境破壊を問題にするのも、戦争に反対するのも、突き詰めれば、その目的は「自己保存」である。『それが当然だ』と言うならば、あなたは略奪の世界に生きていることを証明したことになる。その世界にいる限り、『他人を生かす、助ける』という思想は、真っ赤なウソだということになる。「全員が死なない考え方」が本当の真実である。本当は「誰も死なない」というのが真実である。どんな世界ならば、全員が生きられるのか。

自分と自分以外の関係をどう処理したらよいのか。自分の思い通りにならない原因はどこにあるのか。社会システムの矛盾を生み出した本当の原因はどこにあるのか。社会問題の本当の責任は誰にあるのか。この世がいつまでたっても天国にならないのはなぜなのか。あなたがこれらの問いにすべてはっきりと答えられない限り、あなたは本当の天国には戻れない。あなたはすべてを知っている。あなたがあなたの答えを×しているだけである。誰かにその答えを聞いても(何冊本を読んでも、ホームページをいくら検索しても)、あなたの問いの答えは得られない。なぜなら、あなたがあなたの答えを認めていないからである。あなたが何かを探している時、誰かに質問している時、その目的物や答えはすでにあなたの中にある。あなたが、何かを見つけた時、それだとわかるのは、あなたの中にその何かがあるからである。あなたの中に何もなければ、探すことも、問うこともしない。あなたは、どれくらい誰かに確認すれば、自分の答えを認めるのだろうか。あなたがあなたをすべて受け入れない限り、あなたの悩みや問題はどんどん膨らんでいくだけである。あなたの答えを×しているあなたは、嘘を教えられている。本当のあなたには、生も死もない。時空も超えている。あなたがあなたの答えをすべて○しても、死ぬことはありえない。
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あなたの体験する現実は、すべて自分の思考の体現である。その意味では、自分が自分の神である。自分が神であるならば、自分の体験はすべて自分の生み出した結果である。従って、あなたの現実の責任は自分にしかない。誰かに教えられた通りにして、思い通りにならなかったとしても、それも自分が選んだことであり、他人に選択を委ねた自分の責任である。裏を返せば、他人が体験することはすべてその本人の自己責任である。他人が体験しているいかなることも、あなたが責任を負うことはできない。あなたの側に責任があると思い込んで、責任を引き受けたならば、それはあなたの現実であるから、あなたの責任となる。あなたの体験することは、一つの例外もなく、すべてあなたの責任なのである。

人間として、人類として、誰だって、普通は、という言葉を使うならば、自分にも他人にも成り立つ仕組みがあることになる。自分も他人も同じ仕組みである。そして、それが、争いを作るものならば、それは絶対普遍の真理ではない。天国を求めながら争う。争うなら天国はない。天国を思考できるならば、争わないやり方があるはずである。それを無視して争っているなら、全員が自己責任を取れば、結果は、すべて各自に戻る。自己保存をしようとしている者は、この考えは認めない。都合が悪いからである。認めないから自己責任を回避しようとする。回避するから自己責任が取れない。取らないから、責任転嫁が続く。責任転嫁をするから争いになる。たとえ、第三者が調停役をしても争いは残る。ここで自己保存を図れば、本当の自分が危うくなる。つまり、今までの世界は「真っ赤なウソ」に基づいた世界であり、そのことに気づけば、自己責任を取った場合の危機感や恐れも、その世界での幻に過ぎず、死も幻想であると気づく。他人を助けることはできず、他人が助かるかどうかは本人次第であることに目覚める。自己責任をとる事が自分を本当に助けることになり、他人もそれをすれば助かることになる。「自分のためだけ」に生きて他人を助けることもできる。あなたが真実に生きなければ誰も真実を知らないままである。

あなたが真実を生きることで、自分が助かり、他人も助かる。今の世では、形の上では自己犠牲に見えるが、その自己犠牲が、本当の意味で他人を助けることになる。自己犠牲でない自己犠牲、自己救済の自己犠牲である。自分は死なないで、他人も助けることができる。自分が生きて他人も生きる。あなたが『そんな世界はあり得ない』と言っている世界は、現に存在する。後は、あなたがそれをいつまで否定できるかの問題である。否定するものは存在する。存在を否定すれば、自分はその存在の中には存在できない。表をすべてリセットするということは、表が真っ暗になることである。今持っているすべてを消したら、裏の世界が現われる。見える。それが裏表の関係である。『手を離したら助ける』と言われたら、手を離すだけでよい。手を離すことがリセットした証明であり、表の世界から死んだ証明である。『助けてくれたら手を離す』では絶対に見ることはできない。裏と表は、両方を同時に手にする(同居する)ことはできない。絶対誤魔化しの効かない踏絵である。
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死んだら死がわかる。死んだら生がわかる。生きたまま死をわかろうとしてもそれは不可能である。生死がある世界では、生きたままで死はわからない。実際は、死はないから、死後の世界という生に生きれば、生の世界を両方見たことになる。死んだ瞬間に、生も死もわかる。つまり、すべてがわかる。死が消えると同時に、生も消える。何もなくなって、すべてがある。「ただある」「存在する」の意味が体感できた時、それが、天国なのである。そして、それは、「生きて」いる間でも個人的現実として体験することができる世界である。

天国は死後にあるのではない。いつかできるのではない。今ここの天国を見えなくしているものをすべて取り払えば、天国が戻ってくる。地獄はずっと地獄である。永遠に天国にはならない。地獄のない世界が天国であるから、戦いで作ろうとしている天国は自分だけの天国である。天国には悪人はいない。『悪を滅ばせば天国になる』と言う時は、悪が存在する。悪が存在するなら、そこは地獄である。『悪がある』という自分の目がその悪を生んだ源であるから、その目を消せば、本当の天国が見える。外に見える悪を滅ぼそうとすれば、自分の悪の目(芽)を育てることになる。自分が滅びれば悪の源が滅びて、天国が現われる。しかし、そこに自分はいない。自分が存在する天国を実現するには、一切の矛盾を解消しなければならない。自分の思い込み、「生」への執着をすべて白紙に戻さなければ、矛盾は解消しない。思いが形になる。天国の思いをそのまま実行すれば天国が形になる。

天国を思って、地獄のやり方をしているなら、それは天国を消していることになる。あなたが今持っている価値基準、観念は、天国から見て本当に正しいのか。天国を創れるものなのか。本当の天国に生きる者に死はない。従って、抵抗することも、反抗することも、邪魔することも、命乞いをすることも、他人を救おうと思うこともない。言い換えれば、そういう反応をする者こそ、自らが掟を破ったのに、自らの死を恐れて(地獄で生き残ろうとして)神の抹殺を図ろうとしている悪魔である。そういう者の言いなりになれば、逆に自分を殺すことになる。『死を殺す』つまり、真実に抵抗するその思いを捨てていくようにすることが、地獄の民の命乞いに反応しないことが、本当に自分を助ける命綱になる。

これは、偽の天国から見れば鬼、悪魔、冷血漢の思想である。しかし、本当の天国から見れば、そのままなら確実に死ぬのであるから、本当の意味で助けるためには、鬼になる必要がある。自分で自分を助けられる者には、鬼も悪魔もいない。自分を助けてくれない者を悪魔と呼んでいるだけである。自分で天国を捨てておいて、自分の責任を自分以外に被せる。そういう自分こそ、他人の天国を邪魔する、自分の罪を他人に着せる、地獄の道づれにする悪魔である。自己保存を他人に依存するのは、地獄の民の特性である。自己保存のために他者の力を奪い合い、結局は、自分も他人も滅びるのが地獄なのである。地獄に生きる者の言い分を聞いて自分が滅びても、それは、あなたの責任である。自分がどれだけ鬼、悪魔に徹せられるか、地獄の民からの依存、自分への干渉をどれだけ切れるか、自分にすがる者をどれだけ無視できるか、それが本当の自立への道しるべである。あなたが自立すれば、相手はあなたに依存できなくなるから自立するしかない。自分を助ければ。相手も助かる。自分が依存すれば、相手も依存するから、共倒れになる。すべては自分次第である。自分を完全に生かせば、相手に生きる機会を渡せる。それを使うかどうかは相手の問題である。相手がどうしたかは追いかける必要はない。あなたは自分のために生きるだけでよい。どれだけ自分に集中できるかが鍵である。誰かの邪魔をすれば自分も死ぬ。
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相手を自由にすることが、自分を生かすことになる。相手を自由にするとは、悩む自由や自殺する自由や悲しむ自由や掟を破る自由や世を乱す自由や悪魔信仰をする自由や自由になりたくない自由等も認めることが含まれる。もし、これらをやめさせようとするなら、それは、あなた自身の他者依存の証であり、その理由は、自分が困るからである。それをすれば、自分が自由にならないだけのことである。自らが体験している現実は、自分という神のしたことに基いた自業自得の結果なのである。自分のしたことはすべて自分に戻る。

現代社会の仕組みは、すべて、力の奪い合いを基に作られている。略奪を誤魔化すための相互依存という仮面をつけた「人類の歴史」の結末は共倒れである。形の上では一見、清く正しく美しく思えるものであっても、本当に正直に見てみれば、それは略奪の行為であって、結局は誰も助からない。ウソを信じている集団が作り出すシステムは、一人勝ちの社会をつくる。相互依存の世界の一人勝ちというのは、実は、誰も勝てないことを意味している。現代社会というのは、誰も天国になれない社会なのである。その社会を変えようとしているならば、それは、そのシステムの中で生き残ろうとしていることに他ならない。あなたはウソを信じていることになる。あなたが保護しなくても、地球は再生する。あなたが何もしなくても、社会は変わり、地球は変わる。あなたの発想はすべて、形をどう変えるか、形をどう維持するか、形の崩壊をどう食い止めるか、である。それをしないと困るならば、あなたは偏った世界を自分の居場所だと思い込んでいることになる。あなた自身は、地球がどうなっても死ぬことはない。生き残ろうとする争いをする理由はどこにもない。あなたの思い違いが、あなたの混乱の原因である、本当は、誰も死なないのである。

あなたがどう考えるか、あなたが何を信じるか、あなたがどんな考え方を選ぶか、が、あなたの現実に影響する。つまり、あなたがあなたの現実を作っているのである。あなたが、考え方(思想)を変えない限り、常に同じ行動をし、同じ反応をし、同じ感情を作り出し、同じ世界を体験し続ける。誰かがあなたを変えてくれると思っていれば、その誰かを操作しようとすることになる。『誰かの都合で自分の人生が左右される』と考えるなら、その現実を体験する。すべては、あなたの思い込みの反映である。『思い込みではない』と思い込んでいるならば、思い込みであることを気づかずに、あなたはその言葉を使い続けることになる。すべては、あなたの思いのままになっている。あなたがあなたの唯一の神である。すべてはあなたの思い込みであり、自分がそれを変えない限りあなたの世界は変わらない。
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今あなたがどう考えていようとも、この事実は動かせない。なぜ、あなたは「死」という概念を持っているのか。あなたが持っている思想は、どうやって形成されてきたのか。あなたが教えられてきたことは、本当に真実なのか。その答えは、あなたが体験している現実にある。あなたが本当に望んでいる究極(最高)の状態と、今、自分が体験している現実とを比べてみれば、答えは出る。あなたが望んでいるものを、実現するために選択してきた数々の知識、思想、概念、習慣、方法、考え方、生き方が、あなたの望む現実を作り出しているかどうか、をみればよい。あなたの思い通りの現実でないならば、それは、全くアベコベの世界のやり方を選択した証である。今の現実があなたが望んでいるものから離れているほど、あなたは逆さまの世界に嵌まっている。本当に望む現実を成就させるためには、それらをすべて捨てる必要がある。あなたの現実が本当に望んでいるものから離れていればいるほど、戻る道は険しくなる。しかしそれは、あなた自身が険しくした道である。例えどんなに険しくとも、あなたが望む現実を形にするには、その道を戻るしかない。

あなたは、自分自身を誤魔化している。自分を説得して、自分に言い聞かせて、本当の望みを実現できなくしている。あなたがあなたを封じ込めれば、自分自身で、自分の「本当の創造力」を殺すことになる。あなたは、自殺の道を辿ることになる。あなたが本当にすべての力を出したら、いったい誰が困るのか。今あなたが持っている思いは、あなたのものではない。あなたが『自分の考えだ』と思い込むように仕向けた誰かが作った考えである。あなたがそう思ってくれると都合がよい誰か、が考え出したものを、いつの間にか、常識、当然、普遍と思い込んでしまっただけである。あなたは、あなたに力を出されたら困る誰かが巧妙に仕掛けた罠にはまったのである。あなたは、何でも自分の思い通りにできると思っている。『できない』と言うとしたら、それは、自分が怖がっていることを隠すために、誰かから教わった言い訳を使って、自分の責任を回避しているに過ぎない。それをして、最も「損」をするのは誰か。それは、あなた自身である。あなたは誰に言い訳をしているのか。あなたは自分の力の無さを誰に証明しようとしているのか。あなたは不平不満を誰に言っているのか。あなたは、それをして自分の望みが実現すると思っているのか。

あなたの現実はあなた以外のものによって創られるのではない。今の現実は、自分以外のものに依存するという選択をした結果として、あなたが創ったものである。あなたがあなたの責任を回避している時、あなたは、あなた以外の何かを変えようとする。デモ、苦情、反抗、請願、訴訟、革命、策略、報復、支援等々、どんな方策もあなたの現実を変えるものではない。あなたの期待を縮小するものでしかない。自分を操れるのは自分しかいない。
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あなたは、あなたの人生を、正確に言えば、あなたの命を、誰に預けているのか。あなたは、誰のために働いているのか。あなたは、誰に自分の命を売り渡しているのか。あなた以外のものに対して、『自分の状況を何とかしてもらいたい』と望むならば、あなたの状況はますます悪くなるだけである。自分の状況の責任を誰かに転嫁しているならば、あなたは、永遠にその誰かの都合で振り回されることになる。あなたは何のために生きているのか。あなたはどんな状況になったら100%満足するのか。『そんな状況はあり得ない』と言うならば、あなたには永遠のやすらぎはやって来ない。あなたはあり得ないことを望んでいることになる。あり得ないことを望んでも、それはあり得ないのだから、実現しない。あなたは、安心を望みながら、実は、危険や、混乱を望んでいることになる。あなたは、安定を望みながら、不安定を望んでいることになる。あなたは、あり得ない天国を創るために、自殺競争を楽しんでいる。永遠の生を望みながら、滅びの道で殺人競争をしている。

あなたが望んでいることを実現するためには、あなたの矛盾した行動を修正することが不可欠である。思いと行動を完全に一致させることが絶対条件である。自分も含めたみんなの幸せを望みながら、自己犠牲を美徳とし、他人を責め、奪い合いをしている。全くアベコベの世界の真実を真実としている限り、あなたは絶対に天国を体験することはできない。あなたが本当に天国を体験したいならば、あなたが今持っているすべての常識をリセットする必要がある。あなたがそれをリセットしても、あなた自身は死ぬことはない。あなたが今まで依存してきた集団から出るだけのことである。『リセットしたら死ぬ』という思いを捨てられるかどうかが鍵である。それがあなたの天国を止めている手かせ足かせである。

あなたが今まで依存してきた世界が、あなたの望みを邪魔するものであるならば、その世界に固執することに意味は無い。天国を望んでいるのにもかかわらず地獄から抜けようとしない、という矛盾した行動をしているならば、あなたは地獄を望んでいるのと同じである。結局は、自分が望んでいるものを手にしているのである。逆立ちから正立に戻る時は、世界がひっくり返る。その体験を怖いと思っていれば、いつまでも逆立ちのままである。そして、必ず倒れる時が来る。正立すれば楽なことを知っていながら、いつまでも逆立ちにこだわる理由は何なのだろうか。あなたがいつまで逆立ちしていようが、一向に構わない。あなたがその状況を体験し続けるだけのことである。「社会」は、あなたとは関係なく動く。社会というのは、あなたの中にある世界であり、あなたの目に見えている形(状況)に自分の持っている観念を投影して生み出した幻想である。その社会を変えようとするならば、あなたの持っている観念を取り替えるしかない。略奪の世界で、制度を変えるために法律をいじくっても、全員が満足する社会を作ることはできない。必ず争いになる。それぞれが社会というシステムを「自分の社会」に合わせて都合のいいように変えようとしているからである。あなたが、何かに依存して自分の生存を企てているとしたら、その何かを操作することが社会の変革をもたらす方法となる。しかし、あなたの社会は、あなたの個人的現実であるから、社会そのものを自分の都合よく変えることはできない。必ず引っ繰り返される時がやってくる。勢力争いを通じて、誰かに都合よく世界を変える戦いをずっと繰り返していたのが人類の歴史である。そのままのやり方では、世界は壊れていく。あなたが、社会のため、他人のため、と言って逆立ちをする根拠を言い張っても、あなたが疲れるだけである。あなたがいつそれをやめるかは、あなた自身が決めることである。それをやめられるのはあなただけである。自分次第で、自分が体験する現実が変わる。
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あなたを含めて、すべての人間、いや、人類の共通の望みは、何の問題もなく、苦もなく、病もなく、死もなく、自由自在に何でも思い通りになること、永遠に生き続けることである。一言で言えば、「神様」になることである。しかし、人間は不完全な存在だからそれは不可能だと言う。不完全な存在だから、成長し続け、学び続けることが人間の義務である、と。一生かかってもすべてはわからない、一生が勉強だ、と。すべてがわかってしまったらつまらない、と。そして神を信仰し続ける。あなたは、本当の本当にそう思っているのだろうか。正直、本当のところは、どうなのか。100%そう思っているのだろうか。自分自身に、本当に正直に問いかけてみて欲しい。自分にウソをついても何にも得るものはない。他人の顔色をうかがっても、善人のフリをしても、何の意味もない。あなたが今まで学んできたこと、今まで常識だと思ってきたことは、何の強制力も無い。あなたは、なぜ、それに従ってきたのか。誰がそうしろと言ったのか。なぜ、それを鵜呑みにしたのか。

人間は神にはなれない、と言いながら、不老不死、天国、極楽、自由、平和を望み、他人を支配し、利益を独占し、他人を思い通りに動かそうとし、社会を変えよう、地球環境を何とかしよう、他人の命を救おう、とするのはなぜだろうか。あなたが実際に自分の力で無から産み出したものでなければ、あなたにはどうすることもできない。「神でなければ不可能なこと」を、人間はやろうとする。人間としてできる限り最大限に、と言いながら神の世界を目指して行動し、平和や自由や天国を作るために戦争をする。という矛盾。その矛盾の気づいているかどうかは別にして、それをいつまでも続けているのはなぜなのだろうか。おかしいと気づきながら、やめないのはなぜか。他人の顔色を窺うのはなぜなのか。

終り、終末、淘汰、滅び、滅亡、消滅、破壊、崩壊、沈没、地獄、という、「死」を連想する概念は、「死」という概念が存在することが前提となる。戦争、殺人、略奪、不安、恐れ、孤独感、喪失感、さびしさ、の根底には、「死」がある。あなたが不老不死=永遠の生を望むならば、それは死の呪縛に囚われている証である。現代社会に存在するすべての問題は、各々が略奪の地獄の世界の中に自分を生かすためにしてきた行動がもたらした結果なのである。『死は避けられない』という思想が前提にあって、『いかにして生き残るか』という問いが現われる。避けられないなら、先に延ばそうと思考する。しかし、必ず、死は訪れることになる。だから、今度は、『子孫に自分の遺伝子を残そう』『自分の生きた証しを残して子孫に自分の実績を伝えよう』と言い出す。そして、そのために時間と労力と資金を費やして研究に明け暮れ、形の成果を残すことに生きがいを見つける。自分はいつか死ぬから自分の存在の証だけでも永遠に残そう、と。肉体が無くなったら命は終りだと言うが、その裏では「永遠の生」を主張する。ここに、あなたという存在、ひいては、人間という存在の真実が隠れている。真実を覆い隠している源は、あなたの思考パターンなのである。
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すべて問題(争い)は、死が存在することが前提である。死が存在し続けると思っている限り、戦いの世界は永遠になくなることはない。その世界で平和や自由や不老不死を望んでも、はかない幻を追いかけているだけに過ぎない。「死」という概念を形成した原因を明らかにすることが、あなたという存在の本当の真実を取り戻すための、第一歩である。

この本は、あなたの本当の姿を明らかにすることで、あなたの生き様を見直すための材料を提供する。あなたが今まで見たことも聞いたこともない言葉や考えも数多く提示されている。自分は今まで何をしてきたのか、自分はどうしたらよいのか、自分はいったい何者なのか、いったい何が真実なのか。本当の自分を知るために、あなたの本当の天国に帰るために、今持っている生き様をすべてリセットして真実のイロハから学び直して欲しい。

あなたは、もともと、万象万物を産む力と共にあった。神も仏も、人も、生き物も、エネルギーも、すべてのすべてを産み生んだ、大元の力。万象万物のイノチの元、その響き、音色、力を元つ大神と言う。資源は有限ではない。天恵は無限である。元つ大神は、今もずっと、永遠無限の創造の響きを奏で続けている。絶対不変の真実を真コトと言う。絶対不変の天地の理法、正神真神の決まりを真釣りと言う。絶対不変の真実ではないものを魔コトと言う。天地の理法を破った法則、悪神の決まりを魔釣りと言う。魔コトに基づいて導き出される考え(思想、知恵、知識、道徳)をアヤマ知という。絶対不変の真実は覆し得ない。真コトを覆えすことは、自らを消すことを意味する。覆そうと試みることはできるが、覆すことは不可能である。真コトと魔コトは裏表の関係であり、元は一つに繋がっているが、そのハタラキは全くの逆さまである。真釣りは、万古末代弥栄の響きであり、永遠に滅びることはない。悪の影さえも存在できない。魔釣りは、真釣りを外した快欲の響きを追いかけ、滅びに至る響きである。本来、両者が同居することはあり得ない。真コトを光、魔コトを闇と置き換えれば、光と闇が同居することは絶対不可能なことなのである。
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今の相対的比較の世界の「光」は光ではなく、「闇」は闇ではない。闇が認識できるのは自らが光そのものだからであり、自らの世界に映る闇は自らが作り出す影に過ぎない。自らが作り出した影である闇そのものを消そうとしても、闇は永遠に消えない。原因を取り除かなければ、その結果である闇は、どんどん濃くなるだけである。太陽そのものは影をもたない。地面に映る影は雲の影であり、物の影である。日食の影は月の影である。本来は、光の存在が闇を作り出すことはありえない。それができるのは、自らの光を雲が遮っているからである。あなたの光を遮る雲というのは、自らが囚われたアヤマ知という雲である。

あなたは、自らに原因があることを知らず、結果である悪を抹殺しようとしている。あなたは、自らの光を遮る雲が、自らが呼び込んだ雲であることに気づいていない。だからこそ、雲を従えたまま、影を消そうとするのである。自らが自らの光を曇らせた源であるから、あなた自らの意思でアヤマ知を捨てない限り、あなたの光が照らす世界の闇は消えない。あなたの内にある悪の芽を摘まない限り、あなたの現実にある「悪」はあり続け、あなたと悪との戦いは永遠に終わらない。あなたが存在するすべての世界からアヤマ知が一掃された時、あなたがアヤマ知を抱えたままなら、すべての世界からあなたも一掃される。

絶対的光には、闇は存在せず、絶対的闇には、光は存在しない。つまり、光のみ、闇のみ、が真実である。しかし、光のみの世界になれば、闇は完全に消滅する。闇が存在できるのは光があるゆえであり、闇のみの世界というのは、実際には存在しない。「光のみ」の世界には「光」という認識(概念、言葉)はない。闇のみの世界というのは、自らの光が完全に雲に遮られた世界であり、それは、自らの消滅を意味するから、闇という認識すらできない。真コトと魔コトは裏表であり、真コトならば魔コトはない。魔コトの世界である今世でいう「完全な光(全き光)」は、本当の意味での完全な光ではない。魔コトの世の100%の光は真コトの光ではなく、真コトの光を消した闇の中の光である。魔コトが真コトの雲であり、魔コトをすべて祓えば真コトの光の世界になる。真コトの雲である魔コトの光がすべて消えても「すべて」を産む真コトの光は消えない。言い換えれば、魔コトという雲を祓うということは、魔コトの世が消滅することであり、それは、真コトの世が復活するということを意味する。全き光には闇はない。あなたが魔コトの世に生きているならば、真コトが現われた瞬間、闇であるあなたは消滅する。消えたあなたが闇を認識することはありえない。生も死も認識できない。それがあなたの完全なる消滅、本当の死である。

魔コトの世の光をほんの僅かでも残すならば、真コトの世から見れば、雲を残していることになる。魔コトという雲をすべて祓うというのは、魔コトの世から見れば、魔コトが滅び、光がすべて消えるということである。あなたに魔コトの光が残っているならば、あなたは消滅することになる。
真コトの世には闇はない。魔コトから見た「闇のみ」という状態は、真コトの光そのものを意味する。完全なる闇というのは、魔コトの世界から見た現実であり、それは、真コトの光のことである。
真コトが自らの現実であれば、自らの世界に闇はない。魔コトの者は闇のない真コトの世には生きられない。真コトの者には闇はなく、魔コトの者は滅ぶから、完全なる闇は誰も体験することはできない。魔コトの者は真コトを知らないから、天国を想像することはできるが、そのままでは本当の天国には入れない。真コトを消した闇の中の光が魔コトの光であるから、それを完全に消すということは、魔コトの世が消えるということである。魔コトの世は、相対の鏡の世界であるから、自らの光は相手の闇であり、自らの闇は相手の光である。魔コトの世では、真コトは闇であるから、魔コトの者は、魔コトの世界がすべてだと認識している。ゆえに、光を消すことは滅びを意味する。魔コトの世は光と闇の勢力争いの世であり、闇の光の中で光を奪い合う「光と闇の戦い」が続く。滅びは避けるから、魔コトでは光を完全に消すことはできない。完全に闇を消すこともできない。実際には、真コトの世から見れば、魔コトは始めから存在しない世界である。魔コトの世の光と闇の光源は真コトの光である。真コトが復活することは、光と闇が一つになり、争いが完全に終わることを意味する。光と闇の戦いをなくすことが、「戦争」をなくす唯一の解決策である。戦争反対を叫んでも戦争はなくせない。光と闇の戦いが終わるということは、戦争反対の叫びも同時に消滅するということである。あなたが自らの内にある光と闇の戦いを終わらせた時、そこが永遠の天国である。
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なぜ、光と闇が同居しているのか。光と闇は同居できないはずなのに、実際には、光と闇が存在する(ようにみえる)。この矛盾を解く鍵は、あなた自身がすでに持っている。それは、あなたという存在の謎を解く鍵であり、今のあなたが持っているすべての疑問、悩み、ひいては、現代社会に存在するすべての問題を解決するための究極の方策である。あなたが持っている思考のパターンのトリックに気づくことが、この問いに答える第一歩である。

現代社会は、魔コトを基にしたアヤマ知によって作られた世界である。従って、アヤマ知が、世の普遍的真理、人間としての生き方の模範であるかの如く、堂々の常識として闊歩している。自分がいかに物知りであるかを証明するためにアヤマ知の蘊蓄を語り、自らの能力の高さを誇示するためにアヤマ知の優劣を強調し、自らの優位性を保つためにアヤマ知の論理で他者を攻撃し、自らの正しさを主張するためにアヤマ知の正誤で論争し、自らがいかに社会に貢献しているかをアヤマ知の清濁で証明し、不都合な勢力を抹殺するためにアヤマ知の善悪の思想を使う。何の躊躇もせず、罪悪感も感じず、法律や道徳や教育、社会制度を強制し、それに沿わない者を処罰する。それらは、自分がその世界で優位を保つため、その世界で自由勝手に振舞うため、その世界で安全を確保するために、アヤマ知の世界で身につけた、アヤマ知の世界で生き残るための術である。しかし、それは、アヤマ知の世界だけで通用する価値観であり、その世界だけで通用するやり方である。真コトの世界から見れば、逆に、自分はいかに愚かな存在か、自分はいかに何も知らないか、自分はいかに世を乱しているかをわざわざ宣伝して回っていることになり、何の意味もない正しさであり、優位性であり、蘊蓄であり、論理であり、善悪であり、美しさなのである。
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『そんな天国はありえない』『そんなことをしたら終わりだ』『何の役にも立たない』『何の金にもならない』というような、自分が居心地がいいアヤマ知の世を終わらせないためのアヤマ知を握っていれば、自分で自分をアヤマ知の世界に封じ込めることになってしまう。なぜそれを握っているかといえば、アヤマ知の世が終わったらアヤマ知によって永らえた自分の命が終わってしまうからである。それを言い続ける限り、法律と、それによって規定される社会制度、個人と個人の関係、国同士の関係、口の利きかた、服装、態度、行動の仕方、果ては、個人の考え方、生き方、死に方、哲学、思想、倫理観、死生観まで、すべてのあり方をアヤマ知によってがんじがらめにされ、アヤマ知を義務や強制の正当性の根拠にしている世界で右往左往し続けることになる。自分の立場を維持することしか頭にないから、何の恥じらいも感じずに、自らの無知と愚かさと偽善を延々と自らで垂れ流すことになる。アヤマ知の善悪を使って法律を定めれば、死刑という殺人や、戦争という殺し合いも正当化される。アヤマ知の世の決まりに逆らうことは、社会を乱すことであり、それに反することは、社会に反抗することになり、自らの命を危険にさらすことになる。こうして、革命や社会変革や制度改革や秩序維持の名の下に、多くの血が流されてきたが、平和な世界、自由な世界になるどころか、今に至っては、人類滅亡の危機すら迫っている。

文明社会は、「教育」という強制的洗脳制度を作り出し、拒否する自由を許さず、当然のこととして、何千年にも渡って、アヤマ知の常識を代々継承し続けて、現代社会に至っている。指導者たちは、アヤマ知の知恵に基づいた教育を通して、その時々で社会にとって都合がよい体系化された知識や思想を強制的に植え付け、アヤマ知の世界に貢献することに全人生を捧げることが人間として価値のあることだと思い込ませてきた。アヤマ知の作る社会を当たり前の世界だと思い込んだ人民は、アヤマ知を基にして、自分も含めた他者の言動を価値判断し、同意したり批判したりしながら、自らの生き残りをかけた戦いの世界を彷徨い続け、夢を実現することを夢見て一生を終える。ある時は他者を攻撃し、ある時は他者に迎合し、アヤマ知の常識をその場のその場で都合よく使って、自分の立場や優越感を保持するための戦いを繰り返している。『あなたのために言っているんだ』『自分のことだけ考えればいいのか』『そんな考えはよくない』『こんな常識も知らないのか』『そんなことをしていたら社会人として失格だ』『目上の者にそんな口の利きかたをしていいと思ってるのか』『家族だからこそ心配してるんだ』『ご先祖様を粗末にするとバチがあたるぞ』『いつまでも夢みたいなことを言ってないで真面目に働け』『働かない者食うべからず』云々、その殆どは自分の優位を保って生き残るための武器である。アヤマ知の世界で生き残ることが何を意味するのかを知らないまま、実現しない自由を求めて、今も戦い続けている。

あなたが、闇がある世界を当然のことと思っているならば、自らが消滅する時が必ずやってくる。あなたの肉眼には闇が見えるが、そこには、星が輝いている。真っ暗になるのは、窓のない壁で囲った場合だけである。窓がある限り、どんなに暗くても、薄っすらと見える。真っ暗になったとしても、真っ暗だと感じるあなたが存在する。真っ暗だとしたら、あなたが『自分はこの世にいる』と思い込んでいても、そこはあの世かもしれない。あなたは、この世にいるのかあの世にいるのか判断できない。あなたが、『自分は生きている』と判断する根拠は何か。この世とは、あの世とは、どんな世なのか。その判断の基はあなたの中にある。今の世の形、風景が見えなくなることを死というならば、あなたには死がある。しかし、実際には、この世もあの世も同じ仕組みであり、「あの世」に行ったあなたは、『自分はこの世にいる』と認識する。自分の存在を認識できることを「生」と言うならば、あなたには「死」はない。「死」を避けること、言い換えれば「生」に執着することが、すべての争いを産む源である。今で言う「生死」、生きているか死んでいるか、は、形の有無のことであり、確実に言えることは、それを考えているあなたは死んではいない、ということである。つまり、あなたには「この世の生」しかないのである。闇を認識している限り、あなたは「生きて」いる。すべては、あなたの思い込みが作り出す幻想である。あなたの中に闇(病み、汝病み=悩み、疑問)が全くないならば、あなたは光の世界に戻ったことになる。すべての世界が、光のみの真コトの世に戻れば、目の前の闇もなくなる。それが、本当の天国である。心の闇を持つ者が作る天国は地獄の中の光の世界であり、その天国の光を追い求めるほど、その裏の心の闇が形になっていく。すべての闇が形になった時、それが、本当の地獄、地獄も天国もない究極の地獄、本当の死、つまり、滅びである。地獄にいる神は神ではなく、悪魔は悪魔ではない。従って、あなたが光と闇の地獄にいる限り、いかなる神に祈ろうとも(悪魔を祓おうとも)、あなたは、本当の天国には戻れない。
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『自分は何者なのか』『自分はどこから来て、どこに行くのか』『自分は何のために生きているのか』『自分はなぜこの世に生まれたのか』『自分が生きる価値はあるのか』等々、自分について何も知らない者同士が、何も見えない世界を道案内しあっても、闇の中を右往左往するだけである。どこに向かっているのか誰もわからず、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、問題を解決しては問題を創ることを繰り返して、混迷を深め、お先真っ暗な混沌の世界を漂っている。わからない者が導けば導くほど、益々わからなくなる。『自分はいったいどうしたらよいのか』と訊くことになる。『自分はいったいどうなるのか』と他人に訊くことになる。あなたにわからないことを誰がわかるのか。具体的にどんな現実が起こるのかは言えなくても、あなたが滅びの時を迎えることは保証する。自分以外の事ばかりあれこれ語る者は、自らが滅びの道中にいることを知らない。それは、滅びの道の過程での出来事を評論しているに過ぎない。今のままなら、どんな奇跡が起きようと、誰に助けてもらおうと、あなたは確実に滅びの時を迎える。あなたが真釣りに戻れば、たとえこの世で殺されることになろうとも、確実に天国への道を歩き続け、天国の永住者となれる。
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真釣りと魔釣りは、元は一つであるが、全く逆さまの世界を創り出す。『限りがある』と言うならば、それは誤りである。あなたは、アヤマ知の信奉者である。あなたが限りあるものを奪い合っているならば、あなたは破壊の響き、分裂の響き、滅びの響きを奏でている。しかし、あなたの源は、元つ大神の響きである。元々は元つ大神の御子であるあなたに、苦(悪、病、闇、疑問、悩み、不思議、思い通りにいかないこと、不可能なこと)があるのはおかしい。『苦があるのが当たり前』と思っているならば、あなたは永遠に苦から抜け出せない。

子は親の鏡である。本当のあなたは、親である大神の響き(真コト)そのものである。あなたが自由でないならば、大神の響きを乱している。あなたが争いをしているならば、略奪の響きを奏でている。あなたは、信じている親の響きをそのまま奏でる。あなたがどんな行動をしているかを見れば、あなたがどんな親を信奉しているかがわかる。ここでいう親とは、俗にいう、この世の肉親のことではない。あなたの魂の親、いわゆる、神のことである。「魂」「神」という言葉を聞いた時、『あるかないか』『信じるか信じないか』という思いを持つならば、あなたは、何も知らないことになる。『無い』『信じない』と言う時、あなたはそれを認識している。あなたが何かを否定する時、あなたはその存在を認めている。それが存在することを証明している。肯定であれ否定であれ「それ」があることがその前提である。あなたに認識できないものを否定することはできない。あなたが誰かと議論している時は、自分の立場を有利にするための主権争奪ゲームをしているだけである。「それ」を肴にした論理戦争の勝敗が決まるだけで、「それ」自体にとっては何の意味もない。

「神」と聞いた時、「宗教」だと思ったら、大間違いである。そういう短絡的な反応をするならば、あなたは、真実を封じ込める策略にまんまと嵌まってしまっていることになる。あなたが信じている考えと、この本の話と、どちらが事実なのか、二つに一つである。あなたが、神や仏を信じているとしても、ここでいう神は、あなたの信じている神ではない。そして、『自分の宗教以外信じない』と言うとしたら、それは、宗教拒否症や無神論者、すべてを脳で説明しようとする科学者と同じである。今あるすべての宗教も科学も、それに固執している限りは、絶対に真実はわからない。永遠に戦いの世界に生き続け、最後は、滅びに至る。今持っている思いをゼロにしてこの本の話を聞き直す姿勢が無ければ、あなたは真実を見逃すことになる。赤子のように素直にならない限り、本当の天国への道に戻る機会を永遠に失うことになる。『宗教は信じない』『うさんくさい』と言うならば、あなたは、罠に落ちている。『宗教とか、神とかはバカバカしい』と言うならば、ここでは論外である。宗教を排除したら、永遠に真実を知ることはできないのである。真実を学び直すには、自分の頑固さを一旦棚上げすること、宗教拒否症を改めることが絶対条件である。

あなたがすがる親の言う通りに行動したその結果、争いを生み出すならば、その親は天国を創る親ではない。あなたが誰かの奴隷になっているならば、あなたは絶対に自由にはなれない。あなたが思い通りにならないのは、あなたが元の大神の響きを乱しているからである。あなたが体験していることは、すべてあなたに原因がある。あなたが元の響きを乱していることが、すべての問題の原因である。あなたは、あなた自身に騙されている。あなたを害する者はあなたしかいない。あなたがあなたの加害者である。あなた以外の誰かも同じである。誰かが誰かを害することはありえない。形の上での「被害」は、その本人に原因がある。『自分以外に原因がある』という、その見方は真実ではない。それが真実ならば、あなたは永遠に自由になることはできない。あなたは永遠に争い続けることになる。
P42
あなたが、誰かを責めるならば、それは、あなたの思い違いである。あなたにそれを教えてくれた親も、あなたと同じように、思い違いをしている。それを正しいものとしてあなたに伝え、あなたはそれを正しいものとして信じている。あなたの現実に何か不都合がある時、あなたは、本当の親を取り違っている。あなたが争いの中にいるならば、あなたは元の響きを忘れている。あなたは、自分の本当の姿を忘れ去っている。あなたは、元の親を殺している。今、あなたが付き従っている親は、あなたの本当の親ではない。あなたの元の響きには争いはない。あなたの本当の親は、あなたを支配することはない。あなたを所有することもない。あなたの本当の親は、あなたを自由にする。あなたが親に依存しているならば、あなたは元の響きを持つ親の下から家出をしていることになる。あなたは、真実を知らない者を親だと思っている。あなたが元の響きを思い出せば、その親から離れ、本当の産みの親の元に帰ることができる。そこを天国と言う。あなたの本当の故郷である。

あなたの創造の基を真中と言う。今も、あなたの真中は大神の創造の響きを持っている。それがたとえどんなものであろうと、あなたは何でも創造することができる。あなたの真中に創造する力が働くからである。従って、あなたの体験するものは、一つ残らず、あなたが産み出したものである。あなたにとって不都合なものも、あなたにとって都合がよいものも、すべて、あなたの創造の為せる業である。あなたは、あなたの神である。しかし、大元の神ではない。あなたに不都合があるならば、あなたは大元の神を無視していることになる。あなたが、あなた以外に責任を転嫁したり、あなた以外にすがったりしている時、あなたは自力で創造していないことになる。あなた以外の何かが、あなたを動かしていることになる。大神でないあなたが創造できるのは、大神が解き結ぶはたらきをしているからである。あなたが、間違った親の言う通りにしたとしても、大神はすべてを形にさせる。

あなたが天国の理法に従っているならば、あなたには、不都合は何一つない。大神の響きの天国をそのまま体験するからである。もし、あなたが、不都合を体験しているならば、それは、あなたが天地の理法に違反した、紛れも無い証拠である。あなたは、あなたの言う通りの世界を見ることになる。あなたが『善悪がある』と言えば、あなたは「善悪がある世界」を体験することになる。あなたは元々、天国の響きを持っているが、天国の響きを乱していることを忘れている。従って、あなたが思い違いをしているとしても『自分は間違っていない』と思い込むと、その世界で、天国を作り続けようとする。あなたは自分が自分の創造の源であることを忘れ去っているから、悪を殺して善を維持しようとする、という矛盾を平然と続けることができる。あなたがあなたに騙されていることに気づかない限り、このトリックを外すことは絶対にできない。あなたが悪を認識する時、それは、自らが作った善悪の目が原因である。あなたがその悪から離れるためには、『目で見えた悪そのものが原因だ』と言っている自分に気づかなければならない。それは「悪」ではない。あなたが『悪だ』と言っているだけである。悪である相手にとっては、それは善である。
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『知らなかった』『気づかなかった』と叫んでも、あなたが今まで生死時空を超えてしてきたことは消すことができない。あなたが自らの犯した間違いを認め、今までしてきた過ちをすべて清算しない限り、あなたは悪の循環から抜け出ることはできない。天国の響きを乱せば、滅びの響きを奏でることになる。間違いを認めず、あくまでも自分が正しいと言い張るならば、あなたは、自分の間違いによって永遠の滅びの世界を呼び込むことになる。

あなたは、或る時、欲望をそそられるリンクページを開いてしまった。それは、『このリンクを開ければあなたは神になれる』という、イヴを騙した蛇の台詞の如き誘い文句が書かれた、永遠の不老不死の天国と瓜二つの動画が掲載されたリンクページだった。真釣りを外し、本当の神を忘れ、真釣りのミロクを忘れ、そのボタンをクリックしてしまったあなたは、欲望のままに次々とページを辿り続けた末に、気づいた時には、取り返しがつかない世界に入り込んでしまっていたのである。どうすれば抜けられるか分からずに右往左往し、快楽に負けて、今も、魔釣りのリンクを辿り続けている。魔釣りのリンクをクリックし続ければ、最後には滅びの世界に至り、魔釣りのウインドウを閉じていけば(真釣りのリンクに戻れば)一番最初の元の天国に帰れる。気づいたならば、今すぐ魔釣りのリンクを辿ることを止めなければ、魔釣りが魔釣りを呼び込んで、完全なる滅びの現実を体験するハメになる。今ここで、あなたの本当の姿、本当の故郷を思い出し、目を覚ますことである。

魔釣りのHPには、あなたが目を覚ませば見える、真釣りに戻るリンクボタンがある。ただし、今の世界はすべてが逆さまであるから、あなたが魔釣りに魅せられた状態では、それは悪魔の囁きのリンクに見えてしまう。しかし、今ここで勇気をもって、そのボタンをクリックし、魔釣りのリンクを閉じて真釣りに戻れば、真釣りが真釣りを助けてくれて、神力が神力を、神徳が神徳を呼んで、元の真釣りの世界に戻ることができる。本当は、真釣りだけだからである。この本は、魔釣りという詐欺HPの存在を伝える警告書でもある。

魔コトと真コトの勧誘合戦。魔コトのアメは心地よい。真コトのアメは苦い。魔コトで手にしたものは、魔法が解けたら灰になる幻の宝物である。今、幻に見えるものは、魔法が解けたら形を現す宝である。どちらの宝を選ぶのか。今見えているものに惑わされれば、あなたは自らの永遠の命を灰にすることになる。今ここで間違いに気づいたなら、それを認め、観念して素直に縛につかなければ、自らが自らを滅ぼすことになるだけである。『自分には覚えが無い』『自分には何の罪も無い』と言うとしても、不都合、苦があるならば、それが、違反した事実があることの証明である。これを認めないならば、あなたは、ウソの誤魔化しの偽善の世界で、善人を演じたまま、何も知らずに、滅びの道を駆け下りることになる。最期に気づいても後のまつりである。真釣りに苦はないから、あなたが真釣りに戻した時に現われる苦の響きはあなたの魔釣りの清算である。清算する事態を招いたのは、真釣りを外した自らであり、その苦は自らの創った苦である。文句を言うところはどこにもない。あなたがそれを辛抱することであなたは魔釣りから離れ、真釣りに戻ることができる。生かされていることはわかっても、苦があるのが当たり前だと思っていれば、あなたは真釣りを外すことになる。真釣りを外した分だけ苦が増えるから、自分で自分の掃除の手間と苦労を増やしていくだけである。いい加減な態度は、自分の身を滅ぼす。真釣りが神の掟であり、破れば滅びが待っている。自分で自分の首を取る結末がやってくる。
P44
人類の歴史は、この取り違いをした者の集団が進めてきたマヤカシの空想劇である。個人から、家族、国、国際社会、あの世に至るまで、すべてが、同じ仕組みで世界を進めてきた。世を挙げて、全くアベコベの世界を代々伝え、受け継ぎ、いつか天国ができると思い込んでここまで進めてきたのである。しかし、実際は、問題が複雑になり、争いが激しくなり、持つ者と持たざる者の格差が開き、命の危険が増大し、環境が悪化し、生形態が壊れ、自然災害が頻発し、不自由、不平等が拡大し、競争が激化し、あらゆる安全神話が崩壊し、心の荒廃が進み、先行きの不透明さが顕著になっている。目指す世界と現実は、大きくかけ離れている。天国ができるどころか地獄を進めているのである。今に至っても、『現在の状況は新しい時代への過渡期である』と言い張って、かすかな希望を拠り所にして、儚い夢を追い続けている。この世を進めてきた陰の黒幕自身ですらも、自らのアヤマ知に気づいていない。世界を操るドンが、自らがどんな世界を創っているのか知らないとすれば、世界の滅亡は必至である。しかし、あなたが真釣りを思い出し、真釣りに戻れば、あなたにだけは滅びはない。どんな理屈を持ち出そうとも、真実を誤魔化すことはできない。

文明とは、不都合を塗りつぶす仮面である。文明の進歩とは、言い換えれば、天国の破壊である。進歩、発展、文明なる言葉は、病んだ響きの中にある、病の酷さを言うのである。形が変われども、していることは全く同じであり、文明が進歩するほど、天国が崩壊しているのである。その文明の基を成す、科学や技術と呼ばれる業は、発展どころか、人類滅亡のために奉仕する業なのである。元々、天国の響きである者に、進歩とか発展とかいう言葉は必要ない。発展神話に生きる基を置いている限り、自らの本当の姿に気づくことは全くできない。天国は天国であり、天国には不都合はない。天国には問題は全く存在しない。従って、本当の天国には、進歩、発展、文明、成長、進化という概念はありえない。万古末代弥栄え続ける、闇などどこにも無いのが天国である。滅ぶ心配は皆無なのである。
P45
本当の天国には「死」というものは存在しない。死という概念は、天国を壊している者が作り出す幻想である。天国を作るのではなく、滅びの舞台を作っているのである。天国を作っていると思い込んでいるならば、永遠に取り返しがつかないことになる。社会や他人が何をしているか、は全く関係が無い。あなたがどんな態度で生きているかである。あなたが何を基にして、ものを見て、判断をして、決定をしているか、である。全くアベコベの道を歩んでいることに気づかなければ、気づかない者だけが滅ぶのである。これを認めるかどうかはあなたの自由であるが、その結果はすべて自分自身に戻ってくる。自らが取り違いをし、自らが滅ぶ一人芝居である。自業は自得である。自作自演の独り芝居である。

心の目を覚まして違反を清算すれば、周りがどんなことをしていようとも、自分が巻き込まれることはない。違反をしている者が違反を清算している者を巻き込むこともできない。あなたは、形の世界で生きているのではない。響きが形に現れるのであるから、あなたが天国の形を望んでいるならば、天国の響きに直すことが始めにすべきことである。真釣りに戻すと魔釣りが壊れるから、一時的に不安や恐れを感じる。しかし、それは、魔釣りの響きが産み出す幻想である。何も怖がらずに辛抱することが、真釣り戻しの奥義である。

天地の理法は、万古末代不変の「絶対的真理」である。たとえ神仏といえども逃れることはできない。地獄という世界はない。地獄というのは、天国から滅びへの途中経過の世界である。清算して天国に戻るか、そのまま進めて滅びに至るか。清算した者は天国へ、しない者は掟通りに滅びの世界へ、二つに一つの道である。アヤマ知を綺麗サッパリ捨て去らない限り、天国へ戻る扉は閉ざされる。それは、天国へ戻る入口の扉であり、誰かが閉じたり開いたりするのではない。天国への冒険は、自らが閉じた扉を自らが開く道である。

遥か昔、真釣りを外したあなたは、魔釣りを清算するために元つ大神が用意した建物(岩戸、大神の子宮)の中に入り、扉を閉じて自ら鍵をかけた。しかし、そこが真釣りの世と瓜二つの世界であったため、真釣りを戻すことを忘れ、その世界を牛耳る神になろうと、創造主であるかの如く振る舞い始めた。魔釣りを進めに進め、真釣りを闇に葬って、何千年にも渡って玉座の奪い合いを繰り返し、ついには、自らが本当の神であると心底から思い込むようになってしまった。真コトを知らない神仏に騙されて嘘を真コトと信じ込み、神典を改ざんして宗教を広め、真コトを知らせる大神の使い(ソクラテス、神武天皇、イエス等)も抹殺して、進歩発展の名の下に世を挙げて偽の天国目指して猪突猛進し、好き放題に世を進めた挙句、帰る道を見失って行き着いた先が汚泥混濁の現代社会なのである。
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猪は一二支の最後であり、走り出したら止まらない、一目散に真っ直ぐ突進する型示しである。そのまま突進したら、自爆である。その猪を家畜にした豚肉を食べている。ブタはブーブー文句を言う。ブタ、フダ、フタ、今豚(混沌)。猪=獣扁+者、者=土/日。ケモノの世の一二支は、子、丑、(丑寅=艮=東北)、寅、卯、辰、(巽、辰巳)、巳、午、未、(坤)、申、酉、戌、(乾)、亥の順。五(ヒノモト九御座の真中)が龍=立つ=絶つ、断つ、建つ=中国語でロン=アガリ。龍は想像上の(現世にいない=封印した)「動物」。実際は蛇竜。一二=一年=一念。すべてを支える真龍は霊主心従体属が封印された日本の国土そのもの。

十が酉=鳥=十理=TENの理=神の掟。酉が水に溺れると酒、避け、裂け。日本列島の裏の響きは日本裂倒、日本劣等。十理に一歩足りない鳥は烏、鳥に導く鳥、真っ黒なカラスは不吉の象徴、知恵者。三本足烏は神武天皇の道案内。烏=卯、有、生。平和の象徴のハトは、九の鳥。鳩=烏。白=黒。六が蛇で、巳は鏡に映すと9、9は上下に鏡に映すと6、六の西洋アラビア数字は6で頭は下、逆さまにすると9で頭が上、69は胎児の正児と逆児。洋数字666は偽のミロクである。6+9=15=統合、九御座の十の真中は五。6×9=54=御用=誤用、69重ねると8=日。亥子(意志、イ音=オーケストラの基音、イロハのイ=1=ヒト、稲、威士、居死、伊根)と戻る繰り返し。申は猿(猿回し、猿真似、反省猿)=去る、心、新、震、神。十千は甲乙丙丁戊己庚
辛壬葵、木日土火水の兄弟、六が己=己=土戸。5=Sアルファベットの19=十九=トコ、床、常、徳、得、解く、国常立大神が日本国祖。5=語、吾、誤、悟を鏡に映すと己=子、故、孤、枯、古、狐、顧、おのれ。武士は『おのれ!何ヤツ!?』と自分に怒る。十二と十の最小公倍数の60が還暦。1分=60秒、1時間=60分=3600秒=ミロクの百。日本は北緯三十六度。平熱は36.5℃。水の沸点は100℃。昼の12+夜の12=24時間=1日。

1年間の月(心)十二×苦=108=百八=モヤ=煩悩。ユダヤ十二部族、黄道十二宮、イエスキリストと一二使徒、裏切りのユダ、西洋の十三は悪魔の数字、13日の金曜日=十三とお金は不吉の象徴だが、西洋文明は「金」の世界。神=GODを区切るとGO|D=金=禁、筋、菌。金星はビーナス=女神、女=水=形=体主霊属=逆位=蛇の世界=蛇女に睨まれると石になる。金(菌、筋肉、鐘、卍、十の世)=マネー(真似、真寝、魔根)=禁=No.=数=米+女+人+×、NOx=窒素酸化物=大気汚染。陰暦は13ヶ月で現代社会は12ヵ月の陽暦。十二時間×2(ヒル=蛭=吸血虫=昼と夜=依る)=1日。

ナギナミ創世神話の流された逆回りの蛭子と泡島が現日本国の裏の響き。神戸と明石(証)大橋で結ばれた淡島で阪神(反神)淡路(泡自)大震災。大鳴る門橋で解く島=阿波(泡)の国、阿呆の阿波踊り。死国。四国八十八霊場の空海(喰うかい?)の生誕地は善通寺(路)、著者の父はその門前、中新(神、真)町でS4.12.25生まれ。母は丸亀柞原(苦腹)町でS3.3.13生まれ。著者は足立の本木⇒扇(奥義)でS36(1961=皇紀2621=云二拾一).5.4.仮死状態で生まれた一人子。丑年(辛丑)、牡牛座、天王星人。家紋は逆三階松の下がり藤。双葉幼稚園、寺地小、六中、上野(江戸の鬼門封じ)高卆。剣山に十戒を収めたアーク、契約の箱。剣、鶴亀、釣る気。石鎚山の石の槌で頭を割って蛇(イシヤ)の死。四国=豪州(南半球=逆さま)=英国女王が元首の1大陸1国の多民族国家。三×四季で一年。一周360度=36×十、十=X=未知数。エックス線で箱の中身(秘密)はバレる。三+六=九、九十(卆)×4=櫛、苦死、櫛は髪(神)を漉く。
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表の○一二三四五六七八九十+裏の十九八七六五四三二一○=55+55=110=11の0=2=ニ=心=表裏足すと十十十十十十十十十十十=百十=元、11の十(神)、土の神、110番は警察。表裏22数字=富士、2+2=4、表四+裏四=八、岩戸=一八十、明仁=平成=一八十鳴る、徳仁=ナルヒト=成る人=成人、今上天皇から聖俗(神+獣)婚姻(混血、混霊)、開かれた皇室=神と人の平等、オワダマサコ(魔釣りの世界政府の国連大使の子=皇太子妃)、かわしまきこ(自由平等博愛のフランス文学者の子)、一つおきに組替えると、オわダまサこ、かワしマきコ、皇室典範は天皇=男子のみ、現皇室の祖は天照皇大神、ヒノモトは火、支え、男の働き、平成天皇の孫はすべて女児、皇太子の子は「敬」宮「愛」子、愛とアイ、英国は女王、王、皇=白の王=九九(百−1)路(=心)の王=心王、法皇(卍)法王(十)、教皇。鳴戸=七十=渦産み、海:陸=7:3、○九十(真コト)は八方世界の外にある。一から十まで統べる者を一十=ヒトと言う。十=神、銃、獣、従。九九、救急、九九路、心、99+1=百はすべて=神への道。10+五+40、親指+掌(包み込む=神)+人指し・中・薬・小指=手。手は左右鏡、親は内、真中、手の五+五=十、足の五+五=十、左右上下の五の中心に親指、腹がある。胴は一つ。腹は一つ。五体を統べるのは腹。五大陸の腹は日本。五大陸+日本+英国+南極大陸=八陸、日本は北、本、四、九、淡路の五大陸+佐渡+隠岐+対馬。裏日本は険しい、北は厳しい。

北=ヒ+鏡のヒ=比、縦を付けると土、土土つけて逆さまにして鳥居。世界の雛型、元つ神の御神体、元つ神キ出る唯一国。富士山、エベレスト。アレキサンダー東征と神武東征、サッカー協会の三本足烏は神武の道案内、サッカーは玉を足で蹴る点取り。人類の起源はアフリカ、天孫降臨は九州、天孫降臨の道案内は「猿」田彦命。天岩戸神話=神々の宴会でアメノウズメが裸で踊り、タチカラオがこじ開けて、騙して天照大神を出す。現代社会は水、力、酒、女、策略。北半球と南半球は渦と季節が鏡、逆さま。春と秋はベクトルが反対で、気温は同じ。春は芽吹き、秋は実り。朝と夕も同じことで朝は目覚め、夕は眠り。冬と夜、夏と昼。冬は暗、モノトーン、冷=霊、静、耐、夏は明、原色、動、体、カラー。

淡島と蛭子(ヒルコ=エビス=恵比寿=戎=商売繁盛)の創世神話。大黒天=インドの神=大国主命=自らを祀る出雲大社大神殿を創ることと引き換えに天つ神(天孫神)に売国した国譲り神話と連合軍(小天の神の国、キリスト教国の十字軍)に無条件降伏した神道政府が金と科学の宗教に改宗。天孫降臨は魔釣り、元寇、キリスト教、ペルー艦隊、明治維新、原爆、天皇の人間宣言、昭和天皇崩御、バブル崩壊、阪神淡路大震災=国譲りはヒノモトの囚われ、神風で御神体侵略阻止、一神教+銃(十、獣)伝来、新撰組「誠」抹殺(五稜郭=ペンタゴン、土方=土型)で江戸無血開城=日本政府奪取、蛇文明開化=竜封印、米国の無血上陸=日本国奪取、神国封印、金国崩壊、淡島蛭子国崩壊、真国創世直前。
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風水と鬼門封じの陰陽道の四神は、朱雀、白虎、青龍、玄武(鳥、虎、龍、亀=赤、白、青、黒で、黄は中心で底に流れる気として目に見えない。実際は、黄を囲む五神である。中心に立てば、すべての気=世界征服=神力が得られるとされる。風水のお金の気は黄色、黄金で、西に置く。西洋、西方浄土に極楽があるという。)であり、京も江戸も風水で作られた首都である。鬼門の神はウシトラノコンジン、カムスサナルノオオカミ、地神を封じて天神の学問の世界、アタマの知恵が牛耳る現代日本。逆さまの世界なら、最後はどうなるか。国技である相撲(土俵=円、陰陽四神の房の下の東西対決、ピラミッド階級、綱は注連縄、懸賞の手刀は中左右、土火水、アメノミナカヌシ、カミムスビ、タカミムスビの順、陰陽道+神道の神の神事=魔釣り、神事=火の神の座には水は座せず=女人禁制)の一人横綱がモンゴル(元寇の時のモンゴル帝国)の朝青龍、その親方は、「朝潮」の高砂(最高縁起)親方である。丑寅が鬼門であるが、鬼=艮の金神=本当の救世の神門である。救世の神を鬼門に封じた世界で、鬼門が開けば、地獄。鬼門の大神の力は本当は封印不可能。

鶏=二八取=元の十理。鬼門を封じた丑寅の東北に蝦夷が住み、北海道は北米大陸の型示しであり、魔釣りの天孫降臨の末裔である明治新政府がアイヌを、英国移民のアメリカ新政府がインディアンを、先住民を侵略して開拓した共通の歴史がある。英国の国旗(理念、火)は米、アメリカは米国(実動部隊、水)、bay=海岸、海=塩+水、日本=海で囲んだ子宮の中、子宮は海と同成分、日本=胎児=退治、対峙。日本は米穀食、米の原産地は中国、米国の安全保障担当補佐官はライス。ブッシュ=ヤブ蛇、蛇の子がイラク=メソポタミア=文字文明発祥=米国の足場攻撃=親殺し、文字文明の正体。軍出身の国務長官(パウエル)が鳩派、文民の国防長官(ラムズフェルト)が鷹派。魔釣り(黒、蛇、黒幕)のアメリカの大統領府がホワイトハウス。真コトの国の日本は五大陸の雛型であり、魔コトの経綸として、イシヤの仕組みで立て替える御役に、北米に力の神、中国北方モンゴル(元、満州)に我善し(自分は正しい、一番、中華思想)の神、ロシア(共産主義)とインド(カースト制)の地に逆十字(快欲、体主霊属)の響きの陰陽、ユダの地=イスラエルに魔釣りを統べるアヤマ知の蛇の知恵の神を降ろした。裏(火)の響きが表(水)に現われる。国際社会の表舞台でどの国がどんな役をしたかを見ると、世界の裏のカラクリがわかる。

ヒノモトは現在、米国のポチ、経済・技術・教育大国、魔釣りの神輿を担ぐフェスティバル、魔釣りの神祭咲きわう紙の国、宗教なき葬式仏教国。愛国心とは元つ心のこと=本当の愛国(I告)心教育をしたら鎖国、現代日本は崩壊。エルサレムにユダヤ、イスラム、キリストの聖地。ソロモンの神殿に菊花紋(皇室の紋)、日ユ同祖論、日本が元か、ユダヤが元か。世界の源はどこにあるのか。中心なき混沌の世。七曜は聖書の天地創造神話。キリスト教で国づくり。太陽(日)、水、金、地、月、火、木、土、天、海、冥、太陽+九惑星+月=十一。冥王星(冥王、あの世、闇王)のその先に十番惑星発見で十二星。恒星、惑星、衛星、本来はすべて光星。金星=ヴィーナス=女神、火星=マルス=軍神、土星=サタン、土=悪魔。七惑星の外に惑星と核物質の同時発見。天王星=ウラヌス=ウラニウム=天皇制、冥王星=プルート=プルトニウム、ウラニウム+プルトニウム(裏に産む冥王制、裏舞台に悪魔の王制)の原爆でイシヤに無条件降服し天皇が人間宣言=元つ神封じ、リトルボーイ(小さな少年=エルニーニョ=キリスト、広島=イタリア、お好み焼きとピザ、バチカン、キリスト原爆がキリスト雛型地を自爆自壊)原子爆弾で元始の親国を破壊。爆心は産業振興館。元始=原資=原子=アトム、アと無の誕生日は2003年。AtoM=1が13(悪魔)へ。AUM、オウム=遭う無、汚膿む、ア産む、麻原教祖は盲目=真実を見ない現代日本の鏡、Ω=抵抗=最後、現代日本=善ならオウム=悪、アベコベならその逆、現代日本の申し子=親の鏡=現代日本の裏の型示し、悪に悪を見せた鏡(警告)、悪=自分なら悪を裁けば、自裁自刑、自滅の道。現代日本が正ならオウムを潰せば天国、もし誤なら、日本が自滅。結局は、魔釣りの世界の中のテロと報復であるから喧嘩両成敗であるが。
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示せばきりがないのでこの辺でやめておくが、これらは、すべて偶然ではない。この世に偶然は何一つない。あるなら、真釣りは存在しない。すべては一つであり、最後は一つになる。分裂させて鏡を作り、善と悪の戦いをやっている世界では、○=●、●=○の相対、善=悪であるから、すべて一つに結びつく。○と●を持つならば、この見方はわからない。悪を裁くならば、偏っていることになる。分かつ知で物事を見ている証しであり、善悪の善を主張し、悪を裁くならば、元つ真釣りを裁いている=自殺していることになる。日本語はマ=真=魔、ヒ=火=非、○と●両方の意味が型示しできる。こう見ないこともできるが、こう見ることもできる。歴史の「偶然の一致」「共時性」は、こじつけ、洒落ではなく、魔コトと真コトを教える型示しなのである。『自分の理屈を証明するためのこじつけだ』と言うなら、今の世も、自分の正当性を主張するこじつけの戦いである。この世は数学の論理である。一つの意味だけなら戦わない。戦うなら、お互いにこじつけである。こういう見方ができるのはなぜなのか。筆者はこの型示しを押付ける気はさらさらないが、真コト学校の総合学習の教材として挙げたまでである。今の学校では決して教えてはくれない事実である。ただ、型示しを追いかけるゲームは、意味がない。「型示し」の要点がわかったら、即やめることである。さもないと、この永遠にできるゲームの罠に嵌まっている。

「表の型示し」がいったい何を意味しているのか。日本の、現代社会の正体、裏の響き、裏舞台で何が起きているのか。あなたが常に囚われ、形の利便、快欲、お金を追いかけている限り、絶対にそれは見えない。9.11テロもイラク戦争もオウムもすべて宗教のカラクリ(現代社会の正体、人間の正体、神の正体)を知らない限り、真相は闇の中である。今のまま突き進めば慙愧慟哭修羅の地獄に直面することは必至である。これを荒唐無稽と片付けるのは簡単だが、その見方が自分をどんな世界に導くのか、おわかりだろうか。
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テロリストや独裁者や教祖や教団を恨んだり、憎んだり、潰そうと考えたりするのは簡単だが、それでは何も解決しないし、真実を学ぶこともできない。何か事が起きると、悪を裁いて、恨んで、憎んで、自分には関係ない、自分は正しい、自分を守るためにはどうするか、と反応して戦争を繰り返してきたのが人類の歴史である。しかし、あなたのいる世界で起きることは、今のあなたに関係ないものは一つとしてない。承服できかねるのはわかるが、オウム事件を材料にして、なぜオウムが現われたのか、なぜテロが起きるのか、なぜ悪を潰せないのか、悪を裁くことが何を意味するのか、今のあなたの感情や善悪観念や常識を一旦脇において、自分のこととして、この本を読んでよくよく考えてみるとよい。

人類の歴史は、神の歴史の映しであり、現代社会にある宗教の由緒血統を辿れば、すべて知恵の神に行き着く。蛇や邪竜や獅子をシンボルにしているのがその証。今の世にある宗教のどんな神をどんなに敬虔に信仰しようとも本当の天国は来ない。今ある神の歴史は魔釣り箱の中の歴史であるから、どんなに「由緒正しい」お祭りをしようとも、本当の神のご利益、永遠なる安心は得られない。それどころか、祭れば祭るほど、本当の神から遠ざかるばかりである。魔釣りの歴史の中の年中行事、形ばかりの神事を繰り返しても、それは、神に感謝した積もりになっているだけの自己満足、自分勝手な安全保障に過ぎない。病や怪我、事故等々の不都合は、あなたが真釣りを外したことに原因があることを肝に銘じておくことである。どんなに悲惨な地獄を体験しようとも、神仏を恨むのは筋違いである。魔釣りの神に祈り続ければ、ますます厄を呼び込んだ末に、最悪の結末が現実となる。

本当の天国は、世界中が五穀豊穣、国家安泰、家内安全である。今の世で、賽銭という貢ぎ物をしてご利益を祈願しても、それは神を利用しているだけの戯言である。お守りを握っても、本当の安全は得られず、オフダでは厄祓いもできない。本当の天国には「商」の響きはなく、商売繁盛というのは、『より多く奪えるように取り計らえ』と神に命令していることになる。戦いの世界で、同じ神様に全員が『心勝祈願』をしたらその神はどうするか。勝ち負けの世界で全員を勝たせることはできない。負けた側にとっては、無差別殺人の裁判の原告が、被告を無罪にした弁護士を恨むのと同じ理屈で、その神は約束を果たさない裏切り者になる。もし、優勝したとしても「神に祈願する」ことが真釣りを外した証であり、お礼参りをしても意味がない。お礼参りをしないとバチが当たるかもしれないと思って、表向き『神様のお陰で』ということにしているだけである。本当に神様のお陰だと思い込んでいても同じことで、結局は、自分の力では勝てないと思っているか、自分の力で勝ったと思っているが、一応、神様に頼んでより確実に勝てるようにしてもらおうと思っているのが関の山である。戦いの神は魔釣りの神であり、天国は創れない。本気で戦うならば、略奪の世界で生き続けることを選んでいることになり、本当の天国の実現など見ていない。本気で略奪合戦をしているならば、最後は、神法違反で喧嘩両成敗である。
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毎年初詣をしても国家安泰どころか、国家の危機に向かっているのはいかなることか。偽の神様にいくら詣でても、神社が儲かるだけでしかない。神を信仰するのは、自らの身欲の天国を守るためである。光と闇のある地獄にいる限り、ご利益を求めるほど、逆に厄を呼び込むことになり、国家安泰の願いは泡と消える。すべては魔釣りの世の幻想に過ぎない。

歴史の箱の入口と出口は同じ場所にある。過去から未来への直線的な時間軸の上に、世の始まりと終わりを落として天国を目指して世を進めても、その天国はどこにも存在しない。歴史年表の線分の左の端を世の始め、右の端を世の終わりとすると、その左と右は、実は、同じ点である。その二つの点を重ねれば、歴史の真実が見える。実際には、過去も未来もなく、始めも終わりもない。歴史で言うところの世の始めは「?」であり、終わりも未だ来ていないから当然「?」である。そして、その間も「?」の歴史であり、新しい問題を増やし続けているだけで、「?」は何も解決(「!」)していない。本当の年表は直線ではなく、始点と終点が同じループ曲線である。実際には、箱の外には歴史年表はどこにも存在してない。始点と終点を分けて直線にして永遠の「?」を作ったのはあなたであり、あなたの内の終始を結算し、したことの始末を付ければ、あなたという魂の歴史の「!」が見える。

本当の自分(=私=「i」)が逆立ちをすると「!」となる。本当の自分が逆立ちをして、その逆立ちした自分を本当の自分であると思い込めば、偽物の「i」となる。iは、Iであり、私、eye(目)、愛、アイ(五十音の最初)である。すべてはあなたが源である。それを疑って首をかしげると「?」になる。本当の自分は見えなくなっているから、見えている外に答え(「!」)を探す。「?」がどんどん増えていき、仕舞いには、子宮の中には答えがなくなる。頭(・)は上にあるのが正立である、頭を下にして逆立ちをすれば、必ず倒れる。しかし、胎児は頭を下にしないと難産となる。今のあなたは大神の子宮の中にいる。子宮の中の中で正立した胎児は、子宮の外から見れば、逆立ち(逆子)である。あなたの本当の天国は、子宮の外にある。あなたの心は臍の緒であり、外の世界を見ることができる。子宮の外の、心に映る理想の世界とあなたの現実の体験がアベコベならば、あなたは逆子状態である。地に足をつければ安定するというのは誰も依存はないはずである。あなたがいる子宮の中が逆さまの世界であるならば、あなたは頭を下にしているのが、正しい姿である。あなたは子宮の中にいることを知らないから、外の世界のように頭を上にしている。すべてのすべてをアタマで考える。魔釣りの知恵で社会を作る。脳は左右に分かれ、左脳は右、右脳は左の体を支配している。頭(知恵)が体(社会)を支配すれば、左右に分かれて争い、逆さまの世界を作ることになる。つまり、二つにわかれた左右アベコベのアタマが世を導けば、混乱していくのは当然である。主権争いに明け暮れた挙句に、王や独裁者から主権を奪い取って創った「民主主義」というバラバラな主権者の集団統治では、イサカイが顕著になり、収拾がつかなくなっていく。結局は、アタマ(リーダー、独裁者)を求める事態になって、元の一人の王が治める世界へと戻っていくのである。
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あなたは分裂思考をした対極がある世界にいる。あなたが正しいならば、あなた以外が間違いとなる。だから、あなたは、外の×を消そうとする。あなたが「?」ならば、あなたは外に正解(「!」)を求める。実際は、あなたの世界はあなたの鏡であり、あなた(「i」)の答えは、臍の緒の外、後の正面にある。鏡に映った答え「!」を逆さまにすれば、あなた(「i」)になる。逆さまの正解の逆さまが本当の正解である。あなたがあなたを「×」して、あなたがあなたを「?」にしているのである。この世の「!」は子宮の外の「i」の逆さまの姿であり、あなたがそれを認めれば、子宮の中のあなたの「?」は「!」と結び、あなたは逆子ではなくなる。子宮の外は見えない世界であるが、あなたの心を逆さまにすれば、そこにあるあなたの正解(「!」)を得る。そのままを保てば、あなたが子宮の外に生まれ出た時はiとなり、あなたはあなたの本当の天国を謳歌できる。得られた正解を子宮の中の基準で価値判断すれば、また逆子となり、外に答えを探す堂々巡りに戻ることになる。頭とは、肉体上の頭のことではない。逆立ちしている心のあなたが、さらに逆立ちすれば、それは正立を意味するから、本当の真実が見えるということである。その目で現代社会を見直してみれば『こんなにおかしい世はない』ということがわかってくる。おかしいからといって形を治そうとすれば、逆子に逆戻りである。あなたがするべきことは、そのおかしい世界とはアベコベの、本当の自分に従って生きていくことである。あなたの目の前の社会を変えるのではなく、あなたの内にある社会を元に戻せばよいのである。あなたが逆子のままなら帝王切開で突然逆さまの世界に出されることになる。逆子からみれば、天地がひっくり返るとんでもない事態であるが、そこでどんな体験をしようとも、逆さまであることをハラに入れて生きていけば、必ず、本当の天国の現実を体験できる。

今ある歴史は箱の中の歴史であり、始まったところに戻る。始まりが闇ならば、闇に帰るだけである。あなたが、言われるがままにその歴史を辿っているならば、あなたは闇の世界に辿り着く。しかし、実際にはその闇は存在しない。光のみの世界になれば、どこにもなかった闇は消える。本当の天国に帰らない限り、あなたは永遠に滅ぶ。今いる世界は、真釣りを外したあなたを真釣りに戻すために用意された世界である。あなたはそれを忘れ、神を取り違え、『この世でいかに生き残るか』というサバイバル合戦にはまり込んでしまったのである。真釣りを戻さなければ、今あなたが生かされている真の目的は果たされず、天命を全うしないまま、永遠に命の灯火を消すことになる。箱の外には「?」の歴史はない。箱の外は「i」だけの完全自由の天国である。そこは、逆子から見えれば「!」であるが、頭を下げれば、本当の自分(「i」)の世界となる。本当の天国には始めも終わりもない。万古末代弥栄える、永遠の天国なのである。その天国を闇に葬って、世を挙げて真釣りを外し続けて、箱の中で右往左往していたのが、神仏も含めた人類の歴史だったのである。
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人類の歴史の中で作り出された宗教や学問をどんなに信奉してもあなたの真実は永遠に闇の中である。あなたの本当の天国、真実の歴史はあなたの内にある。あなたの内にある分裂の響きを元に戻せば、あなたの本当の真実が見える。すべては一つであり、境界はどこにもない。そのすべてを分けた境界線は、あなたが引いた心の中の境界なのである。地球の上で、国境紛争を繰り返しても、本当の天国はできない。待っているのは滅亡である。

子宮の入口と出口は同じであり、精子(,)が外から入って、卵子(○)と出合って受精(⦿)して、赤ちゃんとして産まれ出る。元の大神の子宮の中でアタマを上にしていたら、逆子となって、難産になる。なぜ、人間の妊娠期間は十月十日なのか、陽暦で言えば、九ヶ月強である。人間より「下等」な牛馬は生まれてすぐ歩ける。ゾウリムシは、自らをコピーして増えていく。野菜や切花は土から離れても成長する。土に根を張っていれば、永遠の生である。植木鉢に土を入れて自然から切り離した花を観賞する。自然から隔離して自分の所に引っ張ってきて、自己満足する。あなたが水遣りを怠れば枯れる。「花の気持ち」を考えたらできないことである。しかし、自らの快楽を得ることしか頭にない人間は、自然や動物の保護を訴えながら、森林を切り開いて町を作り、動物園や植物園で当然の如く楽しみ、機械で作った遊園地で一時の天国を享受する。自然保護と経済発展が共存できると言う。しかし、自然は真釣りであり、経済発展は魔釣りである。真釣りと魔釣り、永遠の天国と永遠の滅びが共存などできるわけがない。それこそ、まったくの絵空事であり、空想の産物、机上の空論、神を畏れぬ大大暴挙である。自らの運命の真実を知らず、形の世界での快楽を捨てられずに、神や自然に媚びを売る。檻に入れるのが可哀相だからと、自然保護という名の詭弁の動物園で自然を保護するのだと主張する。「自然」は管理費も餌代も要らず、保護の啓蒙の経費も、管理官の給料も不要であるから、入園料を取る理由は本来はどこにもない。文明社会だけで通用する遊びに過ぎない。文明が入らない未開民族は、お金は要らず、天恵の自然物のリサイクルで暮らし、文明国なら違法である行為も自然の営みとして許されている。しかし、部族の掟は厳しく、最も自然の掟を体感している人間である。文明国と言われる国では、動物や他人は管理するが、自らが奴隷にされると反抗して大騒ぎする。しかし、要求するその自由が、誰かの都合で生死が左右されるアメとムチの箱(動物園)の中の自由だと気づかない。神を畏れる人間が、神の化身である万象万物を自らの都合で好き勝手に荒らし回って、わざわざ難しい問題を産み続け、難しい問題を解決できるほど優秀な人種であると誇る。自然と文明、どちらが先なのか、どちらが神に近いのか、どちらが自然の営みを壊さないか、わからないのがエリートである。わかっていてやっているなら大大罪であり、エリートの言いなりである庶民も同罪と言える。
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人間の問題は、実際には、今もって何一つ解決していない。それどころか、歴史が進むほどに、解決が困難な問題を産み出し続けた末に、制御不能に陥っているというのが現実である。自らの快楽の世界を維持するために品種改良を繰り返し、自然にないものを作り続けた挙句、遺伝子操作の穀物で命が脅かされ、羊や猿のクローンを経て、いざ人間自身のクローンの番になると世を挙げて大騒ぎする。しかし、クローン技術を推進する側(要求する側)の人間も、反対する側の人間も、結局は、同じ響きの世界で争っているだけであり、その争いは、より大きな視点からみれば、全く意味が無い争いなのである。争う以前の問題として、形のクローンに敏感になっているそのこと自体が、真釣りを外した世界にいる証であり、本当に人類のために有益なのは、それが何を意味するかを考えることである。人間のクローンは倫理に違反するとか、神を冒涜するとか、そういう次元の話は知識人の戯れであって、学者や企業が、クローンを作って儲けようとしたり、臓器移植に使おうとしたり、市民(消費者、患者)の側がそれを望んだり、批判したりしている世界があること自体が、本当はおかしいのである。何の罪悪感も無く、人間以外の動物や植物の品種改良や遺伝子操作をしたり、鉱物を無生物として扱ったりしている人間が、自らの種に関しては、それをすることが悪の権化のように考えること自体、この世が自由でも平等でもない証である。現代社会で言う自由や平等や平和は、「文明人」の世界だけの話であって、自然も含めた平等と平和を実現しようとすれば、今やっていることはすべて自分勝手な悪行となり、現代社会の存続を図ること自体が、自然を破壊する悪魔の企みに変わってしまう。悪魔の世は、天国とは相反する世界であり、神の登場によって、すべて終りを迎える。

文明社会は、破壊に向かって進歩という幻想を追いかけている。本当の神を闇に葬って、それがなぜできるのかを忘れ去り、神から自然の管理を任された生物であるという嘘に騙されて、自然を破壊し、支配するという、本来ならば、不可能なことを平然とやっている。現代社会は、自然から完全に隔離された、金と機械と数字が管理するシステムによって営まれている。すべては、自然のためでも、神のためでも、社会のためでもなく、アヤマ知に基づく人間同士の生存競争をしているに過ぎず、自らの営みを完全に無視され、そのとばっちりを受ける自然(生物)は、人間勝手な理屈で都合よく利用されて、いい迷惑である。人間だけが清く正しくあれば、神を冒涜しないと思っているその勘違いが、すべての争いと環境破壊をもたらした源である。混血がすでに人間の品種改良であって、優性思想はそれを突き詰めたものに過ぎず、自らの人種が一番優秀だとか、人間は平等だから、とか言う争い以前の問題として、苦や不都合や破壊があること自体がおかしいのである。それは言うまでも無く、この世界が真釣りを外した世界であることの動かぬ証拠であり、今までの人類の歴史は、実は、人類自身の破滅を呼び込む、自作自演の狂言だったのである。

本来は、神から人まで、万象万物が真釣りの天国のみである。魔釣りの響きは、真釣り外した身魂を真釣り戻すために特別に作られた、期間限定の響きであり、善か悪か、損か得か、苦か楽か、という「分かつ知」や、「アヤマ知」の知恵は、真釣り世の身魂にはない。殺し合いをしたり、戦ったり、滅びを心配する現実を体験していることが、おかしいのである。平和や自由が当たり前である。というより、真釣りの天国というのはそれしかない世界であり、天国を望んでいるのは真釣りの世ではない証である。その中で争って、不平不満を言っているすべての人間が同罪であり、裁き合いや責任転嫁をしていること自体が、何の正当性もない、愚かな行為である。本気で世界の平和(万象万物すべての本当の天国)を願うならば、自由や平和を求め、天国を目指して戦っている世界を当たり前のものとして、自分勝手な神を作って、好き放題に神世を荒らしている今の生き様を正す必要がある。
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現代社会の現実を作り出した本当の原因はいったいどこにあるのか。密猟者を取り締まろうと、自然保護を法律で強制しようと、動物愛護を教育しようと、問題は何も解決しない。様々な問題を作り出したその本当の原因である「真釣り外し」を認めて、今までしてきたことの清算を始めなければ、現代社会の崩壊、形の世の滅亡どころでは本当に済まなくなる。本当の神を闇に葬り去って、偽の神とその信者集団(知恵の神の人類)が作り出した現代社会のその行く末は、天国でも光の世でもなく、魔釣りの神仏共々、あの世にもこの世にも生きられない永遠の滅びなのである。生産者も消費者も、学者も庶民も、需要と供給の相互依存の現代社会に生きるすべての者にとって、絵空事や他人事では済まされない状況にあるのが、今ここである。人類の(正確に言えば、あなたの)永遠の生死を左右するこの事実からは、誰一人逃げられず、神仏といえども関係のない存在はいない。万象万物はすべて神である。人間と鉱物の扱い方の差に、本当の神を知らない証が現われている。

現代社会の快適さを享受して喜んでいる人間の正体は、魔釣りの蛇の神のクローン魂であり、姿形は様々に違えども、響きの姿は全く同じである。蛇の響きのクローン魂が世界を作るとバラバラの争いの世になる。そして、自ら以外のクローン(コピー、大量生産)には心血を注ぐが、自らのコピーだけは怖れる。現代社会で金の作る天国を快適に生きようとすることが何を意味するのか。真釣りの響きで言えば、鉱物も植物も動物も、上等下等はなく、言うなれば、すべてが自分自身である。鉱物と動物、特に、人間、もっと言えば、自分自身の扱い方の差はいかなることか。すべては一つであるのに、あるものはただの物として、あるものは神の子として扱う。あなたの生き様、物の見方は、現代社会の映しであり、現代社会は真釣りを外した蛇の知恵の神がその源流である。今この場で、今の世の、すなわち、あなたのその行く末がどうなるのかを真剣に考えなければ、あなたは永遠の命を捨てることになる。真釣りのクローンなら、姿形を全く同じにすることも、違えることもできる。ヒットラーの姿ばかりの天国にもできるし、今の世界の形にもできる。響きが真釣りであるから、形がどうだろうと、世界そのものは自由、平和な天国になる。形のクローンを問題にすることが逆さまの響きの証である。すべては、あなたの映し鏡であり、自らがしていることが、自らの置かれている状況を示す。植木鉢の花があなたであり、大神が水遣りを止めればあなたは死ぬ。ペットの犬があなたであり、大神が餌やりを止めればあなたは死ぬ。しかし、大神にとってのあなたは子であり、時が来るまではそんなことはしない。大神は天地創世から今の今まで、与えるだけで、一度たりとも奪ったことはない。現代社会は略奪の世界であり、大神を「冒涜」した集団の作る反神世界であることは、明々白々である。議論の余地はない。今の世で生き残りを図るなら、それは、本当の神への反逆であり、そのまま続けるならば、魔釣りの蛇の世界もろ共、永遠の滅びに至る。大神が水遣りや餌やりを止めてあなたが死ぬなら、それは、あなたが天地自然の掟に反して生きてきた証であり、大神があなたを殺すのではなく、あなたの意志で自殺するのである。
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魔釣りの蛇の神にとっては、あなたはペットである。蛇の神の気分次第で餌を与えられるかどうかが決まる状況にいる。その蛇の神も、言わば、大神のペットであり、大神がその気になれば、餌をすべて取り上げることもできる。しかし、すべての神仏、人類は大神の子であり、本当の親である大神はそんなことはしない。ただし、時が満ちれば、自然の掟通りにすべてを真釣りに戻すことになる。それまでに、大神の心を察して、自らのしてきたことを反省し、本当の自然の掟に戻らなければ、あなたは自殺することになる。大神は真釣り戻すだけであり、真釣り外したあなたが自殺するのである。万物の霊長が、実は、自然界で一番弱い生き物である。アタマの知恵、理性が自らが高等生物である証のように言っているが自然の掟の中ではアタマはいらない。自然の響きで自然に生きれば、何の不都合もないのである。花やペットの世話が面倒だというなら、大神が万象万物に万化して、神の世界を壊し回る手に負えない悪戯坊主の集団を生かし続ける苦労はどれほどのものか、考えてみるとよい。あなたは、天恵なくして一瞬たりとも生きてはいられない。アタマの知恵で奪い合いの喧嘩を繰り返して大騒ぎしている現代社会は、大神が自然に戻せば一瞬の内に崩壊する世界なのである。万物の霊長だというなら、すべての生き物を生かしてみればよい。それができるならば、今世の状況はないし、できるならば、この本もいらない。

月が三千れば、出産しなければならない。しかし、どうあっても出ないと言うならば、帝王切開となる。神仏も含めて、現代社会は仮の世である。仮資の世である。金の支える借り(ローン)の世界であり、本当の龍(真釣り)が現われてロンと成れば、すべては無に帰す。元に戻る。元の真釣りに戻る。今のあなたは、仮死状態であり、仮生状態である。仮の私であり、仮の世である。あなたが魔釣りを続けるか、真釣りに戻るかで、本当の生死が決まる。真生(=真世、真私、真死)であり、生死が永遠に決まるのである。これは、それぞれの課題であり、誰かを生かすことも殺すことも邪魔することもできない。誰かに助けられることも見捨てられることも邪魔されることもない。神仏を含めて、すべての身魂が自らの永遠の運命を自らで選ぶ決断(自決)である。誰かに連れて行ってもらうことも、誰かを連れて行くこともできない。神仏一柱一柱が、人間一人一人が、各々が、大神の子宮から自ら出るか、帝王切開で出されるか、真釣り戻して生き返るか魔釣りのまま死ぬか、或いは子宮もろ共無くなるか、を自ら自身で決めるしかない究極の選択なのである。
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ミロクには神の子宮はない。自らが自らの子宮であり、母であり、父である。自らが外であり内である。自らが神であり、万物万象である。雌雄同体、雌雄変換、男女どちらでも自由自在に成れる。土にも、石にも、星にも、魚にも、鳥にも、飛行機にも、ロケットにも、何にでも成れる。すべて=一つの真釣りの神になる。日月地を統べる「地の日月の神」となる。日月地を統べるのは神でなければならない。ヒノモトの民は、世界を統べる親、地の日月の神と称される、尊き(十産十気)御役の神であり、その神が真釣りを外し、魔釣りのアヤマ知にも囚われ、真コトの神ハタラキができなくなったことが、現代の世の乱れの真因である。日本が真中の真コトを取り戻さなければ、世は滅ぶのが神仕組みである。

逆さまの体主心従霊属の蛇の知恵で真釣りのミロク世を実現できると言うならすればよいが、水と水が組んだ世では、それは叶わない。本気で「神」に成りたいなら、魔釣りの響きを鳴らすのを止めて、今の偽の神仏(科学、宗教)を捨てて、真釣りの響きを鳴らすことである。形は響きの現われであり、響きと相応の形となる。響きが魔釣りで形が真釣り、響きが滅びで形が天国、響きが天国で形が滅び、響きが真釣りで形が魔釣りということはありえない。形が地獄なら響きも地獄である。形が戦争なら響きも戦争である。真釣りとは、万古末代弥栄の響きであり、魔釣りは滅びの響きである。今のままなら滅ぶしかなくなるから、大神が「情けと花の仕組み」で真釣りを戻す仕組みを構えたのである。魔釣りを進歩と間違えば、幻の天国を夢見たまま滅びを迎えることになる。大神が何もしなければ、魔釣りはなく、人類の歴史=現代社会も存在しない。今あなたが生きているのは、戦争ができるのは、真釣りの大神の情けであるゆえであり、そのまま続けるならば、すべて滅ぶ。

心に闇があるなら響きは魔釣りであり、そのままを形にしたら、最後にはすべてが滅ぶ。「鳴る」は「成る」の生かされある神響きであるから、魔釣りの響きで真釣りの世にすることは絶対にできない。形の水を基(台)となす「治す」では、何も直らないどころか、すべてが流れてしまう。火を元の台にして直すためには、まずは、あなた自身が真釣りの真コトを鳴らせる(魔釣りの魔コトの響きの思考を止める、アヤマ知をすべて捨てる)ことである。家を建て直すには、基礎も含めて、古家の形を跡形も無くすべて壊して更地(土)に返す必要がある。神仏も含めて、魔釣りの世は真釣りの中の子宮である。心に真釣りを鳴らせれば、真釣りが分かる。身欲、損得を捨てて行じれば、真釣りに戻ることができる。

魔釣りから真釣りに変わる瞬間の苦の響きに惑わされないことである。他人に真コトを通させるのではなく(社会を変えるのではなく)、あなたが真コトを貫き通せばよいだけである。分かってもらおうと思うのは魔釣りであり、真コトがある積もりであっても、それは、あなたの思い込みである。あなたが真コトであるならば、分かってもらおうとは思わない。真釣りは魔釣りと裏表であるから、魔釣りの者から見れば、無と同じ感覚である。真釣りの世を言葉で語り、真釣りの響きとはどんなものかを話し、真釣りの響きで生きる姿を見せることはできるが、真釣りの響き自体を魔釣りで生きる者に渡すことはできない。真釣りは自らの響きであるから、自らが真釣りに戻らない限り、真釣りとは何か、真コトとは何か、を本当に知ることはできない。魔釣りで行じた癖は、真釣りを行じて取るしかない。全く逆さまのハタラキの響きであるから、損得生死時空を超えて行じる覚悟が必要である。真釣りはアタマでは取れず、金でも買えない。神社の参詣や、教会での祈りや、教典の研究や、読経では絶対に取れない。真コトは、自らが行に結んで、初めて聞く神の徳である。
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子宮の外は、真釣りの世界であるから、魔釣りのままなら死産となる。少なくとも真釣りを思い出して産まれ出れさえすれば、真釣り外した分の艱難辛苦はあるが、真釣り戻しをし続けることで、必ず本当の天国を体験する時が来る。神の世界の出産は一度だけである。真釣りを外した神を真釣りに戻す子宮は、万古末代、ただ一度だけである。今のあなたにとっても、生まれ変わりはあるにせよ、同じ肉体での出産は一回きりである。本当のあなたの出産は、最初で最後の一回こっきりの出産であり、この出産を終えれば、真釣りの体で、真釣りだけの神代で、産まれることも死ぬこともなく自らが自らを産み生み続ける神人となれる。自分が自分の父であり母であり子である、自分の世界という子供の父であり母であるという、父子母(火土水)が三位一体となった永遠の天国で永遠の生を生きられるのである。今のあなたもあなたの世界の親であり、自らの子(現実)に不都合があれば、あなたは親の役目を果たしていない。あなたが教わった親の役割がマ違っているのである。あなたの心に曇りがあれば、親の役目を取り違う。あなたが親の役目を教わった親は、逆さまの世界の逆神の子孫だったのである。本当のあなたの教えることが、本当の親の態度である。嘘の親に教わったことはすべて捨てて、本当の親の生き方を学び直して欲しい。

真コトでなければ真コトの世を総べて統べることはできない。今のあなたは、親(生き様)を変えなければ、真コトの世界で自由自在に生きることはできない。日月地を統べるのは真釣りの神でなければできず、この世で真釣り戻しの天命を果たした神だけが、真釣りに戻った神が神の世を統べる、末代滅びない本当の天国に戻るのである。あなたが、誰かの助けを待っているならば、あなたには助けは来ない。あなたが救い主を探しているならば、それは滅びへと続く道のりである。救世主はあなた自身であるから、あなたの改心次第である。あなたが天地の理法に戻らない限り、大神でも手を貸すことはできないのである。

あなたが神の助けが欲しいならば、神に祈り、仏にすがるのではなく、あなた自身が天地の理法に乗ることである。大神の意に乗ることが、大神の響きに共鳴することである。大神の響きに共鳴すれば、あなたは大神の道に戻ることになる。しかし、あなたが今まで違反した分、辛抱が必要になる。あなたがアヤマ知で奪った分を返す間、あなたは苦労をすることが必要になる。奪って楽をした分、返す苦労が必要になる。その苦労は、奪って楽をした自分自身が生み出したものである。自らで自らのケツを拭き、自らが自らのツケを支払うならば、あなたは、自らのしたことに責任をとったことになり、ミロクは約束される。あなたが自らの苦を一つでも何かのせいにするならば、あなたには滅びが約束される。元々「神」であった者が、神の掟を破ったままで、神世に生きることはできないのである。
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自らが快欲に囚われて、マ違ったやり方で手にした分(響きを乱した分)は、キッチリと返さなければ(響きの乱れを引き受けなければ)あなたは、自らのしたことの責任を取っていないことになる。現代社会の法的、人道的、社会的責任云々は、『誰か(何か)の体験(感情)は、他の誰か(何か)に責任がある』というアヤマ知に基づくもので、それは真釣り外した世での責任概念であり、中身は空っぽである。お金の返済(借りの清算)も同じことで、自分の苦の体験(否定的感情)の責任は、真釣り外した自分自身にしかなく、自分が自分の加害者であり、それは、他でもない、天地自然の本当の神への冒涜者であることの証である。どうあっても自らの責任を認めないならば、あなたは永遠の死を迎える。

マ違ったやり方で自ら作り出した苦は、自らが引き受けるのが当然のことである。真釣りが神の掟であり、真釣り外した身魂は本来は存在しえない。あなたは(今の世は)『情けと花の仕組み』がなければ、今ここに存在しないのだということを決して忘れないことである。大神の情けがあるゆえに存在できるのだということをしっかりと自覚して、真釣り外して天地自然(大神)に迷惑をかけたことをお詫びして、真釣り戻す苦労に耐えることが、自らのしたことの責任をとることであり、天地自然と真釣り合わすことになる。『自分には覚えがない』『そんなのは詭弁だ』云々と言うならば、あなたにはミロクはない。自分がしたことが自分の現実に返るだけだから、好きにすればよい。自らが犯したマ違いによって自らが生んだ苦を自らが引き受けることが真釣り戻すことである。あなたの命は、あなたのものではない。その苦労を避けるならば、命を差し出そうとも、あなたに天国はない。

文明の中での苦労は、苦労しただけ天地の理法を外して滅びに至る苦業である。真釣りを戻す苦労は、永遠には続かない。真釣りを外した分だけ終われば、苦は消える。なぜなら、真釣りには苦はないからである。あなたが、真釣りに戻るための苦労に耐えることが、自らの違反の清算の証しであり、大神への本当のお詫びの印である。本当の感謝の印である。あなたが掟を破っている事を知らせてくれた「情けの苦」に感謝することができるかできないか、それが、あなたが永遠の命を得るための踏絵となる。苦を避ければ、悪を裁けば、自らがしたことの責任を放棄することになる。自らが自らを滅ぼす大きな取り違いに心底気づかなければ、あなたは消える。誤魔化しは効かない。自分の甘えや誤魔化しを一番知っているのは自分である。自分が自分を生かすか殺すか、唯一最大の分岐点である。
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あなたが、あなたの体験するもの(体験すること、状況、感情、考え、知識、常識、生き方)を、たとえ一つでもあなた自身以外のものが原因で体験している、起きていると思っているならば、あなたは重大な勘違いをしていることになる。あなたには偶然は無い。すべては、あなたのしてきた選択の結果である。あなたが『誰かに騙された』と思っているとしても、その誰かの言うことを聞く選択をしたのは、あなたである。『強いられた』『やむを得ず』という表現を使ったとしても、自分が選択したことには変わりは無い。あなたの同意なしで、あなたを動かす事は誰もできない。あなたが何かを恐れていれば、それを避けるために誰かの命令を聞き、『強いられた』『やむを得ず』と言う結果になる。しかし、あなたが恐れているそれ自体も、あなたが選択したもの(考え方、思想、知識、学習、信仰)によって作られたものなのである。その考え方、思想、信仰を選択したことが、その恐れを生み出した源であり、あなたの感情は、すべてあなたが生み出したものである。従って、『強いられた』『止むを得ず』と言う言葉は、自己責任を放棄する言い訳でしかない。

あなたが死を恐れているとしても、それはあなたが生み出した幻である。もし、あなたに死があるとすれば、あなたは死を想像することはできない。死を想像しているあなたは死んではいない。なぜなら、あなたは想像しているからである。あなたが本当に存在しなくなることがあるとすれば、その時のあなたは、苦も楽も感じる事はできない。あなたが死後の世界について論じているならば、あなたは、その死後の世界で生きていることになる。死後の世界が存在するならば、あなたには死はない。あなたが言っている死は、限定した世界での死である。「他人の死」を見て、「自分の死」を想像しているだけである。あなたがあなたの死を見る、合わせ鏡である。辞職も、勘当も、肉体的な死も、結局は、ある世界から出ることである。あなたは死んでも死んでも本当に死ぬことはできず、有限の中を無限に彷徨い続けることになる。あなたの体験する世界(景色、姿形)が変わるだけで、あなた自身は生き続ける。あなたが天地の理法に従った時、あなたには天国も地獄もない。時が至れば、死の幻想を持つ身魂がさ迷うことができる世界はすべてなくなる。これが何を意味するのかよく考えてみることである。あなたが真釣りに戻らない限り、命は消える。

あなたの世界は、本来、すべて天国であり、比較する対象は存在しない。あなたは一つの目しかもたず、善悪、美醜、苦楽、早遅、寒暖、進退、生死、天国地獄といった二極分裂した見方はできない。あなたが分裂した見方を選択しているから、分裂して見えるのである。この見方を「分かつ知」と言う。この見方で見ている限り、あなたは分裂し続けるだけで、永遠に統合することはできない。あなた自身が分けた世界で『より早く』『より楽に』と思うとすれば、それは、自分が作った世界を自らで分け続けることになる。『善悪があるから悪を裁くのだ』と言うとする。しかし、『善悪がある』は普遍的見方ではなく、あなたが作ったものである。『善悪があるから悪を裁く』と言えば、悪を裁き続けることになる。悪を裁く理由である『善悪がある』は、あなたがそう思っているだけであり、それを裁く理由にすれば、裁きの堂々巡りから抜けることはできない。あなたが、『善悪がある』と言っているから善悪があるのであるから、あなたは、自分が決めたものを理由に自分の行動を正当化していることになる。自分が自分を正当化しても、それは普遍的正しさではない。
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自分が自分に騙されていることに気づかない限り、裁きの輪からは出られない。自分の都合で決めた法律に自らが縛られ続けることになる。自分が決めた決まり(法律、ルール)を自分を正当化する根拠にしても、全く意味のない茶番である。自分が自分に課している決まりを変えない限り、あなたが自由になることはない。あなたが、あなた以外のものを理由にして『自由にならない』と言うならば、あなたは永遠に自由にはならない。あなたが理由にしている「何か」があなたを縛るものであるならば、あなたは、その「何か」を変えようと画策することになる。あなたは、その何かが変わるまで、自由になることはできない。あなたも、あなた以外の誰かも、このトリックに気づいていないとすれば、お互いにコントロール合戦を続けることになる。そして、何かに権威をつけて上下を決める主導権争いのゲームを作り出し、自分の外の力を使って相手に勝とうと考える。しかし、その力は、あなたの取り違いが作ったあなた自身の力であり、あなたと同じやり方で、誰かが別のものに力を作り出し、あなたの力を無効にする事ができる。あなたがどんなに力を持っているとしても、その力は永遠ではなく、あなたは常に攻撃に備えなければならなくなる。あなたは、常にスパイ活動をしていることが必要になる。あなたのその不安定さは、あなたが作り出した戦いの目に原因がある。あなたがあなたに緊張を強いているのである。自分が戦いをやめない限り、戦いは続く。『戦いがあるから戦う』と言えば、あなたはその世界で戦い続けることになる。『法律を守らなければならない』は最大のトリックである。

「競争原理」という原理はない。原理だと言えば、そこから抜けることはできない。競争が原理だとすれば、あなたには自由も天国も平和も作れない。競争(勝負)が原理ならば、それは、敗者がいることが前提であるから、自由や平和は、あなたにとってのものであり、世界の平和を実現することはできない。世界の平和が実現したら、戦いはできなくなるからである。『世界平和のために戦う』という矛盾を解消した時、本当の世界平和が訪れる。『自由のために戦う』と言っている限り、自由の奪い合いが続き、結局、両方とも自由は無くなる。自分が自分を縛っていることに目覚めない限り、本当の自由は無い。社会システムに矛盾があるならば、その社会は矛盾で作られた社会であるから、始めの初めのゼロに戻して作り直さない限り、社会の矛盾が顕著になり、争いが激しくなり、自己崩壊する。

あなたが本当の天国に戻れるか戻れないかは、あなたが天地の理法に従うか従わないか(違反を清算するかしないか)によって決まる。あなたの決心次第である。あなたが、あなたの不快感をあなた以外のせいにし、また反対に、あなたの快感をあなた以外のお陰と思うならば、それは、あなたの誤った解釈である。自分以外のものが原因であるというその見方自体が、その体験の原因である。「いい人」「悪い人」というのは、「自分にとって」である。あなたが快、得、幸を感じた時は感謝、不快、損、不幸を感じた時は文句、であり、その基準は、『自分にとってどうか』である。自分の都合で、誰かを天使にしたり悪魔にしたりして、感謝したり、文句を言ったりする、自作自演の独り芝居をしているだけである。真釣りの世は、楽のみ、善のみ、美のみ、正のみ、聖のみ、清のみが当り前の世界である。
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もともと天国であるあなたには、天使も悪魔もいない。それはあなたの取り違いが生み出した幻である。天使と悪魔を自分の都合で使い分ける、自分勝手な行為である。天使と悪魔を生み出したのはあなたであり、天使も悪魔も、その源は同じであることになる。自分を益したり害したりしたのは自分なのに、その益や害は、誰かが自分にもたらしたものだと錯覚し、それを真実と思い込んでいる、幻想の世界の体験に過ぎない。あなたがその世界にいる限り、天使と悪魔の響きに翻弄されることになる。天使や悪魔の響きがあなたの現実に現われる。悪魔祓いや厄祓い、奇跡を見せる者を追いかけ、憎しみ合いや報復合戦、他人の世話や墓参りから抜けられない。あの世もこの世も同じ仕組みである。霊の戦いも人間の戦いも、報復も霊の祟りも、すべてが同じ仕組みである。この世にいようとあの世にいようと、あなたは、恨みと憎しみ、感謝とお陰の世界で、右往左往することになる。

あなたは、もともと、苦も楽も感じない、何の苦労もない、何の不自由も無い世界、いわゆる、天国にいた。しかしある時、あなたは、天地の理法に違反したため、天国を自ら離れることになってしまった。俗にいう、エデンの園からの追放という形で伝えられている出来事である。「知恵の林檎」は、アヤマ知のことであり、「蛇」は、魔釣りの神のことである。『蛇に騙されて知恵の実を食べた』というのは、魔釣りに囚われてアヤマ知を選択したということである。正確に言えば、エデンの園も、天国を離れた世界の内の天国であり、すでに天国ではない。本当の天国を離れた後の天国を本当の天国と勘違いしているから、エデンの園を天国としているだけである。ここでは、「自ら離れた」というのが鍵である。

あなたが自ら天国から出たのか、誰かがあなたを出したのか、どちらか一つが事実である。『騙された』という言い訳は通用しない。騙されたのはあなたであるから、あなたが自ら出たのと同じである。誰かの都合で、その誰かがあなたを天国から追放したのではない。あなたが自ら天国を離れたのである。あなたが、もし、天国を望んでいて、あなた以外のものにその実現を託したり、あなたを邪魔するものとして責任を転嫁したりしているならば、あなたは天国には永遠に戻れない。あなたを天国から追放したのはあなた自身だからである。あなたが自ら戻らなければ、家に帰ることはできない。『誰かのせいで』と言うのは、自分で家出をしておいて、誰かが自分を追い出したと思い込んでいるのと同じである。
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あなたの源は、いわゆる、大神の響きであり、大神とは、万象万物の創造の源である。本当の神には争いは無い。なぜなら、自らの力で、無からすべてを産むことができるからである。絶対無限の力であるから、永遠に作り続けることができる。失うことはありえない。失ったと思うならば、それは、失ったと思いたいがために自らで作るのをやめたというだけの遊びをしているに過ぎない。もし、失ったと本気で思うならば、それは本当の神の響きを忘れている証しである。前者ならば、自らが作ればよいし、後者ならば、自らの違反を清算する必要がある。誰かが誰かを助ける必要はなく、義務もない。無限の創造者は、限りあるものを奪い合う必要は全く無い。自らが、自らを自由にできる唯一の存在である。

あなたは、もともと、神であった。この故に、あなたは、自らが神であると思い込むことができる。自らが自らの力で生きていると思い込むことができる。あなたは、自らの力で生きていると言いながら、誰かにすがり、誰かのせいにしている。誰かの行動によって自分が困る状況になるから、その誰かにそれをやめて欲しいと言う。あなたは、天地の理法に違反した掟を、正しい掟だと勘違いしているから、あなたがその世界の中で正しくあろうとするほど、楽を求めるほど、善を求めるほど、逆に、天国から遠ざかっていることになる。あなたが、今の世の善(いいこと)を行おうとすればするほど、奇麗、安全、安心、快適、便利、癒し、やすらぎを求めるほど、それとは正反対の、あなたが最も避けたいアベコベの体験に自らを誘っていることになる。あなたは天国を壊しているから、天国を作ることはできず、問題解決どころか、問題を生み出す方法しか考えられなくなっている。従って、あなたが天国を求めて進むほど、問題を増やすことになる。そして、その問題を解決しようとして、また、新たな問題を産み出していく。あなたが「問題」を解決すればするほど、実際には、より難しい試験問題を自ら作り出して、解かなければならなくなる。

この試験問題はすべて実技テストであり、実技を行わない限り、問題を解いたことにはならない。最後の試験問題は『魔釣りの響きで真釣りの世界を創れ』という試験問題となる。正解は『自分が消えること』であるから、あなたは採点結果を知ることはできない。魔釣りの響きで生き残りを図っている者は全員、回答不能となり、今のまま問題を解こうとすれば自分がいなくなる。自分が真釣りの世に存在して、採点結果を知るためには、あなたが真釣りの世界を作るためには、真釣りの響きに戻ることしかない。自動車教習所に例えれば、速度無制限のミロクの車(肉体)の運転技術は、ハンドル、アクセルブレーキ、シフトギアまで、まったく逆さまであり、瞬間加速、瞬間停止、空中も海中も地中も自由自在に操れる技術が要求される。車と完全に一体化して事故を起こさない技術を習得しなければ、教習所は卒業できない。検定員への賄賂は通用せず、オマケのハンコももらえない、全員に平等公平な教習である。卒業検定は、全員合格できるが、それまでにクリアすべき教習課程と修了検定の回数は、真釣り外しの度合いによって各自異なる。言わば、完全オーダーメイドの教習課程であり、それがどんなに面倒な、難しいものであっても、それをオーダーしたのは真釣り外したあなたであり、文句を言えば、さらに階段を増やすことになる。最後まで文句を言い続ければ、卒業検定は受けられない。真釣りのミロク(本当の天国)の車(肉体)は、「元つ大神国公安委員会」が発行する免許証(真釣りの真コト)を手にしない限り乗れないが、今の世のどんな極悪人にも、取得資格は平等に与えられている。
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今のあなたは、快適な社会どころか、問題を産み続けてどんどん複雑な社会を進めていっているのである。人類はそれを、文明の進歩、科学の発展と呼び、『複雑なものを生み出せるほど高度な、先進的な文明だ』と言って、人類と呼ばれる「本当の神を知らない物まねの猿」の世界の中で優秀さを勝ち誇って自己陶酔に浸っているが、実際は、天地自然の理法を破り、自然を破壊し続け、混乱と混沌を深めていっているだけである。言うなれば、自らでわざわざ複雑な問題を作り出し、自らの力で解決し(た積もりになっ)て、自らの優秀さに酔いしれる、エゴイストの一人芝居に過ぎない。その猿芝居の正体はと言えば、自らが、「奇麗な」天恵を食べて「汚い」ゴミに変える汚物製造機であることを知らず、「糞尿」を撒き散らしているだけである。自らが撒き散らした糞尿を見て、自らが耐えられないから、形だけは奇麗にするが、根本の響きは何も変わっていない。従って、お芝居が進むに連れて、糞尿が増えるだけで、臭い、汚い世界となる。臭い物には蓋をして、それを誤魔化そうとするが、実際は、どんどん手におえなくなり、処理できない汚物があふれ出て、最後の最後は、自らの糞尿まみれの臭い、醜い本性を現すこととなる。これが、あなたという人間の本体、肉体に入っている魂、形のカバーを外した今のあなたの身魂の姿である。言うなれば、今の神話で言う、「黄泉の国からイザナギを追いかけてきたイザナミの醜い姿」はあなたの本性であり、最後は、表の仮面の下に隠した姿をすべてさらけ出すことになる。

あなたが体験する汚泥混濁は、誰かが撒き散らしたものではなく、あなたがその世界で撒き散らしたものである。糞尿を撒き散らしているならば、あなたは、誰にも文句は言えない。支離滅裂の生き様で私利私欲を追いかけている限り、あなたは、本当の自分と知り合うことはなく、真コトを捨てることになる。自らの正体を知り、それを認めて、自らのすべての過ちを清算し、散らかしたおもちゃの後片付けをしないならば、あなたは、ゴミの山もろ共、魔釣りの焼却場、魔釣りの火葬場で、奇麗に処理されることになる。あなたが自ら処理場に居座り、自ら火葬場の焼き釜に入ったのである。あなたが、自らのケツを拭かないならば、本当の清潔な世界で、本当の快適、安心、安全を謳歌する夢は露と消える。支えを離れて滅びに向かって分裂し、私的な理屈で私的な欲望を追った末路は私滅である。

あなたは、真中に大神の真釣りの響きを持っているから、問題があるのはおかしいと感じる。しかし、自分は正しいと思っているから、現われた問題を自分以外の何かのせいにする。人類の歴史において、時代が進むほど問題が増え、かつ複雑になるのはこのためである。原因は自分以外にあると思っているから、他人を裁き、神を恨む。厄祓いをすれば自分を守れると思う。この故に報復合戦がエスカレートし、裁き合いがどんどん激しくなる。悪霊に憑かれるのも、悪人に騙されるのも、仕組みは同じである。自分の悪神の響きが悪霊を呼び込んでいるのである。本当の原因を直さずに、アヤマ知で作った法律を使った裁判や、魔釣りの霊能力を使った悪霊祓いをして、自分の外にある、自らに害を及ぼす源に見える形を排除して安心している積もりでいる限り、あなたは地獄を進めていく。その結末は、崩壊、滅亡、破滅である。本当の天国を望むならば、最も望んでいるものを作ろうとして、逆に、最も避けたいものを作り出しているという事実に気づかなければならない。
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あなたが、あなた以外の何かを裁くならば、あなたは、大変な過ちを犯していることになる。裁きというのは、あなたが善で、裁く対象が悪である場合に成り立つ。しかし、あなたに善悪があるならば、それは、天地の理法に違反した証拠である。天地の理法に違反すれば、それを教えるために、あなたの外に不都合が現われる。つまり、裁く対象である悪は、あなたの違反ゆえに現われたものである。あなたは、あなたの生んだ悪を裁いていることになり、自分を裁いていることになる。あなたが、外の悪に原因があると言い続けるならば、あなたは、あなた自身を裁き続けなければならない。自分が自分を裁いていることに気づかなければ、最後の被告はあなた自身となり、自らを死刑に処することになる。

あなたが天地の理法に違反していないならば、あなたには不都合はなく、他人を裁く理由は無い。あなたが天地の理法に違反しているならば、あなたには裁く資格はない。今ある法律は、天地の理法に違反した世界を維持するための法律である。従って、法律を使って誰かを裁くならば、あなたは、天地の理法の違反をし続けることになる。確かに、あなたは、その世界では生き延びていて、不快感を解消したことになる。しかし、その結果は、天地の理法に従ってあなた自身にすべて戻ることになり、最後は、天地の理法に違反し続けたあなたという存在が、天国から消えることになる。『他人を裁ける』というのは、取り違いをした世界で教わった思想が作り出す幻想である。価値判断を下し、善悪損得を決め、どちらにするか、という分かつ知を使った見方を捨てること、言い換えれば、自分の思いと口と行いを一致させること、そして、その結果体験すること一切を自分以外のせいにしないことが、そのことが、あなたの深奥に封印された真実、本当の天国の響きである真コトを復活する唯一の方法である。自分の思いや行動も含めて、『許さない』『認めない』という思い、「裁く心」を綺麗サッパリ捨てなければ、あなたは、自分を殺すことになる。

本来は、天地の理法に違反すれば、あなたはその場で消えることになり、今ここにあなたが存在することはできない。あなたが今ここに存在できるのは、一度だけ天国に戻る機会を得ているからである。あなたが、自らの意志で、自分が違反していることに気づかなければ、本当の天国に戻ることはできない。自らを善の存在であると思い込んでいる者に、それが誤りであることを教えるにはどうすればよいか。苦の響きが返るように仕組みを作ればよいのである。あなたは、自らを正しいと思い込んでいるから、あなたに快感を与えると、あなたは正しいと思い続けることになる。従って、あなたに不都合を渡すことで、あなたは違反の事実に気づくことができる。あなたは、もともと、不都合がない存在であり、苦が現われれば、おかしいと思うからである。しかし、苦があるのが当たり前であると思い込んでしまえば、情けの苦を避け続けることになる。「目には目を」「愛のムチ」というのは、他人が他人を正すと勘違いした解釈である。自分が自分のしたことを正す、のであるから、他人が他人を裁くことはありえない。真釣りの者は裁く必要がない。裁判という制度は、この取り違いを公然とシステム化したものである。あなたは、真中に天国の響きを持っていることを思い出さなければならない。天国の響きを持つ者に、苦があるのはおかしい。その苦は自らが作り出したものである。苦を自分以外のせいにするならば、それは、全く逆さまの思い違いである。天国を壊した者が、苦を避けて天国に戻ろうとしても、それは叶わない。天国を作ったつもりが、自らの滅びを呼び込んでいることになる。
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苦が現れた時、あなたがどう反応するか、が鍵である。自らが違反したことを認めるならば、他人を裁くことも、不平不満を口にすることもできない。その苦は、あなたの違反の結果だからである。もし、あなたがあなた以外のものを裁くならば、あなたの苦はどんどん増えることになる。一つ残らず自らが呼び込んだ苦であることを認めない限り、あなたは、どんどん滅びの道を駆け降りることになる。都合のよいことだけに当てはめるようないい加減は、一切通用しない。「すべて」と言ったら「すべて」である。自らの理屈で、何とか苦を避けた積もりでも、その結果は、必ず、更なる苦となって戻ってくる。強制はないが、いい加減なことをすれば、最後は残念では済まなくなるから、よくよく考えて、どうするかを決めることである。もし強制だと感じるならば、それは、他ならぬ、違反をした自分が自分に課した強制である。一言違わず確実に実行しなければ、自分だけが滅ぶことになる。他人は誤魔化せても、自分は誤魔化せない。自分を誤魔化せば、自分が滅ぶ。

あなたは、今まで、あなたを天国に戻すための鏡として渡された苦を逆恨みしていたのである。自分に原因があるものを、自分以外に原因を転嫁すれば、それは、自滅の道を意味する。本来は、この世に苦は存在しない。しかし、天地の理法に違反した者には、苦の形でお知らせが来る。『苦があるのがおかしい』のであるから、無いはずの苦を他人に渡すのは変である。他人に渡すならば、あなたは違反の事実を認めていないことになり、ますますお知らせが厳しくなる。自業自得であるから、天地の理法に違反した者は、本来は、存在できない。自業自得であるから、あなたは自然淘汰となり、自ら滅ぶ。あなたに苦を渡すのは、あなたを苦しめるためではない。あなたを天国に戻すためである。本来は、誰もあなたを助ける義務はないが、違反した者に一度だけ再生の機会を与えるため、違反した選択をする度に、苦をもって知らせる「情けと花の仕組み」が作られた。死刑の執行猶予、敗者復活の機会が一度だけ許されたのである。苦は違反者への制裁ではなく、違反者を生かすための「情け」である。情けを逆恨みすれば、本当に情けない状況に陥ることになる。
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天地の理法に違反したことを忘れた集団は、勘違いをして、自らが神の如く振る舞い、全く同じように見える仕組みを作った。制裁、報復、裁き、を与える仕組みを進めてきたのである。『罪を犯した者は償わなければならない』と言うが、それは罪を犯した者同士の罪の擦り合いに過ぎない。天地の理法の違反は、違反をした本人だけがその結果を追う。誰かが誰かの罪を負うことはない。誰かのために清算するのでも、誰かに清算させるのでもない。違反した自らが自らのために清算するのである。しなければ、自らが滅ぶだけである。従って、『謝罪を要求する』という行動はありえない。全員が、自らが犯した罪を自らが背負わなければならない定めであるところを、他人に背負わせ続けたのが人類の歴史である。その歴史を正しいと言うならば、あなたは、あなた自身を永遠に殺すことになる。

天地の理法の違反の清算の機会は万古末代一度きりである。俗に言う魂としての違反の清算である。魂の死は永遠の死を意味する。肉体の罪の清算で右往左往していては、自らの本当の命の種火を消すことになる。種火が消えれば、あなたは永遠にすべての世界から消え去ることになる。あなた自身が違反を清算しない限り、あなたの生き戻るところは無い。

あなたが今までしてきた違反は、消せない。あなたが今すべきことは、自分が苦を体験している事実を認めることである。あなたには違反した覚えがなくとも、苦があるのが、違反の証しである。それを素直に認めて、責任転嫁を一切やめ、不平不満を一切口にせず、その結果生じる、苦労を辛抱することである。弱音を吐いたり、言い訳をしたり、誤魔化したり、八つ当たりをしたり、他人を責めたり、神や社会のせいにしたり、あるいは自殺をして逃げようとしたり、神や仏に救いを求めたりしても、何の解決にもならない。それどころか、すればするほど違反を積み重ねることになり、結局は今以上の辛抱をしなければならなくなる。あなた自身の苦を自ら増やしていくだけであり、その結果として、あなたがあなたの首を刎ねる末路に至る。苦を避ければ避けるほど、苦のスパイラルが進む。

あなたが天地の理法の違反を続けるならば、あなたは魔釣りの蛇の知恵の神の信者(真釣りのヒノモトに現われたオウム信者)であり、真コトの竜の真釣りの政府(真コトのヒノモト国家)に反抗する国家転覆を企むテロリストとなる。自然界の掟、インディアンの掟、マフィアの掟は厳しい。掟を守ることは、生存のための絶対条件である。家族も他人も区別なく情状酌量もない。掟に反する者は問答無用の切り捨て御免である。自分に甘い者ほど往生際が悪い。アタマで生きている者ほど、甘い砂糖の誘惑に弱い。脳はブドウ糖をエネルギーとする。砂糖は甘く、ベトベトとくっ付く。煮詰めると、固い飴になる。砂糖を取り過ぎると糖尿病になる。アタマで生きると、最後は、目が見えなくなって、命を落す。この世の型示しは、すべてが元つ大神の真釣りの仕組みの反映である。病気を治すことや、物の性質を研究することに血眼になっていると、大出血して死に至る。あなたの本当の死がやってくる。あなたの本体(魂、真コト)の死は、二度と生まれることができない、永遠の死を意味する。真釣りの掟を破った者は、万古末代滅びの響きを渡されることになる。掟を破った者は、命乞いなどしても何の役にも立たない。自分が掟を守っていれば、何の不都合もなく、責任をとる状況にはならない。掟を破った自らの態度を棚に上げて、命乞いや言い訳や逃げる算段ばかりをするならば、始めから掟を守っていればよかったのである。掟を守るのが当たり前であり、言い訳は茶番である。掟を破れば世を乱すことになるから、掟を破った自分がキッチリと落とし前をつけるのは当然の義務である。
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魔釣りの世では、世界に貢献しても、支配者の都合で邪魔になれば抹殺されることがあるが、真釣りに関しては、あなたが掟を守っている限り、絶対に抹殺されることはない。『本当にそうなのか?』と疑うのは自由だが、あなたがその疑いを持って見ているならば、魔釣りの世に漬かっている証しである。真釣りは、自分の都合で抹殺する必要はない。外国は銃殺刑だが、日本は自己責任の腹切りである。これは取り違いをしたゆえの型示しだが、その真意は、真釣りの神法違反は処刑されることはなく、全員が、穢れたハラを真コトの神剣で切って、自らで滅ぶのが真釣りの掟だということである。しかし、時節が来れば、世を真釣りに戻すから、問答無用の切り捨てとなる。それは、一度だけ与えられた改心の機会を自ら棒に振って、いい加減に生きてきた自らが招く結末である。形は処刑に見えるが、自らの違反によって違反を自覚することなく自ら滅ぶということであり、結局は、切腹なのである。テロリストは抹殺されても文句は言えないのが世の定説である。真釣りの神法に従えば、今のあなたは抹殺される(魂の切腹をする)運命にある。それは、掟を破ったあなた自身の招いた結果であるから、掟破りのあなたには文句を言う資格は一切ない。

今のあなたは、元つ天の真コトを封印して、元つミロクの天国を破壊した世界を善だと主張している。蛇は頭を潰さなければ死なない。自らを滅ぼす蛇の封印を自ら解いて、快欲を追いかけて、自分勝手に蛇の知で生きているならば、最後は、あなた自らで頭を潰して、自己責任をとって滅ぶ結末が待っている。邪を祓い、真コトをタテ分ける神剣「草薙の剣(真コト)」は、両刃の剣である。あなたを救う剣であると同時に、あなたを滅ぼす剣でもある。あなたが剣の使い方(マコト)をマ違えば、自らで自らの斬首を招く結果となる。

現代社会と言われている世界は、天地の理法に違反した世界であることに気づかねばならない。自由、平等、博愛、平和、天国なる言葉は、現代社会にある、どんな思想でも実現することはできない。「他人のため」と言う思想は存在しない。それは、誤魔化しである。実際は、他人が喜ぶのを見て自分が喜びたいのである。他人を助けることで、自分の闇を解消することが目的である。どんな理屈を持ち出そうとも、この事実を誤魔化すことはできない。これは事実であるから、怒ったり、否定したりしても、自らの首を締めるだけである。自分が何かをする動機は、自分のためである。自分の行動の結果は、最終的には自分の体験となる。自分が何かを体験することが、自分の行動の目的である。『他人のために』と言うのは、『自分だけのために』を隠すためのカモフラージュである。自分が自分に騙されていることに気づかなければ、永遠に、他人のために生きることになる。しかし、それは、「他人のため」にはならない。自分のための他人のためであり、自分のために他人を利用する行為である。「他人のため」は「自分だけのため」を美化する偽りの仮面である。
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すべては自らが源であり、天地の理法を守っている者には、不都合は存在しない。従って、被害者や、困っている者が存在すること自体がおかしい。全員が、自業自得である。違反をしていない者は、困ることはありえない。すなわち、困っている者を助けたいと思う者も、困っている自分を助けて欲しいと思う者も、自らの違反を他人に転嫁しているのである。つまり、自らが自らを困らせて、その結果を他人に負わせているのである。このゲームの結末は、共食いをしながら、最後には、誰も残ることはない「破滅」である。あなたが、泣こうが、わめこうが、誰かに罪を着せようが、神を恨もうが、誰かを殺そうが、今この世でどう教わっていようが、助けることも、助けてもらうことも不可能なのである。

形の助け合いは、もたれあいであり、実際は、何も助けになってはいない。自らの違反の清算を回避しているだけで、結局は、自らがもっと困ることになり、あれこれと逃げる算段を画策しても、最後は、全員が自分自身の違反の清算をすることになるから、誰も助けてはくれない。自分が自分を助けることができなければ、天地の掟通りに、違反した者は自ら消える運命となる。天地の掟に例外はない。誰も逃げられない。神も、仏も、鬼も、悪魔も、王も、聖者も、庶民も、裁判官も、泥棒も、万象万物、天地の理法に違反したものは、すべて滅ぶのが定めである。あなたが本当の自己責任を取らなければ、自滅である。

あなたのことをすべて知っているのは、あなただけである。あなたの見たもの、聞いたこと、教えられたこと、感情、感じたこと、行動の結果、知りたいこと、聞きたいこと、不安、悩み、欲しいもの、あなたの体験する世界のすべてのデーターを完全に把握しているのは、あなた自身だけである。あなたのすべての体験を知っているのは、あなただけである。あなたの目で見る景色、想像、寝ている時の夢、感情、体の感覚、希望、恐れ、すべての映像を連続して見ることができるのは、すべてを知っているのは、あなただけである。

あなた以外に誰もあなたの選択を左右することはできない。あなたが同意しない限り、あなたを動かすことはできない。あなたが誰かに選択を委ねる時、その誰かに自分の現実を左右させることになる。誰かがあなたに何かをさせたのではない。誰かがそうするように仕向けたのは、あなた自身である。自らで自らの人生の責任を放棄して、自分は何も考えずに、神仏や他人におんぶする。誰かに自らの選択を委ねて楽をし、自らの思い通りにならなければ、その誰かに文句を言う。言うなれば、誰かに自らの現実を壊させておいて、『責任を取れ』と言うような、そんな自分勝手なゲームをしてきたその結果は、永遠の死として戻ることになる。『やられた』『された』『被害を受けた』『何の罪も無い』と言うならば、天地の理法に違反しておいて、平然と、自分は善人だと主張していることになる。あなたは、天地の理法に違反した善悪に基づいて、物事を処理していることになる。自ら創った罪を誰かに着せていることになる。自ら創った苦を避けようと、責任を転嫁していることになる。自分の正しさを証明しようとしても、永遠に証明することはできない。相手の側も『自分が正しい』と思っていれば、際限の無い禅問答、報復合戦になる。できることは、ただ事実を述べることだけである。その後の選択は相手のものであり、あなたには責任は無い。あなたが『わかってもらわないと困る』と思うならば、あなたの正しさは相対的なものである。『正しいとわかってもらいたい』と思っても、それは絶対に不可能である。
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取り違いをした人類のすべての責任転嫁を黙って引き受けていた存在、それが元つ大神であり、この世で言えば、正神真神のカムスサナルノオオカミ様である。その大神が本当の救世主であるが、あなたが魔釣りで生きているならば、大神は悪魔の首領(すべての鬼の大親分)となる。自らが転嫁した責任をすべて引き取るか取らないかで、救世主となるか、鬼のドンとなるかが決まる。大神は真釣りの響きそのものであり、神や仏も含めた三千世界を真釣りに戻す、生死時空を超えた神であるから、今のあなたは逃げることも隠れることもできない。あなたが助かる唯一の術は、魔釣りの世で助かろうとしないことである。

あなたが何も恐れていないならば、あなたは何も強いられることはない。あなたの持っている恐れが、あなたを強いているのである。あなたには、死はない。あなたが死を恐れているならば、それは勘違いに基づく幻想である。自らが作った死を自らが恐れる独り芝居である。あなたがあなたを守るために誰かを殺そうと考えたなら、それは、正当防衛でも何でもなく、れっきとした、自分勝手な殺人である。勝手な幻想を作り、それを理由に、自分以外の命を奪おうと画策している悪魔である。天国に戻るのに、自己犠牲も、他己犠牲も必要ない。自らが違反したのであるから、自らのしたことを償うのは、自らのためである。本来は、「犠牲」という概念はない。もしあるなら、誰かが誰かの意思を無視していつでも命を奪えることになる。形で見れば、「死」を犠牲と言うこともできる。しかし、魂は生き通しであるから、本当の命は無くならない。自己犠牲は美しいというのはアヤマ知である。違反の清算に関しては自己も他人も犠牲にはならない。自らの違反の結果、善悪損得の目で見たら、形が損に見え、苦と感じるだけである。奪って楽した分を返すために苦となるのであるから、差し引き0である。自分が自分を犠牲にした結果の独演会である。

自己犠牲は美しく、利己主義は醜いのではない。天地の理法に従うならば、自分のためにすべてを為すことで、自動的に、他人のため、世のためになるのである。わざわざ、『他人のため』『社会のため』『人の役に立ちたい』と言うのは、他人のため、社会のため、というマヤカシに騙されているのである。自分が苦労せずに楽を得ようとしている者が仕組んだ巧妙な策略である。あなたが同じことを考えているならば、それを使うことになる。あなたに都合がいいからである。善悪のある世界では、自分のためは利己主義、他人のためは自己犠牲、という表現になる。しかし、実際は、どちらも自分のためである。従って、自分のためだけ考えるな、と言えば、他人のために考える必要もないことになる。『他人の気持ちを考えろ』は、依存の世界だけで有効な脅し、相手を殺す言論兵器である。他人のためにもなるが自分のためにもなるのではなく、すべて自分のためにしていることである。
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あなたが誰かに期待する時、あなたは誰かに支配されていることになる。あなたは、誰かの世界を食べて暮らしている。あなたは、誰かの世界を生きていることになる。あなたは、その誰かがいなければ困るのである。あなたが期待しなければ、裏切られることはありえない。あなたの持っている期待が、あなたが感じている「裏切られる体験」の原因である。あなたが期待したことがその裏切りの原因である。天地の掟に従っているならば、「期待」という言葉は存在しない。あなたは思いのままに天国を体験できるからである。期待を満たしてもらおうと思っているならば、それは不可能なことである。あなたがあなたの期待を裏切っているのである。あなたが自らを殺した結果、あなたが自らで他人の奴隷となっているのにもかかわらず、『自由をよこせ』と主張している。辻褄の合わない戯言である。

誰かの期待を満たしてあげようとしても、それは無理である。それをするならば、あなたは、その誰かの奴隷になってしまう。あなたは自ら誰かの人形になる人生を選ぶことになる。誰かの期待を満たすことであなたが満足ならば、それは、誰かの期待を満たしたいという自分の選んだ道であるから、好きにすればよい。しかし、誰かを完全に満足させられないならば、あなたはその誰かの奴隷からは解放されない。『人を困らせてもいいのか』『期待してるぞ』『期待を裏切らないで欲しい』は、期待を満たせば喜び、裏切れば非難する、自分でできないくせに他人にアレコレさせて楽をしようとする、自らの喜びを他人から奪って得ようとしている者の自分勝手な支配言葉であり、あなたがそれに答えようと頑張ったとしても、あなたが疲れるだけである。社会の期待、家族の期待も同じことであり、誰かが誰かの期待を満たすゲームでは、全員がストレスの塊になってしまう。いつか誰かが何とかしてくれる、と勝手に期待したとしても、その期待は満たされない。あなたの完全なる期待を満たせるのは自分だけであり、自分自身が自由になれば、期待は裏切られない。

あなたが持っている思想、常識、習慣は、すべて、あなたが選択したものである。あなたが、あなたに都合のよいものだけを集め、実践を通して訓練し、癖になるまでに見事に完成したのである。自己選択の自動操縦である。あなたは、おかしいと気づいても修正できないほど、どっぷりと漬かっている。間違っているとわかってもやめられない麻薬中毒患者と化しているのである。自らに都合がよい快楽を得るために、脈絡無く右往左往している、酔っ払いである。あなたは、都合のよい眼鏡をかけている事さえ忘れ去っていて、自分の不都合がなぜなくならないのかが全くわからなくなってしまったのである。眼鏡をかけている事に気づかなければ眼鏡を外す事はできず、永遠に真実を見ることはできない。
P72
眼鏡を外して真実を見て、その生き様を自動操縦になるまで訓練すれば、あなたは本当に楽になることができる。抵抗には力がいるが、自然には力はいらない。あなたが真コトの道に乗れば、癖を直す始めの内は苦しいが、慣れてくればくるほど楽に物事が進むようになり、迷いは消えていき、あなた自身の天国の一本道を道草をしながら散歩できるようになる。そして、真釣りのミロクになるまでゆっくりとお茶を飲みながら、魔釣りの奇(危)劇の結末まで過ごし、真釣りのミロクが開いたら、本当の天国を自由に楽しめばよい。その時が来るまで、真釣り戻しながら、最後の晩餐までの時間を遊んでいればよいのである。真釣り戻しは各自のすることであり、他人の苦しみ悲しみを引き受けることはない。あなたが真釣り戻しの苦労を終えたなら、もう魔釣りの罠にはまることはありえない。

あなたは、いつでも、どこでも、すべてを拒否することができる。すべてに同意することができる。あなたがあなたへの自己責任を完全にとっているならば、迷うことはありえない。あなたが苦を避け、損を避けている限り、迷いから抜け出ることはできない。あなたはアメとムチの世界で右往左往することになり、混乱の中で、全く動けなくなる。自分で考えることができなくなり、誰かの言うことに流され、行き着いた先が自分の望みと違っても、自分で直すことはできないから、その誰かを責める事で、不快を解消することになる。しかし、それをしても何の解決にもならず、ますます、ロボット化していくだけである。あなたが本当に自由になりたいなら、自分で自分の責任をとることである。他人の責任を負わず、自分の責任は着せない。この、矛盾のない態度を貫き通すことが肝要である。

あなたが感じる痛みはあなただけの痛みであり、あなたが誰かの痛みそのものを感じることはできない。誰かにあなたの痛みそのものを感じさせることもできない。あなた以外の誰かが、あなたの痛みを感じたと言ったならば、それはその誰かの作り出した痛みである。あなた自身をすべて知っているならば、それは、あなた自身であり、他人という存在はありえない。他人を認識できるならば、その他人にはあなたのすべてはわからない。「すべか、ゼロか」である。「一部」はありえない。「一部、少し」は、分離した目である。本来、不可分のものをバラバラに見ていることになる。もともと、すべてが一つの音色でなければ、一つにすることはできない。バラバラなものとして、部品の集合として、バラバラにできると言うならば、あなたは、いつでもバラバラになる。すべての有機的結合が一つでも壊れれば、それは、崩壊を意味する。体のはたらきの様子を考えてみて欲しい。一糸乱れぬはたらきがあって、生存が保証される。わずかでも狂いが生じれば、不具合が生じ、結局、再起不能となる。素粒子の世界も、体も、機械も、社会も、国も、宇宙も、あの世とこの世も、すべて、同じメカニズムである。体の各部が主権を主張して、主権争いを続ければ、世界は破滅に向かう。命がいくつあっても足りない。今世の、世界の有様である。
P73
誰かの気持ちをわかることはありえない。その気持ちは、言葉で表現された誰かの状況をあなたの体験と比較して導き出した、あなた自身の気持ちである。誰かの気持ちだと思っているのは、あなたである。言葉のイメージが全く同じでなければ、同じ気持ちはありえない。全く同じならば、それはあなたを意味する。あなたがあなたを騙していることになる。あなたがあなたを騙している時、あなたは誰かの泣き落としに引っかかることになる。

あなたの問いに正解を出せる者は、あなたの他に誰もいない。あなた以外の誰かの言うことは、それが常識、普偏、真理だと教わったものであっても、あなたがそれに同意するかどうかは、あなたが決めることである。あなたの周りにあるものを選択するかしないかは、すべてあなたに主導権がある。あなたが『自分にとってどうか』という基準で選択すればよいだけである。あなたがそれを真実であると思えば、それがあなたの答えである。たとえあなた以外の全員が間違いだと言おうとも、あなたはそれを正しいと言うこともできる。あなたが、あなた以外のすべての存在にアンケートを取れないならば、あなたはどうやって真実を見分けるのか。あなたが本当に真実だと思ったものが真実である。他人に訊こうとしたり、真実かどうかと疑ったりしているならば、あなたは騙されるかも知れない。

『現代社会は、誰かにとって都合がよい真実を選択した結果、なんと、殺し合いをしている。これは、自分の都合で誰かを殺すことになっても罪悪感を感じる必要はないということを示している。自分にとって都合がよい真実が殺し合いをもたらすものでもよいのだ。』これは皮肉であるが、あなたの真実を選択した結果、誰かに不都合が生じるとしても、それはその誰かが取り組むべき課題である。あなたがその不都合を肩代わりしてあげることはできない。これは「社会問題」にもあてはまる。あなたがあなたの本当の真実を生き続ければ、その不都合は解消される時がくる。それを何とかしようとすれば、元の堂々巡りの世界に戻ってしまう。あなたは、あなたの生き様を正すことだけに専念していればよい。

あなたが『いいのかどうか』と思う時、その答えはすでにあなたが持っている。その問いを誰かに投げかける時、それは、あなたの答えを、あなた自身が信頼していない時である。その時のあなたが信頼しているのは、あなたを教育した、あなた以外の誰かである。あなたは、その誰かの奴隷になっている。その誰かの言う通りに行動したら、その結果がいかなるものであろうとも、それは、あなたがあなたを信頼しなかった結果である。あなたは、誰のせいにもできない。あなたが誰かや何かのせいにする時、あなたはあなた自身への責任を放棄している。結局、誰のせいにもできない。自分が責任を取るならば、あなたはどんなものでも選択することができる。あなたを不自由にしているのはあなた自身である。
P74
あなたが何かを守っている時、あなたは安全な場所を探す。許可を求めてさまよう。あなたが、誰かに許可を求めるなら、あなたには永遠の自由は絶対にやってこない。あなたが許可を求めると、その許可を与えてくれる者がいる世界の住人となる。あなたは、そこで、安全を確保したつもりになっている。しかし、その世界が永遠無限の天国でなければ、あなたの安全は保障されない。永遠の天国ならば、安全のみであるから、天国に安全という言葉はない。それを探したり使ったりするならば、あなたは天国にはいない。絶対安全な場所に自らを誘導できるのは、あなただけである。たとえ、その途中でどんな体験をしようと、何を見ようと、あなたがあなたの道を完全に信用すれば、絶対に安全が保障されている。ただし、本当の天国は、生死時空を超えた世界であり、絶対の安全が保障される条件は『一切の条件を外せるならば』という条件のみである。つまり、すべての条件を綺麗サッパリ撤廃しない限り、絶対安全な天国への道は閉じる。天国は絶対無限の安全な、自由な世界であり、心配も不安も存在できない。心配がすべてなくなった世界を天国と言う。誰も何も、自らの意志なくして、崩壊はありえない。つまり、崩壊するのは自らの意志以外のものは何も無く、従って、あなたが滅ぶのはあなた自身の意志である。誰かに助けられることはありえない。誰かが滅ぶのはその誰か自身の意志である。あなたが助けることはできない。あなた自身が、自ら犯したマ違いを認めない限り、本当の天国には戻れない。あなたが天国の響きに鳴らない限り、その型示し(現われ)である天国は体験できない。

あなたは誰に許可を求めているのか。あなたは、誰の奴隷になりたいのか。あなたは、許可を与えてくれる誰かのロボットである。しかし、ロボットになることを選んだのは、あなたであり、一切の反抗は許されない。反抗するならば、矛盾したあなたは、自分の都合で法を変える、独裁者と同じである。違反がないならば、あなたはロボットになる必要は無い。天国の奴隷になれば、解放されるのである。天国の奴隷とは完全自由と同義である。

あなたは誰に命令しているのか。あなたは、誰を奴隷にしたいのか。あなたが誰かを支配しようとしているならば、あなたはその誰かに支配されることになる。あなたが支配できるのはあなた自身だけである。あなたが誰かを支配しなければ生きられないならば、あなたは、永遠の勢力争いの中にいることになる。あなたはあなたが支配する者が反抗しないように画策する努力が必要となる。主導権はいつでもひっくり返る。あなたがあなた以外のものに依存する時、あなたはあなたが依存する対象の奴隷となる。あなたが頼っているものがあなた以外のものであるならば、あなたの望みとは関係なく、あなたの自由はいつも奪われる。奪われる自由は奪ったものである。従って、自由の奪い合いで獲得した自由は、本当の自由ではない。本当の自由は今ここにある。あなたが本当に目を覚ませばよいだけである。あなたの闇はあなたが生んだ闇である。消せるのは生んだ本人だけである。
P75
あなたの王は、あなた自身である。あなたが自由になりたいなら、本当の王に絶対忠誠を誓うことである。あなたがあなたの完全な独裁者になれば、何者にもあなた自身の帝国を侵略されることはない。時空を超えた、絶対天国は、誰も邪魔できない。邪魔をする者がいない世界を天国というのである。天国を邪魔する者は、天国には存在できない。天国を破壊する者は、自分を破壊する。つまり、幻の天国の破壊を自らに許せば、本当の天国ができるのである。本当の天国を破壊した者は消える。自らが、本当の天国を邪魔する自らを滅ぼせば、天国が実現する。自分と自分の戦いに終止符を打つことが、戦いのない天国を実現する唯一の方法である。自分に抵抗する自分を黙らせることである。自分に抵抗する、アヤマ知で曇った自分を無視し、雲の中に飛び込んでいく冒険を始めることである。

本当の天国に帰りたいならば、まずは、自分の内に天国を創ることである。その天国の通りに行動すれば、言い換えれば、自分の想像、設計図に従って、文句も弱音も言い訳も不平不満も一切言わずに、苦を辛抱して歩き続ければ、苦はどんどん消え去って、現実が思いのままについてくる。そして、必ず、天国の体験が現実となる時がやってくる。アヤマ知をどんどん捨てれば、今も存在し続けている天国、アヤマ知の雲で隠していた、残る天国が現われてくる。アヤマ知では支配できないのが本当の天国であり、永遠の天国には過ちは存在不能となる。『本当にそうなのか』『もし違ったらどうするのだ』その台詞を持っている限り、あなたはこの世界に歩を進めることはできない。今のあなたの現実がどうなっているか見て欲しい。本当の天国は、あなたの後ろにある。あなたの裏にある。逆さまの生き様を逆さまにすれば、それが、正立、本当に大地に足をつけた生き様である。あなたは、今、目隠しをつけている。あなたを導く者も、目隠しをしている。あなたは、誰を信頼しているのか。誰についていっているのか。あなたはどこをさまよっているのか。本当に天国へ向かっているのか。あなたが目を覚まさなければ、今自分がいる場所の実像を見ることはできない。自分が自分にしている目隠しを外すことが天国を見る唯一つの方法である。盲目の者が導くところは闇である。目を開けた者だけが、本当の天国に辿り着く。

この本は、あなたがすべての目隠しを外した時に見える景色を紹介した旅行ガイドである。
posted by 長谷章宏 at 20:27| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 事実その2

事実 その2(P76〜182)

P76
政治は、政事(まつりごと)である。真釣り、魔釣り、祀り、祭り。元々は、真釣りを基とする神政である。為政者が魔釣りの「アヤマ知」に基づいた政治を行って世を支配しようとしても、世界を正しく導くことはできない。根底に真釣りの響きを持つ世界は、自らで自らを統治できる者(独裁者=独りで自ら裁量できる者)が構成する神の世界であり、支配思想を持つ者は存在できないから、世界支配を企む黒幕はいない。誰もが自分という国を平和に治め、国同士が平和に交わるから、世界全体が平和で自由な天国となる。各自が自由に振舞っても世は乱れないから、外圧を使って統制(支配)する必要は生じない。

現代社会が目指している天国というのは、実際は真釣りの天国であり、逆さまの魔釣りのままで世を進めても、天国は絶対に創れない。魔釣りを真釣りに戻さない限り、目指す天国が実現しないどころか、一番避けたい現実(人類滅亡)が実現することになる。全く逆さまのやり方で何を画策しようとも、神仏も含めて、為政者も市民も、誰も天国は体験できない。真釣りに戻した者には、滅亡という現実は存在せず、本当の天国が現実となる。ただし、真釣りに戻すためには、魔釣りの世で身につけたすべてのアヤマ知を捨て去らなければならない。それを怖がっていれば、魔釣りの為政者の世界に逆戻りとなり、魔釣りの消滅と共に自らの滅亡が現実となる。真釣りの天国は、生死時空を超えた世界であり、現代社会の制度を形だけでどんなにいじくり回そうとも、絶対に実現しない世界である。天国を体験したければ、一人一人が、自分という為政者の根本を真釣りに戻すことである。

政は、正父、と書く。正しい父(正しい火)のハタラキで治めなければ、世は乱れる。魔釣りの政は、正と攵、つまり、正を切り離して×を足場にした傾いた人(=獣)が治める世である。世は乱れるから、アメとムチで治めなければ、収拾がつかない。法律を使った外圧が必要になる。しかし、その混乱の源は、魔釣りの蛇の分かつ知であり、為政者が獣の響きである限り、本当の天国は永遠にできない。従って、獣の世で天国を創ろうとすればするほど混乱することになる。その構成員は、自ら考えることができず、欲望だけを追い求めて、略奪の世界での生き残り(自らの保身)だけを考える「獣」の響きであるから、混乱は収拾できず、世は乱れ放題となる。たとえ、その世の宗教の祀りで国を治めようとしたとしても、その宗教の源は自らが世を支配したい神(魔釣りの知恵の火の神)であるから、結局は同じことである。いくらお祭りをやっても五穀豊穣、国家安泰はありえない。一人一人が自らの身魂の行いを精査し、真釣りで魔釣りの響きを潔斎して「人」と成り、雲一つない晴れ渡った心、静かで清らかな澄み切った本当の誠心に戻ることが世の立て直しの礎となる。正神の精神で聖なる政事が為されれば、永遠の生を謳歌できる天国が続く。
P77
信教の自由、思想・信条の自由、言論の自由が日本国憲法に保障されている。この場合の自由とは、『日本国憲法に基づく「日本国」という国家を存続させる限りにおいて』という条件付きである。どんな思想を持とうと、どんな宗教を崇拝しようと、個人レベルでとどまっている分には問題視されず、国家の監視対象にはならない。獣は自らのテリトリーを侵されるとなると攻撃する。自らの生存に危機を感じれば、危険分子とみなす。日本国の社会システムの根幹を揺るがす思想や宗教については、監視、弾圧の対象となる。多数の国民を扇動して混乱を増幅させるような場合や、国家の転覆を図る可能性のある集団については、即、公安警察が動くことになる。治安維持法や特高警察はなくなったが、その精神は裏の世界で生き続けている。日本国憲法では、言論の自由、表現の自由、思想・信条の自由、信教の自由等々の自由を規定しているが、実際には自由などない。利権の奪い合いと保身の指導者層がいる限り、国家の干渉を排除することはできない。各人が、自分の勝手な意見をぶつけ合って議論しても、妥協案は出るかもしれないが、誰も満足する結論など出るはずもない。議論している双方が二極分裂の響きであり、議論している限りは、主導権争いの中である。ディベートというのは、論理戦争であり、どちらが正しいかではなく、『どちらが相手をやり込められるか』のゲームである。裁判もしかり、両論併記というのは、戦いの世界で時間切れになった拮抗した議論をその場だけで取り繕う逃げ道に過ぎない。二極分裂の戦いの自己保身の響きの世界が一つにまとまることはありえない。

民主主義社会というのは、表向きは主権は民衆にあり、政治に参加できることになっている。しかし、人類史は、神世、神政、神制、王政、王制、独裁制等々、殆どの時間は、誰か一人に権力が集まる仕組みで進んできた。宗教勢力と政治家が合体したり、権力闘争をしたりの繰り返しである。人類の歴史は、サルから始まったと言うが、ケモノの群れにはリーダーが必要である。羊の群れには羊飼い(神)、狼の群れにはボス、飼い犬には主人がいなければ統率がとれない。バラバラの思想の人間が集まって好き放題に社会を進めれば、混乱は必然である。民主主義、特に、議会民主制というのは、人類史の政治制度の変遷の最後に位置する最も統制がとれない仕組みなのである。米国、フランス、ロシアは大統領制であり、英国は女王を元首とする二大政党制、ドイツ、イタリアは大統領と首相が存在する。民主社会であるように見える西欧諸国は、王室の存在する国が多い。アジアも、王室を持つ国、政教一致の国が多い。翻って、今の日本国はと言えば、天皇という名のエンペラーは象徴化され、神道儀式は行うが、表の世の国事行為は政府の追認の仕事や名誉職であり、金と科学が国の支えである現在では、精神的な支えとしての役割もないに等しい。

近代以降の日本の制度は、すべて外国の輸入であり、形だけは真似をするが、中心の柱はなく、中身も伴っていない。右派と中道と左派が離合集散を繰り返し、思想的に見れば、支離滅裂の政治家集団が日本国を運営している。王室にあたる支えもなく、大統領も存在せず、政党と利権集団に左右される首相が率いる何とも頼りない国なのである。一説によれば、日本国の国家元首は英国女王であり、大統領は米国大統領、そして、日本国は米国日本州である。世界には、豪州のように、他国(元の宗主国である英国)の女王を国家元首にしている国もある。政権奪取しか頭になく、政治理念や国家像は国民(=票=政治生命の基)の顔色や「国際社会」という世間体を見てコロコロ変え、左も右も大差なく、勢力を拡大できるとなれば、自らの金ズル集団に都合がよい思想に鞍替えすることも躊躇せず、矛盾を指摘されれば、ノラリクラリとはぐらかす政治家。かたや国民は、自らの快楽の追及に忙しく、学校という科学教の教会は文部科学省なる総本山に管理され、政治や国際問題といった「難しい」分からない研究は学者にまかせ、現世利益欲しさに神や仏を拝み、先祖供養なる「祟りを避けるための偽の感謝儀式」はするが、本物の宗教的な柱はなく、自らの欲望を満たす信仰を宗教と勘違いしている。不平不満は言うが自らで考えることはせず、責任は取らない。自ら責任を取らず『誰かに言われたからやる(世間の流れ、時代の流れ、国際社会の常識だから、日本だけ勝手はできない)』という詭弁を労して失敗を担保するしたたかさ。その世間や国際社会が本当に自由や平和や天国に向かっているのなら別によいのだが、もし、その逆だとしたら、「外圧」がなければ動かない政府が率いる日本国の未来にいったい何が待っているのか。今、世界で起きている出来事は、現代社会がどんな世界に向かっていることを示しているのかを、曇ったマナコを見開いてしっかりと見て欲しい。
P78
国際社会に参画したいならば、経済や福祉や英語やIT技術云々の形だけではなく、構成国の精神的支柱、文化の思想的背景、国民の思想的行動特性を知らなければ、真の外交、交流はできない。結局は、思想、宗教の統制が国家運営の基本であり、世界を支配する勢力からみれば、科学と経済一辺倒の日本は、金を出させるには都合がよい銀行としての価値しかなく、霊的去勢された、何の危険性もない国である。治安維持法や公安警察、CIAの世界すら表の世界であって、公安警察の裏の裏の世界も存在する。日本文化が見直されていると言っても、それは、西洋でも東洋でもない不思議な魅力に惹きつけられた異国趣味の域を出ず、武士道も、結局は、戦いの世界の礼儀作法である。大和魂と言っても、それは、キリスト精神であり、仏教精神であり、儒教精神である。日本は、太古の昔から、外国精神を輸入して都合よく混ぜ合わせてきた。今の日本の精神は、輸入精神の混合であって、神国日本を語ってはいても、本当の日本精神を体現している日本人はないに等しい。

世界は神がその精神の基盤にあり、日本ほど神をないがしろにしている国はない。人類の歴史は、結局は、宗教戦争の繰り返しである。科学と宗教が別物だと思い込み、自国の宗教の実体もわからず、世界の宗教に疎く、自ら考えることができず、今現在の収支決算に右往左往し、経済や福祉や反戦に命を賭け、ありとあらゆる快楽を追い求め続ける現代社会の日本人。安全神話が崩壊したとは言え、現代日本は、民主主義の自由な国、豊かな国、平和な国だと思われている。しかし、それは、表向きのことであって、その実体は、宗教戦争に敗北した神なき神の国である。イスラムとキリスト教の戦いのその裏に、もっと恐ろしい計画が着々と進行している。真釣りの真コトを思い出さない限り、日本も世界も共倒れである。戦後教育によって完全に霊的去勢されてしまった「一般庶民」の思いも至らないところで、神仏の世界や生死、時空を超えた、どえらい仕組みが動いているのである。
P79
すべては『○○する恐れがある』階段で封印する手立てが取られる。それが冤罪であったとしても、である。形になったら、対応できないからである。自らの死の恐れが、攻撃の意思の無い者を破壊者にでっち上げる。被害者意識、恐怖の魂、自らの恐れが自らを戦いに引き釣り込む原因である。恐れは疑いを生み、疑いは敵を生む。自らが自らの平和を壊す破壊者である。自らが自らの加害者である。真釣りの「思想」は、今の日本政府も、その政府に抵抗する勢力も、すべてを「無」に帰す響きを持っている。封印されたものは、いつか封印を解かれる時がくる。日本国憲法とその下の法令を遵守しようとする限りにおいては、日本国の現状は益々「望まない世界=破滅」へと進んでいく。日本国憲法の根底にある理念そのものが、神を消し、真コトを封じる勢力によって作られたものだからである。

今の「日本国」は、民主主義という思想、議会民主(議院内閣)制という政治制度と市場経済を基盤として成立している。科学思想が教育の根底にある理念であり、科学技術と金融経済が日本国を存立させる土台である。そして、その絶対法規が日本国憲法である。歴史を逆戻りさせるような宗教的国家運営を唱える勢力や軍事クーデターを企む勢力を封印し、天皇を象徴に落とし、国教を無宗教に変え、金と科学で国づくりを進めた、その結果が、今である。平成に入ってからの日本の状況、出来事、世界の動きが何を意味しているのか、正直に見てみることである。この先も、同じやり方で進むなら、もう日本国に未来はない。

今の日本国においては、宗教を個人的に崇拝する分には自由だが、悪魔思想を実行しようとすれば、それは危険思想として国家機関総動員で封印にかかる。獣は人を恐れる。悪魔は神を恐れる。どちらが「国を破滅に導く悪魔思想」なのかを正直に見てみることである。宗教や思想、哲学を表現する自由は一応認められてはいる。しかし、人類の歴史の常として、国家運営や一般社会に大きな影響を与えるようになれば、公安の監視対象となり、いよいよとなれば弾圧される。今の世にある思想ですらそうであるから、真釣りの「思想」は、それは、当然のことながら、魔釣りのアヤマ知で作った国家では、認めることはできない。国家の崩壊を扇動する思想のように見えるからである。それは、今の日本国の根本理念とこの本で語っている理念とが真逆だからであり、著者から見れば、今の日本国が国家の破壊に進んでいるように見えるのである。史実として大本教の弾圧という実例がある。

今の日本国は、戦後教育によって、真釣りどころか、神道すら封印されてしまっている。科学と金の思考がすべてとなり、進歩、発展の仮面に騙されて、それ自体が、破滅に導く宗教であることに気づいていない。このように言えば、著者の「思想」が危険思想となり、公安の監視対象になり、この本も発禁になるかもしれない。しかし、著者は、「真釣り」をお伝えし、あるべき本当の日本の姿を語り、現代社会に至る人類の歴史の闇の闇に葬られた真相をそのまま書いているだけである。著者も、元々は、教育現場にいた人間である。ただの宗教や生半可な教育で日本人の心が変えられるとは思っていない。現代社会に漬かっていた時の体験を踏まえて、今の日本国の姿と、著者が体験を通して学んできた本当の日本の姿とは、全くのアベコベであると書いているだけである。ただ、事実を述べているだけである。著者は、今の日本国に異議を唱える意思も、国家を転覆する意思もさらさらない。そんなことをしても意味はない。著者が何もしなくても、いずれ日本国は壊滅することになる。これは、元つ神仕組みであるから不可避である。これを宗教というならそれで構わない。この本を読んで何かを感じたなら、生き様を見直す材料として使ってもらえればよいだけである。しかし、本当の真実は覆せないということは覚えておいて欲しい。
P80
今の日本国は、魔釣りのアヤマ知の世界第二の経済大国、文明国であるから、その国家体制を持続させるためには、真釣りの「思想」は究極の邪魔者である。著者は、そんなことは百も承知で敢えてこの本を日本国の皆さんに公開しているのである。この本をどう扱ってもらっても構わないし、著者を危険人物だと思ってもらっても構わないが、この本に書いたことは、本当の真実であり、今までのやり方でどう封印しようとも、この本の根底にある響きは消すことはできない。真釣りの真コトは封印できない。それをすれば、消そうとするあなたが消えることになる。封印されるのは蛇の知の魔釣りの魔コトである。最後は神力と学力、ハラとアタマの、生死時空を超えた、言うなれば、霊界でのハルマゲドン、響きの総決戦になるから、その映しである現界、つまり、この世でそれを止めることは不可能である。これを荒唐無稽な話、危険思想として扱うなら、それは究極の死を意味する。

元の大神を封印した国に元の大神を復活させれば、それは、国家の消滅を意味する。魔釣りのアヤマ知の「国家」という概念とシステムは消滅するが、風景や自然は残る。物質化したものは、すべて分子の集合体であり、共鳴共振現象によって、目には見えないレベルで振動している。そして、この現象を利用すれば、超音波で建物を破壊することもできるし、振動しているものを止めることもできる。想念の世界、心の思いも同じであり、自らと共鳴している霊界が自らの現象となる。想念が形になったものが物質である。従って、真釣りの響きが現れれば、魔釣りの響きで作られたものは、想念も含めて、形をなさなくなる。真釣りは万象万物を形為す自然の掟でもある。元つ大神は真釣りの響きであり、真釣りの響きが現れて壊れるシステムは、「自然の掟」に反したものである。真釣りをするしないは自由であるが、大神の響きが具現化すれば、どんな防衛策も意味をなさない。警察も、自衛隊も、神主のお祓いも、呪術も、全く意味がない。破壊されるものを自ら破壊すれば、破壊される危険は消える。魔釣りの自己破壊が唯一の自己防衛策、真釣り戻しである。幻想はすべて崩壊する。崩壊するものは、止めることはできない。崩壊の痛手を減らすには、幻想が少ないうちに自らで崩壊させることである。自らの魔釣りの想念を実体だと思っていれば、真釣りによってすべて消えることになる。魔釣りの思いが自らのすべてだとしたら、真釣りの響きは自らの死を意味する。しかし、真釣りのみが実体を産み出す響きであり、魔釣りも真釣りあるゆえに存在するものである。真釣りがすべての源である。
P81
日本は神を封じ込めた神国である。江戸時代の檀家制度で仏教を強制し、義務教育の公立学校=日本流無神論教会で、「宗教」教育を禁止しているのは、神を封じ込める思想の型示しであるが、そのことが、宗教的盲目の国民、日の丸と君が代をすぐ戦争と結びつけるような短絡的思考の国民を大量生産する結果をもたらしたのである。神亡き日本が、イラク戦争という「イスラムと十字軍の聖戦」の尻拭いに自衛隊を派遣することの意味など分かるはずもない。最新戦術の戦争に丸腰で参戦したようなものである。私立学校の宗教教育も魔釣りの宗教の教えであり、本当の意味での宗教は日本に存在しない。国旗は国家の理念の象徴であり、国歌は国家の理念の言霊である。校旗や校歌に誇りを持つが、その親である国家の国旗と国歌をないがしろにしている国は稀有である。それが、世界の親国であればなおのこと、右翼も左翼も嫌って、どっちつかずの曖昧を好み、日の丸君が代の真意が全く見えなくなった日本国は、言わば、中身のない形だけを見て右往左往する、大黒柱を持たないへなへな腰の情けない国である。アヤマ知の教育の作り出す常識にどっぷりと漬かって、心理=神理=真理の公式を見失い、「哲学は安全な学問、宗教は危険な教え」というように、宗教と科学を別物と見ている者たちには、戦後教育の正体を見破ることはできない。たとえ、その正体を知っても、今日の社会で立場が不利にならないように知らない振りをして語らないか、『絵空事』『危険思想』『こじつけ』と断罪するのが関の山である。実は、現代社会に至る人類史を動かしている裏舞台に気づかせないように、そういう見方を教育して真実を封印することが、文科省も教師も知らない、学校教育制度の裏の設立目的である。支配のピラミッドを形作る制度は、義務教育学校、強制檀家制度、中国共産党の組織、キリスト教会等、形は変われども、その目的は、社会の構成員を何れかの下部組織に所属させ、上の思想を伝達、普及、徹底させることにより国家組織を維持し、反乱分子を監視し易くして国家の崩壊を未然に防止するためのシステムである。国際組織も同様で、所属国を監視し、勝手な振る舞いをさせないように仕組まれている。獣の響きの世界での自己保全には、相互監視、相互警戒が不可欠である。現代日本は、社会不安が増大するに連れて、疑心暗鬼となり、監視カメラ、盗聴、内部告発、児童虐待の通報の奨励等々、共産主義の秘密警察の下の相互監視の密告の世界である。今の世に自由などないのである。

政教分離、公立学校の宗教教育禁止は、神仏を大切にする心は良いが、その思想を実行するのは許さない、ということである。戦前の国家神道が日本帝国主義を産んだという理由で、政治、教育と神道を分離し、天皇に人間宣言をさせ、平和と民主主義と人権の憲法に基づいた国づくりを進めた日本国。進歩、発展、科学教育、市場主義経済、民主主義、戦争放棄の国家運営をした結果、現代日本がどうなっているか。神道が悪いといって封印した側の思想を実行した帰結である。今の日本国は、三千年に渡って巧妙に仕組まれた、神国日本の響きを葬り去ろうとする魔釣りのアヤマ知の毒牙に完全に冒されている。ここから立て直すには、真釣り戻し以外の手はなく、その歩みは、苦難の連続となるだろう。戦前の大日本帝国の振る舞いは、神道が悪いのではなく、天皇を利用して国家支配を企む政治家や軍部の根底にある魔釣りの響きがもたらした歴史の必然である。参考までに、元つ大神から、昭和19年に、岡本天明氏を通して、「日月(ひふみ)神示」が降ろされている。これは、黒住、金光、天理、大本と、近現代日本を通じて、元つ大神が、時代に合わせて世界の親であるヒノモトに向けて降ろした、真コトの神仕組みと世の立て替え立て直しを予告する一連の神示の流れの預言である。平成4年には「火水伝文」が、現代の日本人に分かる文章で降ろされている。著者のこの本は、その集大成であることをお伝えしておく。
P82
金と科学と民主主義と平和憲法で国を創った結果が、心の荒廃であり、凶悪犯罪の増加であり、バブル崩壊、オウム事件、酒鬼薔薇事件である。さらに、阪神淡路大震災、雲仙普賢岳噴火に始まる自然災害の多発は何を意味しているのだろうか。今の生活に右往左往して、現実に起きていることに目を瞑り、それが何を意味するのかなど考える余裕がない国民と自党の政権奪取にしか興味がない政治家。自ら考えられず、欲望のままに生きてきた戦後の日本国民の行く末が、いよいよはっきり見えてきたようである。戦後を通じて、経済発展、民主主義、平和主義等々、清く正しい金持国のモデルを演じてきた日本。これからの更なる発展を望んでいる方も多いと思うが、果たして、それは実現するのだろうか。

現実に起きた史実や出来事、世界の流れや、日本の行く末についての見方は様々である。特に戦後日本は、反戦平和を国是とし、自衛隊という軍隊の意味付けをノラリクラリと誤魔化しながら、人道支援、国際貢献の名のもとに金を出し、口を出し、汗を流してきた。戦争というタブーを封印し続けた平和ボケ日本には、国際社会の裏で渦巻く策略には気づけるはずもない。自衛隊のイラク派遣という事実については、どうにでも繕えるが、反戦平和を唱え続けても、結局は、戦闘状態の外国に自衛隊を派遣するハメになった事には代わりはない。国際貢献を善とした結果、立場を守るために外圧に屈したというのが、その実態である。戦争を放棄した結果戦争に参加する。人道支援という仮面を付けて憲法との辻褄合わせをしているが、日本国の内包する矛盾を誤魔化すにはもう限界である。日本国憲法の根底にある理念に矛盾がある限り、憲法をどう改正しようとも、崩壊は止まらない。

獣の作る世界は、サバイバルの弱肉強食の響きである。その響きの国際社会で平和主義は茶番であり、戦争放棄は絶対に不可能なのである。神学論争、思想闘争の結果が形のシステムに現われているのである。その大元を正さない限り、望んでいる自由や平和や天国は絶対に実現しない。現代社会は、天国か滅びか二つに一つの過渡期の最終章である。現代社会の源流は、蛇の知恵の神に収束する。つまり、表面上は進歩発展している文明であるが、その裏は、その神が支配する魔釣りの神代へのシナリオに基づいて歴史が作られてきたのである。しかし、その世界は実現することはなく、滅びへと向かう。その流れを止められるのは、真釣りの真コトを持つ日本(ヒノモト)の復活だけである。今の日本は蛇に騙された究極の社会であるからその役目は期待しようもないが、真釣りの真コトを思い出して、一人一人が目を覚まし、現代社会の裏舞台で真コトを顕現することで、蛇の正体をハッキリと見定めることができ、真コトの日本が復活して、本当の世界平和が約束される。
P83
ここで踏み誤ればもう永遠に天国はやってこない。永遠の滅びが約束される。科学と経済に洗脳された現代日本人には、まったくもって荒唐無稽な話だが、これが事実でなければ、自らのかかっている罠から逃れることはできない。自らの天国は永遠の幻となる。この世はすべてが逆さまなのである。この事実を認めるか認めないかが、自らの運命を決定してしまう。究極の踏絵が渡されていると思って欲しい。これは一人一人の踏絵であり、最初で最後の天国への分水嶺である。「獣」は生存のために戦う。霊長類である人類は、不自然な理性で作り出した文明社会という自らの天国を守るための「自己保存」の戦いの歴史を続けてきた。文明社会を進めてきた影の黒幕も、黒幕が信奉する神も自らの辿る運命を知らない。その行く末に何が待っているのか判らないならば、本当に取り返しがつかない事態となる。犬や猫は自然の本能のままの獣であるが、人類は不自然なケモノなのである。

選挙制度は多数決であり、少数意見は反映されない、悪平等のシステムである。それが必要悪だというならば、国家支配権争奪戦、政権争いという思想戦争は永遠に終わらない。魔釣りの響きのアヤマ知の二極分裂の世界での全員一致した思想は『戦い』であるから、相対的善悪の立場に分かれた全員が平和に暮らせる社会は実現できない。全員が平和に暮らし、形の上での戦争も現れない世界ならば、テロも反戦も口にすることはない。戦争か平和か、と言っても、結局は、両方とも戦いである。平和を守る戦い、自由を守る戦い、幸せを守る戦い、である。相互依存の世界では、戦わずして安定はない。安全は勝ち取ったものであるから、守る必要が生じる。しかし、戦っているなら、永遠の安全はなく、戦いを有利に進めるために、(自分が主導権を取るために)戦略本部が必要となる。世の黒幕の親分は、自らが天国に成ろうとすると滅びるという自己矛盾に気づいていない。自由で平和な世では、自由も平和も当たり前であるから、自由、平和という定義はいらない。対立概念がないから選挙戦もできない。戦いがないから戦争もない。天国には天国しかない。

現代社会は『義務を果たさない者は、権利を行使できない』という思想が根底にある。法律で義務化すれば、違反者は処罰されることになる。棄権は、白紙委任と見なし、棄権した限りは、文句は言わせない。投票するか、投票しないかで服従するか、の選択である。議会民主制自体が魔釣りのシステムであり、政権争奪戦をしている限り、どの政党に投票しようと、真釣りの政治はできない。今世は、全員が魔釣りであるから、真釣りの政治家は選択できない仕組みである。実際は、真釣りの政治家には、選挙システムは意味がなく、選挙で政治家を選ぶ必要がない。魔釣り世での真釣りの者の意思は棄権という行動になる。表面に現れた「棄権」という行動は同じだが、それは反抗心からでも、無関心だからでもない。政治に関心はあるが、逆さまの世の政治家には実現不可能だから、投票というゲームに参加しないだけのことである。真釣りの者が魔釣りの世で意思を表現すると、無関心、無責任、無感動になる。対立がないから、喜怒哀楽もなく、永遠のナギ、傍観者の傍観者となる。魔釣りの世界が、真釣りの神の世を役に立たない空想物語にしているのと同じことである。魔釣り世の形をどう変えようと真釣り世にはならない。後少しの遊びである。
P84
『国民の意見を聴いて政治に反映させる』『消費者のニーズに合わせて製品を開発する』と言うが、それは、自らの存続のための方策であり、相互依存の世界だけで通用するものである。「真釣り」は絶対不変の神法であり、天地自然を生かすハタラキである。本来、法とは、人民が合わせるべきものである。しかし、その法の基が真釣りでないならば、いかなる法を定めようとも自由も平和も平等も天国も実現しない。『何のために政治をしているのか』『何の目的で法律を定めるのか』実際は、王政でも民主制でも、獣のピラミッドの支配の制度であり、主権が誰にあるのかの違いで、争いを産み続ける世界である。蛇がアタマを交換しても、結局は蛇のままであり、有限の世界だと言っている限り、天国は実現しない。

真釣りは永遠不変の神法である。それに基づいた王が治める世界がミロクである。人類の歴史の王政と九分九厘同じだが、足場にあるものが違う。これを独裁だというなら、勝手にすればよい。その時が来てどうなっても自業自得である。神の掟を外し続けた末の現代日本から神の掟を見れば、「悪魔の悪魔」の宗教に見えるが、それは、自らの鏡である。本当の天国とは全くアベコベの世界を「善(正)」と思えば、それに基づくいかなる制度も、目指す理念は実現できない。世の破滅は避けられない。元つ真釣りのミロクの世は、生死一如、時空超越の世界であるから、今ここで神法違反をしているならば、例え死んでも同じことであり、今のままならば、この世にもあの世にもどこにも国を作る場所はなくなる。永遠の滅びである。本当の天国は復活する。そこにあなたがいるかどうかは今ここの選択にかかっている。光を一つ上げる、とは、魂の一生という思考ですべてを見ることである。今でいう一生は、魂の一生では、幼稚園の入園から卒園までの体験に過ぎなくなる。あなたという身魂は、まだ一度も死んでいない。今回の大祓いが、永遠の生死の分岐点である。

真釣り戻すご苦労は今のあなたにとって堪え難いものかもしれない。しかし、それは、あなたが真釣り外した結果であり、あなたが呼び込んだ厳しさである。本来ならば、あなたは神法違反で消滅しているはずの身魂である。あなたのご苦労が修羅の地獄の1億乗の厳しさであったとしても、絶対に無理だと思ったとしても、神法違反のあなたを生かし、真釣り戻しの機会を与えるために「情けと花の仕組み」を構えた元つ大神のご苦労と比べたら、全く問題にならない。著者のここに至るまでの苦労でさえ、大神がなさったご苦労の髪の毛の先のその先の先々ほどの苦労である。真釣り戻しの様々な障害を自らですべて体験し、真コト真釣りを現代日本に現すのが著者の御役であり、その集大成がこの本である。
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あなたはこの本を書くための苦労はいらない。それは著者の役目であり、あなたは、この本を使って自らの真コトを磨き出すだけでよい。つまり、この本を読んでいるあなたは、大神の毛の先のそのまた先の先々の苦労どころか、そのご苦労を辛抱してきた著者の苦労の毛の先の先々ほどのご苦労に堪えればミロクが約束されるのである。しかし、そのご苦労でさえ、今のあなたにとっては、慙愧慟哭、修羅の地獄のそのまた地獄の苦しみかもしれない。もしそうだとしても、あなたが元のミロクに帰るためには越えなければならないご苦労なのである。なぜなら、神法違反をしたのは自分であり、自分が真釣りに戻すしかミロクに帰る手立てはないのである。あなたをミロクに連れて行ってくれる救世主はどこにもいない。あなたが真釣り戻せば、大神が助け舟を出すだけである。今世の魔釣りの宗教の神仏、思想に固執している限り、あなたは、本当に、永遠のイノチを失うことになる。

著者は、自らのモデルを探してもそれは叶わず、真コトと思って入った道も、一厘の違いで真コトではないことに気づくという繰り返しを生きてきた。終ったと思っても終わらず、真コトと思っても真コトではなく、自らがそのモデルであることを認めるまで、本当に苦しい道のりだった。つまり、著者は、この道に入って以来、自ら以外に外に頼れるものはなかったのである。あなたがどんな苦労をしていようとも、それは、魔釣りの世界の常識で言う苦労であり、真釣りを外し続けて、自らの真釣り戻しの苦労を増やすだけの「苦業」である。自らの苦労話をして他人の同情を引こうとしても、それは、真釣り外しであるから、大神から見れば、大掃除の手間を増やすだけの、神をも恐れぬ所業である。この世の、今この時の些細なご苦労で愚痴や不平不満を垂れ流し、自らを守るためにツベコベと御託をならべ、アレコレと逃げる算段を画策しているようでは、あなたにはミロクは全く関係のない世となる。今の災害や苦難に耐えられないようでは、一度で一気に世を祓い清める「時空生死を超えた大掃除」にはとても耐えられない。たとえ、最後の大祓いまでに、真釣り戻しを終えることができなくても、今からでも、少しでも真釣り戻しをしておくことが、最後の大掃除の自らのご苦労を減らす術である。百歩譲って、今まで好き放題に生きてきたとしても、真釣りがあることを思い出し、真コトの道に帰ることを決めただけでも、とてつもない厳しい試練があるにせよ、ミロクに帰る機会は、まだ消えていない。

著者は、恐怖を煽っているわけでも、脅しているわけでも、宗教の勧誘をしているわけでもない。あなたが現代社会の正体と身魂の現状を自覚して、真釣りに戻れるように、真コトの真釣りが世の神法であることをお伝えしているだけである。余計なお世話だと言うならば、それはそれで構わないが、どんなに苦しくても、不可能に見えても、あなたの改心次第で、必ずミロクに帰ることができる。現代社会の日本国が描く未来に夢を託すのもよいが、この本から、真釣りの真コト、本当の自分の正体、現代社会の闇の闇の真相を汲み取って欲しい。あなたが、この世で、今ここで本当にすべきことは、真釣り戻しのみである。天地創世の真釣りの元つ大神直々の、生死も、時空も超えた、万古末代一度こっきりの、死んでも死んでも続く、祓い清めである。神や仏ですらどこにも逃げられない大祓いであるということをよくよくハラに据えて、永遠の天国に戻るために、頑張って欲しい。
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あなたが同調している神によって、あなたの体験する現実が決まる。それは、あなたが自らの霊線をその神の支配する霊界に繋いでいるからである。開運厄除、学業成就、縁結び、家内安全、夫婦和合、商売繁盛、交通安全、病気平癒、不老長寿、金運向上、方位除け、ボケ封じ、悪霊祓い、厄祓い、五穀豊穣、国家安泰、地鎮祭、御霊清めの儀式等々、祈願や法要、神事、仏事はすべて魔釣りの世の生き残りのための他力本願である。真釣り外した自らに苦がこないように、『俺が天国を体験し続けられるように災いを封じろ』と神や仏、霊界の先祖に命じている。たとえ呪ったとしても、霊線が繋がっていなければ、呪い殺すことはできず、渡した呪いが自らにそのまま戻る。人同士の場合でも仕組みは同じである。あなたは真釣り外しの責任を取っていない。自分が責任を取るならば、神社もお寺も教会も必要がない。獣の世では、本当の意味であなたを助けることができる者(神、仏)は一人もいない。いるというならば、それは相互依存のあなたと同じ響きの形だけの救済ゲームの相手と想念が繋がっていることを意味する。今のままなら騙されても文句は言えない。

苦を避ける、災いを避ける、というのは、真釣り外しのお知らせを拒否する(真釣り外しをして楽を得る)響きであるから、それを続けるほど、逆に、災いを自ら呼び込んでいることになる。実際は、災難除け=災難招来祈願である。真釣りに生きる者には災いはないから、「災いを避ける」という思考はない。厄除け等々の災難除け祈願をするならば、それは真釣りを外した証しであり、真釣り戻しの意志がないことを意味する。あなたが避けている苦(実は真釣り外しのお知らせの情け)はあなたの違反ゆえの型示しであり、それを渡すのは元つ真釣りの大神であるから、あなたが厄除けをするならば、それは、元つ大神を祓おうとしていることになる。あなたに訪れる災いの源は自らであるから、結局は、自分が自分に自分を殺してくれるように頼んでいることになる。すべての災難除け(招福)祈願は、真釣り外したお知らせの苦を逆恨みした冤罪である。厄祓いするなら、福祓いもしなければ、偏ってしまう。厄も福もあなたの分かつ知の作る幻想であり、自らの分かつ知が作り出す幻想を使って、真釣り戻しを知らせる本当の福の神と対峙するならば、死神であるあなたの負けである。あなたは絶対に勝てない試合をしている。最後の相手は元つ真釣りの大神であるから、あなたの希望通りに厄の神であるあなたが祓われる。元つ真釣りの大神の情けを逆恨みしていた集団の作り出した冤罪は最後に晴らされるのである。魔釣り世の宗教は、すべてのすべてが同じ仕組みであるから、いつまで信心しても本当の天国は来ないばかりか、最後は、あなたに訪れる苦(悪、厄)の真の源である自分が消える。
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あなたが自らで自らを生かしているならば、神仏に祈るという行為はしない。神社に参詣して何かを祈願するという行為は、自らができないことを誰かにさせるのと同じである。その対象が神仏ならば、参拝(参詣)と呼び、人間ならば、依頼と呼ぶ。神仏も人間も、自らの心の内では同じ世界に共存し、神仏とか人間とかのイメージ映像の違いに過ぎない。神に祈っている、他人に頼んでいる、と分類しているだけである。どちらも、やっていることは同じである。有力政治家のご機嫌伺いをすることを『○○詣で』というが、それは何を意味しているのか。『神に祈れば天国に行ける』と決めているのはあなたであり、あなたがその神の神であることになる。あなたが『神に祈らなければ天国には行けない』と言っているならば、あなたは天国には行けない。なぜなら、あなたという神がそう言っているからである。宗教を信仰するならば、それは、その世界が箱の中であることを意味する。それは、あなたが作った箱であり、その中の「神」はあなたが作った神である。あなたが宗教を信仰するならば、この世の人間よりも力がある「見えない存在」に自分を預けたことになる。この世の宗教は、魔釣りの世の身欲を満たすための信仰であって、それをすればするほど魔釣りを呼び込むだけで、望みとは正反対の現実の実現を望んでいることになる。結局は、すべての現実は、言い換えれば、現代社会のシステムは、真中に真コトを持った「神」である自らが生み出した現実であるから、真釣り外した神同士の独演会に過ぎない。

ご利益祈願、加持祈祷、お祓い、お守り、オフダでは、本当の天国を実現することはできない。魔釣りの宗教を信仰すればするほど、真釣り外し続けることになるからである。無神論というのは『神はいない』という神が語る論理である。『自分以外の神はいない』つまり、自分が神であると言っているのであるから、神はいるのである。無神論は自分が神であることを語る有神論である。もし、自分は神ではない、と言うならば、神はいない、と言っている自分は神ではないことになる。神ではない者が、神がいるかいないかの議論をしている。神とはどんな存在か、の定義ができないならば、神がいるかいないかの議論はできない。議論ができるならば、自分の内に神がいることになるから、有神論である。結局は、有神論も無神論も神の有無について議論しているのであるから、有神論しかないのである。有神論ならば、神に依存していることになり、無神論ならば、「神」がなくてもすべてできると思っていることになる。「有神論」ならば神がいる。無神論ならば神はいるがそれを否定している自分にはすべてできない。有神論と無神論を議論している自分が神であるから、有神論しかない。有神論しかなければ、神しかいない。この世は神の世である。

魔釣りの宗教の言う、輪廻転生や死後の世界の話は、魔釣りの中の現実であって、真釣りの世にはそんなものは存在しない。「死」が本当の死でなければ、葬式のしきたりも、強制力はない。自らの大元である神界を闇に葬って穢れた冥土と思い込み、穢れが自らに来ないようにする(この世の「神聖さ」を保って生き残って快楽を得る)ための自己保身の儀式が、葬儀や法要、読経である。その実態は、この世で生きている者同士の生き延びるための穢れ祓いゲームに過ぎない。この響きで神話を読めば、黄泉の国は穢土となり、イザナミは醜い神となる。それを真実だと思っていれば、死の呪縛から抜けられず、アメとムチで操られて右往左往する無間地獄を生き続けることになる。この世という境界のない世界を善悪に分けて、争い、裁き合う現実が永遠に続く。天国を作ろうとするほど、地獄が形になり、最後は滅びの世に至る。その他の宗教も、姿形が違うだけで、すべて同じ思想の中にあり、そこには神も仏も死者も先祖もいない。「情けと花」の最も大きい型示しが「死と誕生」であり、真釣りを外したがゆえに、その仕組みの中で死と生を繰り返す「輪廻転生」という幻想を生み出してしまったのである。初めにいた神世は生き通しであるから、真釣り外したお知らせは、情けの死である。つまり、元の初めの世から見れば、箱(岩戸)に入った「有限(寿命のある、劣化する、崩壊が見える)」世界である今の世(この世)こそ「死後」の世界であり、今世の言う死後の世界(あの世)は、この世から生き返った世界になるが、真釣りから見れば、この世の人間が恐れている死は、大きな意味での死後の世界の中の生の世界を移動する(引っ越す)だけのことになる。生きていても死んでいても同じことで、すべてを真釣り戻すことで初めて、元にいた神世に永遠に生き返るのである。そこが本当の天国であり、ミロクの世である。真釣りしかない、永遠に続く天国である。
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元つ真釣りの世は、生死時空を超えた、万古末代弥栄の生き通しの神世である。魔釣りから死ねば真釣りに戻る。魔釣り世のすべての常識を捨てると真釣りに戻る。真釣りの世を封印するための思想、想念、常識、道徳等が、魔釣りのアヤマ知である。お経や祝詞をあげただけで天国に行ける(邪気を祓える、悪魔を追い出せる、穢れを祓える)なら、こんな便利な話はない。それは、『言う通りにしたら金をやるぞ』と言う人間の言う通りにしているのと同じことである。基に真釣りの響きを持っている神が魔釣りに囚われて宗教を作り出し、神仏を利用して楽になろうとしているのは、人間同士の間で誰かに依存して楽しようとしているのと同じである。他力本願ではミロクの天国は絶対にありえない。ミロク(三六九、五六七、六六六)の天国から家出した神が、形に囚われて、偽のミロク(666)の神にすがっても、元の真釣りのミロクには戻れない。それどころか、どんどんミロクから離れて666の世界にのめり込み、その世界が絶対真理であるかのように思い込んだ挙句、結局最後には、自らが自らを滅ぼす末路となる。現代社会は666の世界である。天国だけの神代に地獄があるということの意味が心底わかったら、自らがとんでもないことをしていたことに気づいて、ショックのあまり呆然と立ち尽くすことになるはずである。

自らが魔釣りに囚われて、自らを魔釣りの世に封印したのが「情けの仕組み」の発動、輪廻転生の始まりである。本来はどこにもない死後の世界を語る宗教の起源、弔いの儀式の始まりである。野生の動物には葬式もなければ、裁判もない。恨み妬みで他の動物を殺す動物もいない。人類という「理性を持った動物」が作る社会で起きていることは何を意味しているのか。現代社会のシステムは何を目指して営まれているのか。自然から完全に隔離された世界であり、自然の風景は見えているが、お金がなければ何も手にすることはできないおかしな世界である。お金を払わずに「商品」を勝手に持ち出すことを万引きという。仕入れ価格0円の、資源を加工した「商品」の売買で儲けを出すことが目的の商業システムでは万引きであるが、もともとはお金は存在しないものである。天地自然(天恵、資源、天然物)を勝手に所有し、売買する経済社会は、大きな意味では、神の商店から「万引き」したもので作った社会である。真釣りの響きで作った資源を、魔釣りの分裂の響きでバラバラにして手前勝手に所有すること自体が窃盗である。その盗品を転売すること自体が、横領である。魔釣りの世界の中で作り出されるシステムは、魔釣り世しか作れない。
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現代社会は、真釣り外した世界である。真釣り外した神が、永きにわたる略奪の魔釣りの歴史を積み重ねた結果、たどり着いた、九分九厘アヤマ知で出来た社会である。魔釣りの世にあるシステムは、宗教も科学も、儀式も技術も魔釣りを進めることしかできない。瞑想も荒行も訓練も教育も躾も、その根底が魔釣りである限り、どんなに頑張っても真釣り戻しは叶わない。現代社会が魔釣りそのものであるから、今の世界の善を正しいものとしている限り、その世界のシステムの中をどんなに探し回っても、天国はない。その世界がおかしいと思っても、抜け出すことができない。真釣りには戻れない。すべては、魔釣りの世界の中での幻想である。真釣りと魔釣りは相反する世界であるから、たとえ無差別テロで多数の死者が出たとしても、それは情けの仕組みによる現象であり、真釣りの世には何も影響しない。現代社会では大問題であることも、一番大元の世界からみれば、ただの物事、現象に過ぎない。真釣りを闇に葬って魔釣りで世を進めてきたすべての人類は、自らがしてきたことに責任を負わなければならない。「責任」という概念は、生死時空を超えて存続し続ける。魔釣りのアヤマ知でこの本を価値判断することがマ違いの証しである。すべては一つであるから、時空を超えて真釣りのままでいたならば「情けと花の仕組み」で真釣り戻しをする魔釣りの世で悩むことも、病気になることも、喜怒哀楽に翻弄されることも、人類滅亡のシナリオも、体験することはなかったのである。真釣りのままなら預言や予言を鵜呑みにして救世主を待つ必要もなく、神を信仰する必要もなかったのである。

真釣りの世界が本当の天国であり、現代社会にあるすべての理想、現実、夢や希望、死や絶望、そして、その実現や解消を目的とする争いはなかったのである。真釣りを外して闇を作り、光を探して快欲を追い求め、自ら考えることをやめてしまった現代社会は、何かにすがって魔釣りの混迷から抜け出そうと宗教(新興宗教)を産み出した。その宗教がおかしいと思って脱退してはみるものの、現代社会に戻っても、結局何も満たされず、前にも増して右往左往するか、失望感が増長するだけである。そこから逃れるためには、自らの殻に閉じこもるか、誰かのせいにし続けるかしかない。究極の選択は、「自らを殺すか誰かを殺すか」の二つに一つである。魔釣りの世界でいう自殺は、自らを更なる孤独の地獄に落とし、他殺は自らを更なる戦いの地獄に放り込む。殺された者は、魔釣りならば、同じ道を辿り、真釣りならば、天国に近づく。即ち、『自らが何をしているのか』が問題であり、『他人がどうなるか』はその他人の問題である。ここでの「殺す」の意味は、肉体的、物理的な死だけではなく、心理的に殺すこと、想像上の殺人を企てることも含まれ、自らが殺人を思考したならば、霊界では、それは殺人を実行しているのと何ら変わりはない。自らが真釣りならば、その思考は存在せず、魔釣りならば、真釣りを抹殺しているから形の破壊(抹殺)のみの議論になり、すべて詭弁となる。その世界の善人は、自らが真釣りを外していることに気づかない。それは、天地自然の掟を破ることであり、万象万物を滅ぼす、究極の悪魔の心理である。現代社会の常識が正しいと言うすべての者は、揺りかごから墓場まで魔釣りの毒牙に罹り、真釣りの響きを殺すことに何の罪悪感も持っていない。
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現代社会を絶対視する、魔釣り教の信者は、その世界を現実だと思い込んでいる。オウム真理教(アーレフ)の世界が幻想で、現代社会が現実であるという、その思想そのものが幻想なのである。地下鉄サリン事件は現代社会の映しである。現代社会の中で作り出されるどんな形も、すべて現代社会のミニチュア、縮図である。実行するかしないかの違いで、思想、哲学、心理、システムの構造は全く同じであるから、形の美醜がどうであろうと世界の王もその王の作る社会を絶対視する信者も同罪である。全員が、自ら犯した神法違反であるから、一人一人が清算しなければ個人的天国は成らず、真釣りの世界にも役立たない。真釣り戻しが終わらなければ本当の意味での国際貢献をしたことにはならない。

真釣りと魔釣りは裏表であり、真釣りでないなら魔釣りである。どんなに善人だと主張しようと、悪を糾弾して自らの善を主張しようと、そのことそのものが魔釣りなのである。真釣りを批判することが魔釣りの証しである。自らのマ違いを自らが正さない限り、魔釣りを真実だと思ったまま、真釣りの世から永遠に消え去る。今回の大掃除が終われば、二度と「情けと花の仕組み」が作られることはないから、あなたが生まれるところはどこにもなくなる。真釣りの世から見れば、魔釣り自体が存在していないから、人類滅亡というのは魔釣りの世から見た話に過ぎない。その中で生み出したシステムは、すべてが幻想である。今まで信じていたものがマ違いだったと素直に認め、真釣りで生き直すことである。

真釣りのみが実体のある現実であって、それを「完全に認めるか認めないか」が自らの永遠の生死を分ける。これを否定する世界が魔釣りの現実であり、魔釣りで教えられたやり方であるから、真コトを聞いて騒ぐならその度合に応じて自らの真釣り外しの告白となる。あなたが真釣りに戻さなければ、あなたはウソを信じて滅ぶ。辻褄が合っている仕組みである。全世界が魔釣りに囚われているから、自らの清算をすれば天国へ、魔釣りでしたことの清算をせずにそのままなら滅びへの二つに一つの道である。現代社会の中に悪の仕組みができて、それが現代社会に影響を与えるならば、現代社会は悪の世である。すべては共鳴現象であり、社会そのものにも当てはまる。真釣りの中に産まれた魔釣りの世は、真釣りの世には一切影響を及ぼさない。逆に、真釣りの世が形になったら、魔釣りの者はすべての世から永遠に消滅してしまう。真釣りの響きと魔釣りの響きは共存できないからである。現代社会でオウム事件を問題にするならば、現代社会もオウム教団と同じ響きである。対象を拒否していることが、強く共鳴している証しであり、問題にすればするほど、騒げば騒ぐほど、その影響が大きいことになる。自らの歪みが生み出した集団は、自らに歪があること見るための鏡として現われる。悪を裁く善こそがその悪を生み出した源であり、その悪は自らの映し絵である。自らの悪を認めず、その悪を裁けば、自らが滅ぶ。
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真釣りは真釣りである。魔釣りは真釣りには影響しない。子は親の鏡であり、その子は自らの映しであるから、子が親を殺す状況になるならば、オウム教団を非難する現代社会こそがオウムの産みの親である。オウム事件の謎は、現代社会の思想の中に答えがある。オウム教団の思想を調べても何も答えは出ない。オウムを許せない自らの中にオウムを産み出した源がある。従って、オウムを非難できる者は一人もいない。真釣りなら全く影響ないからオウムを裁くことはしない。オウムを裁くならば真釣りではない。真釣りでない社会は魔釣りで滅ぶ。教祖を死刑にしても何も解決しない。瞑想が修行である宗教の教祖にとって、独房は瞑想室であり、死は解脱の到達点である。まさに、彼にとっては都合の良い環境を与えられたことになる。だからと言って、大量殺人の首謀者を懲役刑にすることは、極悪人を目の前に置き続ける堪え難い状況であり、善悪は絶対価値ではなく、その善悪と生死を超越した存在に対しては、死刑は救済となり、無罪にすれば、「善人」の側が危機感を感じながら生きなければならないというジレンマを抱えることになる。『何の罪もない人間は一人もいない』それが、真コトの真実から見た真理である。本当の真実の前には、法の裁きという概念と裁判システムは無効となる。善悪を超えた犯罪には、刑法は無力と化してしまう。現代社会の罪概念や法理念とは全くの逆さまであるから、死刑が罰にならないという自己矛盾を露呈することになる。実は、悪を裁くこと自体が悪なのである。『それはおかしい』というならば、オウムを裁き続ける堂々巡りの中に戻ることになり、謎が解けないまま、自らが魔釣りと共に滅ぶ。悪を裁くのは、魔釣りを生かすための茶番である。

一般社会もオウム社会もその響きは同じであり、真釣り外しの情けをオウム返しされただけである。悪の世での悪と悪の共食いに過ぎず、どちらも真釣り外した証であって、神法違反をしていることには変わりはない。すべてをひっくり返して、物事を見直してみれば、本当の真実がわかる。鳥の鸚鵡のオウム返しの元は、自らの言葉である。あなたの目の前に映っている(存在する)ものは、自らの姿である。現代社会を敵にするオウムも同罪であり、どちらも真釣りを外した自らが生み出した幻である。どこへ逃げようとも真釣りからは逃げられない。なぜならば、真釣りの世界は魔釣りの世界と裏表の関係だからである。
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真釣りの世は、真釣りの響きを持つ「人という神」の世であるから、「宗教」は存在しない。政教一致の政治でさえ国が治まらないのであるから、政教分離の政治がどんな社会をつくるのかは明白であり、政治家の足場である国民の中に宗教が存在している限り、完全な政教分離は不可能である。神仏を信仰する国民を統治するということは、その国民とは切り離せない神仏も統治するということである。人が神を支配する、という逆さまの魔釣りで世を治めることは絶対にできない。神に祝福を祈る大統領や、神社に参拝する首相、宗教団体や慈善(=アヤマ知)団体を支持基盤に持つ政党には政教分離はできない。政治家の思想の源には神がいる。基の神が魔釣りであるなら、神に祈るほど世が乱れていく。その政治家が作る法律が支配する国家を運営する行政、司法、経済システムに命の基を置いている国民も、結局は政治家と同じ世界にいることになり、最後は、国家丸潰れとなる。そのシステムで運営する国家の集まりである国際社会も、その社会の源である神々の世界も、魔釣りで作り出したものは、すべてのすべてが、破滅する。神のマ釣りを直さない限り、真釣りに戻さない限り、世の政は直らず、魔釣りの乱世を進めた挙句に、世は滅ぶ。神を源流とする宗教、思想、哲学、科学の一連の流れの人類の歴史は、真釣りの復活と共に無に帰す。そして、真釣りに戻った「人」だけが、元の神代、永遠の天国で自由を謳歌する。

「清貧」は、『限りあるものを節約することが生き残りに貢献する』という、アヤマ知の「有限」教を信奉する世界の、「節約思想」を善とした負け惜しみである。国を挙げて『限りある資源を大切にしよう』キャンペーンを張っているのは、まさに、真釣り外しの究極の型示しである。「省エネ」とか「節水」とか「倹約」云々というマヤカシの啓蒙に同調する国民も同じ穴の狢である。その根源はどこにあるのか。神話を含めた日本史のどこを探しても、その答えはない。答えは、今の日本が完全に闇に葬り去っている本当の神道(真道)にある。真コトの真釣りを忘れた日本が、現代社会のアヤマ知の思想にどっぷりと漬かっている限り、永遠の天国どころか、世界の破滅に自ら手を貸すことになる。日本が本当の役割を果たす道は非常に厳しい道であるが、それをしない限り、真釣りを知らない世界の国は、永遠の滅びに向かうことになる。この本を読んで、日本人一人一人が自らの本当の姿(素型)を思い出し、本当の日本再生、言い換えれば、世界を真釣りに戻す大役を果たして、本当の世界平和をもたらす道に戻って欲しいものである。『そんな作り話を信じても何にも得はない』『そんなことをしたら社会を乱すだけだ』『現実の生活が大変な時にそんな荒唐無稽な話を聞いている暇はない』と言って聞き流すならば、それは、あなたが本当の日本の真コトの道を外している証しである。それならそれでよいが、これが事実だった暁には、それ相応の体験をすることを覚悟しておくことである。『資源には限りがある』という魔釣りのアヤマ知にまんまと嵌められた政治家と官僚が、「リサイクル」を強制し、「環境汚染物質」を排除し、「クリーンエネルギー」に未来を託す、そんな社会が行き着く先は、果たしてどんな世界なのだろうか。今のままで突き進むならば、魔釣りのシステムを最も完璧に実現している日本国という国家とその国民には、とんでもない結末が待っている。
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世界の父親であるヒノモトが、経済大国だ、技術大国だ、教育大国だと魔釣りの文明世界での自らの地位の高さを誇っているならば、それは、自らこそ世界の混迷の源であることが全くわからなくなってしまっている証である。今の日本は、世界の立て直しを担う、世界の真中のハラの御役、元つ真釣りの大神の神気出づる唯一の国であることをアヤマ知に囚われて忘れ去り、自由平等博愛思想や敬神を壊す科学教育、魔釣りの道具の金融経済の進歩発展に足場を置いて、せっせと国際貢献に勤しんでいるが、それが何を意味するのかわかっているのだろうか。真釣りを外した魔釣りのアヤマ知で作られた汚泥混濁の世で最もクリーンな国が、真釣りの神法では史上最悪の「鳴(成)らず者国家」なのである。自ら産み出す苦労はせず、産み出すところは子(世界)にやらせ、その成果のみを奪う。言い換えれば、発明は子にさせて、子の発明特許をお金で買い、形を変えて実用新案で儲けるというパターンで、美味しいところ取りで繁栄してきたのが、今の日本の実体である。国の象徴である天皇すら形骸化し、科学と金に命を預けているならば、滅びは必至である。

無から産み出す苦労は、『すでにある形をどう変えるか』の苦労の比ではない。元つ真釣りの大神が「天恵」を無から産み出して、その天恵を自由に使わせて、自らの子である神や人を喜びに生かす。自らの力で無から産み出して、その果実を子に与えて、子が安心して生きられるようにするのが、本当の親のハタラキの基であり、親と子の本当の素型(姿)である。元つ大神は与えるだけで、何一つ奪っていない。『奪われた』『失った』という言葉は、真釣り外した者の使う言葉であり、謝罪とか損害賠償とか人権侵害云々という言葉は、元つ神代にはない。すべては、無から産み出した元つ大神のものであり、真釣りを外した神仏や人類のものは何もない。無から創り出せる(自ら補充できる=修繕できる)者は、失うことや傷つくことはなく、奪われて困るものもない。自分のものを奪われた、失った、傷つけられたと言うならば、それは、自分のものを何一つ持たない者が、自分のもの(奪ったもの)を持っているということになり、所有権(元つ大神)に無断で天地を勝手に所有している天下の大泥棒であることを白状していることになる。泥棒した天地の資源を売り買いするなど、それこそ、本当に、神への冒涜そのものである。いわんや、お金とお金の売買などは、論外である。神への冒涜のその結果がどうなるかは、今までの歴史上で神を冒涜した者が辿った運命を考えてみればわかる。元つ天地の大神への冒涜=天地自然の掟を破ることがもたらす結果は、永遠なる自滅である。中つ世の神仏の世を含めた、現代社会に至る人類の歴史は、元つ天地の天恵大泥棒集団が創った幻想の物語なのである。

真釣り外したこの世の親(日本、神仏)は、当然、無から産み出すことは出来ない。自らの快欲を満たすことしか頭にはなく、自らが奪って生きているとは全く思いもしない。従って、真釣りの天恵を奪って生きることを恥とも思わず。奪って生きることが世界人類のためになると本気で思っているのである。魔コトを真コトと思い込んで、真釣り外した自らが産んだ、真釣り外したお知らせの(元々はどこにも存在しない)苦を避け、逆さまの天国を目指すという、とんでもない大失態をやらかしていることなど微塵も頭にない。子(世界、人民)も、真釣り外した親の真似をして、親子共々、真釣りの天恵を自由勝手に好き放題に魔釣りで使い、大神の創った神世の元を壊し続けているなどとは露とも思っていない。それどころか、世界平和や自由や天国のために働いていると思い込んで、その世界のシステムを当たり前のこととして、何の疑問も抱かずに代々受け継いでいる。何の躊躇もなく『苦があるのが当たり前』と言い、自らの苦の原因を自ら以外に探して、平然と不平不満や責任転嫁をして威張っている。自らの大きな罪に気づかず、生まれ変わり死に変わりしながら、滅びの道を駆け下りて、ついに、崖ッぷちまで来てしまった。つまり、泥棒世界を壊すことを「罪」として封印してきたのが、神をも含む人類の歴史なのである。
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神を金に置き換えた歴史の末路である現代社会は、親である国家が子である人民のご苦労の果実(収入)から税金という名の上納金を強制徴収し、金を神とする「国家」という姿形を維持するためのゲーム(経営、ビジネス)の中での支配権争いに過ぎない。蛇に自らの命を預けた人民も、蛇の知恵のアヤマ知が創る幻想の世界を真実だと信じ込み、その世界に貢献することが自らを生かす道だと騙されて、神から人まで、親子揃って蛇の魔釣りの世を進め、真釣りの神代を封印してきたのである。魔釣りの略奪の響きの世である限り、どんなに頑張ろうとも、自由も天国もなく、今のままならば、黒幕の神から最下層の民まで、すべてが自滅の道を辿る。自然の掟に反する者は、問答無用で淘汰である。天地自然の掟は、万象万物すべてのすべての命の掟であり、いかなる神仏も逃れることはできない。親と子の関係をマ違えば、汚泥混濁の世を進めた挙句、最後は「すべて」が滅ぶのである。

今の世で言う「仕事(職業)」「働き」は、表面上は、物やサービスをお金に交換する行為のことを言う。その裏はと言えば、極論すれば、「職業」とは、神から盗んだ資源(天地)をお金に交換する(売り買いをする)システムでお金をゲットする資源横領行為である。役人というのは、ケモノ社会の管理をすることで生計を立てている職業であり、その収入源は、税金である。税金の源は、管理されている者たちがゲットしたお金である。管理されている者が資源をお金に変えれば変えるほど役人が天国になるとしたら、泥棒すればするほど天国になる社会だということである。『働かざる者食うべからず』=『泥棒しなければ食べてはならない』と言うならば、その実態は、巧妙に泥棒する者ほど天国になる、嘘と誤魔化しが巧妙な詐欺師ほど自由を謳歌できる、おかしな世界である。納税義務=労働義務=略奪義務であり、無職という職業が社会人として認められないならば、それは、泥棒でなければ生きてはならないということである。真釣りの世は、泥棒では生きては行けない世であり、全くの逆さまである。騙す者は、騙される者がいなければ存在できない。
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騙されたものがクローズアップされ、可哀想な人種のように言われる。それは、現代社会で言う弱者を表に出さなければ社会が存続できなくなってきたからである。実際は、騙される方も騙す方も、自ら産み出さずに、奪う仕組みの中で、奪った物の奪い合いをしているのであって、楽して天国を得ようとしていることは同じである。本来は、自らの力で産み出さずに自由になることはありえない。現代社会は、元つ大神の真釣りを忘れた結果、お互いの同意の上で泥棒同士が騙し合いゲームをしているだけである。それを当たり前の如く続けているならば、最後は、すべてのすべての源である、すべてを無から産み産んだ天地の所有者、あえて言えば、「自分のもの」を奪われた本当の被害者、本当の債権者が、返還請求(賠償請求、一括請求)をすることになる。あなたが、今の世のアヤマ知のやり方で奪った(「借りた」)もの(財産、立場、信用、知識、宗教等々)をすべて返さないというならば、最後は「自分自身(の命の種)」という担保を没収されて、永遠の滅びとなる。

万古末代、だだ一回の「終始決算」である。あなたが得、快、楽を持っているならば、または、不平不満を言っているならば、あなたは奪ったものを所有している。この世で合法的に得たものであっても、この世自体が天地を泥棒したものを使って創った世界であるなら、あなたのものは何もない。あなたが無から産み出せないならば、あなたの所有物はない。無から産み出せるなら奪う必要はなく、奪うなら無から産み出せないということである。略奪が当たり前だというならば、あなたは、自覚なき泥棒である。泥棒ではないと言う者は泥棒である。失う怖れ、孤独になる怖れを持っているならば、あなたは自らで生きられない。あなたが何かに依存しているならば、あなたは生かされていることになる。あなたが依存しているものは、どんな世界で作られた、どんなものなのか。あなた自らが無から産み出せないならば、あなたの所有物は何一つない。あなたがこの事実を否定するならば、あなたは自覚なき泥棒のまま、永遠の自由な天国で生き続ける生涯、本当の不老不死を棒に振ることになる。これを取り違えれば、あなたは、「本当の死」を迎えることになる。あなたは、もう二度と甦ることはできない。残念無念では済まない永遠の後悔となる。

『盗んではならない』云々のモーゼの十戒そのものが、すでに、元つ大神の天地を奪った中つ魔釣りの神の嘘の法律であり、その流れを汲むすべての法律は、泥棒の世界を維持するための法律にすぎない。アメとムチを利用して法律を定める神や仏には本当の霊力はなく、恐れ(快楽)を持っている存在を操ることが出来るだけである。嘘の神仏を信仰しても、本当の意味でのご利益や救いはない代わりに、罰や祟りもない。本当に無から産み出せる神は戒律など創らない。たとえ、全員が天地を取り荒らす泥棒であっても、全員を成敗して、もう一度、無から産み出せばよいからである。無から産み出せる神は、神仏を含めたすべての有を産めると同時にすべてを無に返すこともできるということである。それほどの力がある神だからこそできることであるが、天地自然の大泥棒を、泥棒し続けることを承知の上で生かし、泥棒であることを自覚させて天地自然の掟に戻れるように仕組みを構えた大神の情けとご苦労はいかほどのものか、おわかりだろうか。あなたは、元つ天地の大神を闇に葬って、天地の掟を破る大大罪を犯して(天国を壊して)いるとも知らず、アヤマ知の常識を信奉して平然としている。元つ天地の大神が『天恵を使ってはならない』と言ったら、あなたは即、滅びである。本当の無条件の愛とは、大神の誠意のことである。
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悪を裁くことが真理の如く思い込んでいる現代人たち。すぐに他人を裁き、「悪人」を死刑にし、身欲で我がまま放題を続けている人類に、大神の本当の情けの深さを分かろうはずもない。あなたは、生まれ変わり死に変わりしながら、天地自然の掟を破って、万象万物を破壊する大大罪を犯し続けてきたのである。天地の理法に反して、天地に不調和を響かせる者は、即、滅びであり、あなたは、本来ならば命はないのである。あなたが賭けたり捨てたりしている命は、あなたのものではない。すべてのすべてが元つ天地の大神のものである。無から産み出せない者には、自分のものは何もないのである。自分のものではないものを勝手に売り買いする行為を泥棒と言わずに何と言うのだろうか。天地の理法を外した人類は、自らを神の如く思い込んで、神が産み出した資源をすべて金に置き換えて、大神の天地を好き放題に荒らし回っている。自らに都合のよい仕組みを作り、その中でマヤカシの自由や天国を得るために、非難したり迎合したりして争っている。すべては大神の響きの顕現であり、現代文明のすべては、天恵があって、初めて存在しえるものである。元つ天地の大神が、すべてを真釣りに戻したら、真コトなき世界は、跡形もなく消え去る。

天地の理法は、唯一無二の絶対法則である。神仏も含めて、天地の理法を破った「神界の犯罪者」には、無罪か死刑か二つに一つ、異議申し立てをする資格は一切ない。それをするならば、掟破りを認めずに、違反し続けることを意味する。大神の真意が本当にわかったというならば、違反した事実を素直に認め、天地の理法に違反して天地を取り荒らしてきたことをお詫びし、滅びる前に知らせてくれた大神の情けに感謝して、たとえどんなことが起きようとも、自らのしたことをキッチリと清算することしか、この先を生き延びる術はないのである。自らが永遠に生きるか死ぬかの瀬戸際である。自らが今まで何をしてきたのか、今のままならどんな運命が待っているのか、ここでしっかりと考えて欲しい。すべては、あなた自身のためである。あなたがそのまま滅びたいなら、それでも構わない。最初で最後の機会を生かすか殺すか、それはあなた次第であり、あなただけの現実となる。

『借りたものは返せ』『盗んだ者は犯罪者だ』と言うならば、本当の債権者、本当の所有者が、本当の債権、本当の所有権を主張したら、その言葉がそっくりそのままあなたに返ることになり、あなたは、もう二度と、どこにも生き返ることはできなくなる。知恵の蛇の神を頂点とした神や仏も含めて、現代社会には誰一人文句を言える者は存在しない。もし、今のまま所有し続けようとして屁理屈をこねくり回すならば、天地窃盗罪は確定である。天地自然の律法による天地窃盗罪は国家転覆罪であり、その判決は、「切腹」のみである。
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『働かなければ、食べられない』世界では、全員が働くのをやめれば、その社会は崩壊する。従って、その社会を支配する(その社会で糧を得て、楽して自らだけの楽園を享受している)黒幕は、被支配者を働かせ続けるシステムを作り出す。例えば、法治国家で「納税の義務(=働かなければ税金は払えない)」というアヤマ知を法律に規定すれば、脱税は犯罪となる。犯罪者になりたくない者は働き続ける。役人は税金を強制徴収する権限を与えられ、支払わない者から「財産」を没収できる。人民が働かなければ税金は生まれない。税金が生まれなければ役人は生きられない。役人が生きられなければ、その世界の黒幕も命はない。『自分は何のために生きているのか』という問いがあるが、あなたは『泥棒の親分(とその手下、そして、その親分がつくる世界)を生かすために生きている』のであり、それは、結局は、『自分を生かすために生きている』ことに他ならない。それは、その世界がすべてだと自らが思い込んでいることがもたらす自認自行の目的であるから、そこでどんな仕打ちを受けようとも、神仏も含めて、それを選んだ自ら以外の誰にも文句は言えない。あなたは『生きるために働いている』のではなく、『働くために生きている』のである。

民衆が完全な自由に気づいたら、支配はできない。民衆に反乱を起こさせずに働かせ続ける(金を生み出させる、金融ゲームの原資を枯渇させない)ためには、民衆の自由を制限した分のガス抜きが必要である。民衆をマヤカシの自由の籠の中に封じ込めるために用意されたもの、それが、叶わぬ夢を実現した積もりにさせる趣味や娯楽(テレビ、音楽、美術、スポーツ、映画、ギャンブル、風俗産業等=通称3S=SEX,SCREEN,SPORTS)である。犯罪をしなければ健全な生き方であるかのように見えるが、3Sが不可欠な、快欲を求める世界そのものがケモノの略奪の世界であり、健全ではないのである。獣が獣を教育しても、獣性を増すだけで、酒を性と金にのめり込み、快欲と快適を追いかける世界に進んでいく。獣の響きは二極分裂の戦いの世界を作り出すだけで、永遠に平和は叶わない。

真釣りを外して実現できなくなった夢を仮想の世界で体験することで、自らの一時的満足感、癒しを経てバランスを戻す。その究極がインターネットである。獣の世界では「健全育成」は幻である。科学の勉強や宗教への信心、社会貢献やボランティア、助け合いの思想も、結局は、世の闇=自らの空虚感を埋めるものでしかないが、これらの思想は空虚感が埋まらない世界だからこそ現れたものであるから、それは永遠に埋まることはない。そして、それを提供する側から見れば、それ自体もビジネスの道具であり、真釣り外しを続ける限り、なくなることはない。元々は、仕事も娯楽も一つであり、自分で自分を自由に楽しめる世界であった。真釣り外した結果である苦や悪を形の道具で解消しようとし続けるなら、誰かが作った仕事に従事して貯めたストレスを、誰かが作った娯楽を食べて解消するという、霊的マスターべーションが不可欠な世界が永遠に続くことになる。「人」の響きを忘れ、「獣」の響きで天国を作ろうとしても、逆さまの世を続ける限り、それは叶わない。自らが、獣の響き(ヘビの知恵)と人の響きを持つ二重神格であることを自覚し、ヘビの世界の善と真コトの善との区別タテ分けをしなければ、滅びの世界に自ら飛び込むことになる。人の響きで獣の響きを導いて、人が獣を従える「健全な」姿に戻ることである。
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現代社会は、蛇の知恵の神を源とするピラミッド構造の最下層の社会である。人類のしてきたことは、『限りある(と思い込んでいる)資源』を奪い合って勝ち残りを決めるゲームに過ぎない。各々の「界」で、立場、財産、技術、知識、収益等々のトップがいるが、現代社会を牛耳るトップは一人であり、神の世界のトップも一人である。しかし、魔釣りの神代のトップは真釣りの世には存在できないから、たとえ今の世で蛇の知恵の神になろうとも、永遠の天国はない。勿論、知恵の神を超えることは絶対にできない。あなたは何を目指して生きているのか。あなたは何のために争っているのか。あなたの目指す天国は、生死時空を超えた世界である。それは、自らが元々いた世界のことであり、今の生き様のままでは、どう頑張っても、限りある今世の寿命の間で天国を体験することはありえない。

現代社会は、人間の姿をしたケモノの社会であり、ケモノがケモノを潰す、共食いの世界である。ケモノの調教は、教育であり、躾であり、訓練でもある。家庭や学校、社会が乱れるのは、ケモノの響きである者が、自らをヒト(真釣りの神)だと思い込み、本来はヒトの世界である天国を創ろうとしてきたからである。ヒトの天国を魔釣りのケモノが壊した末路が現代社会であるから、ケモノであることを自覚しないまま教育をしても、世が乱れるだけである。ケモノの世界はアメとムチを使ったピラミッド型で丸くおさまる。日本狼の絶滅は、ヒノモトの真コト(日本の大神)が表の世から消滅したことを意味する。国産の朱鷺の絶滅は、ヒノモトの神気(十気、時を統べる神の十理=真釣り)の封印が九分九厘完了したことの型示しである。姿形の整合性(バランス)を取ったとしても、それは、形の辻褄合わせ、「日本風の形」を残したに過ぎず、裏の響きはケモノに変わりはない。それどころか、形を天国にしようとすればするほど、裏の響きはどんどんケモノ化が進み、最後は、獣の本性丸出しとなり、共食いの末に自滅する。非常事態での日本人の秩序正しさは、獣を理性で抑えているだけであり、耐え切れずに爆発すれば、最悪の暴徒と化す。獣の性を封じ込め、善人であることを演じようとすればするほど、身魂は酷い姿となる。封印したエネルギーが多いほど、解放する時の爆発力も強力になる。狼の社会すら作れないケモノ人間に、大神の真釣りの天国を創ることなど、絶対に実現しない空想物語りである。

国際社会が混乱するのは、ケモノがケモノを調教して、ケモノの王になろうとして、主権争いをしているからである。蛇の知恵の神の子孫が牛耳る世界は、全員がケモノの響きである。ケモノはケモノにしかなれず、餌(領土、資源、お金、思想、命)の奪い合いの末に、王の一騎打ちで滅亡する。ケモノの世は、ヒトの世の復活で滅びるから、結局は、ケモノの世はマボロシである。もしどうしても、ケモノとして平和な世界を創りたいならば、子供の躾、生徒の教育の方法は「犬のしつけ方」を参考にするとよい。しかし、親や教師がケモノである限り、天国はできない。自らの調教もままならない者が、他人を調教しようとすれば、脈絡のない感情にまかせた独裁飼育となるか、教師(親、指導者)が生徒(子、被支配者)に迎合するしかないが、どちらも混乱を作り出すだけである。自由平等博愛の思想は、バラバラな世界を進める。リーダーが必要なケモノ社会で、平等や自由を唱えれば、好き放題に勝手なことを言い、争いを繰り返し、理想とは正反対の世界をどんどん進めた挙句、滅びの時に至る。まずは、自らがヒトの真釣りに戻ること、つまりは、自らのヒトの響きを思い出して自らの中のケモノをケモノとしてキッチリ調教することである。
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ケモノ社会は、相互依存の弱肉強食の世界しか作れない。管理教育は反発を生み、個性教育は自分勝手なバラバラな社会を生む。理性を持ったケモノの社会は、結局は、自然の調和の掟に反した世界であり、強力なリーダーが統率しなければ納まらない社会なのである。自由放任がよくないと言われるのは、それをすると獣の世界が壊れてしまうからである。その理由とする社会のシステム自体が、おかしいのである。支配の世界に自由はない。自由を求めて制限を強制するという矛盾。自由は自由であり、条件は一つもないのだが、それは、真釣りのヒトの響きを体現できる者だけの社会で可能なことである。人の世界を空想物語りにしてしまった獣の世界の自由は、支配者に忠誠を誓うならば、という条件つきであり、支配者の都合で、自由は奪われる。神の世界を封印した、この世だけの八方世界の平面志向である限り、本当の天国を実現することはありえない。蛇はどう足掻いても蛇である。自らの中の蛇を竜が封印し、竜の生き様を復活しなければ、蛇の毒牙にかかって自ら滅ぶ末路となる。ケモノは際限なく食べ続ける。ヒトが導かなければ、ケモノの世すら存亡の危機となる。自然界で、最も不自然な社会は「人間(人類)という動物」の世界である。ヒトとは真釣りの響きの神のことである。今の世は蛇が牛耳るケモノの神の世である。たとえ、現代社会の裏の裏の黒幕になったとしても、あなたには永遠の天国はない。

現代社会での「職業」は、泥棒の世界で、黒幕が楽をして天国を得るための仕組みを維持するための真釣りのマの字もない戯言であり、実際は、何の強制力も義務もないマヤカシである。しかし、その世界を真実だと思い込んでいる人民は馬鹿正直に働き続け、上納金(税金)を納め続ける。税金を払わないことに罪悪感を覚え、自ら進んでマヤカシの世界の維持に貢献し、自己満足に浸る。『働かざる者食うべからず』というアヤマ知の思想を植え付けられた人民を扇動し、金の世界で働かせ、上納金で楽して暮らす「役人(公務員)」と呼ばれる窃盗団運営組織の幹部ですらも人民を働かせ続けなければ自らの命がなくなる自縄自縛の仕組みを相互依存と呼ぶ。その中にいる限り、上下も自由も平等も公平もない偽の天国を目指して世界を進めていく。宗教法人、特殊法人、社会福祉法人、財団法人、学校法人等々の税金優遇策や、障害者、老人、乳幼児等の割引制度等々があるのは、現代社会の依存システムの中では、割得感を与えたり、ある仕事に寄与する者を優遇したりすることで、自ら進んで社会に貢献するように仕向けるために有効な手法だからである。自らは何もせずに楽しようとする、何も知らない人民に、弱肉強食の敗者の尻拭いをさせるためであり、ケモノの仕組みを教育し、大衆の反乱を未然に防止し、金がものを言う経済社会を維持するためである。無から産み出せる大神は、『働かない者は食べるな』とは一言も言っていない。元つ真釣りの世にはお金は存在せず、お金による誘導は全く意味を為さない。自然の中で生きる動物たちを見れば、一目瞭然である。自らの欲望のまま生きて天国の階段を昇っても、最後の階段は、崩壊である。あなたが『働かなければ食べられなくなったの』のは、あなたが働かなければ困る者が図った策略にまんまと嵌まった結果である。その世界に足場を置いて同意しているあなたには、たとえ餓死しようとも、どこにも文句を言うところはない。実際は、この世の黒幕は、働かずに食べるどころか、他人を働かせたお金を使って、神を金にすりかえた世界で天国の如き暮らしを謳歌しているのである。
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今の「国際社会」は、資源を金で支配する世界であり、その加工物の売り買いの自由度によって衣食住のレベルが決まる。金があるほど天国になる仕組みであるから、楽して天国を得ようとすれば、金で金を増やすマヤカシの仕組みに魅せられ、『いかに儲けを多くゲットするか』に血眼になって、金蔓のターゲットを探すゲームをし続けることになる。しかし、実際には「金融システム」を設計し、世に広めた、一部のエリートのみが自由に振る舞えるだけであり、一般庶民には高度な仕組みは理解できないから、上から下までどっぷりとその世界に嵌まってしまっている。貯蓄やローン、株の売買、円とドルの売買という言葉を疑うものは誰も居らず、当たり前のように、売買価格や貸し借りの金利、為替相場の動向を追いかけている。貸し出しも金利、預け入れも金利である。預金者は、預けている銀行の債権者であり、銀行は貸している預金者の債権者である。お互いに債権者であり、債務者である。実際は、お金の貸し借り、売買の世界は存在しないから、商法という決まりを作って、商売の仕組みを正当化して継続しなければ、金の仕組みは壊れてしまう。しかし、法律自体がマヤカシであれば、商法の正当性と強制力が消えるから、お金を仲立ちにする窃盗=商売も泥棒も同じ行為となる。結果、経済活動は自由選択のゲームとなり、それが不自然なものであれば、参加者は自然淘汰される。上納金をプールしている意味に黒幕が気づかないなら、金の仕組みが壊れれば、金の仕組みで天国を謳歌する野望を持つ、現代社会の黒幕も命がなくなる。黒幕の命がなくなれば、金融システムもなくなり、コンピューターも無用の長物と化し、本当の神の世界を闇に封印し、形のお金の世界で、誰かの決めた通りに生きて楽をしてきた、何をしてよいのか自ら考えられない庶民は狂死する。

生まれたときにすでにある、誰かから与えられたシステムを利便だけを追いかけて使っているならば、罠に落ちる危険性が大である。魔釣りの世には、本当の天使はいない。世の仕組みを設計した者は、自らの安泰だけを考えて、罠を仕掛けて仕組みを作る。巧妙なカラクリは、一流の学者ですら見破れない。見破ったとしても、保身のために公開しない。大衆に至っては、全く正体は見えていない。大神の神仕組みも含めて、システムの持つ意図を知り、システムのすべての構造を熟知し、システムを自由に使いこなし、自らの完璧な危機管理をして、仕組みの中にいる者を自由自在に操れるのは、設計した本人だけである。元つ大神のシステムでは、真釣りそのものの響きがなければ、何を企もうと世は滅ぶ。
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利子とは元金が産む利の子供である。元金という親の先祖は紙であり、銅や銀やアルミである。さらに遡れば、樹木であり、鉱石である。もっと遡れば、火であり、創造エネルギーであり、元つ大神の響きである。無から作り出せる神の世界に、金融、為替、ギャンブルがあるのはいかなることか。どこでおかしくなったのか。現代社会は、資源やその加工品、原爆、果ては、神のご利益まで売り買いする、金融システムを神とする「市場経済」という戦略を使ったお金の略奪競争である。売上のランキングが国のランキングであり、ランキングが上位の国ほど金が集まる仕組み、お互いに国債という借金の債権者になり、株式という紙を売り買いすることで会社、つまりは、その社員から取引先、顧客まで、すべてを売り買いする仕組みを作り出した。神を金に置き換えて、真釣りの天恵や知恵を魔釣りの思想で好き放題に使って、金に交換する(儲けを出す)仕組みを作り出し、個人から家庭、市長村、都道府県、州、国、国連まで、結局は、数学上の損得、即ち、帳簿上の収支決算の「+」を奪い合う略奪の世界が「文明社会」と呼ばれる末路の現代社会である。

物と金を交換するだけでは、物々交換と同じであるから意味がない。ビジネスという仕組みを作って、初めて、金の世界の王になるチャンスが与えられるのである。仕入れの原価は0と同じであり、在庫を抱えた状態では、借金しているのと同じである。売って儲けが出て、初めて、金の世で衣食住を自由に手に入れられる「神」を手にしたことになるのである。真釣りには損得はなく、損得があるならば、魔釣りの略奪の世界である。大神の真釣りの響きで無から産み出した天恵を魔釣りの響きで泥棒して、それを元手に金という紙や金属を集める。電子マネーや、為替ディーラーの例で分かるが、やっているのは、コンピュ−ター上の数字の操作であり、結局は、お金そのもの(現金)も、形に見えるように具象化した道具に過ぎず、現金のみで売り買いをしていた社会は、数字操作の世界であることを誤魔化すための、過渡期の段階なのである。実感を得させるために「お金」という偶像を具象化して形の売買をしているが、実体は、すべての物(行為、サービス)を数値化し、数字を増やしたり減らしたりして仮想売買をしているゲームに過ぎない。もっと言えば、万象万物を数字に置き換えて、数字を捜査することで快を奪い合う快欲追及競争である。大きな+数字を手にするほど自由=至福の体験ができ、−数字を手にするほど、誰かに操られて不自由になる(言い換えれば、金を貸せば操れる)「見事な」システムである。

神を金に置き換えた世界=お金(経済)に自らの命を預けている民の構成している世界では、お金(=命)=数字の操作権限を手にすれば、戦争や殺し合い、自殺をさせることは簡単である。世界を支配することや、自らの手を汚さずに邪魔者を消すことも自由自在となる。形で快を得る世界で、形をお金に置き換え、数値化し、それを、コンピューターを使って管理するシステムを作り出す。現金のやり取りの不便さを体験させた後に、カードを与え、ローンシステムの便利さを植え付ければ、便利や楽を追い求める大衆は、裏のカラクリに気づくこともなく、自らの欲望のままに快適生活を追いかけ、「金」の世界の虜になってしまう。当然、民の集団である国家も同じ仕組みであるから、金融システムの実権を握ることで、特定の国を操作し、破綻させ、離合集散させて、思い通りに世界を奴隷化することは簡単である。しかし、たとえ神を金に置き換えた世界を支配しても、その世界が、「この世」限定の有限の略奪の世界である限りは、結局は、自らが破綻することになる。
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人類の起源、魂の源は「神」であるから、自らが創造した結果は、すべて自らが引き受けることになる。魔釣りの略奪の世界が永遠に続くのであれば、永遠に略奪を続けることもできる。しかし、それとて、有限の世界の奪い合いである限りは、必ず破綻する時が来る。たとえ、今生だけのスパンで破滅の危機を乗り切ったとしても、生まれ変わる魂としての存在であるあなたは、永遠に転生し続けることになるから、必ず、自らが滅びを体験する時に居合わせる。そもそも、真釣りの世では、生死時空は一つであり、過去も現在も未来もなく、生も病老も死も、天国も地獄も滅びも存在しない。従って、あなたが真釣りならば、すでに生き通しであり、真釣り戻しの世界で魔釣りの世を体験しているだけであるから、生死を心配する必要は全くない。魔釣りのゲームが終われば、永遠の天国の現実に戻る。あなたが魔釣りならば、あなたはすでにどこにも存在しない幻であり、真釣りの世に戻れば、あなたは跡形もなく見えなくなる。生死時空を分裂させた魔釣りの響きがある間だけ、存在するように見えているだけである。真釣りの世では、魔釣りのあなたはどこにも存在せず、生き死にを賭けて争っているTVゲームの仮想現実の中の登場人物の一人に過ぎない。真釣りの神がスイッチを切れば、あなたの存在は幽霊のように視界から消える。蜃気楼のような存在が幻の世界を実体として進めてきたのが、人類の歴史であり、魔釣りのアヤマ知で何を画策しようとも、真釣りの大掃除を超えて生き延びることはありえない。

魔釣りの世界がある間は、魔釣りのアヤマ知の世界で好き放題に生きることができる。しかし、魔釣りのアヤマ知で世を進められるのは、後少しのことである。あなたをそのまま放っておいても、自動的に破滅(消滅)するが、大神の親心=情けによって、天地の理法に違反した魔釣りの響きの身魂を真釣りのミロクに生かすための最後の仕上げが用意されている。自動的に消滅するその前に、元つ大神の真釣りの神仕組みによって、大掃除をして真釣りに戻す最後のチャンスを与える仕組みが発動することになっているのである。魔釣りの世を進めたい者は勝手に進めればよいが、魔釣りの響きは、囚われを解くための仕組みである限り、永遠には許されない。天地の理法に違反した身魂を真釣りに戻すための期間限定のシステムである限りは、計画された時節が到来すれば、問答無用で真釣りに戻すことになる。仕上げの仕組みが発動した後は、自ら真釣りに戻らない限り、どんどん地獄の現実が進み、自らのしてきた結果を身を持って体験することになる。生死時空を超えた世界に生かされていた自らの実体そのままに、すべての自己責任を清算することになる。
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資源を加工した「お金」というマヤカシの道具を使った、略奪の知恵が作り出した金融システム(正確には、高等数学とコンピューターを使った略奪システム)をどう駆使しようとも、「すべて」を支配することは、絶対に不可能である。形で響きを、金で神を支配できるならいざ知らず、「この世」の「文明社会」だけを支配しても何の意味もなく、天地自然の理法を外したやり方では、自らの首を締め続けるだけのことである。さらには、支配者の策略にまんまと嵌まって、快欲を追いかけて、金の世界で自由や至福を得ようとしている「大衆(庶民、一般人)」も、識者と呼ばれる政治家や、宗教家や、学者も、全員が同罪であり、全く同じ運命を辿る。神から人まで一体不可分の世界で自由自在に天国を体験するためには、真釣りに戻るしか術はなく、魔釣りの世界(運命共同体)は破滅して終わる。現代社会の「豊かさ」や「経済発展」の本当の意味を知り、今まで、どんな世界で、何をしていたのかを正直に見て、自らの辿る運命を今ここでシッカリと考えてみることである。

電子化するということは、すべてのデータを自由に閲覧できる者が存在するということであり、それが政府機関ならば、法律での個人情報の保護は意味がない。すべてをコンピューター上にデータ化すれば、コンピューター上の操作で、金持ちにも破産者にも、無罪にも有罪にも、できるのである。現代社会で個人を個人たらしめているものは、データである。名前、生年月日、国籍、病歴、職歴、学歴、成績、購買歴、預金借金残高、家系、犯罪歴等々、電子世界を辿れば、すべてのデータを手に入れることができる。電子世界で誰かを殺す(死亡したことにする)ことも、別人に仕立て上げることもでき、電子的輪廻転生が可能になる。先端科学技術は軍事利用から始まり、軍事的に危険がない状態になった時(さらに先端の技術が開発された時に)民間に開放されるのである。インターネットも、電子レンジも、テレビゲームも、庶民にとっての最新技術や最新機器は、すでに軍のお下がりなのである。新しい技術には終わりがなく、庶民は、最新機器に買い換えるために永遠にお金を使い続ける(働き続ける)ことになる。庶民でいる限りは、どんなに頑張っても、本当の自由は得られないのである。軍の最高機密は誰も知ることはできない。庶民にはマヤカシや作り話に見えることも、真相を封印するためにそう思うように教育を通して洗脳されているだけで、実際は、どんな荒唐無稽な話でも実現の可能性はある。庶民から見れば、進歩しているように見えるが、政府や軍や企業が本気になれば、今すぐにでも、50年先に実現すると知らされている未来の生活も実現するのである。何らかの理由(儲け続けるために主導権を確保する、あるいは、軍事支配権を維持するため)で、小出しにしているだけである。インターネットの便利さ、自由さの裏に隠された本当の目的が何なのかを知らずに使っていれば、気づいた時には、とんでもない世界に放り出されることになる。
P104
ハッカーが犯罪者だと思ったら大間違いである。権力を握っている組織が、何らかの意図でハッキングを依頼した場合は、ハッカーは勲章を授与される。国民総背番号制の是非の議論があるが、全く意味がない空論である。文字、即ち、名前や地名がコード化できる限り、生まれる前から背番号がついているのである。すでに、民間レベルで電子管理されているのが現代社会であり、自治体のコンピューターへの侵入実権は、時間と税金の無駄である。この世にあるものは、すべて、数字に置き換えることができる。映像も、色彩も、振動も、波動もすべてが数値化できる。つまり、この世にあるものは、すべてコンピューターで処理できるのである。この本の文字もパソコン内では、コード処理されて、文字に変換され、印刷され、本の形であなたの目の前に出現したのである。上から下まで、進歩、発展神話にのめり込み、快楽と利便を追いかけ続けた挙句、現代社会の正体を知らずに、自ら進んでIT社会や電子政府というマヤカシに足を踏み入れている。インテリジェンステクノロジーとは、知恵の蛇の魔釣りの神の究極の物質化世界を作る技術なのである。電脳網、即ち、数字の演算処理電子脳の網がすべて管理する社会で、便利、快適、安全、簡単、ユニバーサル云々を追いかけた末に行き着く先は、全く逆さまの現実である。

この世、正確に言えば、文明社会は、高等数学の演算処理の作品である。一般大衆は、パソコンのCGや携帯電話やゲームを何も考えずに利用しているが、それを画面上に出現させるためのプログラミングとコンピューター内部の処理は緻密で、かつ膨大なものである。現実社会も同じことで、大衆の目には、物や金や預金通帳や数学の教科書やパソコンやインターネットやビジネスのような具体像として現れるだけであるが、その裏には、一般大衆には及びもつかない、とんでもなく緻密に計算され尽くしたシステムが動いているのである。そのシステムを設計し、組み上げ、形にして、実際の社会で自由自在に運用できるエリート集団が、お金と金融経済を道具にして、物を数字に置き換えた世界を自由自在に操作して天国を生きている。究極的には、すべてのデータを蓄積したコンピューターを破壊すれば、電子政府の支配する仮想現実での個人情報、地位、身分、財産は、一瞬のうちに幻の如く消えてしまい、現代社会という幻想に足場を置いているすべての者が「自分」を失うことになる。0から産み出せない限りは、始めからすべてが幻なのである。しかし、それは、魔釣りの響きの形の世界だけの話であって、この世でどんな企みがあろうとも、真釣りの響きだけは消すことはできず、自らの真中の真コトの響きを残せば、新しい世界で自由に自分を再生することができる。魔釣りの今世を支配する者も含めて、すべてが幻想の世界であり、本当の実体である元つ真釣り世が復活すれば、地球どころか、魔釣りの世界で作ったものは、神から人まで、あの世からこの世まで、すべてが消滅するのである。

金融経済の世界には、等価交換はありえない。元金、原資、原価は、お金ではない。100$と100¥のように、同じ数字でも単位を変えれば価値が変わる。変動相場という仕組みを作って、金の価値変換で、エネルギーを使わずに金を増やすゲームが、金で金を増やす金融システムである。しかし、金融システムが基にある市場経済も、天恵がなければ、ゲームはできない。当たり前のようにやっている物の売り買い=ビジネスの正体とは一体何なのか。現代社会を支配する、人類の歴史を通じて根底に流れている大きな嘘に気づかなければ、世の破滅は必至となる。人民を働かせた果実である税金を上納させた王から上納金を巻き上げて楽して暮らすのが、世の黒幕である。暴力団やマフィア、宗教団体の組織運営システムは、そのまま現代社会の映し絵なのである。その現代社会の中で快楽を得よう、生き残ろうとしているならば、どんなに清く正しい倹約者でも、破滅の道中にある。
P105
現代社会は、蛇の知の神の牛耳る世界である。蛇の天国を維持するためにその世界で考え出されたシステムを都合のいいように使って、蛇の世界で国力を誇ってきた日本国。そして、拝金教国の象徴に成り下がり、真釣りの真コトを闇に葬って魔釣りの神の神事に勤しむ日本国の王。西洋世界の王は、血統を重んじ、領地を奪い合い、その上納金で富を得てきた。現代社会の裏の黒幕も、表向きは略奪に見えない同じ仕組みで国際社会を牛耳っている。みなの幸せを願い、施しの仕組みを褒め称え、善人を演じて、いつのまにか黒幕に座らされた黒幕、世界を牛耳る知恵の神の仕組みを利用して『働かざる者(金を稼がざる者)喰うべからず』の世界で何の危険もなく(その代わりに自由もないが)偽の天国の暮らしを顕現しているその存在が、知恵の神の恩恵を最も受ける。外国にも国民にも人畜無害だから潰されることがないだけであり、最後は、元つ大神の大掃除の対象者の象徴となる。

皇室の祖神である天照皇大神は、魔釣りの天孫族であり、伊勢神宮は、神界のGHQ本部である。神界のヒノモトの占領は三千年の間、続いている。しかし、神の占領軍が何を企んでいようとも、すべては元つ仕組みに織り込み済みであり、九分九厘まで魔釣りに勝ちを渡したその後に、元つ大神のたった一発の元始爆弾で、魔釣りの世界はすべて焦土と化し、神から人まですべての世界が元つ真釣りの神代に戻ることになる。日本史では、実在が疑問視されている神武天皇は、実際は、人皇として即位した正神真神である。従って、それは「神代の岩戸閉め」を意味するから、その流れを汲む現在の皇室は、魔釣りの蛇の流れの子孫となる。「万世一系の天皇家」というのは、人皇の世(岩戸の中)の、形の歴史の中の話であり、本当のスメラミコトの正体を封印する魔釣りのアヤマ知だったのである。

日本の神響きを封印するために、唐欧米を使って、外来宗教で敬神を壊し、教育でアヤマ知の科学を植え付け、経済システムの中に取り込んで金の虜と為す。宗教、政治、経済、軍事の実権を奪って、日本人一人一人の身欲を煽る餌をばら蒔き、真中の真コトを邪鬼となして鬼門に封じれば、世界は蛇の思うがままとなる。大神を忘れ、世界の真中のハラを骨抜きにするための「蛇の知恵の罠」、三千年の策略にまんまと嵌まってしまった日本国。揺り篭から墓場まで「完全生活保護」を受けて暮らし、最高レベルの教育と衣食住を享受し、贅を慎み、弱者の気持ちを思い、国民の幸せだけを考える「魔釣り社会の最善王」は、一厘の差で、蛇の神の体現者となる。英国女王から騎士の勲章を授かり、皇族が英国留学し、魔釣りの科学の学者として世界に名を轟かせ、世話係の仮面を被った侍従と言う名の監視付きの皇居と言う名の隔離施設に住み、公務と言う名のお飾りの仕事で一生を終える「天皇」という存在が、実は、魔釣りの蛇の知恵の神の究極の権化なのである。日本人として真コトに悲しいことではあるが、本当に正直に考えれば、これが天皇家の正体である。
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儀式を守り、国の安泰と五穀豊穣を祈っていると言っても、祈る対象のその神は岩戸を閉めたあとの魔釣りの天孫降臨の神であり、皇祖が天照大神ならば、その源は知恵の神である。その世界で国祖神に安泰を祈り、伝統儀式を継承してきたとしても、その答えが現代日本の混迷だとすれば、それは何を意味するのか。日本は「世界の雛型」である。日本が何をしているかによって、世界の行く末が左右される。真釣りの源であるべき日本の王(スメラギ、皇族)が魔釣りの経済の上納金で生存を保障され、魔釣りの神の神事を続けて何不自由なく暮らし、人民が科学教、金融教を信奉しているなら、それは、知恵の神の実働部隊の王が全世界を奴隷にしていることを意味する。天皇家が本当の祀り(「真釣り」)をしていなければ、現代日本は、神社から学校まで、神から人まで完全なる魔釣りの奴隷であり、日本が魔釣りの源であれば、蛇が竜を支配する現代社会の末路は、破滅のみである。

「日本列島」は、元つ神気出づる唯一の地、真釣りを統べる三千世界の基(臍)であり、今も真コトの一厘の響きを奏で続けている元つ大神の御神体そのものである。真コトの一厘の響きを闇に葬ってアヤマ知の科学と金にのめり込み、衣食住から精神まで魔釣りに握られた日本国。日本=ハラが完全に腐っているならば、『神と悪魔の戦いのケモノの宗教』『世界は一家人類は兄弟姉妹』『金が支える金融経済システム』『科学、IT、慈善、裁判、福祉=相互依存』(体主心従霊属の魔釣り)に足場を置く、真釣りを外した「蛇の知恵の火」を基と為す、逆さまの「嘘の蛇の悪神」が統べる世界の末路は、神から人までただ一つである。ヒノモトが腐れば(苦去らなければ)魔釣り、腐らなければ(苦去れば)真釣りである。『真中の座に何様が座るかで、八方世界のマ釣りが決まる』それが、元つ仕組みである。今の世は、ヒノモト真中に蛇が座す、八方世界に蛇の頭が睨みをきかす、ヤマタノオロチが牛耳る世界である。そのヒノモトの有様を真実だと思っているすべての日本人のハラにいるのは、当然のことながら、竜の仮面を被った大蛇である。神代の昔にヒノモトが魔釣りで曇ったことが、世界が汚泥混濁の争いの歴史を歩んだ本当の原因なのである。

真中が真釣りなら世界も真釣りである。ヒノモト真中=世界のハラが腐らなければ、世界は今も真釣りのまま続いていた。世の大掃除もなく、嬉し楽しの幕の上がりで、真釣りのミロクに成ったのである。自らの真中に真コトの草薙の剣が封印されている。オロチの腹にはオロチが飲み込んだ剣がある。自らがオロチに負けて献上した剣である。真コトを響かせれば、オロチの腹の剣が真コトに共鳴し、魔コトのオロチは悶え苦しんだ末に、真コトの響きに戻る。大蛇が正竜に戻る。自らが真釣りに戻る。それが、真釣りが魔釣りを改心させる仕組みである。魔コトを捨てれば真コトが響き、真コトが響けばオロチが従う。魔コトに囚われ続ければ、オロチもろ共、自らが真コトに成敗される。ヒノモトの民が真コトを響かせればヒノモトに真コトが響き、ヒノモトに真コトが響けば、世界に真コトが響く。世界に真コトが響きけば、世界が真釣りに戻る。元々は、世は真釣りのみである。まずは、真釣り外した自らが真中の真コトを思い出し、真コトを鳴り成らせることである。草薙の神剣による各自のオロチ退治、ヒノモト真中の大掃除から、本当の世直しが始まる。
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霊主心従体属の真釣りの真コトの正神真神の竜が統べる天地の神法、分かり易く言えば、日本列島を御神体=聖地として崇める真コトの神の精神を拠り所とする本当の「世界統一教」に戻らない限り、世界の破滅となる。神から人まですべての世界が滅ぶか残るか。その鍵は「日本」である。本当の日本=ヒノモトに残る最後の真コトの一厘、本当の日本の神道(真コトの日本真道、神道=戦争ではない)の復活が、元つ真釣りの大神の救世の響きをこの世に降ろす唯一の術である。まず手始めは、御神体の神官=日本人の超大掃除である。この本は、現代日本と人類史の正体を明かし、心に巣食っている嘘を掃除する材料を提供することで、日本人が本当の日本人に戻って、残る一厘の真コトの道を日本に(そして世界に)復活するための、真コトの日本を担う人材を育てる再教育の教科書でもある。

世界を救う真コトの一厘。天皇から庶民まで、日本のお土に産まれ、育まれた日本人全員が思い出すべき真コトの一厘である。本当の日本の一厘を穢した事実は消せないから相応の大掃除はあるが、この一厘で元つ大神の御用を果たすことが、これから始まる世界の立て直しで日本が果たすべき天命である。これは空想でも理想でもなく、「元つ真釣りの大神の創造の法則」に基づいた元つ仕組みである。これを荒唐無稽の夢物語、狂った宗教家の戯言として闇に葬るのが、真釣り外した現代社会で教わった常識なのである。現代社会が逆さまであるなら、真釣りの世では、現代社会の常識が荒唐無稽となる。この本の話と現代社会の常識、どちらが本当の真実なのかは、現代社会を見れば明らかである。ハラとアタマの戦いとは、現代社会の魔釣りとミロクの真釣りの時空を超えた決戦である。真コトの一厘があることを思い出し、それを認めて心底から改心し、魔コトの宗教と科学を捨て、真釣り外した分の身魂の大掃除の辛苦に耐えて、見事ミロクの開闢の天命を果たして欲しい。

現代社会は、本当の神を知らない。神の戦争の結末を知らずに戦い続けている。真コトの神との戦いは、生死時空を超えた戦いであり、水爆も細菌兵器も役に立たない。たとえ、魔釣りの蛇の知恵の神が自らの総力を挙げて封じ込めようとしても、勝ちはない。ヒノモトが真釣りに戻らなければ、世界は破滅に向かう。真コトの神を知らない今の国際社会の中で日本が真釣りに戻ると、『日本の突然変異』『市場経済と民主主義への冒涜』『狂ったとしか思えない裏切り』『神国の復活』に世界は驚天動地の大混乱になる。『日本帝国主義の復活の脅威だ』『国際社会を混乱させるテロリストだ』『我らの神を冒涜する悪魔が正体を現した』と一致団結して責めて(攻めて)来るかもしれない。しかし、どんな状況になろうとも、決して真コトを動かしてはならない。今の立場を守ろうとして迎合してはならない。生死も立場も国の存亡も、すべてのすべてを元つ真釣りの大神と正神真神(ヒノモトの真コトの守護神)に任せて、真釣りという神法を厳格に守り通し、蛇の世で積み(罪)上げてきたすべての歴史を捨てる覚悟を決めて、非難、圧力、攻撃に見事に耐えて真コトを貫くことが、世界に真コトを示すこれからの日本の本当の「シゴト(国際貢献)」である。
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世を滅ぼす自分勝手な魔釣りの「私事(死事)」ではなく、真コトの一厘で世を支える真釣りの「支事」が、世界の中での日本の本職である。真コトの日本の守護神の総帥は、魔釣りの総帥の蛇の知恵の神をも産み生んだ、三千世界を統べる真釣る真コトの創造主、元つ真釣りの大神様である。それがどんな神なのか、何と言う神なのか、云々と神の正体を分かってから信じようなどというのは、真釣り外しの証であり、魔釣りの権化そのものである。そのままでいるならば、これから始まる総決戦では、寝返った裏切り者は賊軍と見なされて成敗の標的となることを覚悟しておくことである。魔釣りの勢力でも、真釣りに寝返れば、真コトの官軍として迎えられるということである。自らがどちらを選ぶのか、今ここから態度で示してもらいたい。難しく考えることはない。要は、真コトの日本人として何をすべきなのかだけを汲み取って、それを一言違わずに実行に移せばよいだけのことである。

真コトを磨けば、自動的に官軍の兵力として大神の旗の下に参戦できるのである。これは身魂の戦であり、今世で言う老若男女や知識や体力や宗教や財力や生き死は全くもって意味がない。女だから、子供だから、老人だから、などという現代社会の常識での言い逃れは通用しない。『そんな馬鹿げた話は信じない』それは、自らの永遠の滅びを意味する。霊界全土が遍く戦場と化すから、神や仏も含めて、誰一人(一柱)、戦を逃れることはできない。真釣りか魔釣りか、生き戻る道か滅びる道か、裏表、正反対の選択であり、官軍か賊軍か、どちらか一方の兵士になるしか道はない。万古末代、永遠に生きるか滅びるか、生死時空を超えた二つに一つの究極の踏絵である。究極のビックリ箱、本当のパンドラの箱が開いた時に肝を潰さないように今から少しでも真コトを磨いて準備しておくことである。

この本で語る話は、現代社会を信奉している日本人にとっては、とんでもなく馬鹿げた荒唐無稽な話に聞こえるはずである。「狂った」著者の精神構造を分析したくなるかもしれない。しかし、ここに書かれている話は、すべてのすべてが事実であり、これが嘘ならば、現代社会の常識が真実だということになり、そのまま生きていけば、明るい、光輝く天国がやってくるだろう。あなたが、どちらを信じる(選択する=実行する)かは自由であるから、著者が口をはさむ問題ではない。著者は、ただ、自らが求めていた結論であり、かつ、人類が求め続けてきた真コトの真実を公開しただけである。現代社会の真実と著者の真実のどちらが嘘か、どちらが悪か、どちらがマヤカシか、どちらが天国を作る方法か、この際限のない究極の禅問答については、著者自身が究極まで突き詰めた問題であり、自問自答を繰り返して自己矛盾を解消していった末に辿り着いた結論がこの本なのである。
P109
この本の話は、議論する余地はない。あなたの本当の姿を映す鏡であり、あなたが、最初に決めることは、あなたがこの本を要るのか要らないのかである。もし、あなたにとってこの本が不要ならば、その場でゴミ箱に捨ててもらって、今までの生き様に戻って頂いて一向に構わない。この本を読んでいる身欲のあなたは、この本から何かを得ようとしているのであるから、著者の言動に対して口をはさむ資格はない。数え切れないほどの恐れを乗り越え、長きに渡る体験を通して、真偽の裏付けを取った上でここに辿り着いている著者としては、例え自分一人だけしか信じていないとしても、霊界で殺され続けたとしても、自らが持っている今の考えを改める気は100%ない。著者に対しての忠告や警告や助言の類は一切辞退させて頂く。著者は、その正体を知った限りは、魔釣りの穢れ(怪我霊)の世界に戻ることは絶対になく、最後は、読者諸氏がどう判断するかの個人的問題となる。

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posted by 長谷章宏 at 20:59| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 事実その3

事実 その3(P183〜255)

P183
現代社会は、元つ天の大神の掟(真釣り)を外した魔釣りのアヤマ知で作り上げた過ちの歴史の末路の型示しである。今の仏教で言えば、末法の世である。真釣りを外して自ら産み出せなくなった者ができることは、「すでに有るもの」を使うことだけである。大神が産み出している天恵(自らの命と死後も含めた時空とそこにあるすべてのもの)の「使用料」を、産み出した本人に支払っている人間は何人いるだろうか。もし未払いならば、それは、クレジット購入(ツケ払い)である。もしそうならば、その天恵を使って作ったすべての「商品」、日常生活で使うエネルギー、それらを作り出す理念や技術、自らの肉体や命、森林や海や山や川、酸素、太陽、月、自らが存在する空間、時間、宗教や科学や知恵や歴史や天恵や魂や神仏も含めて、今まで手にしたものすべてのすべてについて、神々も含めた人類(つまり、あなた)に所有権はない。支払完了までは、自分のものにはならない。真釣りを外して、自らでは無から何も産み出せなくなった者が作る今の世には、自分の命も含めて、人類のものは何もない。すべてのすべてが「元つ天の大神様のもの」なのである。

お金というのは、資源を加工してつくった道具、言い換えれば、資源から産み出された子どもである。自ら産み出せない神々と、天恵がなければ何もできない人間が、魔釣り世を思い通りに進めるために考え出した経済社会だけで通用する、神を金に置き換えた形の世界を支えるための道具である。お金というのは、言わば、形の経済社会限定の神であるから、真釣りの神へのお金の支払はありえない。従って、神仏も含めて、元つ天の大神が真釣りで産み出した天恵に対する使用料を払うことは誰もできない。真釣りで真釣りの天恵を使うならば、それは、所有しているのと同じであるから自由に使ってよいが、魔釣りで真釣りの天恵を使い続けるならば、それは泥棒しているのと同じである。真釣りならば借りはなく、真釣りでないならば、それは借りていることになる。使用料を支払えば使ってもよいという理屈も成り立つが、元々は、真釣りのみであり、借りるという概念は存在しない。今の世は、真釣りに戻すための仮の世であるから、その理屈は永遠には使えない。つまり、真釣りに戻す行をしない限り、返す気はないということである。それは、天地の理法を破って盗み続けることを意味し、支払をしないならば担保(魂の命)と引き換えである。魂の命を渡せば、あなたはいなくなるから、あなたはもうどこにも転生できない。神仏も含めて、今世には「泥棒」しか存在しない。あなたには、真釣り戻しの地獄を超えて永遠の天国に戻るか、魔釣りで生きる泥棒を続けて永遠に滅ぶか、二つしか道はない。神々すらも逃げられない、生死時空を超えた元つ大神の真釣り戻しの大掃除が迫っている。

真釣り戻しをしない限り、あなたのいる世界はどこにもない。この世もあの世もあなたの世界ではなく、ましてや、ミロクの弥栄の天国など、あなたにとっては風前の灯火である。真釣りを外した借りの世の、損得の世界の経済社会の中で利便を追い続けているということは、それは、真釣り戻しなどする気はない、魂の自殺志願者であるということである。天恵を産み出している源の元つ大神を忘れた神仏は泥棒するしか生きる手立てはない。無神論者も含めて、その神仏を信仰する人間も同罪である。つまり、神仏が基にある現代社会は「天の泥棒」が作った世界であり、泥棒の分け前で生かされている人間の世界である。泥棒は泥棒の世界でしか存在できない。泥棒は略奪の世界を進めることしかできない。泥棒は奪い合いの世界しか創れない。泥棒したものを分かち合っても天国はできない。自らが産み出す響きを持っていれば奪う必要はないから、奪い合うなら、産み出す響きがない証である。魔釣りで手にしたすべてのものを捨てない限り、本当の天国は永遠の幻となる。
P184
本当の天国、極楽、桃源郷、エルドラド、ガンダーラ、エデンの園、は、真釣りのミロクのことである。「昔昔の或るところ」そこが、あなたの天国である。遠い遠い昔、あなたはそこにいた。あなたが元いた故郷に帰るだけである。あなたがすべてのアヤマ知を捨て去って真釣り戻しをしない限り、今の人間が言っているように、SFの世界で終わってしまうことになる。今のあなたにとっては遠い厳しい道である。しかし、それは必ず歩ける道である。あなたが生死も時空も超えた命の道を歩む覚悟をするならば、その天国は現実となる。ただし、それは、真釣り外したあなたが創った茨の道であり、誰も助けてはくれない。あなたが自らしたことを清算しない限り、あなたがそこへ戻れないだけのことである。

元の天国へ帰るか帰らないかはあなたの問題であり、選択の結果はあなただけのものである。あなたが誰かを連れて行くことはできないし、誰かに連れて行ってもらうこともできない。元つ大神が真釣り戻した時、ミロクは現われる。しかし、その時にあなたが真釣りに戻っていなければ、あなたはそこにいない。すべてのすべてが、あなたが教えられてきた真実とは逆さまなのである。あなたの言った通りの世界をあなたは体験している。あなた次第で、どんな世界を体験することも可能である。永遠の天国に戻るも、永遠に滅ぶもあなた次第である。あの世にもこの世にも生きられない、神仏すらも逃げられない真釣り外した魂の成敗の時、魔釣り世の終焉が迫っている。あなたが本当の故郷に帰れるかどうかは、すべてあなた自身にかかっている。今すぐに嘘の夢の現実から目を覚まして欲しい。

「限りあるもの」で限りない欲望を追い続ければ、必ず破綻する時が来る。産み出す響きを持つ集団は限りない世界を創る。天恵(資源)に限りはない。限りある(と勝手に思い込んでいる)資源を奪い合い、儲けや利子を加算して売買(回収)すれば、その限りある資源の減少がますます加速する。その「限りある資源」を使って作った、一層限りある「お金」と呼ばれる「紙」が支配する世界で限りない欲望を追い続けても、それははかない夢と消え去る。あなたがその世界に命の基を置いているならば、その世界と共に消え去る。天地の掟を破っている中つ世の戦いの神や慈悲の仏が、どうやって天国を創るのか。ましてや、資源すら作れない人間が、どうやってお金で天国を創ろうというのだろうか。お金を使った天国争奪戦をしている限り、何回生まれ変わろうとも天国は永遠にできない。もうこのあたりでマヤカシの天国創造ゲームは終りにして、本当の天国への階段を降りはじめたらいかがだろうか。今のまま昇れば、最後の扉の向こうは永遠の奈落の底への崖である。すべての階段はそこで消え去る。扉を開けた瞬間、あなたは永遠の闇の谷底に落ちる。
P185
お金が社会を支える仕組みでは、お金=物(サービス)=衣食住であるから、お金の量が自らの衣食住(命の基)を支配する。お金の量=物の量であるから、お金(神)が動かないならば、物(天恵)は不足する。お金をどこかに貯めている分、不自由になるのは当然である。将来や家族や弱者や政治家等々のために残した分だけ、今のあなたが不自由になっている。あなたが、経済的な不平不満を言う相手は、マヤカシの経済社会に服従しているあなた自身である。お金ではあなたも他人も自由にすることはできない。よく目を見開いて見て欲しい。献金や寄付で人を救ったり、社会を良くしたりすることはできないし、倹約や保険や年金や貯金で自分自身を自由にすることもできない。ましてや、生活保護や物乞いや施しに頼っても、お金の世が終われば命はなくなる。お金でお金を増やしても、それはただのギャンブルである。お金の世界はお金が回る間だけの世界である。天地の理法を破った神々をその源に持つ西洋文明が考え出したお金の社会の行く末は世の破滅である。お金が神になっている金融経済社会を土台にした現代社会のどんなやり方でも天国は創れない。そればかりか、魔釣りの響きのお金に命を預ければ、永遠のイノチを失う事態がやって来る。元々は何の力もないお金に命を預ければ、あなたは本当に死んでしまうことになる。社会も破滅することになる。金融を自由に操れる、お金の世を作った者だけが、お金を神とする世界を支配する神になることができるのである。その支配者が自らの辿る運命を知らないのだとしたら、支配下にある大衆の運命はいったいどうなるのだろうか。現代社会は、形のお金で万物を支配できると言う宗教が創るマヤカシの世界の中にある。

お金の世界の支配者がお金の世界の神官であり、神であるお金と人を繋ぐ神社は銀行である。神道の神官も祀る神も神社も、その「金融神社」の支配の下にある。これは、現代社会が、金が神を支配する世界になっている型示しである。形になっているものを見れば、そこがどんな世界なのかを知ることができる。しかし、本当の真実(事実)、すべてを見通す目を持っていなければ、罠は見破れない。この本は、その目(真コト)を取り戻すための本当の真典である。今でいう第三の目、知恵の目というのは、真釣り外した蛇の分つ知恵の目、魔眼(魔コト)である。魔眼でこの本を読んでも、全く意味をなさない。その目でどんなにすべてを見通したつもりでも、その「すべて」は、アヤマ知のカタチの世界の幻想の神の世界に過ぎない。瞑想は蛇を上げる方法であり、真釣りなく霊性を開発するというのは、蛇の封印を解くことを意味する。霊性は開発するものではない。真釣りに戻ることが霊性顕現の基である。蛇は何回脱皮しても蛇であり、竜にはなれない。竜は、水の神の化身などではない。本当の竜は、生死時空を超えた三千世界を鳴らしめる火のカミであり、今でいう竜は、水(カタチ)の世界を知恵で支配する蛇の化かした姿(蛇竜、邪竜)である。火とは、すべてを下から支える響き(▽、|)、水とは、すべてを上から現す響き(△、―)。火と水が縦横正しく組み結んだ素型、姿(十)を火水、カミと言う。そして、その中心に働く、すべてを産み生む力を産土力と言う。これが、すべてを産み出す力、元つ大神のハタラキである。カミの十字が倒れないように−力で支えた『土』の姿が自然(至善)の素型(雛型)である。曈(火土水、ヒトミ)に映るすべてがカミの顕現なのである。
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現代社会の源流は、神話の世界も超えた元つ天地の大神の代に遡る。これから訪れる、本当の天国、三千世界に真釣りの響きが鳴り渡る真コトのミロクの世(言い換えれば、魔釣りが永遠に滅びる世、真釣りだけしかない神代)というのは、実は、あなたがかつて住んでいた、この世の始めの元つ天地の大神の御代のことなのである。今のまま進歩発展していけば本当に天国ができるのか? 神話や空想とはいったい何なのか? 人類の起源はどこにあるのか? 神や仏とはどんな存在なのか? 悟りとは何なのか? 心を空にする、無にするとはどういうことなのか? なぜ戦争がなくならないのか? 自分は何のために生きているのか? 人類は何を目指して歴史を作ってきたのか? 何のために歴史を学ぶのか? その結果、今の社会はそうなっているのか? いつになったら目指す世界が実現するのか? なぜ実現していないのか? 等々、人類永遠の謎、永遠の問いの答えがなぜ未だに出ないのか? 真釣りの真コトを忘れている限り、何一つ解決することはない。

現代社会は、真釣りの世で真釣りを外した身魂が神法違反を償うために創った期間限定の完全自己責任の刑務所の中にある。それが、あなたがいる世界の正体であり、その中での歩みが人類の歴史だったのである。そこにはあなたを監視する刑務官も、あなたを邪魔する同僚も、あなたをかばってくれる友人もいない。そういう存在がいるとあなたが思い込んでいるだけで、実際は、あなたがあなたを監視し、邪魔し、助けているのである。誰も「罪」を償っていないならば、刑務所の中は戦場と化す。『自分は何も悪いことはしていない』と言う囚人同士が争って、自分だけが自由になろうとするが、箱の中ではその望みは実現することはない。場取るロイヤルの最後の囚人は自らと戦って自殺する。あなたがそこから出るか出ないかは、あなた次第である。娑婆に出るか死刑になるかを決めるのはあなたしかいない。あなたがあなたの閻魔大王であり、最後の審判の神である。あなたの一生はまだ終わっていない。あなたはまだ一度も死んではいない。あなたという魂が生きるか死ぬかを決める最後の審判は近い。そこで、あなたの永遠の生死を決める判決が出る。

神仏を含めた人類の歴史を進めたら、いつか天国ができるのではない。どこかに天国があるのでもない。自らで自らの真釣り違反の罪を清算することで、今のあなたの現実が元の真釣りの世に戻るだけのことである。天国は今の瞬間にすでに存在している。その天国を隠しているのは、真釣りを外して魔コトで曇ったあなたの真中である。真中の曇りを綺麗サッパリ取り祓うことで、天国の正体がわかり、真釣り戻せば今世で天国の疑似体験ができる。そして、元つ大神の大掃除の後には、永遠に続く本当の天国を実際に生きられる。
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今のあなたがいるところは仮の世であり、あなたはここで真釣りを戻すことで、本当の神世に産まれ出るのである。あなたが魔釣りのままならば、本当の神世は存在しない世界となる。あなたは、本当の神世の掟を破った今世を実体だと思っているが、それは錯覚である。あなたが本当の神世をありえない世界だと思っているなら、それは、本当の神世から見た今世のことである。あなたが魔釣りのままで本当の神世に存在することはありえない。

元つ親神が用意した、真釣り外したあなたを滅びから救うための結界(岩戸、バリア)が、神の子のお宮である。あなたという魂は、その子宮の中で生まれたのではなく、子宮の外から入ったのである。今世の妊娠と出産の仕組みはこの形示しである。今の世では、別の肉体とSEXをせずに子供を宿せるのは雌雄同体の生物だけであり、火水が正しく組み組んだ真釣りの世の「人」ならばいざ知らず、子宮の中に突然現れた胎児というのは聞いたことがない。卵子は○、精子は・である。精子が外から入って、受精して⦿になって、細胞分裂(バラバラになる分裂ではない)して、精緻な肉体が出来上がるのである。あなたは今、神の子宮の中の胎児である。あなたは神の代で真釣りを外したがゆえに、胎児となって神の子宮に入り、真釣りを取り戻し、出産して元の成人に戻るハメに陥ったのである。

神法に違反した身魂は、天地自然の調和を乱し、万象万物を滅ぼす響きを奏でるから、本来は即滅びである。真釣り外した身魂であるあなたは存在していない筈である。あなたが魔釣りのままで今存在できるのは、元つ大神が、愛しい我が子を真釣りの御世に連れ戻すために、一度だけ復活の機会を与えてくれたからである。本当の親心から、違反を知らずに好き放題する放蕩息子を真釣りに戻すには艱難辛苦の苦労があることを承知で、自ら違反に気づき自らで真釣りに戻ってくれることを願って、真釣り戻すための「情けと花の仕組み」を構え、神仏を含めた真釣り外したすべての身魂の罪をご自身ですべて引き受けて、今まで陰で支え続けてくれたのである。大神の御苦労をないがしろにすれば、天国はない。

大神の子宮の中で、世の真釣り戻しをする大掃除、本当の大神のお手伝いをするのが、ヒノモトの民の天命であるが、居心地のよい揺り篭の快感に味をしめ、魔釣りの蛇と共に滅びの世界を進めている今の生き様は、世界の父親としてなんとも情けないの一語に尽きる。魔釣りの蛇の民は、真釣り外しを壊す役目であり、真釣りの真コトは知らないのである。ヒノモトの民が真釣りの真コトの一厘の響きを取り戻さなければ、世界は本当に破滅する。元つ真釣りの仕組みを絵空事の如く思っていい加減に扱えば、それは永遠の死を意味する。今からでも遅くはない。今ここでアヤマ知の世と決別し、生死時空を超えた永遠の命の道、真釣りの真コトの生き様に戻って欲しい。どんな苦難が待っていようとも、それをすることが、元つ真釣りの直系の霊統の身魂を持つヒノモトの民(あなた)の天命なのである。ヒノモトの民が真釣りに戻ることが、同時に、世のため人のため神のためになるのである。
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真釣りと魔釣りは裏表であるから、あなたが真釣りに戻るためには、魔釣りのアヤマ知をすべて捨てて、ゼロ=無から、神の赤子から真コトの道を歩き直さなければならない。いつまでも四つ足の獣の響きでハイハイしていないで、大神の言うことをハイハイと聴いて、真コトで歩くことである。妊娠には期限があるのはご存知のはずである。この世の形示しは、大神からの教材である。忍神にも限度がある。妊娠期間は始めから決まっているのであり、人類の都合などという勝手な理由で伸ばすことはできない。どんなに恐ろしいことになろうとも、時が来たら陣痛が開始され、神の世界への産道(ミロクの神宮への参道)に出なければならないのである。一度産道に出たら、もう子宮には後戻りはできない。自然の法則は破ることはできない。真釣り外したあなたが今ここでやるべきことは真釣り戻しである。現代社会の宗教や科学の言う天国を作ろうとし続けるなら、永遠の死産となる。

真釣りの代は言わば「濃硫酸の海」であり、真釣り外したあなたは、大神が用意した子宮がなければ、融解してしまう。真釣り外した身魂は、岩戸というバリアの中に入らなければ跡形もなく溶けてしまう。岩戸の中で、大神が臍の緒を通して教えることを素直に聴いて、真釣りを戻して、真コトのヒトに戻れば、真釣りという濃硫酸の海がただの水になり、あなたは死ぬことはなくなるのである。あなたが臍の緒の言葉を完全無視しているから、あなたの目の前にこの本が現れたのである。この本は、あなたの臍の緒に鳴り響く神言を耳(実身)に聞こえるようにしたものであり、あなたの最も奥深くに封印された事実を述べ伝えるための型示しである。あなたが内の言葉を無視し、外の言葉にばかりに耳を傾けているから、鏡を渡したのである。あなたは、子宮に入る前にいたところへ戻るだけである。

元々のあなたは光の存在である。あなたは成長するのでも進化するのでもない。あなたの光を曇らせた汚れを磨いて取るだけである。あなたが持っているすべてのアヤマ知を捨てること、真中の曇りを磨いて元の真コトの輝きを取り戻すことが心の掃除であり、身魂磨きであり、真釣り戻しなのである。今あなたがいる所は、魔釣りの教義を信仰して曇った真中の埃を真コトで掃き清める魂の神社、魔釣りの嘘を学んで真実が見えなくなった自らに真釣りの自らが真コトを教え直す魂の学校でもあったのである。時が至れば、当然のことながら、現代社会にある、文字通りの「刑務所(神社、学校)」も含めて、魂の刑務所(神社、学校)は蜃気楼の如く永遠に消えてなくなる。子宮がなくなれば、あなたという存在は濃硫酸の海に溶けて海の一部となり、もう二度と自分の人生を歩むことはできなくなる。

天国が未来にあると思い込んでいることが、人類の歴史の進歩発展神話の原動力である。元々全き光の存在であるあなたに進歩や発展などない。あなたは自分自身に騙されていたことに気づかなければならない。現実というのは、永遠なる今の瞬間の連続を体験しているだけであり、実際には、過去も現在も未来も存在しない。それらは、分かつ知で「今この瞬間」を分離したあなたが、今の瞬間に作り出しているただのお話に過ぎない。過去がなければ未来は作れない。未来を作っているあなたは過去を見ている。その過去と未来を分けているのはあなたであり、それを想像しているのは、今この瞬間である。あなたは、明日が来ていないのに明日の心配をし、もう終わってしまった過去の映像にしがみついている。あなたは今に生きてはいない。あなたは過去と未来の幻想を見るために生きていることになる。そして突然、明日という日常が消え、晴天の霹靂の如く、避ける間も無く究極の苦脳と暗闇の世界に放り込まれる。あなたが次の瞬間に生きているという保証はない。
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あなたが最も恐れていた現実が実体となる時が、必ずやって来る。あなたはどう足掻こうとも、真釣りの大神の手の中から出ることはできない。あなたがどんな理屈を持ち出そうとも、真釣りの神法から逃れることはできないのである。あなたが真釣りであるならば、あなたは、永遠に天国を産み出す大神の世界を体験している。あなたが魔釣りの響きであるならば、どんな手立てを労して逃げようとも、あなたには三歳苦難の修羅の地獄を避けることはできない。逃げようと思えば逃げられるが、逃げた分だけ地獄を増やすだけのことである。今のあなたの地獄がどんなに酷いとしても、あなたにとっては一番楽な地獄なのである。真釣り外したあなたは清算の地獄は避けられない。素直に地獄に落ちることがあなたが本当の天国に帰る唯一の術である。いい加減に、自作自演の「あんたのせいだゲーム」「怖い怖いゲーム」をやめることである。極楽トンボが生きられない時が迫っている。

真釣り外しの響きを清算する総決算の祓い清めは、神仏ですらも逃げられない。あなたの態度次第で、あなたが見ている天国も破滅も、どちらもあなたの現実になりえる。あなたが今のまま同じ生き様を続けるなら、すべてが一つに戻った時、あなたは永遠の死を迎える。あなたが素直に真釣り戻せば、違反相応の地獄はあるにせよ、必ず生き戻れる。あなたが今持っているものは、思いも立場も幸せも物も金も心も、すべて奪ったものである。あなたが今持っているものは、あなたがどんな策を弄して守ろうとも最後は全て消える。あなたが本当の天国を体験したいなら、大神から奪ったものを耳を揃えて返すことである。

あなたは、「ここ」を分けることで、前後左右、遠近、日本外国、内外、この世あの世、云々を作り出して、箱の中を右往左往しているのである。あなたは「今ここ」という時空を永遠に体験しているだけであり、風景は変わるにせよ、あなたが真釣りならば、永遠に思い通りの天国を体験し続けられるのである。「今ここ」を造るやり方が魔釣りならば、あなたの「今ここ」はすべてが闇となる。あなたの世界がすべて闇になれば、時間も空間も同時に消え、あなたは、どこにいるのか、今がいつなのか、全くわからなくなる。あなたがその恐怖を避けようとすれば、あなたはその恐怖の中に自ら歩を進めていくことになる。あなたが思ったものは、実体化する。あなたが死を避けようとしても、あなたが言う「死」は自らが作った自らの現実のイメージであるから、あなたが最悪の事態を避けようとしてアレコレと画策する限りは、必ず、実体化する時がやって来る。あなたが本当の死を体験したくないならば、死を消すことである。無いものをあると言えば、それを実体化する力を自らで作ったことになり、自らが実体化した恐怖の中に自らを放り込むことになる。逆に、あるものを無いと言っても、あなたがそれを消すことはできない。実体化しないようにするほど実体化するのである。元々存在するものはあなたが力を使わなくても実体化する。あなたが本当の天国を体験したければ、一目散にそれに向かって突き進むことである。
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あなたは元々神であり、あなたが存在しているところは神世である。それが真釣りの神世か魔釣りの神世かに関わらず、あなたは大神の創造の響きと共鳴する真中を持っている。思っているだけでは形にはならない。あなたの思いを形にするには、行じることが鍵である。あなたが創造するものは、それがどんなものであれ、あなたの行動次第で、すべて実体化できる。あなたの思いは、すべて形になる。あなたは、今の今まで、魔釣りを実行し続けてきたのである。あなたが真釣りの天国を実現したいならば、魔釣りを捨てる行動を採る必要がある。あなたが真釣りに従って行動した時、魔釣りで得たものはすべて消える。あなたが、魔釣りで得たものの消滅を恐れて躊躇している限り、あなたは魔釣りを実行し続けることになり、真釣りに戻る道がどんどん遠ざかるだけである。あなたが本当に真釣りの天国に戻りたいならば、すべてを捨てる覚悟を決めて、ただ地獄に飛び込めばよい。

あなたの現実はすべてあなたが実体化したものであり、誰かに責任を転嫁するならば、その世界が実体化し続ける。あなたが『存在するから現実だ』と言えば、自らを騙す罠に嵌まり、最後は自己責任をとって滅ぶ時を実体化することになる。あなた(人類)が今目指している自由や平和や天国は幻想である。幻の天国を破壊するものが悪であるというのも幻想である。あなたが幻想の天国を維持する善人を演じている限り、あなたには本当の天国はやって来ない。あなたは今の今まで、幻想の天国を壊すことを悪だと言って、何の罪悪感も持たずに、当たり前のように本当の天国を壊してきたのである。本当の天国を封印する法律や道徳や常識云々をひとかけらの罪悪感もなく自らや他人に強制していたのである。現実には存在しない本当の空想物語である幻想の天国を壊すことに罪悪感はいらない。

あなたが本当に天国に戻りたいならば、偽の天国で生きようとしている者を無視することである。何の遠慮も慈悲も要らない。神法違反をしておいて命乞いをする資格がある者は誰もいない。嘘の天国を作る社会の語る正しさや善はマヤカシであるから、それに囚われて真釣りの実行(魔釣りから見れば破壊、邪魔、迷惑であるから文句を言ってくる筈である)を躊躇する必要は全くないのである。真釣りが絶対善であり、本当の正義である。それを語ることに何の遠慮も要らない。絶対の正義を心底から自信を持って実行すればよい。本当の天国を生きている者は、あなたが何をしようとも一切何も言わない。すべては、自業自得であり、あなた自身が真釣り外しを清算しない限り、真釣りは生きられないからである。あなたが魔釣りで滅ぶか、真釣りに戻るかは、あなたの個人的な問題である。一度は真釣り戻しの道に入ったあなたが、再び魔釣りに逆戻りして永遠の滅びの道を選ぼうとも、大神ですらそれを止めることはしない。あなたが真釣りに戻るか戻らないか、それだけがあなたの永遠の生死を決める鍵なのである。あなたの直面する唯一最大の踏絵である。

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本当の天国を生きるには、魔釣りで教わった罪悪感を捨てることである。幻を殺すことに遠慮はいらない。幻は実体のないものであるから、本当の天国から見れば、すでに死んでいる世界である。偽の天国に生き残ろうとして、あなたを恨む者がいたとしても、それはあなたには関係がないことである。本当の天国に戻ろうとする者を恨むという矛盾に気づいていない本当の大アホである。自らを滅びに導いて喜んでいるのであるから、相当な重症の痴呆である。あなたがその者たちに遠慮する理由はどこにもない。あなたがその者たちを何とかしようとすれば、あなたは自らの永遠の命を失うことになる。犯罪者を殺すことに罪悪感を持っている者は狂人扱いである。本当の狂人は似せの天国を作ろうと躍起になっている側の人間である。絶対的に狂っている者を無視することに何の躊躇もいらない。あなたが今持っているすべての罪悪感(言い換えれば、慈悲の心、思いやり、優しさ云々)を捨て去ることである。たとえ微々たる罪悪感を持っているだけでも、本当の天国の神の真意を見逃してしまう。元つ真釣りの大神の真の愛と誠がわかったら、即、天国に戻れる。本当の神法は、天地自然の掟であり、破った者は自然淘汰である。問答無用で死刑となる。あなたがどんなに屁理屈をこねて抵抗しようとも、それが、あなたの違反の証であり、あなたがそれを続けるならば、あなたは、自らの頑固さゆえに自らの永遠の命を永遠に失う。

天国の体験をしたいのに、『それはありえないものだ』と言えば、あなたはその通りの現実を体験することになる。あなたが真釣りに戻せば、嘘がすべて壊れて、真コトが復活する。あなたが嘘を真コトと勘違いしていれば、破壊の恐怖を避けようとする。しかし、その恐怖は幻想であるから、あなたが恐怖を捨てれば恐怖は実体化せず、本当の天国が体験できるのである。魔釣りの幻想をすべて捨てる恐れを捨てることである。肯定の力より否定の力の方が強力であるから、否定した現実が先に実体化することになる。あなたには真釣りしかない。あなたが本当に天国を実現したいならば、天国を否定する響きを捨てればよい。あなたの天国を封印する声を完全に封印すれば、あなたの天国を邪魔するものは何も無くなる。あなたがあなたの唯一最大の妨害者であり、あなたがあなたの唯一の救世主である。

すべては逆さまであり、あなたが避ければ避けるほど、否定すればするほど、あなたの望まない現実を実際に体験することになってしまう。否定というのは、その存在を認識している証であり、否定する力が強ければ強いほど、存在を消すどころか、逆にその存在がありやかになっていく。あなたが否定すればするほど、否定している世界に現実化する力を自らで与えていることになる。肯定するのと同じだけ否定することで、その現実を自らに引き寄せることになる。すべては磁石の仕組みであり、同じ極をくっつけようとした力と同じ力で一瞬にして離れ、違う極を離そうとした力と同じ力で一瞬にしてくっ付く。あなたがどんなにしがみつこうとも離れるものは離れ、どんなに離そうと試みてもくっ付くものはくっ付くのである。あなたが真釣りの真コトの光を取り戻さない限り、今の魔釣りのあなたの世界は真っ暗となる。あなたが入ったトンネルの出口は真釣り以外どこにもない。
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永遠の天国と永遠の滅びは同居できない。今この瞬間での選択によって、天国か滅びか、どちらか一つがあなたの現実となる。見えない世界は、あなたが魔コトで曇らせた分、体験できなくなった世界である。今もあり続けている天国に戻るか、その天国を空想の世界にしたまま、本当の空想の天国を生きて滅びるか、それはあなたが決めることである。あなたの中に一つでも境があれば、それは分かつ知で見ている証しである。すべてのすべての扉(結界、岩戸)を開いた世界が本当の天国なのである。自分がずっと逆さまの世界にいたのだということを正直に認めることである。あなたが心底からそれを認めなければ、永遠の天国が復活した時、あなたはその天国にいない。逆さまの世界を本当の世界だと信じ込んだまま、あなたは全ての世界から永遠にいなくなる。いつまでも罪の清算ができると思ったら大間違いである。魂の刑務所は、万古末代一度きりの、期間限定の仮設テントである。テントの閉所時間が来たら、問答無用で、即、片付けられてしまう。その時に命乞いしても、改心しても、もう遅い。この本で、あなたに「閉所予告」をお渡ししたから、今ここで、ただちに改心して身魂の清算を始めることである。後の「真釣り」はもうない。

永遠の天国がまもなく訪れる。それは、今もある天国の「完全復活」である。魔釣りのアヤマ知で曇った魂はそこで肉体を持つことはできない。魔釣りの天国は、真釣りの天国の復活と共に消滅するからである。今もミロクの世は存在している。万古末代ずっと、始めもなく終りもなく、元つ真釣りしか知らない、何でも思い通りにできる「真人」達によって、真釣りのミロクの天国の社会が営まれている。ミロクの天国から見れば、ありえない神話の如く見える「情けと花の仕組み」という空想物語を酒の肴にしながら、真釣りの神に戻った「真のヒト」達が、何ごともなかったかのように尽きることのない永遠のエンターテイメントを楽しんでいる。あなたの真中の曇りを綺麗サッパリ祓えば、あなたにもそれがわかる。あなたの心にある天国は、あなたが元いた場所であり、今もある現実の世界である。あなたが快欲に囚われて逆さまの世に生きてしまったことで、その天国を空想の世界の物語だと思い込んでしまったのである。現代社会の人間の、魔釣りの知恵で元つ真釣りのミロクの世を創れると勘違いして、今の歴史をそのまま続けたとしても、それこそが意味のない、何の役にも立たない絵空事、無駄な努力であり、滅びのエンディングが待っている空想物語、TVゲームの世界が続くだけである。しかし、時が至れば、そのマボロシは、跡形もなく消滅する。今のあなたは呪いの仮面を被っている。自分自身で仮面を外さない限り、あなたの本当の天国は夢マボロシとして消える。あなたが真釣りに戻らなければ、逆さまの世で天国を夢見て欲に駆られて手を出した呪いの仮面は永遠に外せなくなる。
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現代社会が属する魔釣りの地獄の世は、元々どこにも無い世である。魔釣りに囚われた身魂が、アヤマ知で作り上げた幻想を実際にある現実だと思い込んでいるだけである。真釣りに戻れば滅びはなく、魔釣りのままなら、滅ぶから永遠の天国には戻れない。今の世の神話の神々の歴史は、魔釣りの世の歴史であり、人類の歴史は、その神話をも闇に葬った歴史なのである。真コトの光咲きわう神代の末期、あなたを含む神々が、快欲に囚われて、真釣りを外して、滅びの魔釣りの道に足を踏み入れたことが、すべての闇(病み、争い、幻の世界)の始まりである。快欲の響きは、一度囚われれば自らでは抜けることはできず、そのままならば滅びに至る。自らで無から産んだことがない身魂が快欲に囚われることをわかっていた大神は、魔釣りに囚われたすべての身魂を真釣りのミロクに戻すため、情けと花の仕組みを構え、その神策成就を導くスメラ(真釣りの立て直しの御役)とユダヤ(魔釣りの立て替えの御役)の二民をこの世に降ろされた。囚われを壊す御役のユダヤが魔釣りの世を立て替え、この地に真コトを現す御役のスメラが真釣りを立て直し、魔釣りの立て替えの最後の最後に元つ大神が真釣りで魔釣りを統べて(すべて)元のミロクに戻す。それが、神々の世以来続いてきた、人類の歴史の裏の裏の裏にある本当の目的である。真釣りを外し続け、偽の天国を夢見て戦いに明け暮れた魔釣りの歴史は間もなく終わる。真釣り外したそのことが、元のミロクに帰る仮の世での戦いの歴史の始まりだったのである。

元つ大神の真コトの真意を知らない、真釣り外した人類は、情けと花の世で天国を創ろうと、世を進めてきたのである。真コトの一厘を知らない魔釣りの知恵の神は、自らの知力で世を支配できると思い込んでいるから、世が天国になればなるほど魔釣りが進み、滅びの時が近づく。魔釣りの神が元つ大神の如く振舞う今の世でユダヤ十二部族の血統を追いかけても、世の真相は闇の中である。現代社会がアタマの知恵で創られた世であるとすれば、その結末はどうなるか。身魂が本当のあなたであるから、この仕組みを取り違えれば、今の肉体の命の死どころではなく、あなたという存在自体がすべての世界から消滅してしまうのである。真釣りは霊統により、魔釣りは血統により世が動かされる。魔釣りの霊統の源は、真釣り外した蛇の知恵の神である。魔釣りに囚われると、形の水の世界で天国を創ろうとするから、血統として現われる。すべての血統は魔釣りの知恵の神に行き着くが、その知恵の神は真コトの一厘を見失った神である。魔釣りの現世がどんな世なのか、よくよく見て欲しい。現代社会の人間にとっては想像することもできない、現代社会を生み出した首領の神すら知らない、どえらい仕組みが裏の裏の裏に控えているのである。仕組みが成就すれば、元つ天地の真釣りを外したものは、神から人まですべてが滅ぶことになる。
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元つ天の大神の真釣り(⦿)を闇に葬って、魔釣りの分かつ知(Ф)で真コト(±)を「+」と「−」に分けて、世を挙げて「+」を追いかけ続けるという唯一最大の過ちに今もって気づいていないのが、神をも含む人類の歴史である。世の源の神が逆さである限り、発展思考で世を進めるほど分裂の世界が進むだけであって、どんなに続けようとも天国はない。世の陰の黒幕も、その黒幕の神も含めて、安心も安定も安全も自由も絶対に得ることはできない。産業だと勘違いして惨業を発展させ、壊れるもの(問題)を作り続ける無駄な苦労(苦業)を積んだ挙句のその結末は、破滅である。この事実からは、いかなる神仏も逃げることはできない。ましてや、人間には、魔釣りの世で何を企もうとも、逃げるあの世すらもない。自らのアヤマ知を捨て、±を真釣りして元の土に戻さない限り、真釣りのミロクはない。+思考−思考、損得、苦楽、明暗、善悪、正誤、それぞれどちらをとっても方向性(ベクトル)は変わらないから、±の世界で○●どちらを選んでも、同じ結末が来る。

どっちが得か、どっちが楽か、という分かつ知で世を進めても、真釣りを外し続けるだけである。真釣り外せば情けの苦が増え、増えた分だけ魔釣りの掃除の手間が増え、真釣りに戻す苦労が厳しくなる。その苦労を避けて●を逃げれば、ますます苦が増える。−思考を+思考に変えたとしても、良くなったり、明るくなったり、得したりしているのは表の形だけであって、裏の響きは逆に、+思考をするほど−の響きが強くなり、+思考で得た分だけ、形の●が増えて返る。結局は、±の世界の+を選んでいるに過ぎず、分裂する限りは、●が増えるだけである。○も●も、真釣りからみれば両方とも●であり、真釣りに戻さない限り、本当の○はない。カミの顕現を一つでも×すれば、支えを失って火水の十字が傾き、結局はすべて✕となって、滅ぶ。本来は●はどこにもないはずの自らの現実に、自らの日常に、自らの社会に、自らの心に、ほんの僅かでも●があるならば、それは、自らが真釣りを外した証しである。魔釣りの世に揺りかごから墓場までどっぷりと漬かっているあなたの真中にあるものが魔釣りの響きであることは、火を見るより明らかである。自らの苦を魔釣りで避けるのがその証拠。魔釣りの分かつ知で作り上げた現代社会は、至福どころか破滅の手前である。±原理の今の世に本当に笑える者は誰一人いないのである。

幻台社会は、+が✕となり、−が÷になった、加減乗除のアタマの吸う学の計算で作られた遮快(謝壊)である。元の火水の十字が九分九厘傾いて、✕(罰)ばっかりになり、的(○、+、ターゲット)の奪いAIの戦争の世となり、覇✕の共食いが激しくなっている。地力を失って、恥力の知力で世を作り、天ばかりを崇めて点を取り合う、上下の権力十(党、等、頭、闘)争に明け暮れる。喜怒哀楽、春夏秋冬、前後左右の四分割の中心の0(無)を避けた、XとY(男と女)の平面座標のシェア争いの世界の四葉のクローバーは、乞運の象徴である。残る真コトの一厘は、元つ大神の真コトであるから、✕を正としていれば、元つ真釣りの真コトの一厘の響きが三千世界に響き渡れば、今の○はすべて✕となる。裏に隠れた闇が表に現われて、病みの世となって、闇夜となる。真コトの一厘がなければ、すべてが暗闇となって何も見えなくなる。楽が苦になるから、修羅の地獄が現実となる。
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元つ大神は中心のアン(餡、案)の神であり、始めも終りも統べるαωであり、すべてのすべての真中である。時節が至れば三千世界を元の真釣りの世に戻し、真釣り外した✕の世は綺麗サッパリ掃除される。真コトの一厘がなければ、ミロクは露と消える。ンは無(夢)であり、アは始め(創め、初め、一)である。ワヲンに戻して(人に委ねる倭を口を結んで終いにして)始めのアと開く(現す)のである。ン(n)がすべての音を発する源の父音であり、ア(ア行)が母音、kstnhmyrwが子音である。父が始めであり、母との間に子を入れてカサタナハマヤラワの五十(伊勢)音と鳴る。三位一体の言霊が、すべてを現す基である。カタカナはすべての言語の発音を表せる。すべての形は言葉になる。万象万物は響きの顕現である。すべてはカタカナ(象神名)の顕現である。ヒノモトはすべての文字を使う。ア、了、アは創めの終り。終りの創め。カタカナはすべての顕現。響きの型を示す。真、魔、マ。カタカナのアは始めの一(位置)であり、漢字のア=了は終りを意味する。中国=唐(十、頭、塔、党、盗、闘、討)の文明の日本が終り、魔釣りのAI(人工知能、電脳社会)や恋(来い、乞い、蓮)の世は終り、型神名(方神名)の神響きで、覇〆(覇権の終り、創め)の本当のアイ(愛、EYE=目、I、LOVE=0、ai=1+9=十=神)のヒフミ(比史、秘文、火史、一二三、一=三、霊体一如)の真言(誠、実)が満ちる。五十音もイロハ四十八字もンで終わる。ン(運、云、UN=国家連合)がすべてを統合する世界の元である。云はニムである。二六であり、二+六=八であり、二賭ける六=十二、云=運、云う=言う、西洋のαベットの賭け惨を最後の26でzzzと眠らせて、言葉をム(M)にして、元の始め(土師芽、破自目)のAで開く。マ=真、魔、磨、間、馬。「マ」とは、火水縦横正しく組んだ姿であり、今の世の仕事は、マ抜けな働きである。ア、A、α、世界の文字の文明をすべての言葉を統べて(全て、総べて)火の基象神名(カタカナ)で真釣り和し、真コトのアイのイロハ唄で人の口を八と開いて、元の神の世に縦戻す。元の始めの神響き、父が真火に戻ってすべてを支え、了のン(無)から云で(産んで)有と為す。総てを創めのアの世に戻す、元つ真釣りの真コトの神が、ヒノモト真中の餡雲(暗云、ANUN)祓い、元つ大便神の世を、アウンでコどもを真釣り和す。

火水は、霊身である。すべての源は大天である。大天に元つ火立ちありて、元つ水生ず。元つカミ(十)の火の響きがこの世のすべてを支える基である。その火の響きあるゆえに水生じ、水生じたがゆえに火立ち生ず。この元つ水の響きがこの世の基の現われである。元つ火の響きと元つ水の響きが組み結んだ、大きな十の姿が、「地」(この世の始め)である。地の大きな十の火の響き(|)あるゆえに大きな十の水の響き(―)が生じる。その水の響きが今でいう天(正しくは、小天)である。ゆえに、「天地」ではなく、「地天」の順が創造の正しいやり方、元つ大神の地天の理、神の掟、真釣りである。この掟を破るもの(真釣り外すもの)は、神も人も、万象万物、すべてのすべてが滅ぶ。大天に産み成された大地の火の響きと小天の水の響きが真釣り合って、すべてが産み出されるのである。この位順を逆さまにして創造しても、すべてが逆さまになり、すべてが滅ぶ。逆さまになった神と人を真釣りに戻すために仕組まれた元つ大神の「情けと花の仕組み」の中にあるのが、神をも含む、人の歴史だったのである。ここは、真釣り戻すための世界であり、その世界で逆さまのまま天国を作ろうとしても、それは叶わない。真釣り外した者にとっては人類滅亡、世の破滅が現実となる。真釣り戻した者は、本当の天国(真釣りのミロク)を謳歌できる。真釣り戻しをしなければ、時節が来れば、あなたは掟通りに滅ぶことになる。
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元つ大神の経綸は、天地創成に始まり、今回の大掃除で幕を閉じる。今回の天地の大掃除、岩戸開きは始めから決まっていたことであり、先延ばしはできず、真釣り外したものは、真釣り戻す以外にそれを避ける術はない。真釣り戻さなければ滅ぶだけであり、魔釣りのアヤマ知で作った現代社会の問題もすべて消える。そして、真コトの花が咲きわう歓喜弥栄の天国に戻るのである。逆さまの世で生み出した問題は絶対に解決することはない。問題を創った逆さまの世もろとも、消える運命にある。問題は解決するが、そこに、魔釣りに生きるあなたはいない。「情けと花の仕組み」は、真釣り外したものに、真釣りに戻す機会を与えるために期限を切って仕組み構えたのであって、時節が来れば、仕組みは終わる。その仕組みの中で取り違いをして、今の世が永遠に続くと思っていれば、突然、終りがくる。ただし、終わるのは魔釣りの世であって、真釣りの世は今もあり続けている。実際には、今のあなたから見れば存在する現代社会も、魔釣りの神仏の天国も含めて、大天には始めから存在しない世界なのである。大天の天と小天をごちゃ混ぜにして、天は一つと思い込んだのが、この世の乱れの始まりである。現代社会の宗教で言う天地創造神が逆さまならば、人の世も逆さまなのが道理である。今の世の始めの大元が逆さまならば、いつまでたっても、天国などできはせず。地獄どころか、滅びに向かって突き進んでいるのである。逆さまの世であるからこそ存在する問題を、真コトを知らない人類が解決することはできず、宗教や科学で天国を作れるなどというのは、それこそ妄想に過ぎないのである。大元を直さない限り、滅びは確定である。小天の神を崇めているなら、自らが永遠に滅ぶ。

元つ天(大天)、大地、小天の三位一体が、真コトの姿なのである。人は、神響きによって、小天の後に「地の上(ちのへ)」に産まれた神であるから、人にとっての小天は火(表の親)であるが、あくまでも、大天が本当の火、裏の産みの親である。大天の親を亡き者にして、小天の親のご機嫌取りをしても、全くのアベコベ、大きな勘違いであり、それは今世の自分を生かすどころか、永遠の滅びを意味するのである。火の支えるハタラキは男、水の現すハタラキは女、と型示しされる。元つ真釣りを外し、「地天」の順を逆さまにしたから、天(小天)の女神を、今の創造主としてしまったのである。本当の神には男も女もなく、天の女神を奉る思いは「分かつ知」で考え出した人類の妄想である。その妄想を実体の如く思い込んで「宗教」を作り出し、それを現実社会に取り込めば、本当の神(火水)を知らないまま、この世もあの世も永遠の終りを迎える時が来る。元つ神の真釣りの掟を外した神の作り出している世は、神から人まですべてが滅ぶ、魔釣りの世であることは明々白々の事実である。元つ大カミの響きが復すれば、すべてが真釣りの真コトに戻り、魔釣りの魔コトで作った世とその世に生きる基を置いているものは、どう足掻いても、神から人まで、すべてのすべてが水の泡と消える運命である。水が火を、体が霊を、女が男を支配する(体主心従霊属)ということが、どんな事態を招くのか、よくよく考えてみることである。すべてのすべてを産み生む元つ天地の理法は、霊が心を律し、心に体が属す、「霊主心従体属」である。霊は元々真釣りである。霊と体を結ぶ心が魔釣りに囚われて曇りあれば、アヤマ知で世を作り、逆さまの世を進めた末に、真釣りを外してすべてが滅ぶ。真釣りの心が霊をそのまま体に現せば、この世は歓喜弥栄のミロクの世のままだったのである。
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魔釣りを真釣り戻すには、アヤマ知で曇った心を綺麗サッパリ掃除することが唯一絶対の条件である。体主心従霊属の魔釣り世を、霊主心従体属の真釣り世に、一気に立て替え立て直して、末代倒れない真コトの真釣りの神の世に戻す、それが、元つ大神の最後の大掃除である。あなたは、真釣り戻すために今世に産まれたのであるが、今のあなたが何をしているのか、よく考えてみることである。真釣る順番を逆さまにして、水(小天)が、支える火の如く振舞って水(カタチ)を支配すれば、真コトの火(支え)が消えた水(カタチ)ばかりを追いかける世界となる。水と水が組み結んでも、やがてはすべて流れてしまう。順番とハタラキを間違えて世を進めれば、その世はすべてが滅ぶ宿命を持つ。全くの逆さまであるから、アヤマ知を持ちすぎているほど、知識がありすぎるほどわからない元つ仕組みである。心のアヤマ知を一つ残らず捨てることが自分の命を救う唯一の術である。

「±」を+と−に分離したカミ(十字)の世界が現代社会のルーツである。+と−を分離したことで、十字が傾き、✕の姿となった賭け惨の世界、倍々(売買)ゲーム、+と−を上下に割って(÷)、答えの「商」で余りを取り合う仕組みを生業にしたのが商業である。すべての数が割り切れるわけではないから、永遠の天国は作れない。加減乗除の形算問題を解いて、速さと正確さを競っても、何の意味もない茶番である。自らの滅びを導くやり方を有り難がっていれば、永遠の死を迎える。今あるすべての宗教の源はここにある。従って、神仏を信仰すればするほど、自らを滅びの道に導くことになる。お金では真釣りに戻れないどころか、最後は自らの滅びを呼び込む。お金では天国はできない。知でも学でもお金でも越せないのがすべてのすべてを元つ神代に戻す、真釣り戻しの大峠なのである。

お金という神で支配しようと思えば、被支配者の持っている神を封印しなければ、お金の仕組みは使えない。教育とは、実は、神を消すための洗脳だったのである。現代社会、特に、日本の姿を見れば、その目的が達成されていることは明らかである。ヒノモトの神響きを封印すれば、世界は思い通りになると思っているのが、今の世を統べる支配者たちの思想である。火立ちありて水生ず。ヒノモトありて外国あり。元つ大天の大神の真コトの神気の出づるただ一つの真コトの神国(真告、心国)、世界の父親である裏から支える火ノ基を潰せば、子である世界も死ぬことを彼らは知らない。知らないからこそできるのである。親である日本が真コトを取り戻さなければ、子である世界は滅ぶ宿命なのである。すべてはアベコベである。日本が外国を神と崇め、外国の真似をすれば、世が滅ぶのが元つ神仕組みである。世界を統べる御役の火の働きのハラ(日本)が曇れば、ハラを知らないアタマが支配する世界がバラバラに争うのは神仕組み通りの必然の姿である。親である日本が、人類は皆兄弟姉妹、友好親善、相互依存、国際貢献、情報社会、市場経済云々という罠に落ちれば、世は汚泥混濁の姿となるのである。ヒノモトの民の自覚がなければ世界は滅ぶ。父親の責任を忘れた日本が、世界の混乱の根源であり、親が改心しなければ子を殺すことになる。従って、大掃除の始めはヒノモトからである。元つ地天の理にすべてを戻す元つ大神の「大祓い」からは、いかなる神仏も逃げられない。源を直せばすべて直る。
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お金でお金を増やす金融システムは、略奪の世界だけで成り立つ仕組みであるから、無限の自由は得られない。『いかに儲けを出すか(いかに持ち金を奪うか)』では、手段であるお金が目的と化してしまう。お金をより多く集めるために生きていることになる。本当に本末転倒である。その世界で神(支配、自由、何でもできる自分の力)を体験できるのは、ほんの一握りの経営学(経済学、数学と物理学)のエリートだけである。しかし、それはお金の世界だけのお話であり、中身は空っぽの虚言である。『お金で思い通りにならないものはない』と本気で豪語しているとしたら、とんでもない極楽トンボである。お金では絶対に真釣りの真コトは買えない。なぜなら、真釣りを外した世界で作り出した神がお金だからである。お金で天地創世の真コトの神を買えるならば、世を支配することができるが、それはありえない。もし、できると思っているなら、それは、自らの破滅に同意したことになる。親が居なければ子は存在していない。神がなければ何もない。本当の神が存在しなければ、魔釣りの蛇の知恵の神も存在しない。神がなければ自分はいないのである。こんな簡単なこともわからないのがエリートであり、そのエリートの言いなりの大衆も含めて、大神を闇に葬って天国ができると思っている者は、全員、永遠の滅びが約束される。真コトを闇に葬るほど、金という神が力を持つ魔コトの世になっていく。魔コトと真コトは裏表であるから、最後の最後は、金も物も命も魂も魔コトのすべてを返さなければ真コトの世は夢マボロシと消える。真釣りのミロクが成就する直前には、真コトで作ったものも一旦はお引き上げとなるから、魔コトが生き残ることは絶対にありえない。言うなれば、魔コトは真コトの中の箱であるから、魔コトが真コトを所有することは絶対にできない。

損得儲けの世界ではない真コトの世ではお金はただの物であり、何の力も持たない。今の世でも実際には何の力も持っていないが、その金に神の力を与えているのは、金を信奉している人類である。お金が神の世では、金があればすべてが手に入る。その世界では、金をいかに多く、確実に、途切れることなく、楽に手に入れるか、が自らの天国を実現するための課題となる。希少鉱物の鉱山の採掘権や石油利権、金融市場の主導権を奪い合い、信者獲得競争をし、商品の売りつけ合戦に心血を注ぎ、税制の網の目を作って金を搾り取る。現代社会のシステムは、すべてが『金をどう効率的に多く集めるか』の思考で動いている。領土の奪い合いは、資源の奪い合いであり、国の奪い合いであり、労働者(金を産む基)の奪い合いであり、経済市場の奪い合いである。人類の争いは、結局は、すべてのすべてが、金の奪い合いなのである。金を支配しても、本当の神にはなれない。それどころか、自らの本当の命を捨てることになる。魔釣りの世で金を取れば、真コトの神を捨てることになり、真コトの神を捨てれば、結局は、金も物も命も失う。真コトの神を取れば、魔コトの金を失って、真コトの金を得て、真コトのものに置き換わる。金を選べば、結局は、金も神も得られず、神を選べば、結局は、金も神も得る。金を取れば、すべてを失い、神を取れば、すべてを得るのである。真コトを取るか、魔コトを取るかの選択は、神を取るか、金を取るか、言い換えれば、永遠の命を生かすか殺すかの究極の選択なのである。「カネ」と「カミ」、たった一文字の違いであるが、それが、永遠の生死を分ける究極の違いとなるのである。カミと言っても、魔釣りの宗教の神では、カネを選ぶのと同じことである。生死時空を超えた真釣りの真コトのカミを選ばない限り、あなたに永遠の生はありえない。
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元つ天地の大神を闇に葬って、究極の略奪の道具であるお金に神の力を作り出して世界の王になろうなどとは、とんでもない企てである。神をも恐れぬ不届き千万の所業であり、天地に仇名す大大罪である。真コトの一厘を知らないとはいえ、本当に、神を冒涜するにもほどがある。すべての源であり、現代社会に生きる自らが絶対服従している魔釣りの知恵の神の命すらも生かしある真釣りの元つ大神を完全に闇に葬って、本当に自らの命があると思っているのだろうか。その企みの世界の中で、真コトの一厘を教えるべき真釣りの基の国である日本が、魔釣りの勢力の言いなりになって、いや、その勢力を自ら進んで利用して、マネーゲームの中で国を「発展」させることに全精力を注ぎ、現代社会というマヤカシの世で自らの国力を誇示しているのは、大神から言わせれば、末代詫びようとも許しがたき大大罪なのである。言ってしまえば、今の日本国の正体は、天地創造の神に反旗を翻し、世界を巻き込んで万象万物を滅ぼそうと画策している究極の悪魔の国なのである。

世の父親として世界を支えねばならない役目をもった国が、真コトを捨てて魔コトの世界を進めることに加担するなど、言語道断の所業である。その落とし前は最後にキッチリとつけることになることを覚えておくことである。元つ天地の理法というのは、人間社会の法律のように、自らの都合でいい加減に扱える代物ではない。一寸の狂いも無くはたらく法則であり、本来ならば、破った瞬間に、即、生死時空を超えた命がなくなるのである。元つ天地の真釣りは、自らの永遠の命を左右する、唯一絶対の真理なのである。魔釣りの快欲に囚われ、魔釣りの勢力が操るアヤマ知にどっぷりと漬かり、真釣りの大神の元つ仕組みを「荒唐無稽な戯言」などと本気で思い込んでいるならば、文字通り、本当に取り返しがつかない、二度とやり直すことができない、生死時空を超えたとんでもない事態を招くことになる。これを鼻であしらって、魔釣りの世での生き残りゲームを続けようと思えばできるが、それは即ち、永遠の滅びを意味する。万象万物を真釣りに戻すその時が来て気づいても、もう取り返しはつかない。最後の最後に大神に縋っても、真釣り無ければ永遠の滅びであることをハラに据えて、今ここで自らの態度をはっきりと決めることである。
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元つ大神はすべてを無にして始めからやり直すこともできる。真釣りを外した身魂(天地の理法を破った死刑囚)を生かして本当の天国に導こうとする大神の究極の情け、真コトの親心を無にするならば、あなたは、永遠の滅びの響きとして、万古末代永遠に葬り去られることになる。元つ大神を闇に葬り去って好き放題をしていたあなたには、一切の反論は許されない。天地の理法を破った結末がどんな事態を招くのか身を以って知ることになるが、知った瞬間に、もう二度とどこにも生まれ変われない永遠の滅びの運命は確定となる。すべてを産んだ、すべてを知っている元つ天の大神を誤魔化すことは、いかなる神仏といえども不可能である。あなたが、本当の本当に心底から大神の情けに応える気があるのなら、今までの天地の理法を外した分の艱難辛苦の慙愧慟哭の生死時空を超えた修羅の地獄を覚悟して、今この場で、真釣りに戻る意思を態度で示してもらいたい。それをしないならば、あなたには、仕組み通りに、滅びの運命が待っている。大神の掟は、本当の意味で問答無用の切捨て御免であり、命乞いをする間もなく命を落とすことになる。掟を破ったのはあなたであり、あなた自ら改心して違反の責任をとらないならば、あなたには命を生き長らえる資格はないのである。天地の理法を甘く見れば、自らがとんでもない状況になることを本当に心底から気づいて欲しい。元つ天地の理法を覆すことは神にもできない。

あなたがどんな選択をするにせよ、大神の最初で最後の大祓いは実行される。あなたが本当に大神の御用をしたいのならば、本当の意味での全身全霊、永遠の命を賭けて、大神への絶対忠誠を貫くことである。あなたがあくまでも蛇の世界に居座ろうとするならば、天地の理法に従ってすべてを失うことになる。あなたの身魂はあなたのものではない。大神の情けがなければ、あなたは今ここに居ないのである。いい加減にマヤカシのイシヤの仕組みから綺麗サッパリと足を洗うことである。本当の神の真コトの道に戻らない限り、すべては永遠の幻と消える。万古末代、一度こっきりの大層に、あなたの真コトのすべてを注いで欲しい。今ここで使わなければ、あなたの真コトはもう使えない。蛇の世界を壊すことを躊躇する理由はない。天地の掟を外した神の作る世界を壊すことをためらうならば、あなたは、天地の理法に従った本当の天国を壊していることになるのである。どちらが最後に本当に残る世界なのかを、本当に正直に見て欲しい。あなたは真コトを真中に持つ、世界の父親たる身魂である。最後に本当の真コトを示して欲しい。それがあなたを本当の天国に導く唯一の術であり、世界を本当の天国に戻す唯一の道である。元つ大神の手伝いをすることが、万象万物を生かすための究極の社会貢献なのである。大神が居なければ何もない。嘘の世界の幻想から目を覚まして、本当の真コトの道を歩んで、本当の天国に戻ってもらいたい。本当の空想の世界は、本当の本当に消え去る時が来る。あなたがどちらを本当に信じているのかがわかる、二度とやり直せない究極の踏絵である。あなたにとっての最初で最後の究極の生死の選択を間違えることがないように心底から願っている。
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お金で支配できるのは、略奪の世界だけである。言い換えれば、魔釣りのアヤマ知で作った経済文明だけである。あなたが、文明の正体を知っているならば、自らがとんでもないことをしていることに気づかざるを得ない。いまだにその世界で生き残りを図っているならば、文明の正体がわかっていないことになる。永遠の生を求めるものが、永遠の滅びの世界で生き延びようとしているのである。アヤマ知の文明で力を誇示している者ほど、真釣りに戻す魂の大掃除は修羅の地獄となる。自らの矛盾に目を瞑り、誤魔化し、いい加減なことをしていると、自分がとんでもないことになることを覚えておくほうが賢明である。

冥王の作った「世界を支配できる指輪」を捨て去らなければ、あなたは永遠の滅びを迎えることになる。お金の材料は資源である。資源の材料がお金なのではない。逆さまの世が真実なら、人が神を支配できる、形の科学であの世を作れる、コンピューターで心が作れる、プラスチックで原油を作れると言っているのと同じことになってしまう。子が親を、人が神を産めることになってしまう。完全なる闇から始まった世界が完全なる光の世界になると言っているのが人類の歴史であり、その究極の姿である現代社会のすべてのシステムの理念にこの思想が反映されている。これが嘘ならば、今のあなたがとんでもない結末を迎えることがおわかりだろうか。影が光を産み出すことはできない。光の空間を壁で囲ったら闇ができるのであって、闇を囲ったら光ができるのではない。闇を囲っても闇のままである。電気なる人工の光で明るくしても、それはマヤカシである。お金が神を産めるなら今のままで天国ができるが、それは絶対に不可能である。人類は、破壊とは知らずに人類を消すために一生懸命進歩を追いかけてきたのである。すべてのすべてがアベコベである。つまり、人類の目指す永遠の天国は永遠の滅びを意味していたのである。進歩の正体は、破壊だったのである。文明の進歩というのは、滅びの響きの進歩である。今まで一体何を教育していたのか。何を普及していたのか。何を啓蒙していたのか。何を布教していたのか。何を信じていたのか。何に貢献していたのか。何を封印してきたのか。ここで一旦立ち止まって、自らのしてきたことを振り返り、この先、自分はどうするのかを決めて、今ここから、その道を歩んでいくことである。それが滅びであれ、天国であれ、あなたという身魂が誕生して以来、生まれ変わり死に変わりしてここまで来たあなたの永遠の生死を左右する選択であることをしっかりと肝に銘じて、真剣に最後の選択をして欲しい。
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人間は、形で心地よい感情(快感、快適)を得ようとする。形が思い通りになって初めて満足という感覚を得る。しかし、略奪の世界には、どこにも完全な自由はない。つまり、その望みは永遠に満たされない。お金を制限することは、形を制限することを意味する。将来のためにお金を貯める、将来のために保険を買う、将来のために年金を積み立てる。そして、今使えるお金が減る。お金が足りない分、借金をする。借金の利子の分だけさらに使えなくなる。お金がどんどん減るスパイラルに落ち込む。最後は、破綻する。よく考えれば、簡単なカラクリであるが、お金を尺度にして暮らしている限り、それは見えない。

どんなに経済システムを変えようとも、誰もが自由になる世界は絶対にできない。経済自体が、本当の天国とはアベコベの思想であり、文明社会をコントロールするために考え出されたシステムだからである。自然を管理するために工業を興し、資源を加工した紙に印刷した工業製品である『お金』にオールマイティーの力(すべての物と交換できる特権)を持たせ、そのお金が無ければ自然や工業製品を使えない仕組み(商業)を作れば、お金が命を生かす世界が誕生する。逆さまとはいえ、見事なシステム設計である。その世界では、お金を無限に発行したら、お金の意味がなくなるから、それはタブーである。お金の生産と発行を一つの機関に限定し、勝手に作ることを犯罪とする。そうすれば、一般市民は絶対に自由にはなれない。通貨偽造が犯罪なのではない。犯罪にしなければ困る者がそう決めただけである。通貨偽造犯を逮捕する警察に同意するならば、あなたも警察も、通貨偽造という冤罪を仕組んで世界支配を企む黒幕の手下であることになる。もし、あなたが思っている善悪が真実と全くアベコベならば、あなたは、その黒幕とともに死刑になる。

お金はマネーであり、マネーゲームは神を闇に葬った者たちが繰り広げる真似事(神様ゴッコ)に過ぎない。現代社会は、自らを永遠の死に導くゲームに世を挙げて熱狂している。マネーゲームが成り立つためには、略奪、損得、殺し合いが前提である。自由の制限、邪魔者の抹殺が必要であり、巧妙なカラクリを使って、世界の隅々まで監視の目を光らせるための仕組みが網の目のように張り巡らされている。ちょっと考えれば、お金で天国など出来るわけはないとわかるのだが、本来は何の力も無い法律を馬鹿正直に守って、経済社会の箱の中で何も知らずに怪適生活を追いかける大衆は言うに及ばず、その世界を支配しようと企むエリートたちの黒幕ですら、こんな簡単なこともわからないのである。もし、わかっていてやっているのならば、狂っているとしか言いようが無い。「金融経済=資源略奪戦争=殺し合い=自殺競争」の公式が分からない神々に操られたエリート集団と、そのエリートが支配する世界の(自らで産み出す努力を放棄してエリートが作るシステムのマニュアルを利用して楽して生きようとしている=エリートにオンブして不平不満を言ってシステムを都合よく変えようとしている=快欲を追い求めるためにエリートを利用しているだけの)大衆の行く末はいかなるものなのか。エリートも大衆も、自らの快欲を満たすためにお互いを利用しあって自らの生き残りを図っているだけに過ぎず、結局は立場を変えてどちらも同じことをしているだけである。本当の天国は自由であり、法律もお金も要らず、戦争をする理由もない。本当の天国ではない世界で何を企もうとも天国の実現は叶わない。目的地と向かう方向が正反対では、どんな交通機関を使っても、永遠に目的地には着かない。目的地に着きたいならば、正反対の方向に向かっていることに気づき、今まで来た道をすべて戻って本来の方向に向かうことが必要である。『めんどうくさい』『疲れる』『戻れるはずが無い』などと言うなら、それは、あなた自らが目的地を放棄したのと同じである。自分が目的地を放棄したら目的地には着けない。救世主を待っていても、救世主は来ない。自分の足跡に責任を取りながら自分の足で歩かない限り、天国は永遠に消える。
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マネーゲームが、本当の天国を壊す「犯罪」であるならば、それが社会を動かす根底にある現代社会そのものが犯罪者集団の社会である。その世界でどんなに善人や弱者を主張しようとも、やっていることは、その立場を利用して略奪の世界で楽をしようとしている戦いには変わりはない。神の真似事の作り出す「天国を破壊する」世界に賛同し、その世界でお金という神の奪い合いの生き残り競争をしている者は、全員が同罪である。罪の重さ軽さの争いなどは意味が無い。どっちの罪が重いか(軽いか)と比較をしていること自体が「罪」であり、それを続けるならば、「罪」を積み続けていることになり、罪を償う気は全くないことの意思表示となる。天地の掟に従っていれば無罪、従っていなければ、どんなに微小な違反でも、思っただけで有罪である。行動の有無は意味をなさない。天地の掟破りの罪は死刑のみである。死刑囚と死刑囚が、改心せずに、罪状比較合戦をして自らの正しさを主張し合っても、天地の掟の犯罪者の自覚がない者同士が繰り広げる茶番劇である。

『自分は何の罪も無い』と言う者も含めて、違反歴や違反の軽重の比較の世界で、自分は誰かより罪は軽いと優越感に浸りながら、何も知らないまま、二度と戻ることはない永遠の死へと旅立つのである。天地自然の絶対神法『真釣り』は、絶対無限唯一無二の法則である。掟を破っているか破っていないか、ただそれだけである。法律の専門家などいらない。天地創造の掟を破るという、罪の頂点に立つ天地最大の罪を犯した者には、言い換えると、天地創世の本当の神の冒涜者には、最後の最後に、自らの罪を自らで償う、自業自得の永遠の破滅の道しか用意されていない。心底からの改心を表さない限り、天国はない。

資源を使って「お金」と呼ばれるマヤカシの力を持つ神を偽造する、という天地自然の調和を乱す大大犯罪を誤魔化すために『「万引き」は犯罪だ』というアヤマ知を使って、「お金という神の力」を奪われないようにする。『無銭飲食は許さない=お金が無ければ何も使ってはならない』それが、金融経済社会の根底にある思想である。「無料」「お試し」というのは、提供者が自らの収益を上げるために同意した万引きにならない特例であり、根本は、「有料」が当たり前の世界なのである。有限思考、損得思考云々というアヤマ知を使って生き延びようとしている者は、後先考えずに、タダの世界に自ら足を踏み入れることになる。騙した騙されたの世界で、自らがどんな「損害」を受けようとも、それはアヤマ知で曇った自分の現実であり、楽をしよう、得をしようとしていた自分が招いた現実であるから、誰にも文句を言う資格はない。そもそも、万象万物は大神のものであるから、被害や損害を主張すること自体、真釣り外して大神の響きを奪っている証である。天地の掟を破って、天地を破壊し続けた天地の大泥棒の辿る末路は、滅びのみである。三歳苦難の大掃除、ミロクを復する最初で最後の戦、元つ真釣りの大神の祓い清めは、すべてのすべてを真釣りに戻す(魔釣りは自ら滅びる)、神も人も含めた、万象万物そのものの時空を超えた総決算、永遠の生死が決まる大祓いであるから、現代社会の経済システムの中の生死損得ごときで大騒ぎしているなど、全くの論外である。人間から見た微生物が生き死にで大騒ぎしているようなものである。元つ真釣りの大神の本当の祓い清めはただ一度だけである。自らのしてきたことを省みて、大神の響きを乱した大大罪をお詫びして、心底から改心し、自らの違反の清算をキッチリとしない限り、あなたの永遠の天国は永遠に消え去る。
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本当の大神が無から創った資源は無料が当たり前であり、資源の売買をしていること自体がすでにとんでもない所業なのである。無から産み出した資源を本当の感謝も無しに(真釣り無しに)好き放題に荒らし続けているなら、天地の調和を乱す大大罪であることは免れない。真釣りならば、有償の世界にはならず、有償の世界ならば真釣りではない。今の世界が魔釣りの世であることは紛れも無い事実であるから、元つ天地の大神を闇に葬って世を挙げて天地を取り荒らしたその結末は、破滅の道のみである。有償という思想はマヤカシであるから、無償は尊いことでも何でもない。無償奉仕をすることが神の徳を積む善行であるなどと思っているならば、自らを永遠の滅びに誘う、史上最大唯一のとんでもない大マ違いである。思想を普及する者も、その思想に騙される者も同じことである。真釣りなしに、大神の響きの型示しである万象万物を当然のことのように盗んで、大神に一言の断りも無く勝手に所有した挙句、売り買いして自分勝手な天国を創ろうと目論むなどということは、たとえ末代詫び続けたとしても許されない、本当に取り返しのつかない、本当にとんでもない大大罪なのである。その天地の大泥棒が仕組んだとんでもない世界の極みが現代社会である。真釣りに戻す大神の情けを悟って、永遠の命の真道を歩んで欲しい。

ボランティアという思想は、奪い合う金が少なくなった世界で、最大の経費である「人件費」をカットして帳簿上の収益を確保するマヤカシである。相互依存、助け合い、弱者救済、博愛精神と、有償の世界で無償奉仕をすることの尊さ(お金を得ないで自己犠牲という愛を捧げることの神聖さ)を植え付けておけば、裏のカラクリを知らない大衆は、自ら進んで奴隷になることを志願する。支配者(政府、経営者)にとっては、これほど簡単な利潤追求策はない。奉仕を求める側も、奉仕を提供する側も、奉仕に依存する側も、同じ世界にいる。自己犠牲が尊い世界は、略奪の世界であり、誰かの自己犠牲の上に楽を得たとしても、それは、幻想の天国である。人材派遣とは、派遣される労働者自身の意志による志願を前提とした、現代風の仮面を被った奴隷売買である。形に惑わされると、本当の真実を見誤り、歴史の正体を隠す誤魔化しは見破れない。国を挙げて、世界を挙げて、マヤカシの偽の美徳に酔いしれていれば、とんでもない事態が突然やってくることになる。経済社会でどんなに利潤を上げようと、善行を積もうと、魔釣りのマヤカシは破滅である。
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為政者が天恵を独占し、法律というマヤカシの力と手を組んで民から天恵を取り上げ、神を金にすりかえて地球世界を支配しようという、神をも怖れぬとんでもない謀略の中にあるのが現代社会である。元つ大神は『働かざる者食らうべからず』とは、一度たりとも言ってはいない。無限に天恵を産み出せる大神が、そんな台詞を使う必要はない。結局は、快欲に囚われた者たちが、自らに都合よく社会を作り上げるために意図的につくられた思想であり、真釣りを外して自らで産み出せなくなった者たちが、産み出す苦労をしないで生き延びるためのシステムを維持する道具に過ぎない。支配者に命を預けた自らが、快欲に溺れ、楽を求めて自らを罠に嵌めたのであるから、すべて、自分の都合で選択した自己選択である。天地の理法に違反しているあなたを助けることは、神仏と言えどもできない。

現代社会で言う「労働」は、「経済システムを使ってお金を作り出すことに貢献する(税金という支配アイテムを存続させるために貢献する)こと」を言うから、その世界の中では「労働の義務」を課すことは、その社会が生き延びるための絶対的、普遍的真理として許される。従って、「仕事」をしない者(金を作らない者、遊んでいる者)は怠け者(義務の不履行者)として扱われ、当然のことながら、自由(権利)を制限されることになる。現代社会でいう「子ども」は、労働はしなくてよいが、その代わり、義務教育という鎖で縛って、その社会を存続させるために必要な知恵を習得する訓練を課すことで、労働の義務を果たしたものとして扱う。「保護者」という小さな王を作り出し、「親権」というマヤカシの所有権(奴隷管理権)を与えて、世の末端の単位集団である「家族」まで支配のピラミッドの力関係を行き渡らせ、社会の正体を隠し、嘘がバレないように(支配者の椅子に近づけないように)する必要も生じる。嘘がバレて濁りが取れると、天国の自由がハレて実現してしまうからである。それは、支配者自らが生き延びるためには、何としても防がなければならない現実である。親権という概念を使って、子どもに対する独占心を煽って、子どもの支配合戦を維持し、子どもの「経済活動」は、保護者の監督下での場合のみ有効とする。養育の義務を課す。教育を受けさせる義務を課す。法律上の善悪の基準に基づいて、その世界を維持するためのすべてのシステムのどこかに封じ込める策略を善の如く見せる。保護責任者なる概念を考え出して、保護責任者遺棄を犯罪と決めれば、現代社会という略奪の世界でしか生きられない者はその決まりを守るから、地獄の中の天国の奪い合いが激しくなるだけである。あなたが今の世界でどんな生き残り策を考え出そうとも、それ自体が既に罠であり、心底から改心して魔釣りを真釣りに立て替え立て直さない限り、金融経済文明の箱の支配の立立体階層構造(マトリックス)から永遠に出ることはできない。
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法律というマヤカシが権力を持っている限り、為政者の好き放題の世界を展開することができる。その世界での大衆の言動は、為政者の気分次第で善悪どちらにでも仕立て上げることができる。本当の天国(本当の滅び)の準備中、つまりは、現代社会を動かすことが出来る間は支配者がその世界を支配するゲームが永遠に続く。しかし、その世界が有限の略奪の世界で、支配者が無限に産み出せないとしたら、その世界は終りを迎える時が必ず訪れて、支配者もろとも粉塵の塵と化す。『働かざる者食うべからず』というその台詞が正しいとすると、真釣りの世界から見れば、真釣りの世界での働き(真コトで生きること)をしていない者(魔コトで生きる者、お金に命を預けている者、天恵の窃盗犯)は、全員、天恵を食べてはならないことになる。つまり、真釣りのハタラキをしない者は、いかなる神仏であっても、真釣りの天恵は何も使えないことになる。魔釣りの神が魔釣りの者を支配することも出来なくなる。あなたが『働かざる者喰うべからず』に賛成しているならば、どうなったとしても、一切文句は言えない。現代社会(魔釣りの世)で働かないことに罪悪感を持つならば、それは、真釣りを壊すことに罪悪感はないことになる。今世で働くことを強制する者(さぼることを非難する者)も、馬鹿正直に働く者も、正確には全く働いてない。ビジネスはお遊びとなる。命をすり減らしてまでお金を稼ぐことに躍起になって現代社会で生き延びても、あなたの苦労は永遠に報われない。あなたが本当のハタラキをしないならば、本当の天国はない。魔釣りのまま生きて「我死」しても自業自得である。

本当の神は、真釣り外しの事実を情けの苦をもって知らせることはするが、人間同士がしているように哀れんで施しをすることは一切しない。あなたが真釣りに戻れば必要なものが必要な時に必要な分だけ用意してあるからである。あなたが真釣りを外して好き放題した結果、嘘に騙されて餓死するのであるから、つまりは、神法違反をして貪り食っていたのであるから、誰もあなたのことを可哀相だとは思わない。言わば、神の天恵を無銭飲食したあなたのその「罪」は、代金の支払(真釣り戻し)をしない限り、死んでも消えることは無い。逆に増え続けるだけである。代金の支払いをしない限り、あなたが食べたものは、あなたの栄養になることはない。罪は摘みであり、最後は天国か滅びかの二つに一つであるが、罪を積み重ねただけ、清算の厳しさが増す(天国に戻る苦労が増える)ことだけは覚えておいたほうがよい。あなたが、その仕組みの中で自由を得ようとしているならば、天恵万引きマフィアと同罪である。略奪の響きに支配されている限り、あなたは自滅する。

このカラクリを見れば、経済システムというのは、世界を支配するために誰かが作ったマヤカシであることは明らかである。変動相場というのは、相互依存の世界で資金の流れ(お金という神の力)を操作管理するためのシステムであり、金という神を変動相場制というノウハウを駆使して操る「金の世界の神官」の総帥が、現代社会を牛耳る黒幕である。変動相場制に基づく世界市場経済が進歩発展の象徴のように思い込まされているが、実際は、市場経済なる世界は究極のマヤカシであり、世界支配を企む黒幕にとっては、固定相場制や鎖国を採用する国は操作が不能となるから、市場経済というマヤカシを天国に至る道であるかの如く広めて、それに従わない国に圧力や制裁を加えて、何が何でもオープンにさせる必要がある。そのための道具が、変動相場制なのである。世を操る黒幕から一般大衆まで、現代社会に命を賭けている者は、誰一人としてそこ(底)から出ることは出来ない。現代社会は、自らが作ったシステムで自らの首を締める究極の自作自演劇の最終章である。
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お金は、使わなければ物や知恵には変換できない。神(お金の流通)が休めば天恵(自らが手にする成果)は減る。お金が神であるとするならば、先行きが不安になればなるほど、経済社会の神であるお金を貯めようとする動きが加速するから、流通するお金がますます減る。限られたお金の取り合いがますます激しくなる。一般大衆は、起業のリスクは避けるから、貯めたまま安易にお金を増やす手は無いかと考える。株式とか、債券とか、外国株とか、外債とかに手を出すことになるが、実は、株式と債券は、世界支配を進めていくために作られた、間接的に国の売り買いをする道具であり、円を外貨に変換させて、ドルを潰せば、「金融国家」の日本を破綻させ易くなるのである。外資系企業は、金融世界の侵略軍であり、日本国内の企業を破綻させて、安値で買い取る戦略で、日本に無血上陸する。日本を「占領」し、経営権を奪うことで、金融市場に取り込み易くするのである。軍隊の戦争ばかりに目を奪われていると、歴史の裏で着々と進む大きなカラクリを見逃すことになる。宗教や文化、経済等も、「日本」の占領を任務とする、仮面を被った陸上部隊である。

もうお気づきだとは思うが、現代社会は金が支える世であり、国家は株式会社である。国内にある会社や企業、銀行云々は、国際社会の仕組みの鏡であり、国を世界に、会社を国に置き換えれば、全く同じ形であり、自分という会社から国際社会という会社まで、全て同じ仕組みで動いているのである。社会というのは、引っ繰り返せば、会社である。現代社会というのは、世の黒幕が社長であり、神が会長である、一つの大きな会社なのである。その会社の中に、欧州支社、北米支社等があり、その中に、ドイツ支店、フランス支店等がある。結局は、現界の地球という国の中の国内での経済活動に過ぎず、もっと大きくみれば、銀河系本部太陽系支社地球支店であり、この世は霊界本部三次元支店とも言える。また、自分という会社の集合体が自治会となり、市町村となり、都道府県となるのである。市町村合併は世界統合の鏡であり、その動機は、財政の都合(収入の減少)である。形だけ一つにしても、根本は何も変わらす、世界統一を果たしたとしても、結局は破綻する。

地球株式会社は、従業員から商品、お金まで、すべての資産の仕入れ先、唯一のお得意先の大神会社には、社長の情けをいいことに、(資源の)対価(買掛金)を一度も支払っていないのである。すべてを無から生産している大神会社は、売掛金が回収できなくなっても全く困らない。かといって、何もしなければ、永遠に支払いをしないことを知っていたから、一括請求の期限を区切ったのである。売掛金の限度額を設定し、限度額に達したら一括返済をする約束だったのである。利子はいらず、元金だけ支払えばよいのであるが、その約束を忘れて、好き放題の放漫経営をしてきたのが人類の歴史であり、限度額一杯まで達しているのが現代社会なのである。これは、元つ大神の仕組みをお金に例えた話であるが、真釣りを外して大神の仕組みを取り違えると、お金という神の支配する世界が現れるのである。つまりは、売り掛金の一括請求が、最後の大祓い、真釣り外しの総決算、身魂の収支の清算なのである。ここで一括払いを拒否するならば、魂という担保を差し出して清算することになるが、そうなった場合には、ミロクという永遠の天国での本当の夢の生活はできなくなるのである。元つ仕組みを取り違えて作ったのが、現代社会にある融資や経営の仕組みであり、お金の世界での収支決算や回収ゴッコをしても、全く意味がないお遊びである。
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「絵のような素晴らしい景色」という表現をするが、実際には、素晴らしい景色を絵に描いたのであり、基準を人為的営み(の成果)に置いて思考すると真実が見えなくなる。コンピューターと脳が同じなのではなく、脳の仕組みをコンピューターにしたのである。霊界が戦いだから、現界が戦いになるのである。どちらがオリジナルで、どちらがコピーかをよく考えてみれば、コピー(結果)をどんなに修正しても何も直らないことがわかる。

社会にあるものを見れば、その社会の属する世界の姿がわかる。財政破綻は国家自体の破綻を意味し、再生するためには、融資先の許可が必要となる。世界銀行とIMFという国際社会の金融機関を作り、国家という会社の財政政策を監視し、破綻した場合には、『条件を呑まなければ融資はしない』という論法で、支配者の思惑に合わせて、国家を操る仕組みが形になっている。市場経済の世界では、すべての国家がその仕組みの中に自ら足を踏み入れている。従って、現代社会では、金融システムを操って、帳簿上で国家財政を赤字にさせて、IMFなる金融機関が条件を付けて債権を買い取ることで、世の支配者の思惑通りに国家を操ることができる。金融システムを普及させ、金融システムを巧妙に駆使して、国家を破綻させることにより、都合の悪い国家を吸収合併することが容易となるのである。お金が国家の生死を左右する仕組みを作れば、お金を牛耳る黒幕が国家の生殺与奪の権を握ることができる。個人と銀行の関係が世界を動かす基の仕組みの鏡なのである。

世界の仕組みが国内の仕組みに投影されているのであるが、自らの生き残りばかりに躍起になっている限り、世界を動かしている大きなカラクリには気づかない。自らの生活に汲々として、自らの属する社会がどんな世界なのかを考える余裕が無い大衆を操ることは簡単なのである。お金と金融システムは、形の世界に足場を置いている世界を支配するために必要不可欠な道具である。まずは経済の力学で支配関係を整理し、政治統合して、最終的には、宗教統合して、魔釣りの知恵の神の千年王国を作る、それが、「人類の歴史」の最終章である。欧州が経済統合から政治統合に向かっているのは、世界統一への型示しである。簡単に書いたが、実際には、とんでもなく複雑巧妙な策略で世界は動いている。しかし、それも、自然の仕組みを壊して成り立つ「文明社会」という仮想現実に参加している、「現代人」という、自然や宇宙から見れば、ほんの僅かな「人間の集団」の作る自縄自縛のお遊びである。文明と接触のない未開民族やお金のない「あの世」にとっては何の意味もない。結局は、世のカラクリを知ろうと知るまいと、真釣りに戻らない限り、永遠の滅びとなる。
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この本で、いろいろと書いているのは、真コトの道に戻るために魔コトの嘘を捨てるにあたっての拠り所、アタマに沢山詰め込んできた分けのわからないアヤマ知の正体や、自らが今していることの、自らが今いる世界のカラクリを知るための材料を提供しただけに過ぎず、元つ真釣りに素直になれる者にとっては、別に、必要のないものである。ここに書いてある事実にこだわったり、言葉自体をアレコレと価値判断したりすれば、逆に魔釣りを呼び込んでしまうことになるから、その点だけは気をつけて欲しい。要は、自分が嘘に騙されて全く逆さまの生き方をしていたことを認め、自らの立場は大神に任せて、今までの嘘を捨てて、真コトの生き方をゼロからやり直していけばよいだけである。生きている間も死んだ後も、本当に素直に正直に、「口心行」を一致させることが真釣りの真コトである。

『日本を金融システムに巻き込み、国内市場を開放させて日本を世界市場に誘き出し、その後、世界市場を破綻させて日本を潰す』それが世界支配の最終シナリオである。天孫降臨から、古代国家の中国文明、仏教、鉄砲、文明開化、大正デモクラシー、GHQ占領軍、インターネットまで、快欲に囚われた日本は、ものの見事に魔釣りの罠に嵌まり、形の仮面に騙されて、歴史を通じて、魔釣りの勢力を自らで招き入れ続けたのである。その結果が、21世紀の日本国の今の状況である。大神がいなくなったどころか、魔コトの金にすら困っているようでは、世の末も近い。日本を潰すための、魔釣りの三千年に渡る企みが成就する直前、魔釣りの日本占領が九分九厘完了した今が、魔釣りの最終段階、日本を潰す仕上げに入る時であり、今となっては魔釣りの世界の形でどんな対策を取ろうとも、手遅れである。しかし、それは同時に、真釣りに戻す最後の仕上げの立て直しが始まる直前でもあることを、真釣り戻しの天命を担うヒノモトの神民がしっかり自覚することである。魔釣りの立て替えの仕上げと同時に立て直しが始まるのである。一厘の真コトが鍵である。

お金の世界は、金で国を売り買いする世界であり、国家は経営するものである。日本円が日本国であるから、円を外貨に変換させることで、自らのフィールドに取り込んで、操作しやすくする仕組みである。金で操作する仕組みを作り出せば、金額の損得で人を誘導できる。しかし、お金では本当の神(真コト)は買えない。お金は、天恵が無ければ作れないものだからである。自らの子が自らの親を支配する仕組みでガンジガラメなのが現代社会なのである。資源で作ったお金で資源を支配する。神の作ったもので神を支配する。子が親を支配する。地球が宇宙を支配する。機械が人間を支配する。人が霊を支配する。この世があの世を支配する。脳が心を支配する。金が神を支配する。全くアベコベである。
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自然(天恵)は無限にあるのに、なぜ有限だというのだろうか。それはいったい誰が言ったことなのか。それはいったい誰が決めたことなのか。今のあなたは『天恵は無限ではない』と言うかもしれない。しかし、それは『天恵は有限である』という現代社会の真理に基づいた結論に過ぎず、それが絶対的真理であるというわけではない。あなたが生きる基である考えを捨てれば、自らを殺すことになる。従って、自らの生き残りのために『天恵は有限である』と言い続けているだけの、個人的見解の一つに過ぎないから、それは何の強制力もない。結局は、自らが有限の世界の中で苦しみを増やした挙句に自滅する自業自得の一人芝居である。天恵は有限か無限か、どちらか一つが真理である。あなたが、いや、人類が「永遠無限の天国」を望んでいるならば、天恵は無限でなければ、実現しない。天恵が無限であるから、永遠無限の天国が生きられるのである。有限の天恵で無限の天国を生きられると言うならば、それは、辻褄が合わない戯言である。あなたは何の目的があってその嘘を語り続けるのだろうか。あなたの持っている考えが真理かどうかは、論理が一致しているかどうかを見ればよい。もし、言っていることとやっていること、持っている思想と実際の現実が違っているならば、あなたの教わったことの根底には嘘がある。あなたは、誰かが誰かの都合で決めたことを鵜呑みにし、嘘をホントと思い込んで、全くアベコベのやり方で、自分の思いを実現しようとしていることになる。そして、実現しないのは誰かのせいだと言って、本当の意味で何の罪もない誰かに責任を押付けているのである。

あなたは、真釣りを外したことを奇麗サッパリ忘れ去っている。『真釣りとは何か』『真コトとは何か』『大掃除とは何か』云々の問いがあるならば、それは、魔釣りの世にいる証しであり、自らの命の源、世を作る大元を忘れ去っている証に他ならない。あなたが同じことをしていれば、あなただけが天地を自由に走ることはままならなくなっていく。そこで飼い主や世間に文句を言っても、犯罪者の言い逃れ、カモフラージュの涙には、誰も耳を貸してくれない。相互依存者同士の場合は、どんな言い逃れをしようとも、魔釣りを自ら暴露することになる。言い訳、逃げ道を探すこと自体が魔釣りの証である。魔釣りのままならば、最後の最後の身魂の大掃除は絶対に超えることはできない。魔釣りの道具を駆使して、魔釣りの世界で生き残ろうと躍起になっているが、魔釣りのままで、誰かを思い通りに動かして、自分の思いを果たそうとしてもそれは成就しない。そればかりか、何も産み出せなくなったあなたは、最後には、自分と自分の共喰いの結末を体験することになる。

生きは息であり、自らの心、あるいは、自然の心と言う意味である。誕生の瞬間には『オギャー』と息を吐いて、肉体死の瞬間には息を引き取って戻っていく。しかし、今のあなたの生き様は、楽を吸い取って、苦を吐くという、全くのアベコベである。あなたは、植物が生み出す酸素(O2)を吸って自らを生き長らえ、Cをつけて吐き出している。そのCO2が環境を破壊しているのである。綺麗なものだけを食べて、汚いものだけを返す。下等生物に分類している植物に自らの汚れを浄化してもらわなければ生きていられない矛盾した人間たち。自然を都合よく利用して、世を汚す人類が生き延びる世界はいつまでも続かない。自らのしたことが自らに戻ることを自覚するようになったが、形で見えるようになってから、形の世界でどんな対策をしようとも、手遅れである。ここまで見えても、まだ、自らが悪の根源だと認めず、自然との共生とか、環境保護とか、資源を大事に使おうとかいうマヤカシで、自らのしていることを誤魔化し続けている。もがけばもがくだけ、どんどん状況は悪化していく。世界は自分の鏡であり、すべては、あなたが吐いた息様が作る世界である。汚物製造機と化している今のあなたの身魂は、たとえ死んでも同じ世界をさまようのである。人類が歴史を通じてしてきた逆さまの生き様の辿り着いた先が、現代社会である。あなたの現実の味噌もクソもすべて自分の結果である。穢れた息をすべて引き取って、蒔いた糞尿の始末を自ら付けて、魔釣りの世界から抜け出せば、真釣りの天国に自心が生きることができる。自然を破壊する生き様をしてきたならば、自分が破壊されて差し引きゼロである。息を吸い続けても、吐く時が必ず来る。あなたはこの世にだけ生きているのではないから、たとえ死んでも破壊責任から逃れられない。死ぬ時は黙って死んで、あの世で清算を続ければ、あなたは清算を終えることができる。この世で何とかしようとすれば、それは神法違反を続けることを意味し、永遠の死をもって償うことになる。
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あなたの現実にある不都合はすべてあなた自身が魔釣りに曇った証しであり、それを解消しない限り、天国は夢と消える。世界を動かすやり方の結末は、天国か滅びか、二つに一つである。後者のやり方をしているならば、結末は滅びであり、それに気づいたとしてもそれをやめなければ、後者のやり方のままであるから、自業自得の破壊を体験する現実を自らが選んでいることになる。後者が正ならば、前者は誤である。後者は、前者を何の罪悪感も無く闇に葬っている。もし、前者が正ならば、後者は誤となるから、後者を完全に闇に葬っても罪悪感を持つ必要はない。真釣りが天国の絶対法則であり、その法則を破っている魔釣りは、何もしなければ、結局、すべて闇に消える。絶対法則である真釣りを闇に葬っているアヤマ知の現代社会のすべてを闇に葬っても、罪悪感を持つ必要はない。『絶対法則など無い』と言うのは、アヤマ知の言葉であり、自らの生を保つための詭弁である。あなたがそれを選び続ければ、永遠に真釣りには戻れず、真釣りの天国はない。真釣りを否定するのは、魔釣りが正しいからではなく、魔釣りの命を失いたくないという自分勝手な理由に過ぎない。罪悪感を植え付けたのは、魔釣りの世を壊したくない支配者であり、もし、それが正しいならば、滅びの世を壊すことに罪悪感をもっているというおかしなことになる。本当の天使を殺した悪魔が天使のフリをして『天使を殺すのは罪である』と言ったとすれば、あなたがその偽天使の世界で生き延びたければ、本当の天使を殺し続けることになる。あなたの信奉している天使の正体が悪魔ならば、その偽天使を殺すことに罪悪感を持つ必要があるだろうか。あなたは、ヒットラーや麻原教祖や病原体ウイルスを死刑にすることに罪悪感を持つだろうか。あなたが罪悪感という理由を使ってそれをしないならば、あなたは、本当の天使を殺すことに罪悪感をもっていないことになる。あなたが自分の都合で天地の掟を破っているのだから、死刑になっても自分以外に文句は言えない。
P212
今まで本当の天使を殺しつづけた分の償いをすれば、どんなに極悪人だろうと天国に戻る資格がある。逆に、究極の善人を演じ続けるならば、本当の天使を殺し続けて天国を自ら捨てることになる。あなたに、罪悪感がなければ、天国の方法(道具)を使うことが出来る。ただし、自らしてきたことを清算するならば、である。もし、あなたが天地の理法を破った世界の支配者だったとしても、しただけの罪を償えば、永遠の天国に戻ることができる。あなたが天地の理法を破った理法の中で救世主だとしても、しただけの罪を償わなければ永遠の滅びとなる。事実は、善と悪が全く逆さまなのである。あなたが悪を裁き続ければ、永遠の天国を自ら放棄することになるだけであり、あなた以外のすべての存在には、あなたの選択は影響しない。あなたと同じ選択をした者が自滅するだけである。あなたが真釣りに戻れば、あなただけは、本当の天国に戻ることができるが、本当の意味で誤っている方を完全に捨てなければ、永遠の天国はない。つまり、永遠の滅びが現実になる。嘘の世界で救いの父、即ち、救世主を待っても絶対に来ない。あなたが世を壊した悪魔であるならば、世を救う救世主はあなた自身だからである。あなたが覚醒することが鍵である。

あなたは、普段、何の疑問もなく使っている常識や言葉の正体をどれだけ分かって使っているのだろうか。この世には無駄なことは一つもなく、砂粒一つの動きが万象万物に影響するのである。ましてや、あなたが使っている言葉、あなたの思い、あなたの行いが、万象万物に与える影響は計り知れない。あなたが動くときは、万象万物が動き、万象万物の糸を手繰れば、すべてあなたに及ぶのである。あなたの何気ない行いが、天地自然をどれだけ乱しているのか、アヤマ知にどっぷり漬かっている今のあなたには、全く見えなくなっていることだろう。しかし、これが嘘(マヤカシ、絵空事)ならば、この世には守るべき何の掟もなく、みんながバラバラに好き勝手なことをしても世は保たれることになる。そうであるならば、法律で規制するのは矛盾である。あなたの生き様があなたの現実をつくっている。あなたが魔釣りならば、世界の出来事に関係ないものなど一つも無い。だからと言って、世界の不幸を何とかしようとすれば、それは全くの逆さまであり、ますます世界の不幸を増長することに手を貸すことになる。あなたが真釣りに戻らない限り、あなたは魔釣りの世もろとも永遠に消滅する。あなたの生き様を奇麗サッパリ変えることである。

天恵が有限だと言うなら、天地創造の神は有限のものしか作れない神であるか、あるいは、無限に作れるのにわざと作らないかのどちらかである。前者ならば、その神は無限の天国を作れない偽物であり、後者ならば、その気になれば全員に天恵を渡せるのに自分の子どもたちを思い通りに操りたいがために渡さない自分勝手な親である。天恵を誰かが勝手に所有し、その誰かに「お金」を渡さなければそれを使うことができない仕組みでは、天国などありえない。天恵は誰のものでもない。『誰のものでもないから早い者勝ちで所有してよい』という屁理屈は自分勝手な究極の詭弁である。誰のものでもないものは誰もが自由に使ってもよいのである。真釣りで真釣りの天恵をタダ(無料)で使うならば、天恵を使って作り出した形は真コトであるから、世を乱すことはない。魔釣りで天恵を使うから問題(悪、汚物、有害物)が出来るのである。もっとも、真釣りの世界には、お金という「金の世界で物に化ける神=儲けの道具」は無いから、無料も有料もない。タダと言う言葉は、有料が当たり前の世界でだけ使えるものに過ぎない。本当は、タダが当たり前なのである。
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真釣りの天恵を魔釣りで食べて(使って)、栄養だけを吸い取って、いらないものを外に出す。それを廃棄物(ゴミ、カス、糞便、尿)と言う。ウンコが汚いのでも、ゴミが有害なのでもない。天恵を食べたあなたが、真釣りを魔釣りに変えたことが汚いものを産みだしている原因なのである。ウンコやゴミにとっては、それこそ迷惑な冤罪である。「汚い(臭い)」ウンコを製造している(食べ物をウンコに変身させている)のは、あなたの体である。あなたの肉体が臭いものを出すならば、あなたの体は善を悪に変える箱である。○をいれて●が出るならば、そのブラックボックスの中は、○を●に変える装置が入っている。あなたが魔釣りを真釣りに戻さない限り、●は増え続け、●しか食べられなくなる。しかし、あなたは○しか食べられなくなっているから、それには耐えられず、狂い死にするだろう。あなたの変換装置を逆装填すれば、●を食べても○が得られて○を出すことになる。あなた一人でも真釣りに戻れば、それは、本当の意味での世の浄化の始まりとなる。真釣りの者が増えれば魔釣りの者が改心し、百一匹目の猿の登場で、一気に真釣りが加速する。まずは、著者がそれをお見せする役である。あなたが付いて来るかどうかは自由であるが、いずれ、あなたは真釣りに戻らざるを得なくなる。魔釣りのやり方は、必ず行き詰る。

あなたの産んだ子どもの責任は、親であるあなたが取ることになる。神から人まで、この事実から逃れることは出来ない。あなたは「汚い」土から食べ物を経て、土に戻す行為を何千年も繰り返してきたのである。現代社会はその末路であり、食の安全が崩壊していることが、あなたを含めたすべての人類のしてきたことの象徴である。あなたがあなたの響きを真釣りに戻さない限り、最後は自らが産んだウンコまみれになって、あなたが産んだ子(体験)と共に、元の土に戻って、真釣りの神人たちの肥やしになる。天国の食べ物を支えるウンコの一部になるか、天国を生きる神人になるかである。あなたが何としても真釣りに戻らないと言うならば、あなたは肥やしにもならないかもしれない。あなたが真コトの天国の食べ物を食べられるか、食べ物の肥やしになるかは、あなたの選択次第である。

これが現代社会を牛耳る黒幕が世を操るための思想である。あなたが今、天国そのものでないならば、あなたはものの見事にその黒幕に騙されていることになる。人類の歴史を通して、天国ができていないどころか、地獄を進めているのは、現代社会に至るまで長い間受け継がれてきた思想(観念、常識)の根本が嘘だということである。嘘から産み出されるすべてのものは、嘘であるのが道理である。川上に悪を流せば、川下は悪に染まるのが、天地の理法である。川に汚物を流せば、それが海に流れ、上昇気流で空に上がり、雲を作り、雨を降らせ、地中に染み込み、再び川に戻ってくる。土が濾過しているから綺麗になっているように見えるが、あなたが垂れ流している汚泥を止めなければ、あなたの現実はどんどん汚泥混濁の世界となっていく。自らのした結果を誰かに押付けて、形の上で精錬潔白を装っても、それは猿芝居である。形に現われた有害物質や大気汚染を何とかしようとしても、それは無理である。自らを危険にさらすように見える形を塗り隠したり殺したりしても、何も治っていない。結果を結果でいじくり回しても、原因を直さなければ、全く意味が無い。あなたの穢れ、不都合、苦、病、闇の真因は、真釣りを外したことである。
P214
神の支えるハタラキを金の支えるハタラキにすりかえて、自らだけの天国を創ろうとしても、それは露の如く消える幻想である。本当の天国を壊した世界に作り出した神が「お金」だからである。現代社会は、資源を奪い合い、「資源から作ったお金で天地(資源、自然、生き物、臓器、命、神)を売り買いして、快欲を満たす」というとんでもないことを平然とやっている世界なのである。人間の世界は霊の世界の写しであり、あなたが死んだとしても、あの世も同じ仕組みである。結局は、あなたは同じ世界から逃げることはできず、自らの意思でその泥棒の世界から脱出しない限り、破綻する世界が必ずあなたの現実になる。『限りがある』という霊が物理体に入れば、そこにある資源を限りあるものと錯覚する。そして、『限りあるものでいかに自由になるか』と考える。『いかに自分だけが資源を独占するか』『いかに思い通りに支配するか』と考える。その結果作り出したのが、法律や裁判、経済システムである。略奪の世界である限り、恨み、妬み、不平不満、は絶対に消えない。自らが産みの責任を放棄し、転嫁し合っている限り、犯罪や戦争は絶対になくならないのである。根本のマ違いを正さないままで、どんな対策を考え出そうとも、天国はできない。

生きていようが死んでいようが、あなたの現実創造の仕組みは何も変わらない。あなたに今、苦痛があれば、死んだ後もそれは続く。あなたの苦や痛み(楽や喜び)というのは、あなたという霊が肉体を使って感じる感覚であり、病気や怪我、世の不幸というものも、霊の世界の状態が形の世界で現れたものである。従って、形の世界でどう修繕しようとも、治るどころか、それを続ければ、ますます原因を増やしていくことになるのである。そして、ますます形の破壊(不都合)が進み、霊が消滅とすると同時に、形の世界(肉体)も消滅することになる。霊が生きていれば、この世を去っても死ぬことは無い。あなたは、肉体という物理体に共鳴している霊であり、霊界での行動の結果が、現界に現れることになる。あなたが死を作り出して、死を避ければ、現界では形の修繕になり、奪い合いになる。それが戦争の原因である。肉体そのものがあなたではないから、本当のあなたに死はない。あなたが認識できるすべての世界は、実際には境界のない一つの世界であり、人と人、人と霊、霊と霊、この世とこの世、この世とあの世、あの世とあの世、姿形は変われども、霊同士の、連続した営みの体現である。あなたが今どの世界を現実としているか、という違いに過ぎず、今の世界がすべてではない。従って、あなたが死ぬことはありえない。あなたが今の世界の現実をすべてだと思い込めば、死を恐れ、戦いの世界を産み出す。続きを読む
posted by 長谷章宏 at 21:11| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 事実その4

事実 その4(P256〜296)

P256
この本は、実現不可能な理想を書いたものではない。今の世で言うフィクションなどではない。あなたの手の届かない別世界の話でもない。現実にはありえない仮想現実や空想でもない。単なる宗教や哲学の話でもない。神話やお伽話でもない。すべて、あなた自身が体験することが可能な実話である。この本に書かれていることはすべて事実であり、今のあなたがいる世界の本当の姿である。あなたの人生が思い通りにいかない本当の理由、あなたの嵌まっているトリック(罠)、あなたが諦めている本当に自由な世界を思い通りに創造するための法則、あなたの現実の創造のメカニズム、言い換えれば、あなたの人生のカラクリを明かしたものである。あなたの体験する現実のすべてに影響を及ぼす、あなたという存在の根本にある間違いを正すための、最低限の基本を書いたものであるともいえる。

この本をただの知識として読み流すならば、何も読んでいないのと同じである。あなたは、白紙の束をめくっていただけに過ぎない。この本の中身を、都合の良い部分だけ抜き出してアレコレと詮索しようとしても、単に教養として身につけようとしても、その行為は全く意味をなさない。あなたはこの本から何も得ることはできない。時間の無駄である。この本が、あなたにとって本当に価値のあるものとなるのは、自らの生き様を根本から直すための実践ガイドとして使った時である。この本を生かすも殺すもあなた次第であり、それは、言い換えれば、あなたを生かすも殺すもあなたの態度次第だということである。あなたがなぜこの本を手に取ったのか。今ここで、もう一度、しっかりと考えてみて欲しい。

ここに書かれているのは、あなたとは関係のない別世界の話ではない。すべて、あなたの内の話である。あなたの内を見る鏡である。それは、あなたが見失ったもう一人のあなたが語る真実、あなたを含めたすべての世界の真実である。あなた自身を外したら、あなたの世界の真実は何もわからない。あなた自身が、あなたのすべての現実を創る、あなたという世界の創造主である。あなたが変わらなければ、あなたの体験する現実は何も変わらない。他者や外界を変えようとするあなたが変わらなければ、他者も外界も変えることはできない。あなたの周りの世界があなたと別のものであると思えば、あなたが本当に望んでいる現実を実現することはできない。あなたの体験する現実は、あなたがどんな神を信奉しているか、によって左右される。「本当の自分」という、あなたの本当の天国を産み生む本当の神の語る内話こそが、あなたが望んでいる現実をすべて実現するための教えである。

あなたという神が、あなた以外の神が語る嘘の世界の罠に嵌まって闇に葬り去っていた、あなたの世界を創る本当の源「本当の神」の教えを再び聴き戻すことが、あなたの本当の天国を実現するための第一歩である。あなたの人生についてのただ一人の専門家はあなた自身である。あなたという存在についての研究の第一人者は、世界中どこを探してもあなたをおいて他にはいない。あなたが語る周りの世界についての話は、すべて、あなたという世界についての話なのである。このことがわかったら、今すぐ、自分と自分との対話に移ることである。あなたがした質問にあなたが出した答えの○×を、あなた以外の誰かに確認することはもうやめて、自分という神(教師、教祖、グル)に確認してみるとよい。その答えは、あなたの出した答えと同じはずである。あなたがあなたの答えを疑えば、あなたは永遠に真実を知ることはない。シャキッと目を覚まして、本当の真実を見て欲しい。
P257
この本の事実をすべて受け入れれば、あなたは「完全なる自由」を手にすることができる。

これをまた『そんなことは本当にあるのか』と疑えば、あなたは堂々巡りから抜け出すことはできない。あなたがあなたを疑うことをやめない限り、その堂々巡りは永遠に続く。それをやめさせることができる存在は、あなた以外にはどこにもいない。あなたがその問いを完全に封印することが、滅びのスパイラルから抜ける唯一の道である。あなたがあなたを完全に信頼しなければ、今までの嘘の世界を彷徨うことになる。今までの嘘の教えを心底から信じ込んでいたのならば、それと同じことをすればよいだけである。あなたが今持っているものは、嘘の真実である。嘘の真実が本当にあったのなら、本当の真実が本当にあるのは当たり前のことである。本当の真実には嘘はどこにもない。本当の真実に生きているならば、疑うことはしない。本当の真実を疑う基準は嘘の真実である。黒を白と思い込んで、その基準で価値判断すれば、その答えは黒となる。しかし、事実は、白と思い込んでいた真実は黒であるから、黒に見える真実が白なのである。後は、あなたが、いつ疑うことをやめるか、という問題になる。白は白である。本当の白の真実を完全に信頼することである。怖れや不安は、嘘の真実が見せる幻である。嘘の幻覚に打ち克つことで、本当の真実が本当であることを確信することができる。すべてはあなたの決断次第である。

あなたの世界はあなた独自の世界である。本当の真実を知ろうとして、あなたの目の前で展開する他者の世界の出来事をあれこれと評論していても、無駄な努力である。たとえ、この世にあるすべての現象を取り上げて著者が一つ一つ解説したとしても、あなたの根本が変わらなければ、何もならない。それは、永遠に終わらない意味のない遊びに過ぎず、いつまでたっても、あなたの本当の天国への旅は始まらない。あなたが本当の真実を知りたいならば、あなたの体験した現実を具体例にして、自らで真偽を確認していくしかない。

どんなにたくさんの具体例をあげて説明しようとも、それをどう解釈すればいいのか、どう使えばよいのか、気づいたことをどう処理したらよいのか。自分と自分の対話とはどういうことなのか等々の基本を、体験を通してあなた自身がマスターしていかなければ、あなたは今までの現実から永遠に抜け出すことができない。あなたが、自分自身の人生というゲームの歩き方を自分の意思で実践を通してマスターしなければ、分からないことが出る度に『これはどうすればいいのか』『これはどういう意味なのか』『これは本当に正しいのか』『こう考えても良いのか』『こうしても良いのか』云々とあなた以外の人に訊き続けなければならなくなる。文献を探し続け、講演会を聞きまくり、宗教を渡り歩くという、いくら続けても答えが出ない意味のない行為を、永遠に続けなければならなくなる。あなたが、自分の出した答えを疑っている限り、あなたは誰かに確認し続けなければならない。今までの癖を捨て去らない限り、あなたが本当に自由になることはできない。自分以外の誰か(何か)に、『いいのかどうか』と自分の出した答えを確認し続けて、嘘の神の真実に振り回された挙句、偽の天国を目指して突き進み、望むものは何も得られず、何がなんだかわからなくなった末に、最後には、結論が得られないまま、あなたは永遠に滅ぶことになる。どんなに確認しまくろうと、結局は、あなたの出した答えに戻るのである。あなたが早く自由になりたいならば、恐怖や不安に飛び込んで、答えの真偽を確認すればよいだけである。
P258
この本には、あなたがあなたを信頼し直すための、今までの癖を取るためのトレーニングに使える材料が満載されている。あなたがあなたの再教育をするためのテキストでもある。あなたは、あなたの出した答えにすべてOKを出せばよいだけである。『本当にOKを出していいのか』と、ここでまた今までの癖を出せば、堂々巡りに逆戻りである。その癖を完全に取ることが、あなたの再教育の課題である。この本の事実に照らせば、あなたが出すどんな答えにも○を出せるはずである。今までの世界で×と言われていたことも、実際は、本当の×ではない。それがどんなに荒唐無稽なもの、許しがたいもの、不可能に思えるものであっても、疑わず、否定せず、誰にも同意を取らず、あなたが思ったこと、わかったことに、自分が同意すればよい、ただそれだけである。あなたは、自分がしたことに責任を取るならば、何をしてもよい。誰かに訊くということは、その誰かに責任を押付けるということである。『いいのかどうか』と訊くとしたら、いいと答えればやり、よくないと答えればやらない、そして、やってうまくいかなかったら責任転嫁をすればよい、と思っているということである。すべてに自分で責任をとるならば、誰にも確認する必要はない。

あなたが今までの癖を持ったままならば、あなたは絶対に自由になることはできない。誰かに責任を渡している限り、あなたが自由にならないだけのことである。あなたが責任を取らない限り、あなたは誰かの奴隷であり続ける。あなたが奴隷であり続ける限り、あなたには完全なる自由はありえない。あなたがあなたを完全に自由にしない限り、あなたは完全に自由にはならない。自分が責任を取らずに自由になることはありえない。あなたがあなたを疑っている限り、あなたの中に疑いがある限り、あなたの本当に望む世界をすべて実現することはできない。あなたの中に「?」がある分だけ、あなたは自由にならない。疑っているのはあなた自身であるから、あなたを奴隷にしている王様はあなた自身である。
P259
あなたは、いつまで確認しているのか。いつまで疑っているのか。著者は、言葉で語ることも、別の文章を書くこともできるが、それは、材料の追加や補足に過ぎない。あなたが誰かに頼り続ければ、何万人に話を聞こうが、何万冊本を読もうが、どんなにたくさん材料を仕入れようが、結局は、何もならない。『いいんですか?』の答えはただ一つである。あなたの質問にはあなたが答えるしかない。あなたがすべてわかっているなら、あなたの中には質問は出ない。問いと答えを分離しているのはあなたである。あなたの質問の答えを×しているのはあなたである。あなたがあなたに語ることは、どんなものであってもすべて認めること。あなたが、滅びの道の堂々巡りから自分を救う方法は、それしかない。

この本は、この本に書かれていることを実体験を通して確信しなければ、絶対に書けない。

この本のソースは、自動書記(霊感、神示)と呼ばれる形で提示されたものである。神典や神の啓示、預言、神託、チャネリングと言われるものは、この形で降ろされたものである。このメッセージは、検証のプロセスを経ずに、受け取ったものをそのまま言葉や文章にして公開することもできる。著者もその形で公開したことがあるが、その時はまだ、本当の意味で確信していない段階であり、著者にも若干の疑問が残っていたため、読者の反応に本当に自身を持って対応することができずに悩んだ。その後も、当時の社会状況を反映させながら、表現を変えて何冊かの本を書き、講演会もしたが、その当時の著者のレベルでは、どんなに分かりやすく話をしようとも、読者が取り違いをする公算が大であることを学んだ。しかし、その体験を通して、最終的には、現代社会での体験と結びつけながら、さらに具体的な実践の裏付けがある理論の形で統合して提示した方がよいという結論に達し、『今ここでどうすればよいか』という実践的ノウハウという形で、より広い読者層に公開することができる内容にする必要があると判断して、難儀ではあるがその道に踏み込んでいった。そして、その結論が、最後の講演会を終えてから以後、言うならば、地下に潜伏して最後の総仕上げをした4年間のフィールドワーク(実際に、その時の予想以上に、とんでもなく難儀な体験の連続ではあったのだが)を経て書いた、この本なのである。

この本を使うに当たって大切なことは、自動書記とは何なのか。その出所はどこなのか、どんな存在が送っているのか、メッセージは本当のことなのか、等々にフォーカスすることではない。その世界に嵌まってしまうと、あなたは、別の罠に落ちることになってしまう。イエスキリストが本物か偽者か、イエスキリストの神は本物か、という議論をしていても全く意味がないのと同じである。イエスキリストの言ったことそのものを自分が信じるか信じないか、が重要であり、信じたならば、一言一句違わずその通りに生きることである。あなたは、今までも、今生で教えられてきた常識を真偽も確かめないまま鵜呑みにして、一言一句違わず実行してきたのである。その結果があなたの現実であり、この本を手にするハメになった原因である。あなたが今まで何を信じ、どんな行動をし、どんな体験をしてきたかは知らない。しかし、あなたがどんな現実を体験していようとも、今のあなたの現実、今あなたがいるその場所が本当の天国へ戻る出発点なのである。あなたがそれを否定したら、あなたの今までの人生は無駄になってしまう。要は、あなたが今までの間違いを認め、今まで体験してきたことを材料にして、本当の天国に向かってゼロから出直す覚悟をすればよいだけであり、それが、自分をすべて認め、自分の今までの苦労や体験を本当に活かすことにもなる。結局は、この本や著者の素性を探ることに心血を注ぐのではなくて、この本に書かれている事実をあなたがどう使うか、ということが大切なのである。
P260
この本をあなたの役に立つものにするためには、生き様の根本を正す材料として使うことである。あなたがこの本(の事実)や著者の真贋を確認してから信じると言うならば、それでも構わない。ただし、その間は、あなたは、現代社会の嘘の常識の世界に居続けることになり、本当の真実への道がどんどん遠くなっていくだけである。現代社会と裏表の事実を書いたこの本の鑑定結果は、あなたの鑑定眼(判断基準)次第である。結局は、本物かどうかを決めるのはあなた自身であり、この本をどう使うか、いつ使い始めるか、使った結果をどう扱うかは、あなた次第なのである。これは、他の書物や講演会等にも言える。この本は、言わば、あなたの真贋鑑定の時間と手間を省くために、著者が、現代社会にある様々な仮説や常識の真贋鑑定をして提示した、現代社会の真贋鑑定の報告書でもある。

さて、話をもとに戻そう。当時の著者が受け取ったメッセージの内容としては、この本に書いてあることそのものであるが、それは、著者の分析、価値判断、思考を停止させるが如くに、記録していくペンが追いつかないほどの速さで次から次へと心に浮かぶ、という体験としてもたらされた。現象としては、あなたが自分の思いついたことを走り書きするのに近いが、それはまさに、本当の自分が嘘の自分に論争を仕掛けるが如く、この事実に嘘の自分が抵抗する(自動書記を止めようとする)ほど苦しくなって、結局は、(いつもそうだったのだが)、著者がどう抵抗しようとも、ある量のメッセージの記録が終わらなければ、それは止まらなかった。この現象は、また、著者が著者自身の書いた本から知らなかったことを知らされる、という如くの「知らずして知る」という摩訶不思議な体験でもあり、自分が知らないことが自分の中から出てくるという、常識では解釈が困難なその体験の意味付けをするのに苦労した。メッセージは、ある時期から、その時々の事件や事故、社会問題等の、いわゆる時事問題の本質の読み方とでもいうようなものに変化していった。

著者が初めてこの本にあるような事実を知ったのは、バブル崩壊直後の、大震災もオウム事件も起きていない、日本がまだバブルの余韻に浸っている頃だった。その頃の著者は、教師として現代社会にどっぷりと漬かっていて、今の社会は何かがおかしいと薄々は感じてはいたものの、当時の常識を真実として教壇に立っていた。著者がメッセージをどう感じたかと言えば、それまでに学んできた常識ではありえない話、うさんくさい話、許されない見方、抵抗ある見方に感じたことであろうことは、ご想像頂けると思う。それは、あなたがこの本を読んで感じている反応と同じである。自分の内から出てきたものであるにも関わらず、それが信じがたいものであるという、二人の自分の存在に若干の怖れを抱くこともあった。しばらくは秘密にしていたが、周囲の人間に話し始めた時は、当然にこういう反応が返ってきた。『あんたは何を馬鹿なことを言っているんだ』『頭がおかしくなったのか』『そんな宗教を信じていたら大変なことになるぞ』『そんなことできるわけがないだろう』『そんなことをしたら家族や社会に迷惑がかかるからやめろ』『どうなっても知らないぞ』『後で泣きついてきても助けてやらないからな』云々。言うなれば、この世に存在するありとあらゆる非難の言葉と行動を返されたと言えるかもしれない。ただ、その頃にも、「進んだ」「新しい」考えを持っている人もいることはいたので、少しは話を聴いてもらうこともできた。しかし、時の経過とともに、そういう人たちからもだんだんと相手にされなくなっていき、自分の質問に答えらる他者の存在も消えて、結局は、自分が自分で自分の質問に答えるしかなくなっていった。自分の頭の中だけで対話している分には問題はないのだが、自分の人生すべてを通して実践していくとなれば、それは、とんでもない抵抗、非難、中傷、無視、蔑み、嘲笑の連続が待っていた。それは、家族や親類であっても同じであり、近い分だけ封印する力は強かったように思う。まさに、奈落の底に落ちていくような本当に孤独で厳しい自己対話と実践の連続を経て、ようやく今ここまで来たのである。
P261
当時の著者にとって、それは、認められない、許しがたい、ありえない、恐ろしい考え方、簡単に言えば、当時の社会状況の中では、とんでもない内容だったのである。とはいえ、その見方で現実を見直していってみると、確かに、そのメッセージの方が核心を突いていることを実感するようになっていった。その後、それが真実であると本当に確信するためには、その見方で実際に生きてみて、それが本当に真実かどうかを現実として体験してみるしかないと思い、当時としては、非常に勇気がいることであったが、教師という世界から足を洗った。しかし、その見方で生きるということは、厳しい現実の繰り返しが待っていることを意味し、この本にもあるように、混乱、不安、恐れ、疑い、孤独、死の恐怖等々が交錯する、まさに、天地がひっくり返る体験の連続だった。同時に、そのプロセスでも、新たな情報が次々に手元にもたらされたが、そのすべてを受け入れ、時々の社会情勢に投影させながら統合していくという作業を繰り返すことによって、だんだんと自らの体験に統合されていき、著者の確信はどんどん強固になっていった。そして、今ではその確信は絶対の真実となっている。この本に書いた通りに実践した総決算が、この本なのである。

このプロセスで得た様々な情報は、それがどんなものであれ、受け取ったものは、現代社会の要素に統合するべく、片っ端から実行に移していった。そして、今の世にある様々な学説、意見、教理、思想、哲学、預言、予言等々とも照らし合わせて検証しながら、その結果を再統合することで、確固たる確信を得るに至った。この本は、著者の全人生を賭けたフールドワークと著者自身の実体験を通してすべて事実であると確認した上で書いたものである。この本は、突然のメッセージから始まった、著者の体験の総まとめでもある。
P262
これまでのプロセスを、今、改めて振り返れば、今ここまでの長い長い道のりの中で、多くの人が来ては去っていった。本当に孤独の極致を味わった時期もあったが、結局、最後までずっとそばに居て支えてくれたのは、家内だけであった。どんなに苦しい時でも、誰にも相手にされなかった時でも、著者がどんなに「無謀な」行動をとった時でも、著者を信じ、言語に絶する苦労に耐えて、支え続けてくれたのである。著者が自らの道を貫き通したことで、まさに、かけがえのない永遠の「ソウルメイト」に出会うことができたことは、著者にとっての最大の贈り物である。今ここで思うことは、ある人は著者を非難する形で大切なメッセージを残してくれ、ある人は精神的、経済的に苦しい時期を快く支えてくれた。結局は、善かれ悪しかれ、今まで出会った「すべての人たち」のお陰があって、この本を書くことができたということである。この本は、著者が今まで取り組んできたことの報告書であり、著者の最高最大の感謝の表現でもある。従って、この本を世に出すことは、家内を始めとして、肯定的であれ否定的であれ、今までの著者の歩みのプロセスに関わり、支えてくれた、すべての人たちへの本当のご恩返しの始まりであると思っている。

この本をきっかけにして、一人でも多くの方々が、本当の天国の現実を体験をすることができたならば、著者にとって、これ以上の喜びはない。著者のこれからの大切な仕事は、本当の天国(ミロクの世)に戻ろうと決めた方々のお役に立つことである。それは、著者のライフワークであり、大神の親心、誠意に応えることであり、本当の意味での神のお手伝いとなるからである。それはまた、日本(世界)の真の再生に貢献すること=本当の社会貢献でもある。そのためならば、著者は、全身全霊でお手伝いをさせて頂くが、それは、著者の持っているすべての体験と情報を駆使して、ものの見方、視点の変え方、トリックの外し方、言い換えれば、身魂の大掃除のノウハウとそのための材料を提供することであり、著者が直接、読者諸氏の心の大掃除を代行すること=あなた自身を真釣りの響きに変えて差し上げることはできない。著者(この本)は、あくまでも、あなたご自身の真釣り戻しのための鏡となることができるだけだということをご承知の上で、使って頂きたい。

著者は、現代社会の中でこの本を書いて公開することが、自らの人生のライフワーク、言い換えれば、それがこの世で果たすべき自分の役割であり、「天職」であることを、この本を書くに至るまでのすべての体験を通して確信した。そして、刊行が終われば、本当の天国に戻るスタンバイが完了するであろうことも予見している。まさに、著者の今までの人生は、この本を書くためにあったのである。これは、著者の体験上、時を経るごとにハッキリと見えてきた事実であって、今となってはこれを疑う理由はどこにもない状態にある。
P263
著者は、13年間、殆ど毎日何らかのメッセージを走り書きしていたため、その量は膨大なものである。従って、それをすべて公開しようとしたならば、その整理だけでとんでもない時間と労力が必要となり、いつになったら公開できるのか、目処も立たない状況に呆然とすることになっただろう。メモの中には、著者自身にも読み返せない走り書きも多く、すでに灰となって埋立地でビルの土台と化しているものもあり、今となっては、それはできない相談である。また、メッセージの中には、著者自身へのガイドとしてのものも含まれているから、すべてを公開しても、実際には意味がない。結局は、読者諸氏が実践していくにあたってのポイント、実際に使うにあたって参考にできる材料だけを要約して公開すればよいから、その企ては実現しなかったのである。メモは灰になったが、著者の心の中には、その時その時の体験と共にすべてのメモが整理してしまってあるから、必要とあらば、いつでも、補足説明や材料の追加、詳細な内容の提示等の形で、この本をたたき台として話をすることは可能である。この本は、著者が書いてきた膨大なメモの内容を過不足なく網羅した研究の要約であり、実体験を通して検証した結果を基に、現代社会に生きる読者諸氏にわかる形に翻訳した「日本真道の実践入門書」として書かれたものと言える。

突然、個人的な話になってしまったが、あなたがこの本を使うにあたっての何かの参考になればと思い、著者自身の総まとめと、今まで支えてくれた方々への感謝の意味も込めて、この本が誕生するまでの経緯のほんの一部分を、今ここで紹介させてもらった次第である。

さて、真釣りを外した世である今のあなたの世界にあるものは、あなたが真釣り戻すまでは、すべてが真釣り戻しのための身魂の掃除道具である。今のあなたが使っているすべての道具、言い換えれば、あなたが生きるために必要なすべての天恵は、真釣りを外した「情けと花の仕組み」の中においては、すべてが身魂の穢れの大掃除をするための道具なのである。しかし、今のあなたは、逆さまの世を真実だと取り違いをして、魔釣りのアヤマ知に囚われ、形の世界で至福や快欲を追い求め、快適生活にどっぷりと嵌まり込んで、その真釣り戻しの道具で魔釣りの天国を作ろうとし続けている。形の部屋を綺麗にするために掃除に励むのではなく、掃除という行為を使って、自らの心の掃除をすることが、本来のあなたの為すべきことである。この世で天国を作ることではなくて、今ある道具を使って天国の響きに戻すことが、あなたが生きている本来の目的なのである。あなたが真釣り戻した後は、掃除道具が真釣りの天国の疑似体験をするための遊び道具に変わり、真釣りのミロクが顕現した暁には、歓喜弥栄の永遠の天国で、自由自在に世界を作ることができる。あなたがこの世ですべきことは、快楽を追求することではなくて、真釣り戻すための苦労をすることである。それが、真釣り外したあなたが今生で歩むべき、本当の道なのである。

片付かない、綺麗にならない、とイライラしていたら、掃除の意味はない。見える世界を綺麗にするための掃除に精を出し、形に現われた塵や埃をどこかに追いやっても、結局は、自らにすべてが戻ってくる。日本から見た「東」は、地球を一周すれば、それは、「西」あり、自分の東は自分、自分の西も自分である。東=西、であり、自らの視点の違いに過ぎない。あなたからどう見えたとしても、快楽を追い求め、自らの苦労を誰かに押し付けていることには変わりはない。誰も責任を引き受けないと言ったら、最後には、自分から出たものはすべて自分に戻る。自分が責任転嫁した分=苦を押し付けた分を引き取らない限り、あなたは永遠の間違いに気付かないまま、永遠の命を捨てることになる。楽に掃除を済ます方法を追い求め、有害物質やポイ捨てを取り締まれば、一時的には満足感が得られるが、実際のところ、綺麗になるどころか、規制や強制をされることで、望みとは反対に、心はどんどん乱れていく。あなたが響きの穢れを塗り隠した分、最後にまとめて形に現れることになるから、結局は、誤魔化し、塗り隠し、見ない振りをしていた分をまとめて大掃除することになる。すべての埃を綺麗サッパリ掃除してピカピカの心になるまで、永遠に終わることはないのが、本当の大掃除である。それゆえに、有限だと言う世界で無限に埃をため続ければ、ゴミハウスの住人の現実が自らの現実となる時がやってくる。形の掃除とは違って、身魂の大掃除は、神仏や他人に掃除の方法を教わることはできるが、掃除そのものを手伝わせることはできず、掃除そのものはすべてあなた自身がすることになる。
P264
形をどんなに衛生的に、美的に作り上げたとしても、それは、マヤカシの綺麗さであり、美しさである。実際は、全くアベコベの行為であり、そのまま続ければ、本当の意味では、綺麗になるどころか、どんどん汚れて、ますます散らかっていくだけである。心の曇り具合に比例して、形を壊す響きが増幅するのである。心の乱れが形に現われるから、形が綺麗なほど、身魂は穢れているということである。この世は写し鏡であり、あなたの現実の汚れた形は、あなたの身魂の姿そのものなのである。毎朝、部屋の隅々まで塵一つなくピカピカに磨き上げたら心が磨けるのではなく、心を磨けば、自然に形が磨かれるのである。形の清潔さを保って爽快感を得るために掃除をするのではなく、心の掃除をするために掃除という行為を使うのである。すべては、心の内の話であり、真釣り外している限り、すべてが逆さまとなる。形をどんなに綺麗にしても、形の清潔さにこだわるならば、満足する綺麗さには永遠にならない。今の世で最も衛生に敏感な国が最も不衛生な国なのである。

心の塵一つない、穢れなき世界に戻らない限り、塵やゴミは出続け、体は汚れるから、掃除、洗濯、入浴は永遠に続く。何の曇りもない世界に戻れば、掃除、洗濯の必要はない。その世界には、心の掃除、洗濯が必要な者は存在できないからである。身魂の汚れをすべて綺麗サッパリ落さなければ、形はどんどん壊れていく。つまりは、心の掃除、洗濯をしないならば、曇りも穢れもない世界に生きるという現実は、永遠に実現しないということである。掃除や洗濯を面倒だと思っている限り、掃除や洗濯のない世界に住むことはできないのである。あなたが掃いている塵は、あなたが吐いたものである。自らばら蒔いたゴミは、自らが責任をもって掃除することは当然である。自からの苦=自らの響きであり、すべては、自己責任である。ミロクになるまで、日々、心の掃除、洗濯をしていればよいだけである。形の掃除を毎日する必要はない。実際には、あなたが汚れに我慢ができないから毎日やっているだけであり、穢れを嫌うならば、あなたは穢れの響きと同調していることになる。環境問題は自らの作った問題である。形の世界、今生だけでその原因を探している限り、自らが源であることは絶対に気づかない。だからこそ、形を綺麗にすること、形を壊さないようにすることに躍起になっているのである。自らの響きの反映が自らの現実の体験となる。心の穢れをそのままに、形の掃除で心地良くなろうとする、そのことが、心が曇っている証である。形を綺麗にしよう、汚さないようにしようとする者は、言い換えれば、他人に掃除、洗濯をさせようとする者は、結局は、自らの汚れ落としを神にさせようとしていることになるのである。形の掃除、洗濯をすることが目的ではない。あなたが真釣り戻しの掃除、洗濯をしているならば、どんな状況でも、居場所は必ず用意される。
P265
日常も、非日常も、同じ世界の中にある。自らのすべての世界で同じ心を保てなければならない。家の外にあっても内にあっても、態度は一貫していなければならない。特別なことや、特別扱いがあっては、本当の意味で平等、公平ではない。大神は、善にも悪にも、別け隔てなく天恵のお陰を渡し、平等に改心の機会を与えている。これを『おかしい』と思うならば、あなたは、真釣りの真コトの響きではない。大神の真意が全くわかっていないことになる。このことがわかって、いつでもどこでも、たとえ死んでも、死んだ後も、100%、大神の意に乗って生きることが、真コトの行である。俗世間を離れて、修行のための施設で、毎朝、境内やお堂の掃除をしたら悟れるわけではない。それが義務や強制に感じるようになれば、逆効果である。悟るために掃除をするなら、それは、取り引きであり、心底からの改心はない。心底から改心したというならば、俗世間で不平不満を一切、言わないことである。仲間同士の合宿で出来たからといって「罪」が消えるわけでもない。

形が心を変えるのではない。心に従って形が成るのである。すべてのやり方、生き様が逆さまである。不平不満を言いながら掃除をしても意味がない。掃除は、人生の雛型である。時間も、生死も、予定も、すべて捨てて、一つ一つクリアしていくことで形になるのである。形にするために何かをするのではない。身魂の掃除、洗濯とは、心の囚われをすべて捨てることである。善悪をすべて捨てることである。魔釣りのイシヤの仕組みも、大神の許しあって存在しているのであり、魔釣りに囚われた者と共鳴する響きを作って、魔釣りに気づかせて真釣りに戻すために、魔釣りの響きに囚われれば不都合を体験する仕組みである。真釣りしかない世界で不都合があるならば、その原因は、自らが魔釣りの響きを持っているからである。あなたが真釣りならば、真釣りと共鳴しているから、不都合は一切ない。不都合があるならば、あなたが魔釣りの響きを奏でている証である。万象万物は、自らで魔釣りにはならない。魔釣りで真釣りを使った人間が、魔釣りに変えるのである。
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あなたが、あなたのすべての不都合の原因なのである。この世は(あの世も、であるが)真釣りと魔釣りしかない。あなたが魔釣りでないならば、真釣りだということになり、あなたに不都合があるのはおかしい。あなたが魔釣りではないというならば、あなた以外が魔釣りであるということになる。あなたが真釣りならば、あなたの周りが魔釣りでも不都合はない。あなたが魔釣りならば、真釣りでも魔釣りでも不都合が現れる。ゆえに、あなたの体験(認識)している不都合はあなたの魔釣りが原因である。真釣りの者は、自らが源であることを知っている。真釣り外しを認めた者は、自ら以外のせいにしないことに気を巡らせる。あなたが、『自分は悪くない』と言ったり、自ら以外のせいにしたりするならば、それは、あなたが魔釣りの証である。真釣りを認めないならば、そのまま、魔釣りを正しいと思い込んだままである。社会が魔釣りだとしても、あなたが真釣りならば、社会は何の障害にもならない。実際のところ、大きな視点から見れば、社会には何の問題もないのである。あなたが、あなたの不都合を社会のせいだと言うならば、あなたは魔釣りである。あなたが魔釣りであるならば、魔釣りの社会と同罪であり、実は、あなたがどんな体験をしようとも、社会のせいにすることはできない。責任転嫁はすべて冤罪なのである。

あなたが魔釣りならば、真釣りは闇であり、許せないものとして映り、魔釣りの悪と区別できない。元つ天と小天をごちゃ混ぜにしているのと同じことで、真釣りと魔釣りの悪の区別はできないから、真釣りを裁くことになる。あなたは真釣りと知らずに裁き続けることになる。あなたが原因か、あなた以外が原因か、どちらか一つである。真釣りに戻らなければ、魔釣りからは出られず、真釣りの世にも入れない。自らの真釣り外しを認めない限り、あなたには本当の天国はない。あなたが魔釣りの響きを掃除しなければ、どんなに巧妙に仮面を被ったとしても、どんなに屁理屈を捏ねて先送りしたとしても、結局は、魔釣りの大掃除を体験する時が来る。最後には、魔釣りの響きそのものが形になる時がくる。

自分が真釣り戻さない限り、苦は増え続ける。自らで影の源を消さない限り、自らが作り出す影法師からは、死んでも逃げられない。最後の最後は、誰のせいにも出来ず、誰にも頼れず、誰も助けてくれず、自らで自らのしたすべての過ちの落とし前をつけることになる。あなたが、どんなに「自らの正しさ(自ら以外の誤り)」を主張しようとも、それは、魔釣りの響きの世界での証明に過ぎず、そのままならば、必ず、自らのマ違いを思い知る時が来る。真釣りは天地自然の掟であり、真釣りを外したものはすべて滅ぶのが定めである。真釣りには魔釣りはなく、本来は、滅びとか、死とかいう概念は存在しない。従って、その対極である、再生とか、生とかいう概念も存在しないのである。滅ぶという言葉は、情けと花の仕組みの中の途中経過の世界でだけ存在する、期間限定の言葉である。今に生きようとしても、それは、今を認識しているから、実際は、過去や未来を見ていることになる。「今」という認識すらも消えたときに、初めて、本来の「今」を体感するのである。
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存在し続けるものには、滅びはなく、滅んだ者は、滅びという言葉は使えない。実際は、始めから存在しないのが魔釣りの世界であるから、真釣りから見れば、滅んだ者、という表現もありえない。それは、敢えて言えば、真釣り戻った者から過去の存在を見た表現であり、滅んだ者であり、真釣り戻った世界は、元の始めの世界だから、魔釣りはなく、滅んだ者は一人もいない。滅ぶ者も一人もいない。真釣りから見れば、「情けと花の仕組み」は幻であり、真釣りから見たら存在しない世界なのである。世が真釣り戻れば、元の世に戻って、情けと花の仕組みの中で天国を作ろう(生き延びよう)としているあなたは消える。真釣り戻っていなければ、元の真釣り世に戻った時、あなたはいなかった存在となる。

真釣りにない思考、響きをすべて掃除することが、身魂の掃除である。魔釣りの結果である形を掃除しても、真釣りに戻ることは出来ない。あなたが死を考えるのも生を考えるのも魔釣りである。相対二元、対極の世界に存在するものは、すべて、同じものを相反する視点で見ただけのことである。保護を語るのも、節約を語るのも魔釣りである。破壊を破壊しようとするのも、形の世界の修繕(病気という魔釣りの響きの治療)をどんなに続けようとも、本当の天国は実現できない。永遠無限の歓喜弥栄の生き通しの世界にない思考、言葉、イメージを持っていれば、それは魔釣りであり、大神の世の大掃除が終われば、魔釣りの響きは綺麗サッパリ掃除され、今で言うあの世にもこの世にもどこにも存在しなくなる。つまり、あなたが魔釣りに同調する響きを微塵でも持っていれば、その響きにこだわっていれば、あなたは、真釣り戻しの機会を棒に振り、掟通りに消えることになる。大神が生かしてくれた復活の機会を自ら拒否し、自らで自らの命を捨てることになる。

天地自然の掟は絶対真理であり、あなたがどんな理屈を持ち出そうとも、それは、掟破りをし続ける宣言に過ぎない。掟を破ったあなたが掟に戻らないならば、あなたが掟通りに消えるだけである。あなたがどうするかをあなたが決めるのではあるが、本来は、掟に従うのが当たり前であり、掟破りは許されないのである。許されないことをしたあなたは一切の反論は許されず、アレコレと屁理屈を持ち出すならば、一切の情状酌量はなく、問答無用で成敗されるのである。掟破りの存在が生かされているだけでもありえないことであり、その掟破りの無法者がツベコベ言うならば、自らの立場を全くわきまえていないことになる。あなたがどんな策略をめぐらそうとも、あなたが滅びを避けることは100%できない。できるというならば、それは、ここで述べた通りの行為であるから、ここで述べた通りの結果となる。あなたが、アレコレと屁理屈をこねくり回すのは、生き延びるためであるが、今のあなたの命は、あなたのものではない。あなたが本当の命を手にするには真釣り戻すことが条件である。あなたがどうするかは自由であり、二つの道があるように見えるが、今の世で生き残り、快楽、天国を求めているならば、それは永遠に叶わない。魔釣りの現代社会に生きる者にとっては、真釣り戻しの道しか残されていないのである。
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叶うとは、口と十、0と十、つまりは、すべてを一つにしない限り、実現しないことを意味する言葉である。真釣り戻しをするのが、「情けと花の仕組み」の唯一の目的であり、それをしない限り、目的は果たされず、ピント外れのまま、焦点を外して昇天しても、あなたは真コトの火で焦げ死ぬのである。真釣りは真釣りであり、あなたの生き残る道は、どうあっても真釣りに戻すことしかない。真釣りは生死時空を超えた掟であり、真釣り戻しも生死、時空を超えた行為であるから、あなたには死後の世界はない。あなたにとっては、すべて生の世界であり、あなたが真釣り戻さない限り、あなたは永遠に命を失う。永遠に続く世は、真釣りの神代のみであり、真釣り戻しのみが神人共通の目的だったのである。

魔釣りか、真釣りか、どちらかが実体である。善か悪かの選択は、魔釣りの響きの中の選択である。善=悪である。結局、真釣りに戻すためにすべてがあったのである。あなたが魔釣りの世界で生き延びようとしている間に、情けと花の仕上げに向かってすべてが動いている。間違いに気付いたところで、あなたが今までしてきたことは消せない。気付いたら、それを認めて、キッチリと責任を取ることでしか、今までの過ちは消えない。どんな地獄が待っていようとも、それは、真釣り外した自らが招いた地獄であり、その地獄をすべて引き取ることしか、真釣りのミロクに戻る道はない。あなたが、イシヤの仕組みの快楽を追い求め、偽の天国を得るために争っている間に、真釣り戻しの期限の到来が近づいていたのである。今この場で真釣り戻すか戻さないか。それが、今のあなたの唯一の選択肢である。魔釣りか真釣りか二つに一つ。魔釣りに生きたあなたが真釣りに戻すには地獄が必要であり、魔釣りのままならば、地獄を経て永遠の滅びである。真釣り戻しの地獄を経て生き戻るか、魔釣りの地獄を進めて滅ぶか。同じ地獄でも、結果は天国と滅びであるから、あなたには、迷う理由はない。真コトの命の踏絵を踏んで、ミロクに戻って欲しい。

すべてのすべてが元に戻るのである。九分九厘まで魔釣りを進めた今の世で真釣り戻すには相当な難儀を要するが、別の意味では、今の時ほどお陰も情けもハッキリと現れる時代はかつてなかったということである。真釣り戻せば、そのご苦労にお陰がどんどんついてくる。真釣り戻さなければ、御苦業のメグリがどんどん増えて、ますます情けが厳しくなる。今のこの時期は、真釣りの真コトがなければ、もう何も成就はしない。魔釣りのやり方で作った仇花は、作ったそばから散っていくことになる。すべては、真釣りに戻っているだけである。今までの歴史は魔釣りを外し続けた歴史であり、現代社会はその究極の姿である。その現代社会の中で学んできたすべてのことは、魔釣りを進める=滅びに至るやり方である。すべてのすべては真釣り戻すための道具である。魔釣りは真釣り外した者(魔釣りの者)の囚われを解く響きであるから、魔釣りすら悪ではないのである。あなたには裁くべきものは何もないのである。真釣りに悪はない。魔釣りから見たら不都合に思うことがあるだけである。自らが魔釣りの響きを持っていなければ、悪は見えない。悪が見えるならば、あなたは魔釣りの響きを持っている。その魔釣りがすべての悪や苦の源である。魔釣りの世で真釣りを思えば、悪に見える。真釣りである世に悪があると言っているあなたの魔釣りこそが、本当の悪なのである。戦争の際、軍規に違反すれば、処刑である。魔釣りをやめれば真釣り、魔釣りをやめない限り、滅びの道を転がり落ちていくことになる。
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あなたが体験している現実は、あなたが真釣り外して以来のすべてのメグリの型示しである。あなたが産まれた家系、場所、あなたの家族、出あった友人も含めて、姿、形を変えて、因縁の身魂がメグリ巡って出会っているのである。その目的は、お互いの真釣り戻しのためである。この世には偶然は何一つない。従って、偶然の一致というものもない。すべては必然であり、たとえ今世で覚えがなくても、あなたに不都合があれば、あなたは掟破りを犯している。自らが体験している苦(不都合)のある現実が、違反の事実があった証明である。そのことを素直に認めて、真釣り戻さない限り、あなたの命は間もなく終焉の時を迎える。身魂の掃除が進めば形の掃除も進む。形を綺麗にしようとすれば心が乱れ、いずれ、綺麗にした形は崩壊する。綺麗にする前よりもっと散らかる。部屋というのは、心の表れであり、見た目の部屋を片付けさせようとすれば、心が乱れ、もっと散らかる。人生そのものの乱れも心の表れであり、姿形を取り繕っても、全くアベコベの現実を自ら呼び込んでいるだけである。あなたが一つでも責任転嫁をすれば、それは、自らの首を締めていることになる。形の闇はすべてがあなた自身の魔釣りの響きが原因なのである。あなたが、逆さまの生き様をしていることを心底から認めないならば、あなたは永遠に滅ぶ。

あなたがこの本に書いてある事実を否定すれば=この本を通して提示した結論を認めなければ、あなたは「すべて」を見ることはできない。著者に反抗しても、それは自分が自分に反抗しているだけの、あなたの中の単なる一人芝居であって、著者にとっては、何の意味もない。魔釣りの世に初めて現れた真コトの道、「天国の方法」を書いたこの本があなたに何をもたらすか。その鍵は、あなた自身が握っているということを知っておいて欲しい。

今の「日本国」に、本当の神の真コトの道に戻る身魂が増えれば、真コトの響きに共鳴する力が増幅されて、大神の力を顕現しやすくなる。従って、それだけ、本当の世界平和、本当の天国が近づく。これから始まる、ヒノモト(世界)に本当の天国=真釣りのミロクを顕現する草薙の剣(真コト)渡す大神のプロジェクトのお手伝いを、一人でも多くの志ある方にお願いしたい。著者の上げた指に止まるかどうかは、各自が決めることであるが、最後の仕上げの大掃除を前にして、できるだけ多くの方々に真コトがあることをお伝えすることがこのプロジェクトの目的である。真釣り戻しをするしないは別にして、すべてが逆さまだったこと(真釣りの真コト)を知って大掃除に突入すれば、最後の最後のギリギリのところで、ミロクに戻る機会を得ることができるのである。最後の命綱があることを知っていれば、身魂相応の艱難辛苦はあるにせよ、滑り込みでミロクに生き戻ることもできるのである。三千世界が真釣り戻った時、果たして、あなたは残っているだろうか。
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あなたにとっては、この本が、著者にとっての自動書記のメッセージにあたるものであるといえるかもしれない。この本に書かれた事実をどう受け取ればよいのか、この本を読んだ後に自分が何をすべきなのかは、この本に書かれている事実から自分自身で見つけて欲しい。あなたは、この本を基にした実践の過程で、(本を書くかどうか、講演会をするかどうかは別にして)著者が歩んできたのと同じ茨の道を辿っていくことになるだろう。それは困難な道のりではあるが、あなたが本当の天国に戻るためには、絶対に避けては通れない道なのである。あなたが道に迷った時、恐ろしくなって立ち止まった時、この本(著者)をガイドにして、その先の道の奥に進めばよい。その道がどんなに険しく見えても、通行不能に見えても、必ず道はある。あなたの心の曇りがその道を閉ざす唯一の検問、通行止の標識である。その標識を外し、検問を通過することを許可できるのは、あなた自身だけである。あなたが封鎖した神の道は、あなたが封鎖を解除すれば、自由に通行できる。あなたが、本当に、心底から天国に戻ることを望むなら、必ずそこへ戻ることができる。そこはあなたが元いた故郷である。あなたが本当に故郷に帰る気があるなら、止める者は誰もいない。この本は、あなたの本当の天国へ戻る道、本当の故郷へ帰る道にあるすべての検問を通過する方法を書いたマニュアルである。今風に言い換えるなら、あなたの天国を闇に葬った偽物のドラゴンを倒す真竜の草薙の剣をゲットする冒険ゲームの攻略本である。

日本をどうやって再生するか。それにはまず、あなたの中の日本を再生することである。あなたが「日本」について語る時、それは、あなたの中にあるイメージの日本である。実際には、あなたの現実には、日本という国はない。その実体は、『こういう国を創りたい』『こういう世界で暮らしたい』という理想を、現代社会で言う日本の風景に投影して、あなたが想像している幻想である。現代社会で言う今の日本(「日本国」)は、本当の日本の姿とは全くアベコベの姿になっている。従って、日本を再生するためには、あなたの内にある「形の日本を作る基になる、見えない日本の姿」をすべて作り直すことが必要である。

日本の再生を語る者は多いが、その殆どは、文明社会の中での先進的な外国のシステムの輸入、又は、そのシステムの改良という視点である。日本文化を尊重すると言ったところで、その日本文化は、突き詰めれば外国の輸入文化の変換であり、形を日本風にしただけに過ぎない。輸入文化を取り入れるほど、新たな問題を作り出す。その方法では本当の日本の再生には貢献できない。それがどんなに新しく革新的、先進的に見えようとも、奇抜に見えようとも、たとえ『これこそ日本を復活する究極の方策である』と言おうとも、その実体はと言えば、今までのシステムの延長線上の考えでしかない。姿や形は違えども、それが現在のシステムの根本理念を踏襲するものである限り、日本が再び蘇ることはない。

本当の意味での再生とは、「本当の日本」が蘇えることである。未来の新しい日本とは、実は、過去の古い日本のことであり、正確に言えば、日本の再生とは、日本という国の本当の姿を復活することを意味する。本当の日本(ヒノモト)を顕現することである。今の社会システムやアベコベの思想をどうこねくり回しても、『偽の天国を創るために形を治す』という根本のところは何も変わらない。立立体的コロンブスの卵の発想をしない限り、姿形だけの新しさを求めても、本当の日本の再生は叶わない。本当の意味での新しい日本は、現代社会の中にあるどんな理念でも再生することはできない。再生とは、「再び生まれる」ことであり、一度死んだものが生き返ることである。本当の新しい日本とは、元の始めの親神の天国のことである。そこにあなたが戻れば、生き返れば、あなたから見れば、新しい日本を作ったことになる。あなたが元の響きに戻れば、本当の日本に生き返る。
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現在の日本国を作り上げた根底にある理念、今あなたの持っている外界を作り出す基である世界観、価値観を奇麗サッパリと塵一つ残さずに捨て去らない限り、アベコベのままである。半導体製造工場ではないが、響きのクリーンルームを作らない限り、真コトの国を創る神界コンピュータの半導体は製造できない。たった一つの響きの塵があるだけで、その工場は、製造を開始できない。完全な半導体でなければ、神界コンピューターは作動せず、ミロク世のCGは表現できない。真釣りのエンジニアが作った完全なプログラムは、100%純粋な半導体で作った無限CPUでしか処理できない。魔釣りの世界を完全に解体しなければ、本当の真コトの日本国の建設には着手できない。魔釣りの目隠しを100%外さなければ、真釣り100%の世界の立体パズルの全貌は見えない。真釣りの世では、真釣りの体でなければ、息一つできず、何一つ動かせない。三千世界が真釣りの世に戻った瞬間、真釣りの真コト以外のものは、自動的にすべて消滅する。真の日本を建設する材料は真釣りの響きであり、それを扱えるのは、真コトの響きを持った体だけである。建設作業員は全員真コトでなければならない。魔コトと真コトは裏表の踏絵であり、真コトの世に魔コトが潜り込むことは不可能である。自らの真コトの復活が国家建設の条件である。

ミロク世は、万象万物が真釣りの響きのみで作られた世界である。神も人も、真コトでなければ生きられない、魔釣りの響きが入る隙間はどこにもない世界である。魔釣りの響きの者は、呼吸も、代謝も、心臓の鼓動も、細胞分裂も、生の営みのすべてが停止する。それは、即ち、ミロク世の復活は、魔釣りの世の永遠の滅びであり、魔釣りの響きを僅かでも残している者にとって、それは、永遠の死(消滅)を意味する。魔釣りの世にある対極の言葉は一つの響きに戻り、論争は消える。魔釣りの響きを完全に消滅させなければ、あなたが真釣りの世の体に入ることは出来ない。真釣りに戻れば、ミロクが実現する。ミロクを実眼するためには、真釣りに戻らなければならない。それが天国への唯一の道である。

今日の「日本国」は、現代社会でいう、西洋文明の理念が根本にある世界に属している。金と科学が支配する戦いの略奪世界では、世界の平和、本当の天国を実現することは不可能である。形だけで再生を図っても、それは、形が変わるだけで、本当の再生ではない。従って、今あなたが見ている国の風景は、本当の姿ではない。本当の日本再生のためには、あなたの持っている日本という概念、現代社会の日本国を作り上げた根本にある思想(響き)を完全に引っ繰り返さなければならない。すべてのすべてがアベコベ、上下左右前後表裏火水霊体善悪美醜清濁内外天地すべてがひっくり返るのが、真コトのミロク世である。すべての境がなくなった一つの中心が世界を統べる世界、すべてを産み出す真中が綺麗サッパリ塵を祓って澄み切った世界、神が神のものをつかって神の世界を形にできる自由自在な世界、壊れることも失うものもない永遠に続く世界である。本当の日本は、真コトの響きの国である。魔釣りのアヤマ知で天国を作ろうとしても、それは、地獄の中の天国である。本当の天国は天国のみであり、天国という言葉もない。そこに、苦、闇、死の響きはない。今のあなたには、「真日本再生」のために貢献する準備はできていない。
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略奪の知恵で何を考えようと、本当の天国はできない。それは滅びを意味する。日本は雛型である。あなたがすべての雛型である。日本が再生すれば、世界も、宇宙も、霊界も再生する。日本経済をどう再生するか、という議論がある。経済は、略奪の世界を基にしたお金の世界の話であるから、日本経済をどう再生するか、の議論は全く意味がない戯言である。日本の再生が完了すれば、万象万物が再生する。再生できるものは、元にあったものである。復活とは、死んだものが復することをいう。元々あったものが現われることである。あなたはそれを殺した世界の価値観で世界を創っていたのである。あなたはそれに基づいてすべてをしていたのである。『すべてを壊すか、すべてを壊さないか』である。壊れていれば、それは違反の証しである。今のそのままの知恵で、何を画策しようとも、それは、あなた自身の滅びを意味する。あなたがいる空間の壁を壊せば、外の世界が出現する。本当の天国はすでにある。ずっとあった。あなたが隠しただけである。自分で隠したことを忘れて、他人や神に『作れ!』と命令する。それがあなたのパターンである。アベコベである。自分の内界を直せばよい。それが、本当の再生の始めである。そう言われて、あなたの心の中が真っ暗になるなら、それはあなたの生き様の結果である。嘘が真っ暗になれば真実が見える。真っ暗になることを避ければ、嘘の光を追いかけて滅ぶだけである。

人類の歴史は、本当の天国に戻すための執行猶予期間である。間違った掟を使って社会を進めてきても、それは取り違いである。ここは天国を作る場所ではない。天国に戻るための清算をする場所だったのである。早く戻れ、と大神が何千年もかけて知らせ続けたのに、まだ気づかない。気づかないどころか、『そんなものは空想だ』と言って、真実を見ようとしない。今のあなたが作るものは、すべて壊れるものである。そのままなら天国はできない。すべて壊れる。滅ぶ。本当の天国には分裂はない。ないものは存在できない。消える。壊れるものを作る思想、その思想がつくる想像、想像が作る形を壊せば、あるものが再生する。現われる。壊すべきものは、あなたの分裂思考である。分裂思考そのものが間違いの始まり、破壊の始まり、死の始まり、人類滅亡の、戦いの、悲しみの始まりである。あなたが外界を天国にするのではない。あなたの内界を天国にするのである。あなたが本当の天国に帰るのである。あなたがその世界に生まれ変れば、あなたは天国の自由民となる。
P273
生まれ変わりはあなたにはできない。あなたが響きを作ればそこに行ける。あなたの響き相応である。人事を尽くして天命を待て。天命を期待して人事を尽くすならば、それは取引、責任転嫁である。『してくれるならやる』である。『手を離せば助ける』『助けてくれたら手を離す』では平行線である。この道は完全保証されているが、受け取らない自由もある。壊れるか壊れないか、あなたの世界はどっちか。一つでも壊れるものがあれば、あなたは間違っている。そのままつかんでいても綱は切れている。両手を離して本当の綱をつかみ直すしかない。あなたには、手を離さない理由はどこにもないはずである。本当の天国に戻れば、あなたがそこでどんな国を創ろうと自由である。何を実行しようとも、すべてが思い通りになる。本当の天国は、天国しか作らない者だけの世だからである。始めから平和しかない社会だからである。姿形の違いは問題にはならない。『何をしているか』という中身の違いである。争いの世界では天国はできない。私有している世界には、天国はない。限られた資源だとしたら、取り合いは止まらない。お金を間に入れてそれを更に限られたものにしている。金がなければ何もできない世界を誰が作ったのか。あなたがその世界に同意しているならば、その世界に飲み込まれるだけである。最後は餓死するだけである。今の世界の形のままでも、中身が真コトの者だけならば、何も問題はない。争いをせずにどうにでも作り直すことができる。飛行機で飛んでも、テレポートしても、好きにすればよい。飛行機がなければ困るのはおかしい。お金は、使っても使わなくてもよい。子供銀行を使ったただの遊びとなる。色々な文化があって、楽しめる。それが本当の天国である。

あなたが本当の意味で助かる方法はただの一つである。それは、この本に書かれている。あなたがすべてを捨てて、闇に飛び込み、地獄を厭わない覚悟があれば、それがわかる。ほんの一瞬でもそれを避けようとすれば、それは全く見えない。あなたのすべてを、あなたという存在の生き残りすらをも捨ててこの本を読めば、それが見える。見えたものを消さなければ、闇になっても光が見える。すべてはあなた次第である。すべてを捨てる。「すべて」である。あなたがすべての思い込みを捨てれば、すべてが見える。見えたらそれだけを追いかければよい。本当に改心するということは、厳しいことである。現世の修行ごときでは、真コトは取れない。滝に打たれようと、山を駆け回ろうと、座禅をしようと、お経を読もうと、苦行をしようと何の意味もない。それどころか、ますます本当の天国から離れるだけである。地獄を増やすだけである。占いも、神頼みも、何の役にも立たない。

この本に書いてあるように実行しなければ、この本は書けない。ここに書かれた事実は、単なる知識として書くことはできない。自らの体験を通して検証しなければ、文章で著すことができない性質のものである。この本は、全体で一つの響きを持っている。一つがすべてであり、すべては一つである。すべてがすべてであり、一部をバラすことはできない。あなたが分裂の響きでいるならば、この本の一部をバラすことができる。しかし、それが平然とできるならば、あなたは、すべてに同調していないことになる。この本の一つ一つの言葉や事実をバラバラに取り出して否定するならば、その瞬間にすべてが見えなくなる。あなたがこの本にある事実を一つでも裁いていれば、この本は書けない。あなたがこの本のどこかにこだわるならば、すべてを検証していない証である。あなたがこの本のすべてを検証済みならばこの本は読んではいない。この本そのものの響きならば、外の鏡は必要ないからである。あなたがこの本と戦ったり、この本に賛同しているならば、あなたはこの本の奴隷である。あなたが本当の神の響きになったならば、あなたの中から神が消える。あなたがこの本の響きと完全に同調したならば、この本はあなたと完全に重なる。この本とあなたが完全に一体化したならば、あなたの世界からすべての本が消滅する。あなたは知の奴隷から解放される。あなたは、自分という王の言う通りに行動する奴隷となる。自由の奴隷となる。この本の語る真意が本当にわかった瞬間、この本はあなた自身となる。
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現代社会は、分裂の響きで創ったバラバラの継ぎはぎのパッチワークの世界である。あなたが今の見方で見ている限り、本当の世界の全体像は見えない。すべてが見通せなければ何も知らないのと同じことである。あなたに一つでも分離があれば、すべてが一つの響きである本当の天国は絶対にできない。あなたが何か一つでも裁いていれば、それは、元つ大神の響きを殺していることになる。あなたが何か一つでも否定しているならば、それは、すべてを否定していることになる。しかし、「すべて」を否定できるならば、あなたも否定されて、否定するあなたは消えるから、実際には、あなたがすべてを否定することはできない。否定するあなたがいるならば、それは、矛盾であり、その真相は、あなた以外のすべてを否定しただけに過ぎないが、そのことは、同時に、あなたが分裂の響きを持っているという動かぬ証拠となる。逆に、あなたがあなたも含めたすべてを認めた時、「すべて」も消えて、あなたの世界にすべてを産み出し続ける一つの音色が響き渡る。それが、今の世でいう「空」の境地である。あなたが今まで体験したことのない無の安らぎの感覚である。それが本当の天国の響きであり、そのままでいれば、ミロク世なった瞬間、天国が現れる。

現代社会にある宗教の修行や瞑想では、無の境地、悟りの境地は得られない。もし、その境地に到達したならば、あなたは、すべての宗教と決別することになる。悟りとは、すべての分裂を統合して一つの響きに戻すことであり、聖俗の分離を統合することである。すべてを無にするということは、自分自身の内の論争、価値判断をすべて止めることであり、善悪を消した境地のことである。善悪がなければ、感情も消えて、ただの映像が流れるだけとなる。無とは何もないことではなく、論争のない安らぎの境地のことである。悟りの境地がわかっているなら悟りを得る必要はなく、悟りがわからないなら、修行の到達点もわからず、瞑想をすればするほど悟りから離れていく。煩悩を捨てようとするほど煩悩は強くなる。神や仏を信仰している限り、聖俗に分離して見ていることになる。自らと自らの対話が空の境地へ到達する方法であるならば、自らの日常でもそれはできる。日常の雑事に煩わされたくないならば、お寺で瞑想をすることになる。しかし、宗教は日常の一側面であり、悟りの境地に至ったならば、すべてがわかった一般人に戻る。善悪、聖俗が消えたら、「宗教家」にはならない。宗教施設とは、自らを世俗から切り離した場所で神仏と繋がるための道具であり、悟りの境地に達していない高僧や教祖に仕えても、あなたが無になって消える世界に到達するだけである。生徒と一緒に学ぶ教師や子から学んでいる親では、本当の自立に教え導くことはできない。どんなに神や仏を信仰しようとも、それが魔釣りの神仏であるならば、神や仏と共に元つ真釣りの世から大掃除されてしまう。結局は、自ら求めるものは自らの内にあり、それがわかることを悟りと言うのである。悟った瞬間に聖俗、善悪は消え、宗教は役目を終える。日常すべてが、宗教そのものなのである。自らが自らの神であることを思い出した者は、自らの内の神が消え、宗教もいらなくなる。
P275
この本の事実は実践確認済みである。証拠はこの本が目の前にあることである。現代社会の中で文章で表現するのは難儀なことであるが、あなたには、それはわからなくてもよい。あなたは、この本から何を受け取るか、そして、その結果をどうするか、を決めればよいだけである。大切なのは、あなたが決めたことを一言違わず実行することであり、それが、あなたが本当の天国へ帰るための唯一の道である。あなたへの証拠は、あなた自身の体験を通して現われる。あなたがこの本をすべて受け入れた時が、自分への証明の始まりである。あなたがすべてを受け入れないなら、本当の天国への道の門の前にもたどり着いていない。門の前であれこれ考えず、何も心配せずに、ただ門を入ればよい。今いる道は滅びの道であり、あなたが本当の天国に行き着くことは絶対にありえない。本当の天国への道の門は、善人にも悪人にも、神にも悪魔にも、すべてのすべての存在に開かれている門である。入るかどうかは、あなたの自由である。誰も止めない。あなたの意志がすべてである。入らないなら、それはあなたの意志である。あなたは今、天国を閉ざした箱の中にいる。本当の天国への入口は、滅びの世界の出口である。「出口」=「入口」である。箱から出るか箱の中にとどまるか、地獄を進めて滅ぶか本当の天国に出るか、である。アヤマ知に囚われた今のあなたには、出口の外の世界の方が地獄に見えるかもしれない。しかし、それはアヤマ知が作り出す幻であり、それを怖がらなければ、必ず本当の天国へ帰れる。

スタートがゴールである。逆走していたあなたが今見ているゴールは崖である。前進を続ければ転落死。篭目篭目、籠の中の盗理は、いついつ(五一、合一)出やる(TRY、実行)夜明け(闇開け、世開け、岩戸開き)の晩に、鶴(|、火、支え、十理)と亀(―、水、現われ、顕現)が統べった、後の正面だあれ。天神様の細道は、行きはよいよい(快欲、便利、至福)帰りは怖い(真釣り戻し、元つ大祓い)、怖いながらも通りやんせ。帰りを怖くしたのは、真釣りを外したあなたである。あなたが元の親の天国に戻るためには、まず、この本に書かれていることをすべて素直に受け入れることである。受け入れ難い、をやめることである。受け入れ難いものがあるなら、あなたはそれを裁いているのである。受け入れ難くても受け入れることである。非常に厳しいが、それが、あなたが真コトに戻るための最低条件である。勿論、どうするかはあなたの自由であるが、この事実は動かない。
P276
あなたが次元転換すれば、次元転換した世界があなたの現実世界となる。簡単に言えば、あなたがあの世に行けば、あの世があなたにとってのこの世になる。死者の復活というが、それは、死者が今のこの世に復活するのではなく、あなたが死者のいる世界に行くから、死者、言い換えれば、その世界の民が見えるのである。あなたを中心に思考すれば、死者がこの世に復活したことになる。相手が変わった、動いた、というのは天動説であり、自分が動いた、と言うのは地動説である。あなたは、今まで天動説で生きてきたのである。すべてのものごとを解釈してきたのである。自分が内を変えたら自分の現実が変わる。自分が動いたら世界が変わる。つまり、地動説と天動説は元々一体のものである。すべては自分自身の目から見た、自分にとっての世界である。自分本位の思想である。すべては、あなたの思い込みの世界、あなた自身の投影である。あなたが自分を変えなければ、あなたの見ている世界は一切変化しない。あなたが他人に働きかけて変えさせるのではない。あなたが変わると他人が変わるのである。他人を変えさせるために変わるのならば、それは、他人を変えようとしているのと同じことになる。映るものを変えるには、その源である自分自身を変えなければならない。あなたが天国になれば、あなたの世界も天国になる。

国家を構成するのは個人である。国家を変えるというのは、国家を構成する個人の思想を変えさせるということである。国家の意思を変えるには、構成員の思想を操ればよいのである。すべては、一人一人の同意が作り出す結果である。現代社会は、相互依存の世界であり、自らの責任を放棄した者たちが作り出す裁き合いの響きを根底に持っている社会である。誰かが誰かの責任を取り、誰かが誰かに責任を転嫁する。本当の天国とは正反対の世界の顕現であり、その世界で何をしようとも、その結末は永遠の滅びとなる。今あなたがいる世界にある思想、あなたの外にあるシステムは、誰かが考え出した思想が基になっている。それを正しいと思い込めば、それを代々伝えていくことになり、歴史が進むほどどんどん奴隷化が進行していく。永遠に支配のピラミッドから抜けることはできず、求めている自由や平和は永遠にやって来ない。何かを強制しなければ成り立たない社会は、誰かの思惑によって動かされている世界である。自然の法則には強制はなく、自然のままに営まれる。生かされているとは、生きる者はどうあっても生かし、引き上げる者はどうあっても引き上げるということである。死を避けたり、生にしがみ付いたりして争うならば、それは生かされていることにはならない。自らの力で生きているならば、自由な世界のはずである。生き死にが自由にできないならば、それは、生かされている証であり、自らの生き残りをかけて殺し合いをしているのは、矛盾している。生きようとするなら、それは神への抵抗である。「自由」は自己責任の世界であり、どんな現実も自ら以外に責任はない。
P277
法律という道具を使って強制することで作り出された世界は、自由な世界ではない。二極分裂、需要と供給のバランスを語る有限の世界では、全員が天国になることは絶対にありえない。現代社会に生きる人類は、実現不可能な世界を夢見て、上から下まで全員が騙されているのである。誰かが誰かを操作する世界では、その世界の本当の黒幕の思いのままの世界となる。支配者にとっての人民は、自分の天国を実現するためのコマでしかない。家畜にしなければ支配はできない。家畜が生きる権利を主張しても意味がない。その世界では、人権など存在しない。自分が食べるために飼育している豚が豚権を主張して反乱したらどうするのか。「人」の世では平等も公平も主張しない。当たり前であり、満たされているからである。「獣」の世は戦いである。それぞれが自分の天国を作ろうとして殺し合いをすることになる。奴隷、家畜、ロボット、みな同じ状態を指す。誰が誰を所有物にするか、誰が誰を奴隷にするか、という王の座の争いを世界から個人までやっているのである。

自分と自分がしている支配合戦、それを直さない限り、平和は実現しない。自分の思いの通りの世界である。思いを変えなければ変わらない。得たものを捨てなければ直らない。既得権益という言葉は、所有の世界、支配の世界、略奪の世界だけで通用する安全弁であり、利権の奪い合いでは、平和な世などできない。略奪の世界では、他人のためというのは、自分のためである。自分の天国を作るために他人の要求を聞くのである。自分が死なない範囲、優位を保てる範囲で、である。略奪の世界では、最後まで他人を保護できる者は誰も居ない。誰かに依存すれば、結局は、その者への恨みを産み、最後は、自分が滅ぶ。

あなたがこの世からあの世に移れば、この世で何が起きようが、人類がどうなろうが、この世の常識がどうだろうが、あなたにとっては意味がない。あなたが本当の天国に行けば、この世の出来事は全く関係がない。あなたが夢を見ている時は、夢の世界が現実の世界である。あなたがその時にいる世界で、自分が何をするか、である。完全に天国になっていないならば、この世があの世に、あの世がこの世に影響を及ぼす。起きているときの現実が、寝ている時の現実に影響する。あなたがウソのまま死んだならば、その世界はこの世と変わらない。あなたが完全にウソを捨てなければ、ハルマゲドンを体験することになる。

あなたがウソを完全に捨てれば、獣の世に戻ることはない。あなたは本当の天国の体を得て、その世界に生きっぱなしとなる。この世で何が起きようとも、あなたには関係はない。あなたは地獄を体験しなくともよくなる。地獄を体験したくないなら、地獄を捨てることである。あなたが本当の天国にテレポートすれば、この世は消える。この世ではあなたは居なくなる。あなたがウソを持っている限り、あなたはウソの世で情けの輪廻を繰り返す。幽界の響きのケモノの世でこの世とあの世の往来を繰り返している限りは、天国はない。
P278
あなたは一回も死んではいない。あなたは、永遠の時の流れの中で、この世から見たら生まれ変り死に変わりしているだけである。ウソを捨てては拾うことを繰り返し、ついに、ウソを真実と思い込むようになったのである。あなたが天国に行くのであって、この世が次元転換したら天国に行けるのではない。最後の次元転換は本当の天国への転換であり、あなたが本当の天国に転換していなければ、その響きと同調していなければ、あなたは消滅し、本当の天国の住人の中にあなたは存在しない。あなた自身が自分の次元転換を進めながら、世の次元転換の時を待つのである。あなたが自ら天国の響きになって、神が天国に戻す時を待つのである。あなたが世を変えるのでも、世が変わるのを待つのでもない。あなたが来たるべき世の生き方をしていればよいだけである。神が天国にするかしないか、いつ天国になるかを考える必要は全くない。神が天国にすれば、世の中は天国になる。逆さまのやり方で世の中を変えようとしても意味がない。無駄なことに自らのエネルギーを使った分、あなたの天国が遠くなる。あなたが天国の響きでなければ、神が何をしようとも、あなたは天国は体験できない。あなたがあなたの世界の神であり、あなたの現実を作り出す創造者である。あなたがあなたの世界の悪魔を産み出す神であり、あなたの地獄を進める創造者である。あなたが何をしているかであなたの体験する世界が決まる。あなたは、神のことも、他人のことも、世間のことも、死後のことも、すべてを捨てて、自らの天国の響きを取り戻すことだけに心血を注げばよいのである。今の世の思想で何をどう治そうとも、この世にある問題は絶対に解決しない。天国もできない。全くアベコベであるから、その大元自体を引っ繰り返さなければ、何も解決はしない。今世の土台自体が闇であるから、今のあなたから見て、孤独、死、喪失を怖がれば、あなたは転換できない。元に戻せば、すべて闇となる。真釣り戻ると闇になるように思えるのは当然である。逆さまの逆は正立である。逆立ちをやめるだけでよい。虚像を逆さまにしたものが実像である。

悪は自ら消える。『悪を消さなければ天国ができない、だから悪と戦わなければならない』と言うのは九分九厘正しく聞こえる。しかし、最後の一厘の違いで、それは間違いとなる。それはウソの世界で成り立つことであって、マコトの世界には、そんな理屈は存在しない。悪がない世界でどうやって悪を裁くのか。何を裁くのか。何を消すのか。真コトの創る世界に魔コトは存在することはできない。悪を持ったまま天国の形はできない。響きが思いになり、言葉になり、文字になり、形になる。天国の響きになったら、天国の現実を体験する(体で験す)ことができる。本当の天国であるミロクは響きと形は一体であり、体験できるのは、響き相応の現実のみである。嘘の仮面をかぶって身欲と保身で立場を守るために本心を誤魔化すことはできず、逆に、天国の響きを持っているものが天国を体験しないこともできない。実際は、ミロクは天国の響きのみであるから、嘘の仮面は存在しない。
P279
ミロクの響きで創られた世界を体験するためには、ミロクの響きで創られた体を持つ必要がある。ミロクの響きの体はミロクの響きに同調する霊魂しか持つことはできない。魔コトの分裂した響きで真コトの一如の響きの体に入ることはできない。入った瞬間に消滅してしまう。裏表の世界を同時に体験することは仕組み上、不可能である。今の世の戦界の分裂の物理次元の響きの肉体のままでは、俗に言う「あの世」すらも体験できない。肉体を持ったまま死ぬことはできない。臨死体験や幽体離脱はできるが、死ぬことはできない。臨死体験や幽体離脱の足場は肉体にあり、見て来た世界は幽界である。今のあなたは、ミロクの体に入ることは九分九厘ありえない。真釣り戻せばそれが可能になるが、今のあなたが真釣りのミロクの響きを鳴らすには、慙愧慟哭、艱難辛苦の地獄の苦労が必要となる。それを逃げるなら、あなたがミロクの体に入ることはできず、ミロクの世にあなたはいない。それを逃げないなら、あなたは必ずミロク世に戻れる。火の響きは、一度立ち上がれば、目的が成就するまで消えることはない。真コトの火の響きが立てば、必ずミロクが成就する。しかし、それは、蛇の火の響きが立てば、滅ぶまで消えない、ということでもある。万古末代、一度こっきりの時空を超えた大掃除を通過しなければ、本当の天国はない。今のあなたが、冗談抜きで本当の天国の現実を体験したいなら、相応の覚悟が必要である。

あなたは、本当の天国を知らない。今あなたが目指している天国は嘘の天国である。守ろうとしている天国、失うのを恐れる天国は、天国と地獄、の天国である。その天国はミロク世になったら、消滅する幻である。今のあなたは、本当の天国を想像することやその世界を語ることはできるが、その世界を実体験する方法は知らない。正確に言えば、その方法を綺麗サッパリ忘れている。もし、あなたが本当の天国にいるならば、それを語ることはない。その世界が現実として形に成っているからである。実体験としてわかるからである。響きと形が一つならば『想像する』ということはありえない。想像=形だからである。形がすべてを現しているからである。あなたの大元はミロクの響きである。だからこそ、本当の天国が想像できるのである。そのミロクの響きがミロクの体の基である。従って、その響きのみを残すことがミロクを体験する方法である。言い換えれば、ミロクの天国を邪魔する思考と行動をすべて止めることが、心の大掃除であり、ミロクの響きを出すことである。ミロクの響きを出せば、ミロクの響きが返るのである。アヤマ知の響きからどんどん離れることができ、アヤマ知にのめり込んでいる相互依存の自分ダケ勝手戦闘集団が展開する出来事(事件、事故等)は何も影響しなくなる時がくる。自分自身以外の誰のコントロールも影響しなくなる時がやってくる。あなたは悪の連鎖から抜けることができる。

今のあなたのいる、その世界の語る快楽や快適や便利や至福や楽しみは、本当の天国の体験ではない。本当の天国、ミロクの響きが鳴れば、アタマのアヤマ知の響きが創るその現実も全く影響しなくなる。現代社会のすべてがただの映像になる。誰かが設計した『人工遊園地』はただのおもちゃになる。テーマパークは、テーマパークの中に作った『テーマパークビジネス』の道具であり、魔釣りのガス抜きのマヤカシである。真釣りのミロクに成れば、すべてが永久無料遊技場になる。あなたが、闇を恐れず、自らの真コトを磨き出す本当の神の道を歩き続ければ、恐怖も死も苦も楽も感じることはなくなる。喜怒哀楽が一つになる。そして、現代社会の作り出した快楽に何の興味もなくなる状態がやってくる。
P280
ミロクの響きになれば、ミヨクの響きの世界は無に感じるようになる。すべては存在するが、アヤマ知の天国は、ミロクの世の現実と比べたら全く意味のない、滅びの天国だからである。その感覚が「無」であり、悟りであり、空であり、すべてを産み出す中心の産土の神響きである。ミロクの世に天意転換すれば、本当の天国を自由自在に楽しむことができる。ミロクの響きは、あなたが今、何の罪悪感もなく、完全に闇に葬っている世界そのものである。ミロクの世には不都合は何もない。思い通りにいかないことはなくなる。なぜなら、すべてが自由に産み出せる神人の世だからである。すべてを自分のコントロール下に置けるから、奇跡や偶然と言う言葉はなくなる。ミロクの世は、この世的に言うならば、魔法を自由自在に駆使できる現実の世界なのである。ミロクの世では、失うことはないから、悲しみも憎しみもない。従って、争いはない。悪が隠れる場所はどこにもなくなる。

この世の体を持った人間から見た誰かの死というのは、その誰かが別の次元の響きになったために物理体(この世の肉体)を使えなくなっただけである。「死」は不幸でも非劇でもない。この世でその誰かに執着(期待)している者が、その誰か(自分のもの)を失ったことを悲しんでいるだけである。『○○さんが、遺体で』発見されたのか、『○○さんの、遺体が』発見されたのか。前者ならば、○○さんは遺体であり、○○さんはもうどこにもいない。後者ならば、蛇の抜け殻と同じことで、○○さんは、遺体ではないから、○○さんはどこかにいる。「遺体」というのは、遺した体であり、某霊魂が、今回の生で○○さんと呼ばれていた今生の体を使えなくなった状態を表現した言葉である。この世の人間から見えないだけで、残した本人はどこかにいる。実際は、「○○さん」は始めからどこにもいない。いや、すべての世界に存在する。今生の○○さんの体と付き合った各自が、それぞれの○○さん像を描き、その○○さんについて語ることができるに過ぎない。その霊魂そのものの実体は誰も見ていない。今生の体に戻れる場合を「睡眠」と言い、戻れない場合を「死」と言っている。「睡眠」と「死」の中間が「臨死」であり、一番大きな世界(真釣りの世界)から見たら、「死」もただの出来事である。それぞれが一番楽に身魂磨きができるように、死んだり生きたりしているのであるから、今生の別体の霊魂(他人、家族等)の『生きていて欲しい』という希望で、勝手に生き死にさせことはできない。『生かされている』とは、生かしているのは大神であり、生かす者はどうあっても生かし、引き上げる者はどうあっても引き上げるのが、大神の掟である。ここに魔釣りの身欲や人知を持ちこんで、情けの仕組みに仇為すならば、それをしている霊魂の真釣り外しが益々進むだけである。
P281
あなたには、あなたも含めて、誰かを生かしたり殺したりすることはできない。それができるなら、自分を自由に創ったり壊したりできるはずである。悲しむこともなく、期待が裏切られることもない。それができるのが、真釣りの響きを持った「神」であり、魔釣りに囚われて真釣りの響きを消した、それができなくなったあなたは、元つ天地の神の掟を破っていることになる。つまり、思い通りにいかないのは、自分の真釣り外しのせいであり、悲しみも裏切りも自分が創った現実である。口心行、つまり、すべてを一つにして行動することが、分裂の響きを止め、真釣り戻しを進めるための唯一の術である。思想や立場や評価も含めて、その過程で失うもの、壊れるものは、魔釣りで創ったものである。口心行をして残ったものだけが、真釣りの真コトの響きを持つものである。真コトの形も、真コトの者も、最後には一旦お召し上げ(引き上げ、仮死状態)になって、改めて、ミロクの体に入るのである。結局は、全員が、この世の肉体を離れて、すべてのものがこの世を離れて、つまり、この世は一旦消えて、真コトがあるものだけがミロクの体を持てるのである。ミロクの響きにならない限り、あなたはミロクを体験できず、この世に執着していれば、執着するこの世は消えるから、あなたは、ミロクは永遠に体験できない。それが、時空を超えた本当の死である。真釣りを外した者を真釣りに戻す世界(今の世)は、世の真釣り戻しが完了すれば、なくなる世界なのである。あなたがすべきことは口心行である。

本当は、真釣りの世しかないのである。本当は「神」しかいないのである。幽界(戦いの世、生死ある世、この世)は幻であり、死後の世界も幽界である。生きても死んでも幽界の中である限り、時が至れば、幻として消滅することになる。あなたが元つ真釣りの大神を殺せないならば、あなたは最後の大祓いを逃げることはできない。現代社会のアヤマ知の知恵を使ったどんなやり方でも、それは叶わない。たとえ、神仏の魔術や呪術を使っても、幽界を進めるだけで、ミロクの世どころか、永遠の消滅へと自らを導いていくだけである。

最後の大祓いを超える方法は、真釣り戻しの行のみである。自分が存在したいと望む世界と辻褄が合わないことをやっていれば、あなたは絶対にその世界に存在することはできない。現代社会にあるすべての思想(常識、道徳、思い、宗教)は、すべて真釣り外し(魔釣りの魔コト)の型示しであり、それに固執したり、それを価値判断の基準に使ったりすれば、現代社会が属する幽界という霊界もろとも、あなたは、永遠の滅びを迎える。著者が、何万語、何億語を費やしてこのことを語っても、あなたが本当にすべてを捨てる気がなければ、著者の語る世界(現代社会のカラクリ、言い換えれば、今世の仕組み、天国の創り方、ミロク世への戻り方)をあなたの現実にすることはできない。いつまで疑っても、批判しても、信じなくても、認めなくても著者は一向に構わないが、あなたが本当にミロクに戻りたいならば、天地の理法の違反の清算をするかしか道はない。すべての嘘、幻、マヤカシ、思い込みを捨て去って、現代社会の「見えない網の目」から足を洗うことである。
P282
あなたが常識や道徳や思いやり云々を捨てても、あなたは現代社会の中に住むことはできる。すべてがなくなるのではない。真釣りの響きで今あるものを使えば、今の世でミロクを疑似体験することができるのである。現代社会の道具を真釣りで使うことはできる。そのことは、万象万物に真釣りの響きを戻す手伝いにもなる。お金が悪なのでも穢れているのでもなく、魔釣りに囚われたあなたが悪であり穢れているのである。医者が魔釣りの手下なのではなく、あなたの身欲が魔釣りなのである。外の形を責めたり、嫌ったり、裁いたりすれば、あなたは自らが嵌めた罠に落ちることになる。あなたの身欲が魔釣りであり、実は、それをそのまま水の現すハタラキで形にした現代社会そのものは真釣りなのである。水の現すハタラキは、どんなものであろうとも、火の位にある響きを忠実に顕現する。つまり、水の現れ、言い換えれば、この世の姿を見れば、自らの生き様が分かるのである。それが、天国と相違しているならば、あなたの真中にある響きを変えなければ、あなたの現実を変えることはできず、その響きが魔釣りならば、あなたは必ず永遠の滅びを迎える。

あなたは、自らの鳴らす響き相応の体験をする。今の世のすべてのものは、万象万物の化けた形である。万象万物はすべて真釣りであり、真釣りは神であるから、あなたの世界はすべて大神の顕現である。つまりは、大神の真釣りで産み出したものを魔釣りで使うとどうなるか、どんな世界ができるかを見せたもの、が「この世の姿」なのである。現代社会が悪ではない。あなたの魔釣りが悪なのである。あなたが真釣りに戻れば、今の社会でも何の問題もなくなり、ミロクという、響きが上がった世界になってもそのまま暮らせる。大神の最初で最後の大祓いが終われば、文字通り、自由自在の天国を体験できるのである。

お金という形の借りを返すことが生き戻る条件ならば、借金を残して死ぬことはできないことになる。生命保険で返そうと考えても、それは相互扶助の思想で作られた、被害者、弱者勝ちの悪平等の分配システムであるから、返したことにはならない。そのお金は、誰かから奪ったものである。家族が引き継いだとしても、それを全部清算するまで天国はないことになる。家族が代々、魔釣りを継承しているならば、誰も借りを返すことはしないから、この世が略奪の世であるならば、永遠に借りを返すことはできない。借金も所得も結局は借りだからである。自殺は借りを逃げる事である。自己破産、夜逃げ、踏み倒し、文字通りの自殺。自らした結果を他人に転嫁すれば、その分、自らが苦しくなるだけのことであり、時空生死を超えた清算であるならば、あなたが背負う苦は修羅の地獄となる。

本来は、この世の血統と本当のあなたは何の関係もない。今生の家族や親類縁者の上下血縁関係を使って支配することは一種の操作であり、本当は、誰も縛ることはできないものである。形の上の親子は親子ではなく、兄弟は兄弟ではない。今世で言う親子の上下関係は、形の時間軸の上での現象であり、それを代々継承し続ければ、『親は帝王で子は奴隷』の関係が永遠に続くことになる。それは、獣同士の支配権争いである。本当の親と子ではないから、親子関係を利用した支配では、本当に楽になることはできない。親の面倒を子が見る、老後を若年層が支える、という思想を当然の如く語り、法律で強制し、義務化しているが、全くのアベコベである。人が神を支えられると言うならば、それは真実であるが、神が人を支えているのが事実であるから、親が子に面倒を見てもらうことが当たり前である社会は狂っている。金がイノチを支える年金制度が崩壊しているのは、その根本が間違っている証である。間違った思想を強制し、義務化することこそが悪である。真釣りは万古末代弥栄であり、壊れることはない。真釣り戻して壊れるもの、破綻するものは嘘で作られたものである。真釣り戻して残るのは、真コトの一厘だけである。その一厘で生きれば、今の世にあるものを天国の響きで使うことができる。幸せは握り持つものではない。すべては大神のものであるから、一旦、すべてのものを大神に返して、すべてを捨てて、大神の言う通りに素直に歩いていけばよい。立場や生死は大神に任せて、自らの生き様を正すことである。生かされある者に、保身の必要は皆無である。保身で物事を処理するなら、あなたは永遠の死である。今生の先祖は、今生のあなたには何の強制力もない。この世に(人類の歴史に)ある、すべての家系の大元はただ一つであり、『先祖代々の墓』の総元締めは元つ大神である。あなたが誰かに責任を転嫁すれば、それは、その大元にすべての責任を押し付けることになる。返さなければならないのは、結局、お金ではない。
P283
真釣り戻しの清算ですることは、響きの借りの返済である。奪う響きで形を得たものは、たとえ、この世で所有権があるものであっても、あなたには本当の所有権はない。響きを清算すれば、借金を生み出した響きは時を追って清算される。形でも清算される。借金自体を返すために、この世の金融経済システムが用意した道具でお金を作ろうとすれば、借金が増える。奪ったものと交換しても奪った響きが増えるだけである。略奪の響きのまま借金でつないでも、結局は、返せなくなる。利子というのは、略奪の産物である。元金はお金ではなく、利子を生むための道具である。お金でお金を増やす仕組みに現代社会の正体のすべてが現われている。略奪の究極の形が金融システムなのである。その中で損得勘定の帳尻合わせをしても、結局は、有限の中の幽玄の世界の簿記という「数字合わせ」ゲームは破綻する。お金でも響きでも返せなくなれば、後は「自分を」返すしかない。誰かの借りを誰かが支払うことはできない。バラバラにした形の世界だけでできることである。

人類の歴史は、神との契約から始まっている。婚姻も神との契約である。しかし、神への誓いを破って、好き勝手な理屈をつけて離婚する。婚姻届なる宣誓書をお上(役所、お神)に提出すると、法律の権利と義務の世界に縛り付けられることになる。夫婦が別姓か同姓かの議論など意味はない。血統自体の特権化が魔釣りの蛇のアヤマ知の世界を支配する道具なのである。この世は紙の契約の世界である。あの世も契約の神の世界である。契約書や条約に調印しても、破棄することができる。神の契約すら破ることができる。元の真釣りの世界は、契約など存在しない。全員が真釣りで真釣りの道具をつかうからである。この世で例えて言えば、口約束を破っても真釣り外しとなって、破った者は消滅する。『口は災いの元』『神はすべてをお見通し』の本当の意味は、真釣り外せば自らが滅ぶ自業自得の仕組みであるということである。神に正しさを証明しようとして善行を積んでも、そのこと自体が、魔釣りのアヤマ知に騙された真釣り外しの身魂のする行為である。紙の世の契約書は、疑いと裏切りの世界での自己保存のお守りでしかない。真釣りのミロクには、契約などいらない。法律に強制力がなければ、契約書や印鑑、サインは何の強制力もない。紙の証文を楯に、略奪合戦を繰り返していると、最後は神の証問に違反してすべてを失う。
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現代社会のシステムの源流は、神との契約である。神の言う通りにすれば自由にさせてやる、である。九分九厘であるが、この神は、自分では産み出せないから、永遠の自由は保障しえない。逆らえば罰を与える。罰を与えるのは言うことをきかせるためである。躾、裁判の基はこの思想である。気分で、都合で、罰するのである。本当の神の言う通りにすれば本当に自由になる。本当の神は全員を養えるから奪う必要はない。監視する必要もない。自分の気分でアメとムチを使う必要性は全くない。奪っている者に、そのことを教えるだけである。奪っている者が、罰と解釈しているだけである。一厘の差で逆さまである。

すべてを今の自分中心に解釈していれば、真実を見誤り続ける。今の自分が何をしているのか、を知ることである。動物は、情報でえさのありかを知るのではない。この世界は一つであるから、自分が−になれば、どこかに+がある。その響きのズレに合わせて動くだけである。結果、餌を食べるという形になる。自然の掟通りの響きを持っていれば、その中で何の不都合もなく動ける。直感、勘、偶然、奇跡と言う言葉は、自然の中にはない。そういう見方をする自分の正体を知ることである。情報を得て、考えて、というのは、ウソである。能力を身につけた、というのもウソであり、始めから持っていたのである。自然の営みは、自然に生きれば、それぞれが様々な状況で不都合がないことを教えている。深海でも潰れない体、氷の海で泳げる体、自分の毒に冒されない体、自然界の不思議は不思議ではない。一つの世界、完全な世界から見れば当然の結果である。細かいところを見れば、不思議に思うだけで、全体には何の不思議もない。人間にできないことができるのは当然である。不自然なのは人類の方である。できなくなった人間こそ不思議である。アクアラング、飛行機、潜水艦、自動車、パワーシャベル、薬、コンピュ―ター。進化しているのではなく、できなくなったことを機械で補っているに過ぎない。知恵を使わなければ自然を征服できない、と誇っていることがおかしい。万物の霊長が自然環境を破壊する、というのはどういうことなのか。自然の脅威に為す術もないというのはいかなることか。

自然は進化などはしていない。自然のままに形を変えているだけである。唯一最大の絶滅危惧種は「ホモサピエンス」である。進化という言葉にはその基に優劣がある。一番優れていると思っている存在が、実は、自然の掟を破っている一番退化した存在なのである。本当の天国には進化も退化もない。それが完全ということである。不完全になったならば、後は退化しかない。退化し続けているのに進化していると言うのは大きな勘違いに気づいていない証しである。そのままならば、完全退化、すなわち、永遠の消滅が待っている。
P285
アベコベの世界が真実である。今目指している天国は鏡の天国であり、真実は後ろの正面にある。鏡に向かって突進すれば自爆である。自分が止めなければ誰も止められない。自業自得の仕組みに救世主はいない。自分が自分の救世主だからである。自分が自分を破壊する悪魔である。自業自得。自然の掟を破った者が自然に戻れるようにこの世は仕組まれている。自分が正しいと思い込めば、情けのお知らせを逆恨みする。元つ大神様は、すべてを仕組み通りに厳格に動かす。情けと花の仕組みには毛ほどの狂いもない。仕組みに厳格に従うことが違反を清算する足場となる。自分の不都合はすべて自分の為した結果である。誰のせいでもない。清算する状況になったのは自分の責任である。どこにも苦情は言えないし、どこにも逃げられない。自業自得である。自分が清算すれば清算できるようにしてくれているのが大神である。神に任せるが自分がやる。自分がやるが神に任せるしかない。生かされている、の意味である。自分ですべてができるのではない。自分は自分の責任を果たす。その結果は、任す。神に任せて自分で責任を取るのである。神を信頼することで神は力を貸せる。神が力を貸せば、自分が気づき、さらに確信をもって信頼できる。神と共に自分の清算をする。それが今の自分の義務であり、神の御用を果たす事にもなる。自分が清算することで御用を果たす。自分を直すことが神の手伝いとなる。生かされて生きる、頼って自立する、神にすがって自分でやる、これが矛盾の統合である。これを実行できるかどうか、身をもってわかるかどうか、それが清算の苦労、痛みの度合を決める。

この本は、あなたがすべての大元を思い出すための触媒である。触媒は、反応を早めることに貢献するが、それ自体は変化しない。この本の語る事実は動かない。この世に数限りなくある一つ一つの事例を当てはめて解脱していたら永遠に終わらない。あなたが自分の体験を材料にして、自分の態度を直せばよいだけである。この世のすべて、人類の歴史の全てを解釈し直す必要は無い。あなたが自分の体験を自分で見直して、考えて、行動を変えることを通して、自分が違反した分だけやればよい。あなたがこの見方をして苦しいならば、それを辛抱していることである。それがあなたの違反の証しであり、清算である。

真釣りに我慢はない。あなたが魔釣りで考えるからそう見えるだけである。九分九厘までやり続けた間違いをすべて清算するのである。時空生死を超えた清算である。この世で言う苦労や痛みなど全く問題にもならない。あなたの今の恐怖や苦しみなど無いのと同じである。本当の苦労、本当の痛みは、いっぺんには耐え切れないから、少しずつ掃除の機会を与えられてきたのである。それをあなたがいい加減に無視してきたのであるから、自業自得である。今までの見方、やり方に戻って楽になろうとすれば、それは、さらに苦を増やし、天国を捨てていることになる。裁きの心が強いほど、神や仏や霊にすがっているほど、あなたの本体はとんでもない状況になっているのである。あなたがどんなに避けても、しただけのことは逃げられない。あなたがどんな状況になろうと、清算をし続ければ、あなたは消えることはない。どんどん楽になる。本当の現実に置き換わっていく。逃げたり誤魔化したり他人を裁いたり他人に善人ヅラをすれば、その分、あなた自身が苦しくなる。真コトに誤魔化しはきかない。あなたが寸分の狂いもなく実行しなければ天国は消え去る。
P286
あなたの違反はあなたのしたことである。他人の違反は他人のしたことである。あなたはあなたの清算だけをしていればよい。他人や社会に干渉すれば、あなたの身を滅ぼす事になる。他人や社会に依存すれば、あなたの身を滅ぼす事になる。他人や社会を裁けば、あなたの身を捌くことになる。他人や社会に役立とうとしても、あなたは本当の意味では何も得られない。貢献するほど吸い取られるだけである。他人の責任を負わされるだけである。間違ったやり方で天国を作っているならば、形を維持しようとしても、あなたの生存の保証はない。形をどう変えようと、最後はすべて崩壊する。本当の天国に戻りたいならば、すべてを捨てて、観念して、黙って、地獄の底まで落ちる覚悟を決めて、行動することである。それは自分の作った地獄であり、底なしではない。自分が渡した地獄を自分が引き取り、奪った天国を相手に返すだけでよい。利子の支払いは要らない。自分がしただけ、自分の元金だけを返せばよい。平等公平である。形は不公平になる。これを知らないから、ずるい、不公平だ、みんな平等に、助け合って、という戯言に騙される。自分の借りた分だけ返せばよい。借りたものが多ければ、返す苦労が多くなるのは当たり前である。傷つけた分だけ自分が傷つくのは当然である。生死、時空を超えた支払いであるから、死すらも可哀相なことではない。支払を済ませなければ本当に酷いことになる。永遠の滅びである。

あなたは、天国をゲットするのではなく、天国に戻るのである。神界に貯めたツケを、過不足なく、キッチリと払うだけである。それが支払いであり、清算である。それが本当の清算である。自分が作った借りを逃げれば、最後は自分自身から借りることになる。自分が自分に貸すものがなければ、担保と引き換えである。それはすなわち。あなたの消滅を意味する。借りたものは、耳をそろえて返すことである。奪ったものを返せば、前科は帳消しとなる。清算したからである。本当の天国に戻れば、もう二度と悲しみや苦しみや痛みの世界はない。ウソを本当のマコトに替える、「ウソ替え真事」である。ここでやらなければ、もう後はない。ここで使わなければ、あなたの真コトを使うところはもうどこにもない。万古末代一度こっきりの機会である。先延ばしは「死刑」の同意、つまり、自殺を意味する。知らせていたのに無視したあなたが自分で自分を滅ぼす、自業自得の判決である。

この本は、元つ大神からの、最後の総決算、本当の大掃除の最後通牒である。自らの神法違反をキッチリと清算して本当の天国に帰るか、あくまでもこの世の快楽を追い求めて魔釣りの世と共に滅ぶか。残るか消えるか、二つに一つの分水嶺である。滅びへの道は無数にあるが、本当の天国への道はただ一本である。激流や大瀑布や毒魚が待っているかもしれない。流れ下る方向を間違えれば、二度とやり直せない永遠の大失態となることを肝に銘じて、自分がどうなるかをよく考えて決めることである。完全に終わるまで死んでも死んでも続く清算である。時空を超えた、生死を超えた、永遠のイノチが弥栄える本当の天国への道はただ一本だけである。姿形の美醜、正誤に騙されないことである。本当に真剣に、正直に、違反の事実を認めることが、本当の天国への門の通行証である。門を入れば、もう後戻りはできないが、本当の天国への道は、どう見えようと、感じようと、どんな地獄もすべて天国へ繋がっている。形に騙されずに進む道を自らの責任で選んでもらいたい。
P287
自分がどうなるか、だけを考えればよい。真釣りで考えれば神帰るが、魔釣りで考えるなら我が得るだけである。魔釣りで考えるのは、自分が得するためである。真釣りの自分勝手と九分九厘であるが、最後の一厘で、天国と滅びの差となる。表現は同じでも、はたらき、結果は全くの正反対になるから、よくよく考えてすることである。アタマも立派なハタラキではあるが、ハラに真釣りがあるならば、の話である。アタマは分かつ知、左右を逆に組む。アタマで生きるのは、分裂の、アベコベの世界を作る生き方である。「どっちだアタマの知恵」で世界を創っても、分裂、争い、共食い、滅びの道を突っ走るだけである。

真釣りのマコトで生きれば、自分勝手に見えるが、すべてのためになる。魔釣りに生きる者は、反抗し、抵抗し、非難してくるが、それは都合が悪いからである。魔釣りの者は、真コトを渡されると悶え苦しむ。程度の差はあるが、それが真コトがない証しである。そのままなら、本人も周りも魔釣りの滅びに進む。他人にわからせる必要はない。自分が真コトを貫き通すことである。自分が真釣りを生きた時、自分のアタマが抵抗する。周りの者が騒ぐ。それを黙って見ていられなければ、魔釣りの愛に騙される。魔釣りの者は、病気、怪我、脅し、仲間を集める、過去の常識、権威ある学者の理論、法律、人間として、一人になるぞ、社会では生きられないぞ云々、様々な道具、罪悪感を使って封印してくる。それを知らん顔できるかどうか、反応しないでいられるかどうかである。真釣りの者なら、何の問題もないから、非難も批判も抵抗もしてこない。してくるならば魔釣りである。自分が同じ反応を返すなら、自分も魔釣りである。真コトを生きているつもりで魔コトに戻っていることになる。真コトがなければ、すべてが終わる。一時的に、可哀想な、悲惨な形になる者もいるが、それはその者の魔釣りのゆえである。それに責任を感じれば、あなたはその世界に引き釣り戻される。真に釣られるか、魔に釣られるか、二つに一つである。

魔釣りの善悪の争い、議論は、中身は空っぽである。相対の善悪で、正誤で、裁き合いをすることそのものが魔釣りの証し、真釣りなき証しである。真釣りがないから、魔釣りの世で生き延びるために、戦うことになる。非難したり、迎合したりすることになるが、その結末は、両方とも、滅びである。真釣りに戻すことは厳しいことであるが、それは自分が真釣りを外した結果であり、それを逃げれば、魔釣りの毒牙の餌食となる。他人の気持ち、弱者の気持ちという言葉は真コトの世界にはない。それに引きずられる自分の甘い心を正すことである。真コトがなければ、大神は鬼となる。身をもって教えなければ、永遠の滅びとなるからである。鬼となるのは、我が子への情けである。取り違いして、逆恨みすれば、親の情け、真コトを踏みにじる魔釣りの権化として最期に成敗される。よくよく考える事である。これは神事や空想、お遊びではない。本当の命を生かすか殺すかの真剣勝負である。真釣りに生きれば、真釣り戻しの苦労に耐えれば生き返り、魔釣りのままならば、苦業を重ねてメグリを積んで、積んだ分だけ悶え苦しんで、そのまま滅ぶ。二つに一つである。魔釣りの道も、真釣りの道も、苦労が伴う。しかし、本当に成就する苦労は真釣りの苦労である。どちらを選んでも結局は苦からは逃れられない。本当の苦労を選んで厳しさを克服すれば、永遠の天国が待っている。魔釣りの苦労は永遠の滅びを呼び込む苦業である。苦業を積み重ねて永遠に滅ぶか、苦労を耐えて永遠に生きるか、どちらの苦労をとるかによって、あなたの永遠の生死が決まる。真釣りの苦労は永遠の安らぎである。苦と欲が並んでいたら、苦を選んで、身欲を捨てて本当の天国を拾って欲しいものである。
P288
自分の真釣り戻しをすることがあなたの天命である。他人の姿形の悲惨さは、その本人のメグリの証しであり、本人が真釣り戻さなければ、大神にもどうすることもできない。形の美醜、正誤、善悪に囚われて、他人や社会の非難に迎合して立場を守ろうとすれば、それは自分の滅びを意味する。自分が真釣りに戻るか戻らないか、それだけである。真釣りに戻らなければ、自分が滅ぶ。真釣りに戻れば、周りは大騒ぎをするが、それを潜り抜けて、自分の真釣りを貫く。一時的には皆離れるが、時局は、真釣りに気づき、戻ってくる。

あなた自身が真コトを貫くことが、結果として、本当に他人や社会のためになるのである。一時的な施しや優しさ、思いやりの世界に入れば、それは魔釣りを進める事になり、結果として、誰のためにもならないのである。自分のため、みんなのため、社会のためになるか、誰のためにもならないか、どちらか一つである。本当のことを聞いて騒ぐのは、蛇の知恵の世界で生き延びようとしている証である。戦うのではなく無視すればよい。蛇の世界の地位や財産や責任や生死は何の意味もなさない。死ぬぞ、恨むぞに怯めば、それで負けである。ハラとアタマ、真コトとウソの戦いである。真コトを貫けば勝ちは確定である。

未知の物質、あるいは、わからない物質を分析して特定する研究。組成、性質、振舞い方、光、電磁波、色、様々な指標を使ってバラバラにする。ある物質の成分を分析して、たくさんのデーターを蓄積する。そのデーターをデーターベースと照合する。同じような物質を見つけ、特定する。できるだけたくさんの要素を使えばより正確になる。細かく分析すれば、数字を細かくすれば、その分、正確になる。物質名がわかる。分析分析の世界では、統合はできない。その物質自体も地球の成分である。地球という一つの惑星の構成要素は云々と思考は無限に広がる。地球、岩石、火山岩、石英、分子、原子、原子核。放射線、波動、周波数、霊波等々。より大きな視点からみれば、宇宙自体も神の世界の成分となる。
P289
相対二元のどちらかにつけば、片方は反対する。死刑廃止を唱えれば、犯罪被害者は非難する。人の命を奪った犯罪者は殺してもよい、自分の大事なものを奪った者は死んで償え、の思想。「目には目を」の報復の思想、略奪の思想、所有権の侵略合戦、敵味方の世界では、争いが絶えず、結論は出ない。『善悪があることがおかしい』と言うと、『それはおかしい。善悪があるのが当たり前だ』と言い、『それは危険思想だ』『悪を裁くことは当然だ』と言って、相対の争いの中に戻る。前提が違えば議論になる。しかし、『善悪がない世界はありえない』という言葉を使う限り、「絶対」の世界は体験できない。これが何を意味するのかは、よく考えればわかるはずである。『それは正しいが、今の社会では無理だ』『それは理想だが、現実には無理だ』その台詞は、自由にさせないために用意された、最大の罠である。あなたがそれを使う限り、善悪の戦いの中に居続け、それが罠だとは気づかない。しかし、善悪がない世界が、実現しない嘘ならば、人類の望んでいる天国は絶対に叶わない。従って、善悪の戦いを続ける限り、偽の天国を目指して苦しんだ末に、永遠の滅びに至る。

間違った方法で作ったものは、全部壊さなければ直らない。間違った方法のままで取り繕えば、不都合を誤魔化して綻びを縫えば縫うほど綻びが目立ち、最後は、縫えなくなる。全部ほどいて最初から縫い直しである。間違ったまま進めても、最後のパズルピースは入らなくなる。行き詰まる。手詰まりとなる。最後は矛盾がはっきりと見えるが、全部リセットすることしか、残されたカードはない。始めから全部やり直しとなる。結局、間違いを認めるしかなくなる。間違ったことに気づいても、それを認めたら自分が危なくなるからと、相手を非難し、誤魔化して、保身を繰り返す。自分を守る。それをしていれば、絶対に天国はないどころか、共食いの世界が進んで誰もいなくなる。癌を放置すれば、広がって全身に転移する。癌を切っても癌はなくならない。癌の大元の原因がわからない限り、再発を繰り返す。設計図から引き直し。更地から作り直し。それが「リセット」である。

情報の管理、監視カメラ、クレジットカード。市民には便利になる反面、情報を握られる。防犯強化、取り締まり強化の反面、監視される、自由が束縛される。自分が望まないものを自分が望む矛盾。リスクがあるがメリットもある。一長一短。どっちが勝るか。どっちが得か。メリットがあるからリスクは仕方ない、の思想。管理、支配の世界では、自分の情報を何も教えないことが最大の機密保護。しかし、教えなければ活動できない。届けなければ犯罪になる。誰かが誰かを支配管理するシステムに自由も天国もない。管理する側もされる側も自縄自縛の仕組み。お互いで首を締めあって全員窒息死し天国は息られない。どこで線を引くかを誰が決めるのか。有害だからやめさせる。誰がそれを決めたのか。善悪損得の絶対的基準があれば議論はない。基準がないならば、議論は続く。自分にとって何が不快か、それが基準。誰によって決められたのか。権力者、支配者、判定者の個人的な快不快によって決められる。決められたことに従う。従うことを強制する理由は何か。その根拠は何か。公共の福祉は、支配者の最大の詭弁。相対世界は自己保身の理屈が支配する。自分の立場を守る視点からすべてが決められるから、全員が自由になることはない。
P290
相対二元の世界は、論理の戦いである。相対二元の世界自体には、両方とも同意している。その世界では、相対二元が普遍的真理である。陰陽、善悪のバランスという言葉は、対極が存在し続けることを前提にしている。その世界で「絶対一元」を認めれば、それは、自らの死を意味する。バランスを取る、というのは、統合することではない。相対二元が前提のシーソーゲームを釣り合わせただけである。二つの相反する世界の勢力争いを形だけ止めるための方便である。お互いに『すべては一つだ』『すべての源は一つだ』と言いながら『自分がその源だ』『自分の宗教の神がその源だ』と言って戦っている。結局は、すべての思想は、対極の二元の戦いである。「本当の源」は、喧嘩はしない。科学も、常識も、「倫理、思想、価値観」という見えない世界の主権争いである。結局は、何らかの神の勢力争いの宗教である。『してはいけない』『すべきだ』と言うのは、すべて宗教である。民主主義も宗教である。選挙というアンケートで支持という答えをもらった数が多い政党が政権を握る。二極対立の世界では、社会の意志を決めるために多数決が最も民主的となる。しかし、二極対立では少数意見が必ずあるが、時の政府の数の力で社会システムが決められ、法律が制定される。政府の思想に反発する者は罰せられる。だからといって、それが正しいわけでも、絶対真理でもない。政府に都合がよい思想が、その社会での善悪正誤の基準となり、犯罪の基準となる。絶対的強制力のある法律は存在しない。『今の社会ではそれが正しいから守るべきだ』と言っている限り、真理は闇の中である。人類の歴史を通して、平和が続いた社会はなく、水面下では策謀が渦巻いているドロドロした泥試合が繰り広げられている。元に戦いの略奪の保身の響きを持つ集団では、どう転んでも天国は創れない。今のまま、魔釣りの蛇のアヤマ知の世界を続けるならば、最期は、大神が万象万物を始源の泥に戻して、真釣り戻した真人(神人)だけで「天地創生の物語」からやり直す。これを毎度おなじみの『荒唐無稽だ』で片付けるならば、この通りの現実を体験する事態となる。

自らに都合の良い理屈、論理を持ち出して、見えている形の見方の主導権を主張し合う。『なぜ』と聞かれれば、それは、『自分がそう思うから』『それが当たり前だから』『真理だから』『常識だから』『許されないから』と答える。論理戦争を終わらせる本当の結論は、「すべてを説明できる論理」である。形の証拠は必要ない。科学は『と言われている』『と考えられる』『と仮定する』『現時点での成果、定説』の範囲で論理を展開する。『まだ全容はわからない』『未知の部分がある』が、わかっている範囲で適用する。当然のことながら、副作用、例外が出る。すると、今度は『何らかの理由でそうなった』『これは見通せなかった』『人知を超えたものだ』『今の科学で予見するのは不可能だ』と片付ける。人知を超えた力がある世界は、科学では制御不可能である。結果を予見できない者には、安全は保障できない。『何らか』が解明されない限り、万象万物の完全操作はできない。『宗教は見えない、だから信じない』と言うが、それ自体も宗教である。自分にメリットがあるかどうか、自分が損しないかどうか、自分が苦しまないかどうか、自分が不快にならないかどうか、自分のいる世界が壊れないかどうか、それが「正しい、誤り、善、悪」の基準なのである。基準は自由であるが、それを選択した結果がどんな事態を作り出すのかは全くわからない。自らが無から産んだものでないならば、コピーを作ったとしても、必ず不都合が現れる。
P291
目に見えているものが本当に存在するのか。目の前にいる人物は本当に生きているのか。存在する、生きているに決まっている、なぜなら、見えるから。それも、自分の思い込みである。自分の基準で自分の正しさを証明する。常識だから、誰かが言っているから、伝統だから、みんながそうだから、世界の常識だから、それが正しい、と言う。正しい基準、それも自分の同意する考えに過ぎない。自分の考えたことは自分が生み出したものなのか。無から作り出したものなのか。科学は発見の繰り返しである。あるものを見つけただけである。思い、考えすらもそうである。あの世、心の中、が実体である。実際は、見える形も見えてはいない。言い換えると、「自分のイメージで見えるもの」「他人に見せられないもの」と形との間に境界はない。この世とあの世、見えるものと見えないものの境界は自分である。肉眼で見えるもの、心眼で見えるもの、と自らが分けている。『脳で処理している』というのは、形ですべてを考える(肉眼で見えるものしか信じない)者の理屈である。

有限の処理能力で無限のものはつくれない。『脳に記録している』ならば、肉体がなくなったら終りである。DNAに記録している。自分はDNAだということになる。DNAそのものはどうやって作ったのか。種そのものはどうやって作ったのか。同じ問いである。幽霊は脳が生み出す幻覚だと言う。霊能者は精神異常の虚言、悪霊払いはやらせだと言う。そう言っている者自身が神頼みをする。自然の脅威、自然の不思議を語る。自分の理解の範囲で理屈をつける。生まれ変りは信じないから、DNAを残そうとする。思考の基は『永遠の命を得たい』ということである。霊を遺伝子に置き換えただけで、同じことである。形ですべてを思考している限りは、すべてを説明することはできない。自分の理屈に合わないものは排除して、理窟を組み立てる。排除した残りで整合性を取ろうとする。自分は正しいと言う。科学者と宗教家の間に、超心理学者、形而上学者が現れる。超常現象や心霊写真の議論は、科学者と霊能者では永遠の平行線である。「排除する」ならば、それが存在することの証。どこにも存在しないなら、形にも思いにも出てこない。しかし、「それ」を排除しているからそのことは認めない。従って、アレコレと理屈をつける。体験して初めて信じる。混乱したら信じる。信じて初めて認める。自分が自分に説明できなくなったら、初めて認める。相対二元の世界では、「存在するものすべて」を解明することはできない。
P292
この世界を支配したければ、アメとムチを使えばよい。支配される対象(大衆)は、自ら(支配者)が生きるためのコマ、餌の加減で思い通りにできる奴隷、家畜である。すべては自分の快欲を満たすための道具に過ぎない。「物」を扱うように自由に壊してよい。死のうが生きようが、それは、自分にとってはどうでもよい。生かすも殺すも、自分への忠誠次第である。自分の力を使えば、地位も名誉も財産も、いつでも取り上げることができる。自分の目的のためなら、手段は選ばない。お金を得るためなら、毒も薬と偽って買わせる。儲けるためなら戦争も起こす。これを理解しない大衆は、自分たちの生存権や人権を声高に叫ぶ。その大衆を扇動するグループも出る。政府や支配者に反抗する勢力が破壊を操り返す。しかし、支配者はそんな声は聞いていない。無視される。大衆が、それは鬼だ、悪魔だ、人道に反する、と訴えても、何の意味もない。邪魔者として抹殺されるだけである。『なぜそんなことが考えられるのか信じられない、人間じゃない』と言ったところで、それも、そう思わせられているだけである。そう反応する思想を植え付けておけば、支配者が支配されることはない。支配者は安泰である。陰の支配者には、自由平等思想などない。イノチの尊厳、プライバシー、思いやり、優しさ思想などない。可哀相、酷いという感情は微塵もない。すべては、自分の目的を果たすために支配者自身が大衆に植え付けた思想だからである。この世は選ばれしエリート集団のための世である。選ばれたと聴いて嬉しくなるならば、あなたはそのエリート集団と同じ響きの中にいる。あなたのその思想を究極まで突き詰めて、一言違わず実行すれば、あなたはヒットラーにもなれる。自らがどうしたらよいかを自らで考えられず、自らの死を避け、自らが安全かどうか心配し、自らの欲望を満たすものを追う、そんな大衆を騙すのは簡単である。大衆の心を獣化し、アメとムチで操れるロボットにして自分の正体を隠す。自分が支配しやすいような嘘の思想を広め、支配する対象同士を争わせ、自分のイスを絶対に奪えない仕組みをつくる。支配者の真の目的に気づかせないための策謀を隅々まで巡らせる。大衆には始めから自由などない。

支配者のすることを批判している限り、彼の世界の思想はわからない。否定しているから、支配者の世界には入れない。陰謀は見えない。罠に気づかない。完全に冷徹にならなければ支配することはできない。この世界を支配する黒幕には、罪悪感などない。あなたが要らない紙を破るように、ゴミを捨てるように、すべてのものを扱う。基準は『自分にとって要るか要らないか』である。罪悪感を持っている限り、真実は見えない。騙され続ける。自らが役に立つことを喜びとし、自らの存在価値がなくなったと嘆いて自ら命を絶つ。自らがその支配者の作った世界で要るか要らないかを常に確認していなければならない。あなたが『自らに不都合な者を死刑にしたい』と思うならば、全く同じ思想を持っている。ただし、それを隠して、善人を演じている限り、本当の支配者にはなれない。『自らにはそんな力はない、庶民だから、難しいからわからない』と言っている限り、あなたは永遠に奴隷であり続け、最後は、ゴミとして捨てられる。人権を叫んでも、負け犬の遠吠えである。『人間は不完全だからわからないのは当然だ』という思想も植え付けられたものである。「不完全な」人間が、完全な自由、永遠の天国を作ることはできない。究極の矛盾である。
P293
元々は、すべて神の世界から始まっている。心というのは波動であり、思想というのは、それを言葉で認識できるようにしたものである。言葉も、物も、形も、すべて周波数を持っている。どの周波数に同調するかで、自分の世界が変わる。現実というのは、自分と世界の同調である。自分が同調した世界が自分の世界となる。従って、すべて自分が作っている世界である。誰かの創った世界に同調している限り、完全に自由になる世界はどこにもない。その望みは果たせない。痛みと苦を避けながら、誰かに与えられた餌(快楽)を追い求めてマヤカシの天国に満足し、心残りのまま死後の平安を望んで寿命を終える。生き延びたい、死にたくない、楽したい、苦しみたくない、その思考が自らをそうさせたのである。すべては自己責任。自らに都合よく選んだ思想を後生大事に抱えていることが騙された原因であり、被害者になった原因だからである。善人を演じれば、永遠にカモとなる。支配者を支配者にしたのは、アメとムチの世界に同意している大衆である。独裁者を批判する心が更なる独裁者を産む。最後の独裁者は、独裁者に見えない独裁者である。大衆は、自らの生存を保証してくれる指導者ならば、独裁者でも受け入れてしまうのである。

支配される大衆も、人間以外の生き物に対しては同じ思想をもっている。自らがされていることを自ら以外にしている。自らの思い通りにならないから、ストレスがたまる。皿の一枚でも壊せばスッキリする、と言う、皿の元は土である。すべては一つである。人間も自然も、人間を除いた動物も細菌も、鉱物も、ゴミも、毒も、その元は一つである。しかし、命は地球より重い、と言っておいて、自らの都合よく命の重さを変える。人を殺すのは許さないが、大量虐殺の犯人は死刑だ、と言う。人間は駄目だが、物ならば壊してよいと言う。人間は傷害罪で、動物は器物損壊罪だと言う。動物は生き物だが、人間以外は「物」である。動物実験はよいが、人体実験は駄目だ。動物は実験材料にしてもよい。人間を生かすためには仕方がない。人間が生き延びるためには実験が必要だから、仕方がない。供養して感謝すれば殺しても許される。未知のものが安全かどうかを確かめるためには、誰か(何か)が犠牲になる。物質(化学反応)、遺伝子、細胞、微生物、小動物、牛、猿、死刑囚、犯罪者、捕虜、病人、誓約書で責任回避した上の本人同意の臨床実験、そして薬を市販する。薬は欲しいが、自らは実験台にはならない。自己の延命策しかその頭にはない。自らの食べるもの自体の毒見はできない。自然まで範囲を広げれば、ヒットラーや金正日を批判できる資格のある者は誰一人いない。現代社会自体が「人間(もっと言えば、最も優秀な人材の集まりである先進国)」を頂点とする優性思想による自然支配の世なのである。

二極分裂思考で生死を分ければ、生を求め、死を避ける。アメを求め、ムチを避けるから、誰かの思い通りにコントロールされることになる。人間界も霊界も同じことである。心、精神、魂、霊、思想、思い、どんな言葉を使おうと、意味するものは同じである。その世界で生き延びたいならば、支配者になるか、忠実な奴隷になるか、二つに一つである。王や大統領でさえ、その上の支配者のコマである。兵隊、奴隷、使い走りである。幽霊すらそうである。支配者の心理を知らなければ、その世界を支配している者の上には行けない。
P294
今世の大元はどこにあるのか。それは分裂の響きである。それを持っている限りその中であり、その世界が永遠に続く。その響きを完全に捨てない限り、黒幕の神ですら、安泰ではない。全員が永遠の安泰の天国にいるか、全員がそこにいないか、である。影の黒幕の黒幕も戦いの中である。油断できない。何も知らず、知ろうともせず、言われた通りにして、与えられるエサを受け取って、快楽を享受し、不平不満を言っている大衆は、完全に奴隷である。豚舎で飼育されている豚である。籠の中の虫である。そう聞いて怒るならば、真実が何も見えていない。まんまと罠に嵌まってしまっている。しかし、人類は猿が先祖であるから、ボスザルに支配された猿山の猿であり、食事は餌である。動物に例えられて怒るならば、それは、「選民思想」を持っていることの証である。『自分に失礼だ』『犬猫といっしょにしないで欲しい』云々。自然が先であり、動物が先である。後から入ってきて文明社会に自然を取り込む人類は、自らを生かす自然をないがしろにし、自らの快欲のために利用する。現代社会には中間層などいない。天国か滅びかであるから、地獄とは滅びの方向性を持った現実である。どんなに中間にこだわろうと、この世は、奴隷と王しかいないのである。その王すらも奴隷である。神仏の世界も全く同じである。あなたの響きの大元を変えない限り、生きていても死んでいても、あなたの今の状況は何も変わらない。分裂の響きが創る世の最高権力者は蛇の火の神であり、今のあなたはその手下である。あなたが真釣りの真コトに戻らない限り、最後は魔釣りの世の奴隷のまま永遠の死を迎える。

「自分の力」ですべてを支配できる者はいない。できると思っているならば、それは自らの破滅を意味する。本当の天国ならば支配はできない。すべてが自分でできる者、生き通しで死がない者の支配はできない。コントロール不能である。本当の天国には支配者はいない。支配者がいるならば、そこは本当の天国ではない。「支配者」は本当の天国には生きられない。支配者(指導者、リーダー)を望むならば、それは奴隷に同意していることを意味する。自分が服従することに同意しておいて、主人に文句を言う。すべては自分の同意したことである。従って、どこにも文句は言えない。文句を言うならば、それは、自分でできない証である。自分でできない者が、してくれる者が気に食わないからと文句を言う。それではいつまでたっても天国はない。支配者が変わっても同じである。誰がやっても同じ、誰がアタマになっても天国はできない。ということである。そのままでは本当の天国は実現できない。全員が互いに依存している世界は、誰かの犠牲の上に築いた自分だけの天国である。最後は奪い合いの末に丸潰れである。虐殺者を責める自分も、その虐殺者と同じ世界にいる。『自分は何も悪いことはしていない』と言うが、それは、魔釣りの世での法律上の悪い行動のことを言っているに過ぎない。真釣りの世から見れば、世界の破滅を企む組織の一員、究極の悪人である。苦と楽が同居し、お互いにもたれあい、奪い合っている相互依存の現代社会で楽な天国(快適)を体験しているあなたは、その生の裏で、自分は苦労せず、手を汚さず、誰かに大量虐殺をさせて、その実だけを奪っている存在である。消費者というのは、生産者の苦労を奪って、清く正しく楽をする者のことである。
P295
自分が何もせずに生きられるのは生産者がいるからである。何を食べさせられようと、文句は言えない。嘘を教えられようと、毒を飲まされようと、それは、任せた自分の責任である。いやなら、自分がやることである。自分で調べて、自分で研究して、自分に安全なものを自分で作ればよい。自分はできないから、と言い訳して、人に押し付け、成果だけをもらう。意に添わなければ、殺す。仕返しは犯罪だから、法的に裁判官に殺してもらう。

現代社会は、天地を、資源を、天恵を、万象万物を産み生んだ本当の生産者を完全に闇に葬り去った文明である。その生産者なくして永遠の生存は保証されない。その生産者が本当の所有者であり、今のあなたはその所有権を侵害している窃盗団の一味である。あなたがその生産者を思い出し、お詫びと感謝を取り戻さなければ、あなたの本当の命が消える。

今までの常識、定説の中には真理はない。それは、条件付きの真理である。より大きな世界では、相対的真理となり、強制力は消える。意味がなくなる。自分がすべてを決め、自分がすべてを選んでいる。選ばされるような生き方を選んでいる。どんな理屈を持ってしても、自分の選択責任は逃れられない。それを逃げれば、自分が滅びる。法律的な自己責任のことではない。神はいない、霊は信じない、も含めて、誰かのせいだ、社会が悪い、その見方も自己選択である。誰かのせいだ、という眼鏡をかけているから、誰かが悪く見える。かけさせられた、というのもあなたの見方である。冤罪である。それが真実だ、というのもあなたの見方である。九分九厘、責任転嫁して生きてきたあなたが、自己責任を取るのは苦しい。しかし、それをしなければ、本当の天国には帰れない。あなたが苦しい分だけ楽してきたのである。あなたの楽の裏にそれだけの苦労があったのである。相対二元の略奪の世界で楽をするということは、誰かに苦を渡していることを意味する。それが、当たり前だと言うなら、独裁者や、国民の税金で好き放題をしている王族と同じである。感謝もなしに当然の如く快適生活を享受し、不平不満を言うならば、本当の天国は消える。

本当の天国に戻るための期間限定の掟は『自分自身以外のせいにしない』である。これを守れば苦しくなるが、それを辛抱することが、懲役である。文句を言えば、それを破れば、刑務官への反抗であり、罪の償いをしない、責任を取らない囚人である。結果として、苦が増える。自分の滅びに近づく。自業自得の仕組みである。これを否定すれば、それは、自己責任の放棄を意味する。守れば、自分がしただけ苦労して天国、破れば、そのまま滅び。自分のしたことがすべて自分に返る。結果は、永遠の生、又は、永遠の死、である。二つに一つである。どちらを取るかは自分次第である。究極の自己選択、自己引責。時空、生死、を超えた自己選択である。『損するから』も『死ぬからも』も通用しない。その言い訳は自分自身を滅びに進めるだけ。自分だけが自分の結果を受ける。これが本当にわかったなら、恐ろしくなるはずである。平気で否定できるなら、言い訳するなら、危篤患者、確信的凶悪犯である。誤魔化せると思えば自分が滅ぶだけである。更なる地獄を経て、滅ぶ。
P296
どうするかはあなたの自由であるが、この本は事実を語っている。『自由だから守らなくてもいいんだ』それもよい。どうにでもいえる。その結果はあなたに返る。自己責任である。掟を破れば、神幽現三千世界を乱すことになる。一番大きな社会の秩序を乱すことになる。あなたは処罰されても文句は言えない。あなたが本当の天国に帰りたければ、真剣にやることである。どうでもよいなら、掟通りに滅ぶだけである。すべては無から作り直すことができる。あなたがどうしようと勝手である。本当の天国に戻れるように知らせているのだが、余計なお世話だと言うならそれでもよい。あなたが決めることである。本来ならば存在しない者を生かし、清算の機会を与え、最後に、言葉で見せて自覚できるように知らせた。それでもやらないならば、故意の確信犯。自分で同意して滅びるだけのこと。自分で自殺を選択するのである。どこにも文句は言えない。誰も助けない。最後に神を恨んでも、それは届かない。神は教えた。しかし、あなたは自分の身欲で無視した。本当の天国の掟は真釣りである。分裂の響きはない。あなたが本当の天国に帰るには修羅の地獄のそのまた地獄が必要かもしれない。しかし、それに耐えれば、自分のしたことを清算すれば、あなたは戻れる。それを避ければ滅びる。本当の天国、元の天国に帰るか帰らないか、それはあなたの問題である。事実、そして、ルールは教えた。後は、あなたが実行するかしないかである。あなた次第である。どんな言い訳も一切通用しない、生死、時空を超えた祓い清め、身魂の総決算である。ハラを括ってイノチを捨てて、死んでも生死は任せて、死ぬ気を超えてやり続ければ、本当の天国が待っている。死刑執行猶予の終りはもう近い。

あなたが戻るか戻らないか、の問題である。戻らなくても天国は来る。しかし、あなたはいない。邪魔をすればあなたは消える。邪魔する響きは天国には入れない。ないものを持っていれば、あなたは滅ぶ。アタマを下げるか抵抗するか、それがあなたの分かれ道。あなたは天地自然の掟を破った、自然の理に違反した死刑執行猶予囚である。何の罪もなくはない。大大罪である。あなたの態度があなたの運命を決める。生き返るか滅びるか。二つに一つである。今の知恵でどう抵抗しようとあなたは逃げられない。一つ以外は滅びの道である。時空、生死を超えた、自分が自分にする償いである。自分が永遠に滅ぶか、生き返るか。あなたが生き返らなくても、別に構わない。生き返った者だけが本当の天国にいる。あなたが帰るのか帰らないのか、どっちにするかである。あなたが改心しなければ始まらない。あなたが違反したままでは、手は貸せない。誰も救ってはくれない。まだ後があるだろう、は自分を滅ぼす。それは嘘だろう、も同じことである。いつまでそれを続けるのか。『楽をして、痛い目を見ないで、少しだけ苦労して、天国をゲットできれば儲けもの』その考えは綺麗サッパリ捨てて素直に従った方が本当に身のためである。ゲットできると思うならやってみればよい。その結果はすべてあなたに戻り、あなたの現実となる。
posted by 長谷章宏 at 21:17| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 事実その5

事実 その5(P298〜299)

P298
人類史上初めて明かされた、今までどこにもなかった真実。あなたの本当の天国に戻る道。

最初で最後のただ一度きりの機会。真釣りに生きるか、魔釣りで滅ぶか。受け取らなければ永遠の滅び、受け取った積もりでいても、一瞬でも逃げようとすれば、受け取らないのと同じことである。あなたが本当に受け取ったならば、もう今までの生き様はできなくなるはずである。これを逃したらもう後はない「最終通告」を受け取るか受け取らないか。「すべて」を受け取るかどうか。それが、あなたという存在の永遠の生死を決める鍵である。

本当の天国からみれば国家転覆罪の確信犯に、わざわざ知らせてくれた元つ大神の至誠至愛の情け、本当の親心、本当の許し、本当の慈悲、本当の愛。あなたにその誠意がわからなければ、自分で自分の命を絶つことになる。『世界滅亡を企む者は死刑で当然だ』これが今あなたに適用されても、今のあなたは文句一つ言えない立場なのである。あなたが「世界」の意味を間違えば、涙を呑んで「本当の死刑」が執行される(正確には、自分が自分を死刑にする)時が必ずやってくる。そのまま死刑になるか、それまでに清算を終えるか。あなたが自分のしたことに自分で責任をとる総決算である。本当の天国は、今も実在する。

これは、あなた自身のことである。あなた個人がどうするかを決める問題である。神のためでも、世のためでも、人のためでもない、あなた自身のためである。あなた自身が闇に封印した真中の真コトを取り戻し、真釣りの真コト、本当の天国の響きそのものに鳴らなければ、他人や世界や神仏のために何をしようとも、真釣りを外し続けて世を乱し、滅びに至るだけである。今この場で魔釣りの分裂の響きを止めること。もうこれ以上真釣りを外すのをやめること。一点の曇りもなくなるまでアヤマ知のウソを綺麗サッパリ祓うことである。魔コトを主人と思っている、真コトの神に噛み付く犬(快欲に囚われたあなたの我)をキッチリ調教し直して、四つ足の獣の響きを綺麗サッパリ掃除して、真コトの人の響き、真コトの道に戻すことである。犬の糞の後始末、犬の躾の過ちは飼い主がすべての責任を負うのは当然のことである。逆さまになっている首輪を早くかけ直さなければ、ケモノを使ってケモノを潰す、穢れ祓いの魔釣りの立替えの仕組みに巻き込まれることになる。そして、元つ大神が魔釣りを祓う立て直しの仕組みが成就した瞬間、魔釣りの仕組みそのものが、三千世界から一掃される。ミロクの肉宮(肉体)に入らなければ、あなたのミロク(本当の天国)は露と消える。あなたの唯一のシェルターは、ミロクの肉宮である。しかし、今のあなたは真釣り戻しの辛苦を経なければ、そこに入ることはできない。まずは、あなた自身が、今までのマ違いを素直に認めて、真釣り戻しを始めることである。真釣り外しを清算する道に乗れば、険しく辛い産道の先にミロクの肉宮への鳥居がある。今のままならば、ミヨクの肉宮のまま、永遠の滅びの神が待っている惨道を辿るだけである。
P299
ヒノモトの御役は真コトのミロクをこの世に現すことである。生死、時空を超えて生き通しとなれる光一つ上がった大神の肉のお宮に入れるように、真中を澄み切らせることが、あなたの天命である。世のため人のため神のため、のその前にまずやるべきことは、あなた自身が真中のアヤマ知の曇り穢れを祓って、元つ真コトの神響きに戻ることである。あなたの真中に真コトの花が咲けば、元つ大神と共に鳴る元つミロクの正月を無事に迎えることができ、歓喜弥栄の元つ真釣りの真コトミロク世の天国で永遠に生き続けるのである。

万古末代一度こっきりの生死時空を超えた身魂の大洗濯、大掃除である。万古末代、あなたが本当に従うべき世の真理、どうやっても覆すことのできない、生死時空を超えて響き渡る元つ天地の理法、万象万物を産み生む元つ大神の掟は、ただの一つだけである。あなたが真コトを取り戻さない限り、誰も助けてはくれない。最後の大掃除で頼れるものは自分の真中のみである。真中に曇りがあるほどに、あなたは苦しむことになる。真釣りを外せば、あなたには、もうどこにも帰るところはなく、すべての世界から永遠に滅ぶことになる。これが唯一無二の本当の真実、本当の草薙の剣である。さて、あなたはどうするか。
posted by 長谷章宏 at 21:23| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 事実その6

P300
著者の御役は、自らが真釣り戻して、ヒノモトの人民様に真コトをお伝えすることである。

天地の理法(真釣り)を外したすべての身魂を万古末代弥栄の元つ神代(ミロクの世、本当の天国)に導くために、元つ天地の大神様が天地の理法に基づいて仕組まれた「情けと花」の経綸が成就する直前の、魔釣りで曇った身魂を成敗する三歳苦難の大祓い、すべてのすべてを元の神代に戻す、最後の仕上げの時が迫っていることを今ここにお知らせする。

元つ天地の真釣りは、正神真神は言うに及ばず、三千世界のどんな神仏といえども、従わなければならない掟である。まして、あなたが掟を破れるであろうはずもなく、破ったあなたをここまで生かし、あなた自身で気がついて真釣りに戻ってくれることを願っている大神様の至誠大愛の御心を察したならば、あなたの取るべき道は一つしかないはずである。

真釣りのミロクの神代というのは、万象万物すべてが真釣りでなければ生きられない世であり、真釣りに戻らなければ、あなたはミロク世の体には入ることはできない。ミロク世の体に入れなければ、あなたはミロク世に入国(魔釣り世から出国)できない。自らの真中に元つ真釣りの真コトの響きを鳴らすことが、ミロク世への入国ビザである。真コトの響きを鳴らすことができれば、魔釣り世の出国審査官があなたを止めることはできない。あなたが真釣りに戻らなければ、あなたが待ち望んでいた天国の現実は永遠に水泡と帰す。

今のあなたは、真釣りの世のテロリストとして、神代の「時空超越警察」の国際指名手配リストに名を連ねている存在である。あなた=魂はすでに拘束されている。真釣り戻さない限り、天地の理法=ミロクの国際法違反のテロリストであるあなたは、担保(魂の命)を没収されて、すべての世界(三千世界)から永遠に葬り去られる。あなたは、生死時空を超えた存在であり、魔釣りの響きのままならば、どこに逃げようとも、死んでも死んでも逃げられず、最後の最後には、必ず、真釣りの検問に掛かって逮捕されることになる。逮捕されたその時に、真釣りに戻っていなければ、その場で死刑となる。今この場で観念して、自らの意思で自首して、真釣り戻しの道に入れば、「違反相応の懲役」を務め上げた後に、ミロク世の娑婆に出ることができ、晴れて「永遠の自由の身」となれる。どちらをとるかは、あなた次第である。神仏すら逃げられない「神代のインターポール」の捜査網からは絶対に逃げられない。今は、逃げようと思えば好きなだけ逃げられるが、それは、自らの天国を永遠に棒に振る愚かな行為であるという事実だけは、覚えておいた方がよい。

天地自然の神の掟を破っている限りは、どんなに愛しい我が子といえども、大神様も助けることはできない。天地創成のその時から、何をされても、どう扱われても、闇に葬られてもじっと堪え、辛抱に辛抱を重ねて、時節が至る今この時まで、永きに渡って至誠至愛であなたを守護し続けてきた元つ大神様は、あなたが真釣りに気づき、あなた自らで真釣りに戻すご苦労を見事に耐え抜いて、故郷に戻って来てくれることを楽しみに待っている。
P301
大神の真釣りは神の掟であり、我が子といえども例外ではない。どうあっても真釣りに戻らないならば、修羅の地獄のその後に、涙を飲んで我が子を屠らなければならない。親に子を殺させるような酷いことをさせないよう、自らが今の今までしてきたことをしっかりと自覚した上で、あなただけでも真釣り戻しの道に戻ってくれることを、切に望んでいる。

世界は日本のお子であり、ヒノモトが真釣り戻らなければ、世界は滅ぶ。ヒノモト次第で、世界の人民様を、お子を生かすか殺すかが決まる。お子を殺す選択だけは、しないで欲しい。世界を本当に救うのは、世界の真中のヒノモトの真釣りである。人民様の世だけで世界の平和を望んでも、それは永遠に叶わない幻である。すべてが一つの世界であり、神から人まで、国境などどこにもない。生死も時空も超えた神人合一の神の世が、本当の地球世界なのである。神仏も含めた、すべてのすべての世界(三千世界)の天国を開くことが、本当の世界平和の礎である。真釣りのミロク世に戻らなければ、本当の平和も天国もない。

魔釣り世の地球世界で何を企てようとも、世界統一は叶わない。三千世界を統べ真釣る、世界の真中のヒノモトが真の働きを成した時、その夢は成就する。ヒノモトが真中を透けきらせ、真コトを世界に現すことが本当の国際貢献である。世界の人民様も大神の御子ではあるが、元つ大神から立て直しの天命を託された、ヒノモトのスメラの身魂、世界の父親としての責を負う真コトの日本の人民様にしかできない御用もある。ヒノモトに産み成された一人一人が真コトを取り戻し、ヒノモト真中と共鳴ることが、貢献への始めである。

元つ真釣りの大神がミロクを開くその時に元つ大神とともに働くことが、スメラの身魂のヒノモトの本当に本当の神のお手伝い、本当の仕事である。神から人まですべてのすべてを真釣りに戻す、すべてのすべての世界(三千世界)にミロクを開く、最初で最後の本当の大きな御用をみごと果たして、元つ大神様の待つミロク世へ一人でも多く戻って欲しい。

自らの真中の曇り穢れを祓うこと、魔釣りのウソを綺麗サッパリ捨てること、真コトを真中に取り戻すことが、世界を救うただ一つの術である。いつまでも、真コトを知らない魔釣りのイシヤの仕組みに騙されていないで、シャキッと目を覚まして欲しい。親であるヒノモトの民がしっかり目覚めなければ、子である世界の民を殺すことになる。大神様が我が子を屠る、そんな酷い事態に、あなただけでも絶対に巻き込まれないことを願っている。
P302
日本が本当の意味で貢献する本当の出番はこれからである。まずは、ヒノモトの真コトの真中の響きを持つ一人一人の大祓い、あなたの大掃除からである。真コトを現す国際貢献は、元つ真釣りの大神様のお手伝いであることを、しっかりとハラに据えて、どんなことが起きようとも、どんなことになろうとも、ミロクが開くその時まで頑張り抜いて欲しい。

   『自ら穢れを祓う道、こ度の神の手伝いと、知るが始めの真コト道』

真釣り戻しは、どうあってもあなた自身でやらなければならないことであり、あなた自らが自覚してやらない限り、神や仏にすがっても、今度ばかりは誰も手伝うことはできない。あなたが真釣りを外したままでは、たとえ元つ天地の大神様といえども、どうすることもできないのだということをシッカリと肝に銘じて、最初で最後の大仕事に望んで欲しい。

魔釣りのアヤマ知で曇りに曇った今のあなたには、何のことだかわからないかもしれない。『何の役にも立たない荒唐無稽な空想話だ』『怪しげな宗教だ』と聞き流すかもしれない。しかし、そう思うことこそが真釣りを封印した魔釣りのアヤマ知で心が曇っている証しであり、逆立ちの世にいる証しでもある。それは、人類の歴史の末の現代社会、つまりは、あなた自身のことを語った台詞であることをシッカリと自覚することが、生死時空を超えた「あやまち」を正すための、後ろの正面に戻る道へ踏み出す始めの一歩となるのである。

アヤマ知をすべて捨て、赤子に戻って真コトを信じきることが、真釣り戻しの極意である。魔釣りでは真釣りがウソに見えるから、真釣りは戻せない。魔コトを捨てれば、真釣りがわかるのである。魔コトと真コトは裏表である。魔コトを捨てることが真コトである。まずは、あなたが握っている魔コトをすべて捨てて、一言一句違わずに行に結ぶことである。誤魔化しの効かない、本当の改心の有無がわかる、真コトの踏絵をぜひ踏んで欲しい。そうすれば、この本に書かれた事実がすべて本当であることがわかる。裏と表であるから、今の生き様のままならば、あなたは魔釣りと共に成敗されて、ミロクはなかった話となる。

この本に書かれていることは、すべて事実である。あなたが今生きている世界の裏舞台を明かしたものである。あなたが心の深奥に封印していた事実でもある。今のあなたから見れば、後ろの正面であり、存在しない世界であるから、今はどうにでも否定することができる。しかし、魔釣り世が続くように見えるのは、最後の仕上げの大掃除の舞台づくりをしているからである。今の世がこれからも続くと思って、真コトを捨てていい加減なことをしていると、あなた自身が、残念無念では済まない本当に大変なことになるということをわかっておくことである。これが真実でないならば、もうどこを探そうとも真実はない。

この本に書かれているのは、一つ残らず、すべてのすべてが、あなたについての話である。元つ真釣りを完全に闇に葬って、アヤマ知の世界で快楽やお金を追いかけて右往左往している今のあなたに、三千世界を統べ真釣る真コトを持つ神であることの自覚を促すために、今のあなたにでもわかる表現で、手を変え品を変え、同じことが繰り返し書かれているのである。『自分には関係のない他人事か神事の話だ』などと軽く考えたら、あなたは天国からその場で落ちる。本当の天国に帰る機会を永遠に失うことになる。あなたがこの本の事実を、すべて、心底から、完全に認めない限り、あなたは「永遠の滅び」の時を迎えることになる。
P303
元つ真釣りの大神様は、真釣りそのものであり、苦(悪)の響きは一切ない。三千世界は真釣りのみであるから、本来ならば、魔釣りの響きはありえない。従って、もし大神様の真コトの情けがなかったならば、真釣り戻しの仕組みは作られることはなく、現代社会(神仏も含めた人類史)も、この本も、存在することはなかったのである。つまり、今のあなたにとっては、大神様の情けがなければ、万古末代ミロクの花は咲くことはなかったということである。あなたがどんなに絶えがたい屈辱を味わったとしても、それは、あなたの真釣り外しのゆえであり、あなたにそのことを知らせるための大神様の情けであることを肝に銘じておいて欲しい。大神様が鬼となったのは、至誠至愛のゆえであり、今のあなたが存在するのは、大神様の本当の親心、我が子を思う真コトの情けのお陰であることを、最初で最後の大祓いに望むにあたってシッカリとハラに納めておくことが大切である。大神様と同じ心で生きることが本当の意味での「神への祈り(意乗り)」、真の神人合一へのただ一つの道であり、人類が望んでいた「永遠の天国」への唯一のパスポートなのである。

真釣りそのものである大神様は、真釣り外した我が子を真釣りのミロクに戻すために、背負わなくてもよい艱難辛苦を自ら背負って、「情けと花の仕組み」を構えてくれたのだという事実を、例え死んでも、絶対に、決して、忘れないで欲しい。本来ならば背負う必要のない、生きとし生けるものすべての苦をご一柱で背負われて、一柱でも多くの身魂がミロクに戻ってくれることを心底から願って、艱難辛苦の裏舞台で支えてくれた大神。真釣りの始めは神であり、万象万物は真釣りそのものであり、すべてが神なるがゆえである。善も悪も大神自らの愛し子であるがゆえの真コトの親心の顕現なのである。「悪くなくても殺される」のが、今の世である。理不尽なことかもしれないが、それが、情けと花の仕組みの中で起こる現実なのである。『何で自分がこんな苦しみを・・・』と言い続け、自らの楽ばかりを追いかける今のあなたにとっては、到底、承服しがたい事実かもしれない。しかし、「何の罪もない」と思っても、決してそれを口にしないことが、ミロクへの鍵なのである。

あなたが真釣りを外さなければ、「情けと花の仕組み」は発動することはなく、何の苦も痛みもなく、嬉し楽しのミロクの幕があがったのである。すべてのすべては、あなたの真釣り外しから始まっていることを絶対に忘れないことである。大神様の真心が本当の親心であり、あなたが大神様の本当の親心をハラに入れて真コトに戻ることが、大神様の真コトに応える唯一の道なのである。天地の理法を外した我が子が自ら真コトに戻ってくれることを願い続けた、『何の罪もない』大神様が、文句一つ言わず、すべての罪を被って、闇の闇の闇に黙って封印されてきたからこそ、ミロクの道が開けたのである。何の罪もない存在が文句一つ言わないどころか、一柱でも多く永遠の天国に戻って欲しいという、言うなれば、究極のお人よしの心で、すべての冤罪を背負ってきたのである。あなたが、大神様の御心を心底からわかったならば、『自分は何も悪いことはしていないのに』とは、口が裂けても言ってはならないのである。あなたが、万象万物からの冤罪を黙って被るつもりがあるならば、大神様があなたを守護し、真釣りの真コトの型と成して、真コトの御用に使ってくれる。何があっても起こっても辛抱肝心である。日本人が、黙って耐える心を持っているのは、真コトの神民だからなのである。何があろうとも、本当の真コトの神民に戻る本当の真コトの神道を耐えに耐えて辛抱してただひたすらに歩いていけば、世界に真コトを見せる御用しながら「真コトの天命」を果たし、あなたは必ずミロクに戻ることができる。歓喜弥栄の永遠の天国、真釣りのミロクに戻れるかどうかは、あなた次第である。

以上があなたについての事実である。これをどう扱うかは、あなたが決めればよい。その結果は、すべて仕組み通りにあなたが体験する。本当の天国が訪れた時、あなたがそこにいるかどうかは、今ここでのあなたの選択で決まる。この本や著者を否定することは簡単である。理想論や空想、絵空事として片付けることもできる。著者の単なる理屈だと言うのも自由である。好きにすればよい。しかし、それは天地の掟に反する行為そのものであり、これを否定することは、本当の滅びの道への入口である。自業自得であるから、本来ならば、教える義務はない。この本に何が書かれているのか、あなたに何を知らせているのか、あなたがそのたった一つの要点を見落とせば、本当の命取りになることだけは肝に銘じておいて欲しい。この先も、そのまま同じことを続けるならば、あなたは永遠に滅ぶ。

この本に書かれたことは、今のあなたが何と言おうとも、すべて紛れもない事実である。
posted by 長谷章宏 at 21:37| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 おわりに

おわりに

P305
あなたは、この本を読んでどう思っただろうか。どんな反応をしただろうか。あなたがこの本を読んで体験したことは、あなたが持っている観念、価値観が産み出したものである。

あなたがどんな現実を体験しようとも、すべては、あなたの作り出した現実であり、あなたがあなたに体験させている、自業自得、自縄自縛、自作自演の物語である。その物語が天国ではないならば、それは、あなたの生き様が天国を創り出す方法ではない証拠である。今までも含めて、あなたの創り出す現実は、すべて自己選択、自己責任の結果なのである。

あなたが本当に自由になりたいならば、本当のあなたを縛っているもう一人のあなた(実は、今のあなた)と真剣に対話をし、あなたの生き様を直していくことが不可欠となる。そして、本当のあなたの本心を、自らの責任で、一言違わず実行に移すことが必要である。

あなたは、死んでも死なず、時空を超えて存在している。何が起きようとも、本当のあなたが言うことだけを忠実に実行することが、真釣り戻しであり、本当の天国への道である。

あなたの人生で生じる疑問についての唯一の正解は、あなたが出した答えである。それが誰かの意見であったとしても、あなたがそれに同意した限りにおいて、それはあなたの答えである。あなたの人生は、あなたが選択した現実の集合体であり、あなたが望んでいる現実が実現しないと思うならば、その現実を創り出す大元の源を見直してみることである。

あなたがどんな体験をしようとも、『自分が体験した(出会った)現実(見たもの)は本当なのか』という問いへの唯一の答えは、『他はどうでも、自分は今どう思うのか』である。『いいのかどうか』に対する唯一の答えは、『自分はどうなのか』である。あなたは、誰に許可を求める必要もなく、あなたが出したその正解に基づいて、あなた自身の道を歩いていけばよい。ただし、今あなたがいるのは、天国が実現しない、嘘に基づいた世界である。

あなたは今この瞬間まで、何千年もの間、嘘の真実が作り出した幻想の世界で眠っていたのである。そして、いよいよ、今までずっとあなたが待ち望んでいた本当の故郷に帰る(本当の天国に戻る)冒険に旅立つ夜明けの朝が来た。今この瞬間が本当の目覚めの時である。

あなたが本当に真剣に取り組むなら、この本はあなたが今までに出会った最高の書物となるだろう。この本を最大限に活用して、今までのあなたの人生を本当に正直に振り返り、直すべきところがあれば素直に直して、あなたが本当に望んでいる現実を手にして欲しい。
P306
この本をどう扱うかはあなたの自由である。しかし、この本は、あなたの永遠の生死を左右する事実を書いたものである。あなた自身のために、ひいては、日本のため、世界のため、そして、万象万物のために、あなたの永遠の生死を決める最初で最後の大峠に心して望んでもらいたい。あなたが天命を果たしてミロクに戻れることを著者は切に願っている。
posted by 長谷章宏 at 21:40| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

実践・日本真道 






































現代社会のすべての日本人に向けて元つ大神様が語る真の日本人の生き方

歴史の闇の闇の闇に葬り去られた本当の人類史=自分史のすべての謎を明かす正答集

本当の真実に基づいた、本当に本当の「自分探し」の実践ガイドブックの完結版
               



許諾済 2011.10 転記より転載。原書:2004.6.10 初版第1刷/2006.4.10 初版第3刷 (自費出版)。
posted by 長谷章宏 at 23:51| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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