2017年06月10日

実践・日本真道 事実その2

事実 その2(P76〜182)

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政治は、政事(まつりごと)である。真釣り、魔釣り、祀り、祭り。元々は、真釣りを基とする神政である。為政者が魔釣りの「アヤマ知」に基づいた政治を行って世を支配しようとしても、世界を正しく導くことはできない。根底に真釣りの響きを持つ世界は、自らで自らを統治できる者(独裁者=独りで自ら裁量できる者)が構成する神の世界であり、支配思想を持つ者は存在できないから、世界支配を企む黒幕はいない。誰もが自分という国を平和に治め、国同士が平和に交わるから、世界全体が平和で自由な天国となる。各自が自由に振舞っても世は乱れないから、外圧を使って統制(支配)する必要は生じない。

現代社会が目指している天国というのは、実際は真釣りの天国であり、逆さまの魔釣りのままで世を進めても、天国は絶対に創れない。魔釣りを真釣りに戻さない限り、目指す天国が実現しないどころか、一番避けたい現実(人類滅亡)が実現することになる。全く逆さまのやり方で何を画策しようとも、神仏も含めて、為政者も市民も、誰も天国は体験できない。真釣りに戻した者には、滅亡という現実は存在せず、本当の天国が現実となる。ただし、真釣りに戻すためには、魔釣りの世で身につけたすべてのアヤマ知を捨て去らなければならない。それを怖がっていれば、魔釣りの為政者の世界に逆戻りとなり、魔釣りの消滅と共に自らの滅亡が現実となる。真釣りの天国は、生死時空を超えた世界であり、現代社会の制度を形だけでどんなにいじくり回そうとも、絶対に実現しない世界である。天国を体験したければ、一人一人が、自分という為政者の根本を真釣りに戻すことである。

政は、正父、と書く。正しい父(正しい火)のハタラキで治めなければ、世は乱れる。魔釣りの政は、正と攵、つまり、正を切り離して×を足場にした傾いた人(=獣)が治める世である。世は乱れるから、アメとムチで治めなければ、収拾がつかない。法律を使った外圧が必要になる。しかし、その混乱の源は、魔釣りの蛇の分かつ知であり、為政者が獣の響きである限り、本当の天国は永遠にできない。従って、獣の世で天国を創ろうとすればするほど混乱することになる。その構成員は、自ら考えることができず、欲望だけを追い求めて、略奪の世界での生き残り(自らの保身)だけを考える「獣」の響きであるから、混乱は収拾できず、世は乱れ放題となる。たとえ、その世の宗教の祀りで国を治めようとしたとしても、その宗教の源は自らが世を支配したい神(魔釣りの知恵の火の神)であるから、結局は同じことである。いくらお祭りをやっても五穀豊穣、国家安泰はありえない。一人一人が自らの身魂の行いを精査し、真釣りで魔釣りの響きを潔斎して「人」と成り、雲一つない晴れ渡った心、静かで清らかな澄み切った本当の誠心に戻ることが世の立て直しの礎となる。正神の精神で聖なる政事が為されれば、永遠の生を謳歌できる天国が続く。
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信教の自由、思想・信条の自由、言論の自由が日本国憲法に保障されている。この場合の自由とは、『日本国憲法に基づく「日本国」という国家を存続させる限りにおいて』という条件付きである。どんな思想を持とうと、どんな宗教を崇拝しようと、個人レベルでとどまっている分には問題視されず、国家の監視対象にはならない。獣は自らのテリトリーを侵されるとなると攻撃する。自らの生存に危機を感じれば、危険分子とみなす。日本国の社会システムの根幹を揺るがす思想や宗教については、監視、弾圧の対象となる。多数の国民を扇動して混乱を増幅させるような場合や、国家の転覆を図る可能性のある集団については、即、公安警察が動くことになる。治安維持法や特高警察はなくなったが、その精神は裏の世界で生き続けている。日本国憲法では、言論の自由、表現の自由、思想・信条の自由、信教の自由等々の自由を規定しているが、実際には自由などない。利権の奪い合いと保身の指導者層がいる限り、国家の干渉を排除することはできない。各人が、自分の勝手な意見をぶつけ合って議論しても、妥協案は出るかもしれないが、誰も満足する結論など出るはずもない。議論している双方が二極分裂の響きであり、議論している限りは、主導権争いの中である。ディベートというのは、論理戦争であり、どちらが正しいかではなく、『どちらが相手をやり込められるか』のゲームである。裁判もしかり、両論併記というのは、戦いの世界で時間切れになった拮抗した議論をその場だけで取り繕う逃げ道に過ぎない。二極分裂の戦いの自己保身の響きの世界が一つにまとまることはありえない。

民主主義社会というのは、表向きは主権は民衆にあり、政治に参加できることになっている。しかし、人類史は、神世、神政、神制、王政、王制、独裁制等々、殆どの時間は、誰か一人に権力が集まる仕組みで進んできた。宗教勢力と政治家が合体したり、権力闘争をしたりの繰り返しである。人類の歴史は、サルから始まったと言うが、ケモノの群れにはリーダーが必要である。羊の群れには羊飼い(神)、狼の群れにはボス、飼い犬には主人がいなければ統率がとれない。バラバラの思想の人間が集まって好き放題に社会を進めれば、混乱は必然である。民主主義、特に、議会民主制というのは、人類史の政治制度の変遷の最後に位置する最も統制がとれない仕組みなのである。米国、フランス、ロシアは大統領制であり、英国は女王を元首とする二大政党制、ドイツ、イタリアは大統領と首相が存在する。民主社会であるように見える西欧諸国は、王室の存在する国が多い。アジアも、王室を持つ国、政教一致の国が多い。翻って、今の日本国はと言えば、天皇という名のエンペラーは象徴化され、神道儀式は行うが、表の世の国事行為は政府の追認の仕事や名誉職であり、金と科学が国の支えである現在では、精神的な支えとしての役割もないに等しい。

近代以降の日本の制度は、すべて外国の輸入であり、形だけは真似をするが、中心の柱はなく、中身も伴っていない。右派と中道と左派が離合集散を繰り返し、思想的に見れば、支離滅裂の政治家集団が日本国を運営している。王室にあたる支えもなく、大統領も存在せず、政党と利権集団に左右される首相が率いる何とも頼りない国なのである。一説によれば、日本国の国家元首は英国女王であり、大統領は米国大統領、そして、日本国は米国日本州である。世界には、豪州のように、他国(元の宗主国である英国)の女王を国家元首にしている国もある。政権奪取しか頭になく、政治理念や国家像は国民(=票=政治生命の基)の顔色や「国際社会」という世間体を見てコロコロ変え、左も右も大差なく、勢力を拡大できるとなれば、自らの金ズル集団に都合がよい思想に鞍替えすることも躊躇せず、矛盾を指摘されれば、ノラリクラリとはぐらかす政治家。かたや国民は、自らの快楽の追及に忙しく、学校という科学教の教会は文部科学省なる総本山に管理され、政治や国際問題といった「難しい」分からない研究は学者にまかせ、現世利益欲しさに神や仏を拝み、先祖供養なる「祟りを避けるための偽の感謝儀式」はするが、本物の宗教的な柱はなく、自らの欲望を満たす信仰を宗教と勘違いしている。不平不満は言うが自らで考えることはせず、責任は取らない。自ら責任を取らず『誰かに言われたからやる(世間の流れ、時代の流れ、国際社会の常識だから、日本だけ勝手はできない)』という詭弁を労して失敗を担保するしたたかさ。その世間や国際社会が本当に自由や平和や天国に向かっているのなら別によいのだが、もし、その逆だとしたら、「外圧」がなければ動かない政府が率いる日本国の未来にいったい何が待っているのか。今、世界で起きている出来事は、現代社会がどんな世界に向かっていることを示しているのかを、曇ったマナコを見開いてしっかりと見て欲しい。
P78
国際社会に参画したいならば、経済や福祉や英語やIT技術云々の形だけではなく、構成国の精神的支柱、文化の思想的背景、国民の思想的行動特性を知らなければ、真の外交、交流はできない。結局は、思想、宗教の統制が国家運営の基本であり、世界を支配する勢力からみれば、科学と経済一辺倒の日本は、金を出させるには都合がよい銀行としての価値しかなく、霊的去勢された、何の危険性もない国である。治安維持法や公安警察、CIAの世界すら表の世界であって、公安警察の裏の裏の世界も存在する。日本文化が見直されていると言っても、それは、西洋でも東洋でもない不思議な魅力に惹きつけられた異国趣味の域を出ず、武士道も、結局は、戦いの世界の礼儀作法である。大和魂と言っても、それは、キリスト精神であり、仏教精神であり、儒教精神である。日本は、太古の昔から、外国精神を輸入して都合よく混ぜ合わせてきた。今の日本の精神は、輸入精神の混合であって、神国日本を語ってはいても、本当の日本精神を体現している日本人はないに等しい。

世界は神がその精神の基盤にあり、日本ほど神をないがしろにしている国はない。人類の歴史は、結局は、宗教戦争の繰り返しである。科学と宗教が別物だと思い込み、自国の宗教の実体もわからず、世界の宗教に疎く、自ら考えることができず、今現在の収支決算に右往左往し、経済や福祉や反戦に命を賭け、ありとあらゆる快楽を追い求め続ける現代社会の日本人。安全神話が崩壊したとは言え、現代日本は、民主主義の自由な国、豊かな国、平和な国だと思われている。しかし、それは、表向きのことであって、その実体は、宗教戦争に敗北した神なき神の国である。イスラムとキリスト教の戦いのその裏に、もっと恐ろしい計画が着々と進行している。真釣りの真コトを思い出さない限り、日本も世界も共倒れである。戦後教育によって完全に霊的去勢されてしまった「一般庶民」の思いも至らないところで、神仏の世界や生死、時空を超えた、どえらい仕組みが動いているのである。
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すべては『○○する恐れがある』階段で封印する手立てが取られる。それが冤罪であったとしても、である。形になったら、対応できないからである。自らの死の恐れが、攻撃の意思の無い者を破壊者にでっち上げる。被害者意識、恐怖の魂、自らの恐れが自らを戦いに引き釣り込む原因である。恐れは疑いを生み、疑いは敵を生む。自らが自らの平和を壊す破壊者である。自らが自らの加害者である。真釣りの「思想」は、今の日本政府も、その政府に抵抗する勢力も、すべてを「無」に帰す響きを持っている。封印されたものは、いつか封印を解かれる時がくる。日本国憲法とその下の法令を遵守しようとする限りにおいては、日本国の現状は益々「望まない世界=破滅」へと進んでいく。日本国憲法の根底にある理念そのものが、神を消し、真コトを封じる勢力によって作られたものだからである。

今の「日本国」は、民主主義という思想、議会民主(議院内閣)制という政治制度と市場経済を基盤として成立している。科学思想が教育の根底にある理念であり、科学技術と金融経済が日本国を存立させる土台である。そして、その絶対法規が日本国憲法である。歴史を逆戻りさせるような宗教的国家運営を唱える勢力や軍事クーデターを企む勢力を封印し、天皇を象徴に落とし、国教を無宗教に変え、金と科学で国づくりを進めた、その結果が、今である。平成に入ってからの日本の状況、出来事、世界の動きが何を意味しているのか、正直に見てみることである。この先も、同じやり方で進むなら、もう日本国に未来はない。

今の日本国においては、宗教を個人的に崇拝する分には自由だが、悪魔思想を実行しようとすれば、それは危険思想として国家機関総動員で封印にかかる。獣は人を恐れる。悪魔は神を恐れる。どちらが「国を破滅に導く悪魔思想」なのかを正直に見てみることである。宗教や思想、哲学を表現する自由は一応認められてはいる。しかし、人類の歴史の常として、国家運営や一般社会に大きな影響を与えるようになれば、公安の監視対象となり、いよいよとなれば弾圧される。今の世にある思想ですらそうであるから、真釣りの「思想」は、それは、当然のことながら、魔釣りのアヤマ知で作った国家では、認めることはできない。国家の崩壊を扇動する思想のように見えるからである。それは、今の日本国の根本理念とこの本で語っている理念とが真逆だからであり、著者から見れば、今の日本国が国家の破壊に進んでいるように見えるのである。史実として大本教の弾圧という実例がある。

今の日本国は、戦後教育によって、真釣りどころか、神道すら封印されてしまっている。科学と金の思考がすべてとなり、進歩、発展の仮面に騙されて、それ自体が、破滅に導く宗教であることに気づいていない。このように言えば、著者の「思想」が危険思想となり、公安の監視対象になり、この本も発禁になるかもしれない。しかし、著者は、「真釣り」をお伝えし、あるべき本当の日本の姿を語り、現代社会に至る人類の歴史の闇の闇に葬られた真相をそのまま書いているだけである。著者も、元々は、教育現場にいた人間である。ただの宗教や生半可な教育で日本人の心が変えられるとは思っていない。現代社会に漬かっていた時の体験を踏まえて、今の日本国の姿と、著者が体験を通して学んできた本当の日本の姿とは、全くのアベコベであると書いているだけである。ただ、事実を述べているだけである。著者は、今の日本国に異議を唱える意思も、国家を転覆する意思もさらさらない。そんなことをしても意味はない。著者が何もしなくても、いずれ日本国は壊滅することになる。これは、元つ神仕組みであるから不可避である。これを宗教というならそれで構わない。この本を読んで何かを感じたなら、生き様を見直す材料として使ってもらえればよいだけである。しかし、本当の真実は覆せないということは覚えておいて欲しい。
P80
今の日本国は、魔釣りのアヤマ知の世界第二の経済大国、文明国であるから、その国家体制を持続させるためには、真釣りの「思想」は究極の邪魔者である。著者は、そんなことは百も承知で敢えてこの本を日本国の皆さんに公開しているのである。この本をどう扱ってもらっても構わないし、著者を危険人物だと思ってもらっても構わないが、この本に書いたことは、本当の真実であり、今までのやり方でどう封印しようとも、この本の根底にある響きは消すことはできない。真釣りの真コトは封印できない。それをすれば、消そうとするあなたが消えることになる。封印されるのは蛇の知の魔釣りの魔コトである。最後は神力と学力、ハラとアタマの、生死時空を超えた、言うなれば、霊界でのハルマゲドン、響きの総決戦になるから、その映しである現界、つまり、この世でそれを止めることは不可能である。これを荒唐無稽な話、危険思想として扱うなら、それは究極の死を意味する。

元の大神を封印した国に元の大神を復活させれば、それは、国家の消滅を意味する。魔釣りのアヤマ知の「国家」という概念とシステムは消滅するが、風景や自然は残る。物質化したものは、すべて分子の集合体であり、共鳴共振現象によって、目には見えないレベルで振動している。そして、この現象を利用すれば、超音波で建物を破壊することもできるし、振動しているものを止めることもできる。想念の世界、心の思いも同じであり、自らと共鳴している霊界が自らの現象となる。想念が形になったものが物質である。従って、真釣りの響きが現れれば、魔釣りの響きで作られたものは、想念も含めて、形をなさなくなる。真釣りは万象万物を形為す自然の掟でもある。元つ大神は真釣りの響きであり、真釣りの響きが現れて壊れるシステムは、「自然の掟」に反したものである。真釣りをするしないは自由であるが、大神の響きが具現化すれば、どんな防衛策も意味をなさない。警察も、自衛隊も、神主のお祓いも、呪術も、全く意味がない。破壊されるものを自ら破壊すれば、破壊される危険は消える。魔釣りの自己破壊が唯一の自己防衛策、真釣り戻しである。幻想はすべて崩壊する。崩壊するものは、止めることはできない。崩壊の痛手を減らすには、幻想が少ないうちに自らで崩壊させることである。自らの魔釣りの想念を実体だと思っていれば、真釣りによってすべて消えることになる。魔釣りの思いが自らのすべてだとしたら、真釣りの響きは自らの死を意味する。しかし、真釣りのみが実体を産み出す響きであり、魔釣りも真釣りあるゆえに存在するものである。真釣りがすべての源である。
P81
日本は神を封じ込めた神国である。江戸時代の檀家制度で仏教を強制し、義務教育の公立学校=日本流無神論教会で、「宗教」教育を禁止しているのは、神を封じ込める思想の型示しであるが、そのことが、宗教的盲目の国民、日の丸と君が代をすぐ戦争と結びつけるような短絡的思考の国民を大量生産する結果をもたらしたのである。神亡き日本が、イラク戦争という「イスラムと十字軍の聖戦」の尻拭いに自衛隊を派遣することの意味など分かるはずもない。最新戦術の戦争に丸腰で参戦したようなものである。私立学校の宗教教育も魔釣りの宗教の教えであり、本当の意味での宗教は日本に存在しない。国旗は国家の理念の象徴であり、国歌は国家の理念の言霊である。校旗や校歌に誇りを持つが、その親である国家の国旗と国歌をないがしろにしている国は稀有である。それが、世界の親国であればなおのこと、右翼も左翼も嫌って、どっちつかずの曖昧を好み、日の丸君が代の真意が全く見えなくなった日本国は、言わば、中身のない形だけを見て右往左往する、大黒柱を持たないへなへな腰の情けない国である。アヤマ知の教育の作り出す常識にどっぷりと漬かって、心理=神理=真理の公式を見失い、「哲学は安全な学問、宗教は危険な教え」というように、宗教と科学を別物と見ている者たちには、戦後教育の正体を見破ることはできない。たとえ、その正体を知っても、今日の社会で立場が不利にならないように知らない振りをして語らないか、『絵空事』『危険思想』『こじつけ』と断罪するのが関の山である。実は、現代社会に至る人類史を動かしている裏舞台に気づかせないように、そういう見方を教育して真実を封印することが、文科省も教師も知らない、学校教育制度の裏の設立目的である。支配のピラミッドを形作る制度は、義務教育学校、強制檀家制度、中国共産党の組織、キリスト教会等、形は変われども、その目的は、社会の構成員を何れかの下部組織に所属させ、上の思想を伝達、普及、徹底させることにより国家組織を維持し、反乱分子を監視し易くして国家の崩壊を未然に防止するためのシステムである。国際組織も同様で、所属国を監視し、勝手な振る舞いをさせないように仕組まれている。獣の響きの世界での自己保全には、相互監視、相互警戒が不可欠である。現代日本は、社会不安が増大するに連れて、疑心暗鬼となり、監視カメラ、盗聴、内部告発、児童虐待の通報の奨励等々、共産主義の秘密警察の下の相互監視の密告の世界である。今の世に自由などないのである。

政教分離、公立学校の宗教教育禁止は、神仏を大切にする心は良いが、その思想を実行するのは許さない、ということである。戦前の国家神道が日本帝国主義を産んだという理由で、政治、教育と神道を分離し、天皇に人間宣言をさせ、平和と民主主義と人権の憲法に基づいた国づくりを進めた日本国。進歩、発展、科学教育、市場主義経済、民主主義、戦争放棄の国家運営をした結果、現代日本がどうなっているか。神道が悪いといって封印した側の思想を実行した帰結である。今の日本国は、三千年に渡って巧妙に仕組まれた、神国日本の響きを葬り去ろうとする魔釣りのアヤマ知の毒牙に完全に冒されている。ここから立て直すには、真釣り戻し以外の手はなく、その歩みは、苦難の連続となるだろう。戦前の大日本帝国の振る舞いは、神道が悪いのではなく、天皇を利用して国家支配を企む政治家や軍部の根底にある魔釣りの響きがもたらした歴史の必然である。参考までに、元つ大神から、昭和19年に、岡本天明氏を通して、「日月(ひふみ)神示」が降ろされている。これは、黒住、金光、天理、大本と、近現代日本を通じて、元つ大神が、時代に合わせて世界の親であるヒノモトに向けて降ろした、真コトの神仕組みと世の立て替え立て直しを予告する一連の神示の流れの預言である。平成4年には「火水伝文」が、現代の日本人に分かる文章で降ろされている。著者のこの本は、その集大成であることをお伝えしておく。
P82
金と科学と民主主義と平和憲法で国を創った結果が、心の荒廃であり、凶悪犯罪の増加であり、バブル崩壊、オウム事件、酒鬼薔薇事件である。さらに、阪神淡路大震災、雲仙普賢岳噴火に始まる自然災害の多発は何を意味しているのだろうか。今の生活に右往左往して、現実に起きていることに目を瞑り、それが何を意味するのかなど考える余裕がない国民と自党の政権奪取にしか興味がない政治家。自ら考えられず、欲望のままに生きてきた戦後の日本国民の行く末が、いよいよはっきり見えてきたようである。戦後を通じて、経済発展、民主主義、平和主義等々、清く正しい金持国のモデルを演じてきた日本。これからの更なる発展を望んでいる方も多いと思うが、果たして、それは実現するのだろうか。

現実に起きた史実や出来事、世界の流れや、日本の行く末についての見方は様々である。特に戦後日本は、反戦平和を国是とし、自衛隊という軍隊の意味付けをノラリクラリと誤魔化しながら、人道支援、国際貢献の名のもとに金を出し、口を出し、汗を流してきた。戦争というタブーを封印し続けた平和ボケ日本には、国際社会の裏で渦巻く策略には気づけるはずもない。自衛隊のイラク派遣という事実については、どうにでも繕えるが、反戦平和を唱え続けても、結局は、戦闘状態の外国に自衛隊を派遣するハメになった事には代わりはない。国際貢献を善とした結果、立場を守るために外圧に屈したというのが、その実態である。戦争を放棄した結果戦争に参加する。人道支援という仮面を付けて憲法との辻褄合わせをしているが、日本国の内包する矛盾を誤魔化すにはもう限界である。日本国憲法の根底にある理念に矛盾がある限り、憲法をどう改正しようとも、崩壊は止まらない。

獣の作る世界は、サバイバルの弱肉強食の響きである。その響きの国際社会で平和主義は茶番であり、戦争放棄は絶対に不可能なのである。神学論争、思想闘争の結果が形のシステムに現われているのである。その大元を正さない限り、望んでいる自由や平和や天国は絶対に実現しない。現代社会は、天国か滅びか二つに一つの過渡期の最終章である。現代社会の源流は、蛇の知恵の神に収束する。つまり、表面上は進歩発展している文明であるが、その裏は、その神が支配する魔釣りの神代へのシナリオに基づいて歴史が作られてきたのである。しかし、その世界は実現することはなく、滅びへと向かう。その流れを止められるのは、真釣りの真コトを持つ日本(ヒノモト)の復活だけである。今の日本は蛇に騙された究極の社会であるからその役目は期待しようもないが、真釣りの真コトを思い出して、一人一人が目を覚まし、現代社会の裏舞台で真コトを顕現することで、蛇の正体をハッキリと見定めることができ、真コトの日本が復活して、本当の世界平和が約束される。
P83
ここで踏み誤ればもう永遠に天国はやってこない。永遠の滅びが約束される。科学と経済に洗脳された現代日本人には、まったくもって荒唐無稽な話だが、これが事実でなければ、自らのかかっている罠から逃れることはできない。自らの天国は永遠の幻となる。この世はすべてが逆さまなのである。この事実を認めるか認めないかが、自らの運命を決定してしまう。究極の踏絵が渡されていると思って欲しい。これは一人一人の踏絵であり、最初で最後の天国への分水嶺である。「獣」は生存のために戦う。霊長類である人類は、不自然な理性で作り出した文明社会という自らの天国を守るための「自己保存」の戦いの歴史を続けてきた。文明社会を進めてきた影の黒幕も、黒幕が信奉する神も自らの辿る運命を知らない。その行く末に何が待っているのか判らないならば、本当に取り返しがつかない事態となる。犬や猫は自然の本能のままの獣であるが、人類は不自然なケモノなのである。

選挙制度は多数決であり、少数意見は反映されない、悪平等のシステムである。それが必要悪だというならば、国家支配権争奪戦、政権争いという思想戦争は永遠に終わらない。魔釣りの響きのアヤマ知の二極分裂の世界での全員一致した思想は『戦い』であるから、相対的善悪の立場に分かれた全員が平和に暮らせる社会は実現できない。全員が平和に暮らし、形の上での戦争も現れない世界ならば、テロも反戦も口にすることはない。戦争か平和か、と言っても、結局は、両方とも戦いである。平和を守る戦い、自由を守る戦い、幸せを守る戦い、である。相互依存の世界では、戦わずして安定はない。安全は勝ち取ったものであるから、守る必要が生じる。しかし、戦っているなら、永遠の安全はなく、戦いを有利に進めるために、(自分が主導権を取るために)戦略本部が必要となる。世の黒幕の親分は、自らが天国に成ろうとすると滅びるという自己矛盾に気づいていない。自由で平和な世では、自由も平和も当たり前であるから、自由、平和という定義はいらない。対立概念がないから選挙戦もできない。戦いがないから戦争もない。天国には天国しかない。

現代社会は『義務を果たさない者は、権利を行使できない』という思想が根底にある。法律で義務化すれば、違反者は処罰されることになる。棄権は、白紙委任と見なし、棄権した限りは、文句は言わせない。投票するか、投票しないかで服従するか、の選択である。議会民主制自体が魔釣りのシステムであり、政権争奪戦をしている限り、どの政党に投票しようと、真釣りの政治はできない。今世は、全員が魔釣りであるから、真釣りの政治家は選択できない仕組みである。実際は、真釣りの政治家には、選挙システムは意味がなく、選挙で政治家を選ぶ必要がない。魔釣り世での真釣りの者の意思は棄権という行動になる。表面に現れた「棄権」という行動は同じだが、それは反抗心からでも、無関心だからでもない。政治に関心はあるが、逆さまの世の政治家には実現不可能だから、投票というゲームに参加しないだけのことである。真釣りの者が魔釣りの世で意思を表現すると、無関心、無責任、無感動になる。対立がないから、喜怒哀楽もなく、永遠のナギ、傍観者の傍観者となる。魔釣りの世界が、真釣りの神の世を役に立たない空想物語にしているのと同じことである。魔釣り世の形をどう変えようと真釣り世にはならない。後少しの遊びである。
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『国民の意見を聴いて政治に反映させる』『消費者のニーズに合わせて製品を開発する』と言うが、それは、自らの存続のための方策であり、相互依存の世界だけで通用するものである。「真釣り」は絶対不変の神法であり、天地自然を生かすハタラキである。本来、法とは、人民が合わせるべきものである。しかし、その法の基が真釣りでないならば、いかなる法を定めようとも自由も平和も平等も天国も実現しない。『何のために政治をしているのか』『何の目的で法律を定めるのか』実際は、王政でも民主制でも、獣のピラミッドの支配の制度であり、主権が誰にあるのかの違いで、争いを産み続ける世界である。蛇がアタマを交換しても、結局は蛇のままであり、有限の世界だと言っている限り、天国は実現しない。

真釣りは永遠不変の神法である。それに基づいた王が治める世界がミロクである。人類の歴史の王政と九分九厘同じだが、足場にあるものが違う。これを独裁だというなら、勝手にすればよい。その時が来てどうなっても自業自得である。神の掟を外し続けた末の現代日本から神の掟を見れば、「悪魔の悪魔」の宗教に見えるが、それは、自らの鏡である。本当の天国とは全くアベコベの世界を「善(正)」と思えば、それに基づくいかなる制度も、目指す理念は実現できない。世の破滅は避けられない。元つ真釣りのミロクの世は、生死一如、時空超越の世界であるから、今ここで神法違反をしているならば、例え死んでも同じことであり、今のままならば、この世にもあの世にもどこにも国を作る場所はなくなる。永遠の滅びである。本当の天国は復活する。そこにあなたがいるかどうかは今ここの選択にかかっている。光を一つ上げる、とは、魂の一生という思考ですべてを見ることである。今でいう一生は、魂の一生では、幼稚園の入園から卒園までの体験に過ぎなくなる。あなたという身魂は、まだ一度も死んでいない。今回の大祓いが、永遠の生死の分岐点である。

真釣り戻すご苦労は今のあなたにとって堪え難いものかもしれない。しかし、それは、あなたが真釣り外した結果であり、あなたが呼び込んだ厳しさである。本来ならば、あなたは神法違反で消滅しているはずの身魂である。あなたのご苦労が修羅の地獄の1億乗の厳しさであったとしても、絶対に無理だと思ったとしても、神法違反のあなたを生かし、真釣り戻しの機会を与えるために「情けと花の仕組み」を構えた元つ大神のご苦労と比べたら、全く問題にならない。著者のここに至るまでの苦労でさえ、大神がなさったご苦労の髪の毛の先のその先の先々ほどの苦労である。真釣り戻しの様々な障害を自らですべて体験し、真コト真釣りを現代日本に現すのが著者の御役であり、その集大成がこの本である。
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あなたはこの本を書くための苦労はいらない。それは著者の役目であり、あなたは、この本を使って自らの真コトを磨き出すだけでよい。つまり、この本を読んでいるあなたは、大神の毛の先のそのまた先の先々の苦労どころか、そのご苦労を辛抱してきた著者の苦労の毛の先の先々ほどのご苦労に堪えればミロクが約束されるのである。しかし、そのご苦労でさえ、今のあなたにとっては、慙愧慟哭、修羅の地獄のそのまた地獄の苦しみかもしれない。もしそうだとしても、あなたが元のミロクに帰るためには越えなければならないご苦労なのである。なぜなら、神法違反をしたのは自分であり、自分が真釣りに戻すしかミロクに帰る手立てはないのである。あなたをミロクに連れて行ってくれる救世主はどこにもいない。あなたが真釣り戻せば、大神が助け舟を出すだけである。今世の魔釣りの宗教の神仏、思想に固執している限り、あなたは、本当に、永遠のイノチを失うことになる。

著者は、自らのモデルを探してもそれは叶わず、真コトと思って入った道も、一厘の違いで真コトではないことに気づくという繰り返しを生きてきた。終ったと思っても終わらず、真コトと思っても真コトではなく、自らがそのモデルであることを認めるまで、本当に苦しい道のりだった。つまり、著者は、この道に入って以来、自ら以外に外に頼れるものはなかったのである。あなたがどんな苦労をしていようとも、それは、魔釣りの世界の常識で言う苦労であり、真釣りを外し続けて、自らの真釣り戻しの苦労を増やすだけの「苦業」である。自らの苦労話をして他人の同情を引こうとしても、それは、真釣り外しであるから、大神から見れば、大掃除の手間を増やすだけの、神をも恐れぬ所業である。この世の、今この時の些細なご苦労で愚痴や不平不満を垂れ流し、自らを守るためにツベコベと御託をならべ、アレコレと逃げる算段を画策しているようでは、あなたにはミロクは全く関係のない世となる。今の災害や苦難に耐えられないようでは、一度で一気に世を祓い清める「時空生死を超えた大掃除」にはとても耐えられない。たとえ、最後の大祓いまでに、真釣り戻しを終えることができなくても、今からでも、少しでも真釣り戻しをしておくことが、最後の大掃除の自らのご苦労を減らす術である。百歩譲って、今まで好き放題に生きてきたとしても、真釣りがあることを思い出し、真コトの道に帰ることを決めただけでも、とてつもない厳しい試練があるにせよ、ミロクに帰る機会は、まだ消えていない。

著者は、恐怖を煽っているわけでも、脅しているわけでも、宗教の勧誘をしているわけでもない。あなたが現代社会の正体と身魂の現状を自覚して、真釣りに戻れるように、真コトの真釣りが世の神法であることをお伝えしているだけである。余計なお世話だと言うならば、それはそれで構わないが、どんなに苦しくても、不可能に見えても、あなたの改心次第で、必ずミロクに帰ることができる。現代社会の日本国が描く未来に夢を託すのもよいが、この本から、真釣りの真コト、本当の自分の正体、現代社会の闇の闇の真相を汲み取って欲しい。あなたが、この世で、今ここで本当にすべきことは、真釣り戻しのみである。天地創世の真釣りの元つ大神直々の、生死も、時空も超えた、万古末代一度こっきりの、死んでも死んでも続く、祓い清めである。神や仏ですらどこにも逃げられない大祓いであるということをよくよくハラに据えて、永遠の天国に戻るために、頑張って欲しい。
P86
あなたが同調している神によって、あなたの体験する現実が決まる。それは、あなたが自らの霊線をその神の支配する霊界に繋いでいるからである。開運厄除、学業成就、縁結び、家内安全、夫婦和合、商売繁盛、交通安全、病気平癒、不老長寿、金運向上、方位除け、ボケ封じ、悪霊祓い、厄祓い、五穀豊穣、国家安泰、地鎮祭、御霊清めの儀式等々、祈願や法要、神事、仏事はすべて魔釣りの世の生き残りのための他力本願である。真釣り外した自らに苦がこないように、『俺が天国を体験し続けられるように災いを封じろ』と神や仏、霊界の先祖に命じている。たとえ呪ったとしても、霊線が繋がっていなければ、呪い殺すことはできず、渡した呪いが自らにそのまま戻る。人同士の場合でも仕組みは同じである。あなたは真釣り外しの責任を取っていない。自分が責任を取るならば、神社もお寺も教会も必要がない。獣の世では、本当の意味であなたを助けることができる者(神、仏)は一人もいない。いるというならば、それは相互依存のあなたと同じ響きの形だけの救済ゲームの相手と想念が繋がっていることを意味する。今のままなら騙されても文句は言えない。

苦を避ける、災いを避ける、というのは、真釣り外しのお知らせを拒否する(真釣り外しをして楽を得る)響きであるから、それを続けるほど、逆に、災いを自ら呼び込んでいることになる。実際は、災難除け=災難招来祈願である。真釣りに生きる者には災いはないから、「災いを避ける」という思考はない。厄除け等々の災難除け祈願をするならば、それは真釣りを外した証しであり、真釣り戻しの意志がないことを意味する。あなたが避けている苦(実は真釣り外しのお知らせの情け)はあなたの違反ゆえの型示しであり、それを渡すのは元つ真釣りの大神であるから、あなたが厄除けをするならば、それは、元つ大神を祓おうとしていることになる。あなたに訪れる災いの源は自らであるから、結局は、自分が自分に自分を殺してくれるように頼んでいることになる。すべての災難除け(招福)祈願は、真釣り外したお知らせの苦を逆恨みした冤罪である。厄祓いするなら、福祓いもしなければ、偏ってしまう。厄も福もあなたの分かつ知の作る幻想であり、自らの分かつ知が作り出す幻想を使って、真釣り戻しを知らせる本当の福の神と対峙するならば、死神であるあなたの負けである。あなたは絶対に勝てない試合をしている。最後の相手は元つ真釣りの大神であるから、あなたの希望通りに厄の神であるあなたが祓われる。元つ真釣りの大神の情けを逆恨みしていた集団の作り出した冤罪は最後に晴らされるのである。魔釣り世の宗教は、すべてのすべてが同じ仕組みであるから、いつまで信心しても本当の天国は来ないばかりか、最後は、あなたに訪れる苦(悪、厄)の真の源である自分が消える。
P87
あなたが自らで自らを生かしているならば、神仏に祈るという行為はしない。神社に参詣して何かを祈願するという行為は、自らができないことを誰かにさせるのと同じである。その対象が神仏ならば、参拝(参詣)と呼び、人間ならば、依頼と呼ぶ。神仏も人間も、自らの心の内では同じ世界に共存し、神仏とか人間とかのイメージ映像の違いに過ぎない。神に祈っている、他人に頼んでいる、と分類しているだけである。どちらも、やっていることは同じである。有力政治家のご機嫌伺いをすることを『○○詣で』というが、それは何を意味しているのか。『神に祈れば天国に行ける』と決めているのはあなたであり、あなたがその神の神であることになる。あなたが『神に祈らなければ天国には行けない』と言っているならば、あなたは天国には行けない。なぜなら、あなたという神がそう言っているからである。宗教を信仰するならば、それは、その世界が箱の中であることを意味する。それは、あなたが作った箱であり、その中の「神」はあなたが作った神である。あなたが宗教を信仰するならば、この世の人間よりも力がある「見えない存在」に自分を預けたことになる。この世の宗教は、魔釣りの世の身欲を満たすための信仰であって、それをすればするほど魔釣りを呼び込むだけで、望みとは正反対の現実の実現を望んでいることになる。結局は、すべての現実は、言い換えれば、現代社会のシステムは、真中に真コトを持った「神」である自らが生み出した現実であるから、真釣り外した神同士の独演会に過ぎない。

ご利益祈願、加持祈祷、お祓い、お守り、オフダでは、本当の天国を実現することはできない。魔釣りの宗教を信仰すればするほど、真釣り外し続けることになるからである。無神論というのは『神はいない』という神が語る論理である。『自分以外の神はいない』つまり、自分が神であると言っているのであるから、神はいるのである。無神論は自分が神であることを語る有神論である。もし、自分は神ではない、と言うならば、神はいない、と言っている自分は神ではないことになる。神ではない者が、神がいるかいないかの議論をしている。神とはどんな存在か、の定義ができないならば、神がいるかいないかの議論はできない。議論ができるならば、自分の内に神がいることになるから、有神論である。結局は、有神論も無神論も神の有無について議論しているのであるから、有神論しかないのである。有神論ならば、神に依存していることになり、無神論ならば、「神」がなくてもすべてできると思っていることになる。「有神論」ならば神がいる。無神論ならば神はいるがそれを否定している自分にはすべてできない。有神論と無神論を議論している自分が神であるから、有神論しかない。有神論しかなければ、神しかいない。この世は神の世である。

魔釣りの宗教の言う、輪廻転生や死後の世界の話は、魔釣りの中の現実であって、真釣りの世にはそんなものは存在しない。「死」が本当の死でなければ、葬式のしきたりも、強制力はない。自らの大元である神界を闇に葬って穢れた冥土と思い込み、穢れが自らに来ないようにする(この世の「神聖さ」を保って生き残って快楽を得る)ための自己保身の儀式が、葬儀や法要、読経である。その実態は、この世で生きている者同士の生き延びるための穢れ祓いゲームに過ぎない。この響きで神話を読めば、黄泉の国は穢土となり、イザナミは醜い神となる。それを真実だと思っていれば、死の呪縛から抜けられず、アメとムチで操られて右往左往する無間地獄を生き続けることになる。この世という境界のない世界を善悪に分けて、争い、裁き合う現実が永遠に続く。天国を作ろうとするほど、地獄が形になり、最後は滅びの世に至る。その他の宗教も、姿形が違うだけで、すべて同じ思想の中にあり、そこには神も仏も死者も先祖もいない。「情けと花」の最も大きい型示しが「死と誕生」であり、真釣りを外したがゆえに、その仕組みの中で死と生を繰り返す「輪廻転生」という幻想を生み出してしまったのである。初めにいた神世は生き通しであるから、真釣り外したお知らせは、情けの死である。つまり、元の初めの世から見れば、箱(岩戸)に入った「有限(寿命のある、劣化する、崩壊が見える)」世界である今の世(この世)こそ「死後」の世界であり、今世の言う死後の世界(あの世)は、この世から生き返った世界になるが、真釣りから見れば、この世の人間が恐れている死は、大きな意味での死後の世界の中の生の世界を移動する(引っ越す)だけのことになる。生きていても死んでいても同じことで、すべてを真釣り戻すことで初めて、元にいた神世に永遠に生き返るのである。そこが本当の天国であり、ミロクの世である。真釣りしかない、永遠に続く天国である。
P88
元つ真釣りの世は、生死時空を超えた、万古末代弥栄の生き通しの神世である。魔釣りから死ねば真釣りに戻る。魔釣り世のすべての常識を捨てると真釣りに戻る。真釣りの世を封印するための思想、想念、常識、道徳等が、魔釣りのアヤマ知である。お経や祝詞をあげただけで天国に行ける(邪気を祓える、悪魔を追い出せる、穢れを祓える)なら、こんな便利な話はない。それは、『言う通りにしたら金をやるぞ』と言う人間の言う通りにしているのと同じことである。基に真釣りの響きを持っている神が魔釣りに囚われて宗教を作り出し、神仏を利用して楽になろうとしているのは、人間同士の間で誰かに依存して楽しようとしているのと同じである。他力本願ではミロクの天国は絶対にありえない。ミロク(三六九、五六七、六六六)の天国から家出した神が、形に囚われて、偽のミロク(666)の神にすがっても、元の真釣りのミロクには戻れない。それどころか、どんどんミロクから離れて666の世界にのめり込み、その世界が絶対真理であるかのように思い込んだ挙句、結局最後には、自らが自らを滅ぼす末路となる。現代社会は666の世界である。天国だけの神代に地獄があるということの意味が心底わかったら、自らがとんでもないことをしていたことに気づいて、ショックのあまり呆然と立ち尽くすことになるはずである。

自らが魔釣りに囚われて、自らを魔釣りの世に封印したのが「情けの仕組み」の発動、輪廻転生の始まりである。本来はどこにもない死後の世界を語る宗教の起源、弔いの儀式の始まりである。野生の動物には葬式もなければ、裁判もない。恨み妬みで他の動物を殺す動物もいない。人類という「理性を持った動物」が作る社会で起きていることは何を意味しているのか。現代社会のシステムは何を目指して営まれているのか。自然から完全に隔離された世界であり、自然の風景は見えているが、お金がなければ何も手にすることはできないおかしな世界である。お金を払わずに「商品」を勝手に持ち出すことを万引きという。仕入れ価格0円の、資源を加工した「商品」の売買で儲けを出すことが目的の商業システムでは万引きであるが、もともとはお金は存在しないものである。天地自然(天恵、資源、天然物)を勝手に所有し、売買する経済社会は、大きな意味では、神の商店から「万引き」したもので作った社会である。真釣りの響きで作った資源を、魔釣りの分裂の響きでバラバラにして手前勝手に所有すること自体が窃盗である。その盗品を転売すること自体が、横領である。魔釣りの世界の中で作り出されるシステムは、魔釣り世しか作れない。
P89
現代社会は、真釣り外した世界である。真釣り外した神が、永きにわたる略奪の魔釣りの歴史を積み重ねた結果、たどり着いた、九分九厘アヤマ知で出来た社会である。魔釣りの世にあるシステムは、宗教も科学も、儀式も技術も魔釣りを進めることしかできない。瞑想も荒行も訓練も教育も躾も、その根底が魔釣りである限り、どんなに頑張っても真釣り戻しは叶わない。現代社会が魔釣りそのものであるから、今の世界の善を正しいものとしている限り、その世界のシステムの中をどんなに探し回っても、天国はない。その世界がおかしいと思っても、抜け出すことができない。真釣りには戻れない。すべては、魔釣りの世界の中での幻想である。真釣りと魔釣りは相反する世界であるから、たとえ無差別テロで多数の死者が出たとしても、それは情けの仕組みによる現象であり、真釣りの世には何も影響しない。現代社会では大問題であることも、一番大元の世界からみれば、ただの物事、現象に過ぎない。真釣りを闇に葬って魔釣りで世を進めてきたすべての人類は、自らがしてきたことに責任を負わなければならない。「責任」という概念は、生死時空を超えて存続し続ける。魔釣りのアヤマ知でこの本を価値判断することがマ違いの証しである。すべては一つであるから、時空を超えて真釣りのままでいたならば「情けと花の仕組み」で真釣り戻しをする魔釣りの世で悩むことも、病気になることも、喜怒哀楽に翻弄されることも、人類滅亡のシナリオも、体験することはなかったのである。真釣りのままなら預言や予言を鵜呑みにして救世主を待つ必要もなく、神を信仰する必要もなかったのである。

真釣りの世界が本当の天国であり、現代社会にあるすべての理想、現実、夢や希望、死や絶望、そして、その実現や解消を目的とする争いはなかったのである。真釣りを外して闇を作り、光を探して快欲を追い求め、自ら考えることをやめてしまった現代社会は、何かにすがって魔釣りの混迷から抜け出そうと宗教(新興宗教)を産み出した。その宗教がおかしいと思って脱退してはみるものの、現代社会に戻っても、結局何も満たされず、前にも増して右往左往するか、失望感が増長するだけである。そこから逃れるためには、自らの殻に閉じこもるか、誰かのせいにし続けるかしかない。究極の選択は、「自らを殺すか誰かを殺すか」の二つに一つである。魔釣りの世界でいう自殺は、自らを更なる孤独の地獄に落とし、他殺は自らを更なる戦いの地獄に放り込む。殺された者は、魔釣りならば、同じ道を辿り、真釣りならば、天国に近づく。即ち、『自らが何をしているのか』が問題であり、『他人がどうなるか』はその他人の問題である。ここでの「殺す」の意味は、肉体的、物理的な死だけではなく、心理的に殺すこと、想像上の殺人を企てることも含まれ、自らが殺人を思考したならば、霊界では、それは殺人を実行しているのと何ら変わりはない。自らが真釣りならば、その思考は存在せず、魔釣りならば、真釣りを抹殺しているから形の破壊(抹殺)のみの議論になり、すべて詭弁となる。その世界の善人は、自らが真釣りを外していることに気づかない。それは、天地自然の掟を破ることであり、万象万物を滅ぼす、究極の悪魔の心理である。現代社会の常識が正しいと言うすべての者は、揺りかごから墓場まで魔釣りの毒牙に罹り、真釣りの響きを殺すことに何の罪悪感も持っていない。
P90
現代社会を絶対視する、魔釣り教の信者は、その世界を現実だと思い込んでいる。オウム真理教(アーレフ)の世界が幻想で、現代社会が現実であるという、その思想そのものが幻想なのである。地下鉄サリン事件は現代社会の映しである。現代社会の中で作り出されるどんな形も、すべて現代社会のミニチュア、縮図である。実行するかしないかの違いで、思想、哲学、心理、システムの構造は全く同じであるから、形の美醜がどうであろうと世界の王もその王の作る社会を絶対視する信者も同罪である。全員が、自ら犯した神法違反であるから、一人一人が清算しなければ個人的天国は成らず、真釣りの世界にも役立たない。真釣り戻しが終わらなければ本当の意味での国際貢献をしたことにはならない。

真釣りと魔釣りは裏表であり、真釣りでないなら魔釣りである。どんなに善人だと主張しようと、悪を糾弾して自らの善を主張しようと、そのことそのものが魔釣りなのである。真釣りを批判することが魔釣りの証しである。自らのマ違いを自らが正さない限り、魔釣りを真実だと思ったまま、真釣りの世から永遠に消え去る。今回の大掃除が終われば、二度と「情けと花の仕組み」が作られることはないから、あなたが生まれるところはどこにもなくなる。真釣りの世から見れば、魔釣り自体が存在していないから、人類滅亡というのは魔釣りの世から見た話に過ぎない。その中で生み出したシステムは、すべてが幻想である。今まで信じていたものがマ違いだったと素直に認め、真釣りで生き直すことである。

真釣りのみが実体のある現実であって、それを「完全に認めるか認めないか」が自らの永遠の生死を分ける。これを否定する世界が魔釣りの現実であり、魔釣りで教えられたやり方であるから、真コトを聞いて騒ぐならその度合に応じて自らの真釣り外しの告白となる。あなたが真釣りに戻さなければ、あなたはウソを信じて滅ぶ。辻褄が合っている仕組みである。全世界が魔釣りに囚われているから、自らの清算をすれば天国へ、魔釣りでしたことの清算をせずにそのままなら滅びへの二つに一つの道である。現代社会の中に悪の仕組みができて、それが現代社会に影響を与えるならば、現代社会は悪の世である。すべては共鳴現象であり、社会そのものにも当てはまる。真釣りの中に産まれた魔釣りの世は、真釣りの世には一切影響を及ぼさない。逆に、真釣りの世が形になったら、魔釣りの者はすべての世から永遠に消滅してしまう。真釣りの響きと魔釣りの響きは共存できないからである。現代社会でオウム事件を問題にするならば、現代社会もオウム教団と同じ響きである。対象を拒否していることが、強く共鳴している証しであり、問題にすればするほど、騒げば騒ぐほど、その影響が大きいことになる。自らの歪みが生み出した集団は、自らに歪があること見るための鏡として現われる。悪を裁く善こそがその悪を生み出した源であり、その悪は自らの映し絵である。自らの悪を認めず、その悪を裁けば、自らが滅ぶ。
P91
真釣りは真釣りである。魔釣りは真釣りには影響しない。子は親の鏡であり、その子は自らの映しであるから、子が親を殺す状況になるならば、オウム教団を非難する現代社会こそがオウムの産みの親である。オウム事件の謎は、現代社会の思想の中に答えがある。オウム教団の思想を調べても何も答えは出ない。オウムを許せない自らの中にオウムを産み出した源がある。従って、オウムを非難できる者は一人もいない。真釣りなら全く影響ないからオウムを裁くことはしない。オウムを裁くならば真釣りではない。真釣りでない社会は魔釣りで滅ぶ。教祖を死刑にしても何も解決しない。瞑想が修行である宗教の教祖にとって、独房は瞑想室であり、死は解脱の到達点である。まさに、彼にとっては都合の良い環境を与えられたことになる。だからと言って、大量殺人の首謀者を懲役刑にすることは、極悪人を目の前に置き続ける堪え難い状況であり、善悪は絶対価値ではなく、その善悪と生死を超越した存在に対しては、死刑は救済となり、無罪にすれば、「善人」の側が危機感を感じながら生きなければならないというジレンマを抱えることになる。『何の罪もない人間は一人もいない』それが、真コトの真実から見た真理である。本当の真実の前には、法の裁きという概念と裁判システムは無効となる。善悪を超えた犯罪には、刑法は無力と化してしまう。現代社会の罪概念や法理念とは全くの逆さまであるから、死刑が罰にならないという自己矛盾を露呈することになる。実は、悪を裁くこと自体が悪なのである。『それはおかしい』というならば、オウムを裁き続ける堂々巡りの中に戻ることになり、謎が解けないまま、自らが魔釣りと共に滅ぶ。悪を裁くのは、魔釣りを生かすための茶番である。

一般社会もオウム社会もその響きは同じであり、真釣り外しの情けをオウム返しされただけである。悪の世での悪と悪の共食いに過ぎず、どちらも真釣り外した証であって、神法違反をしていることには変わりはない。すべてをひっくり返して、物事を見直してみれば、本当の真実がわかる。鳥の鸚鵡のオウム返しの元は、自らの言葉である。あなたの目の前に映っている(存在する)ものは、自らの姿である。現代社会を敵にするオウムも同罪であり、どちらも真釣りを外した自らが生み出した幻である。どこへ逃げようとも真釣りからは逃げられない。なぜならば、真釣りの世界は魔釣りの世界と裏表の関係だからである。
P92
真釣りの世は、真釣りの響きを持つ「人という神」の世であるから、「宗教」は存在しない。政教一致の政治でさえ国が治まらないのであるから、政教分離の政治がどんな社会をつくるのかは明白であり、政治家の足場である国民の中に宗教が存在している限り、完全な政教分離は不可能である。神仏を信仰する国民を統治するということは、その国民とは切り離せない神仏も統治するということである。人が神を支配する、という逆さまの魔釣りで世を治めることは絶対にできない。神に祝福を祈る大統領や、神社に参拝する首相、宗教団体や慈善(=アヤマ知)団体を支持基盤に持つ政党には政教分離はできない。政治家の思想の源には神がいる。基の神が魔釣りであるなら、神に祈るほど世が乱れていく。その政治家が作る法律が支配する国家を運営する行政、司法、経済システムに命の基を置いている国民も、結局は政治家と同じ世界にいることになり、最後は、国家丸潰れとなる。そのシステムで運営する国家の集まりである国際社会も、その社会の源である神々の世界も、魔釣りで作り出したものは、すべてのすべてが、破滅する。神のマ釣りを直さない限り、真釣りに戻さない限り、世の政は直らず、魔釣りの乱世を進めた挙句に、世は滅ぶ。神を源流とする宗教、思想、哲学、科学の一連の流れの人類の歴史は、真釣りの復活と共に無に帰す。そして、真釣りに戻った「人」だけが、元の神代、永遠の天国で自由を謳歌する。

「清貧」は、『限りあるものを節約することが生き残りに貢献する』という、アヤマ知の「有限」教を信奉する世界の、「節約思想」を善とした負け惜しみである。国を挙げて『限りある資源を大切にしよう』キャンペーンを張っているのは、まさに、真釣り外しの究極の型示しである。「省エネ」とか「節水」とか「倹約」云々というマヤカシの啓蒙に同調する国民も同じ穴の狢である。その根源はどこにあるのか。神話を含めた日本史のどこを探しても、その答えはない。答えは、今の日本が完全に闇に葬り去っている本当の神道(真道)にある。真コトの真釣りを忘れた日本が、現代社会のアヤマ知の思想にどっぷりと漬かっている限り、永遠の天国どころか、世界の破滅に自ら手を貸すことになる。日本が本当の役割を果たす道は非常に厳しい道であるが、それをしない限り、真釣りを知らない世界の国は、永遠の滅びに向かうことになる。この本を読んで、日本人一人一人が自らの本当の姿(素型)を思い出し、本当の日本再生、言い換えれば、世界を真釣りに戻す大役を果たして、本当の世界平和をもたらす道に戻って欲しいものである。『そんな作り話を信じても何にも得はない』『そんなことをしたら社会を乱すだけだ』『現実の生活が大変な時にそんな荒唐無稽な話を聞いている暇はない』と言って聞き流すならば、それは、あなたが本当の日本の真コトの道を外している証しである。それならそれでよいが、これが事実だった暁には、それ相応の体験をすることを覚悟しておくことである。『資源には限りがある』という魔釣りのアヤマ知にまんまと嵌められた政治家と官僚が、「リサイクル」を強制し、「環境汚染物質」を排除し、「クリーンエネルギー」に未来を託す、そんな社会が行き着く先は、果たしてどんな世界なのだろうか。今のままで突き進むならば、魔釣りのシステムを最も完璧に実現している日本国という国家とその国民には、とんでもない結末が待っている。
P93
世界の父親であるヒノモトが、経済大国だ、技術大国だ、教育大国だと魔釣りの文明世界での自らの地位の高さを誇っているならば、それは、自らこそ世界の混迷の源であることが全くわからなくなってしまっている証である。今の日本は、世界の立て直しを担う、世界の真中のハラの御役、元つ真釣りの大神の神気出づる唯一の国であることをアヤマ知に囚われて忘れ去り、自由平等博愛思想や敬神を壊す科学教育、魔釣りの道具の金融経済の進歩発展に足場を置いて、せっせと国際貢献に勤しんでいるが、それが何を意味するのかわかっているのだろうか。真釣りを外した魔釣りのアヤマ知で作られた汚泥混濁の世で最もクリーンな国が、真釣りの神法では史上最悪の「鳴(成)らず者国家」なのである。自ら産み出す苦労はせず、産み出すところは子(世界)にやらせ、その成果のみを奪う。言い換えれば、発明は子にさせて、子の発明特許をお金で買い、形を変えて実用新案で儲けるというパターンで、美味しいところ取りで繁栄してきたのが、今の日本の実体である。国の象徴である天皇すら形骸化し、科学と金に命を預けているならば、滅びは必至である。

無から産み出す苦労は、『すでにある形をどう変えるか』の苦労の比ではない。元つ真釣りの大神が「天恵」を無から産み出して、その天恵を自由に使わせて、自らの子である神や人を喜びに生かす。自らの力で無から産み出して、その果実を子に与えて、子が安心して生きられるようにするのが、本当の親のハタラキの基であり、親と子の本当の素型(姿)である。元つ大神は与えるだけで、何一つ奪っていない。『奪われた』『失った』という言葉は、真釣り外した者の使う言葉であり、謝罪とか損害賠償とか人権侵害云々という言葉は、元つ神代にはない。すべては、無から産み出した元つ大神のものであり、真釣りを外した神仏や人類のものは何もない。無から創り出せる(自ら補充できる=修繕できる)者は、失うことや傷つくことはなく、奪われて困るものもない。自分のものを奪われた、失った、傷つけられたと言うならば、それは、自分のものを何一つ持たない者が、自分のもの(奪ったもの)を持っているということになり、所有権(元つ大神)に無断で天地を勝手に所有している天下の大泥棒であることを白状していることになる。泥棒した天地の資源を売り買いするなど、それこそ、本当に、神への冒涜そのものである。いわんや、お金とお金の売買などは、論外である。神への冒涜のその結果がどうなるかは、今までの歴史上で神を冒涜した者が辿った運命を考えてみればわかる。元つ天地の大神への冒涜=天地自然の掟を破ることがもたらす結果は、永遠なる自滅である。中つ世の神仏の世を含めた、現代社会に至る人類の歴史は、元つ天地の天恵大泥棒集団が創った幻想の物語なのである。

真釣り外したこの世の親(日本、神仏)は、当然、無から産み出すことは出来ない。自らの快欲を満たすことしか頭にはなく、自らが奪って生きているとは全く思いもしない。従って、真釣りの天恵を奪って生きることを恥とも思わず。奪って生きることが世界人類のためになると本気で思っているのである。魔コトを真コトと思い込んで、真釣り外した自らが産んだ、真釣り外したお知らせの(元々はどこにも存在しない)苦を避け、逆さまの天国を目指すという、とんでもない大失態をやらかしていることなど微塵も頭にない。子(世界、人民)も、真釣り外した親の真似をして、親子共々、真釣りの天恵を自由勝手に好き放題に魔釣りで使い、大神の創った神世の元を壊し続けているなどとは露とも思っていない。それどころか、世界平和や自由や天国のために働いていると思い込んで、その世界のシステムを当たり前のこととして、何の疑問も抱かずに代々受け継いでいる。何の躊躇もなく『苦があるのが当たり前』と言い、自らの苦の原因を自ら以外に探して、平然と不平不満や責任転嫁をして威張っている。自らの大きな罪に気づかず、生まれ変わり死に変わりしながら、滅びの道を駆け下りて、ついに、崖ッぷちまで来てしまった。つまり、泥棒世界を壊すことを「罪」として封印してきたのが、神をも含む人類の歴史なのである。
P94
神を金に置き換えた歴史の末路である現代社会は、親である国家が子である人民のご苦労の果実(収入)から税金という名の上納金を強制徴収し、金を神とする「国家」という姿形を維持するためのゲーム(経営、ビジネス)の中での支配権争いに過ぎない。蛇に自らの命を預けた人民も、蛇の知恵のアヤマ知が創る幻想の世界を真実だと信じ込み、その世界に貢献することが自らを生かす道だと騙されて、神から人まで、親子揃って蛇の魔釣りの世を進め、真釣りの神代を封印してきたのである。魔釣りの略奪の響きの世である限り、どんなに頑張ろうとも、自由も天国もなく、今のままならば、黒幕の神から最下層の民まで、すべてが自滅の道を辿る。自然の掟に反する者は、問答無用で淘汰である。天地自然の掟は、万象万物すべてのすべての命の掟であり、いかなる神仏も逃れることはできない。親と子の関係をマ違えば、汚泥混濁の世を進めた挙句、最後は「すべて」が滅ぶのである。

今の世で言う「仕事(職業)」「働き」は、表面上は、物やサービスをお金に交換する行為のことを言う。その裏はと言えば、極論すれば、「職業」とは、神から盗んだ資源(天地)をお金に交換する(売り買いをする)システムでお金をゲットする資源横領行為である。役人というのは、ケモノ社会の管理をすることで生計を立てている職業であり、その収入源は、税金である。税金の源は、管理されている者たちがゲットしたお金である。管理されている者が資源をお金に変えれば変えるほど役人が天国になるとしたら、泥棒すればするほど天国になる社会だということである。『働かざる者食うべからず』=『泥棒しなければ食べてはならない』と言うならば、その実態は、巧妙に泥棒する者ほど天国になる、嘘と誤魔化しが巧妙な詐欺師ほど自由を謳歌できる、おかしな世界である。納税義務=労働義務=略奪義務であり、無職という職業が社会人として認められないならば、それは、泥棒でなければ生きてはならないということである。真釣りの世は、泥棒では生きては行けない世であり、全くの逆さまである。騙す者は、騙される者がいなければ存在できない。
P95
騙されたものがクローズアップされ、可哀想な人種のように言われる。それは、現代社会で言う弱者を表に出さなければ社会が存続できなくなってきたからである。実際は、騙される方も騙す方も、自ら産み出さずに、奪う仕組みの中で、奪った物の奪い合いをしているのであって、楽して天国を得ようとしていることは同じである。本来は、自らの力で産み出さずに自由になることはありえない。現代社会は、元つ大神の真釣りを忘れた結果、お互いの同意の上で泥棒同士が騙し合いゲームをしているだけである。それを当たり前の如く続けているならば、最後は、すべてのすべての源である、すべてを無から産み産んだ天地の所有者、あえて言えば、「自分のもの」を奪われた本当の被害者、本当の債権者が、返還請求(賠償請求、一括請求)をすることになる。あなたが、今の世のアヤマ知のやり方で奪った(「借りた」)もの(財産、立場、信用、知識、宗教等々)をすべて返さないというならば、最後は「自分自身(の命の種)」という担保を没収されて、永遠の滅びとなる。

万古末代、だだ一回の「終始決算」である。あなたが得、快、楽を持っているならば、または、不平不満を言っているならば、あなたは奪ったものを所有している。この世で合法的に得たものであっても、この世自体が天地を泥棒したものを使って創った世界であるなら、あなたのものは何もない。あなたが無から産み出せないならば、あなたの所有物はない。無から産み出せるなら奪う必要はなく、奪うなら無から産み出せないということである。略奪が当たり前だというならば、あなたは、自覚なき泥棒である。泥棒ではないと言う者は泥棒である。失う怖れ、孤独になる怖れを持っているならば、あなたは自らで生きられない。あなたが何かに依存しているならば、あなたは生かされていることになる。あなたが依存しているものは、どんな世界で作られた、どんなものなのか。あなた自らが無から産み出せないならば、あなたの所有物は何一つない。あなたがこの事実を否定するならば、あなたは自覚なき泥棒のまま、永遠の自由な天国で生き続ける生涯、本当の不老不死を棒に振ることになる。これを取り違えれば、あなたは、「本当の死」を迎えることになる。あなたは、もう二度と甦ることはできない。残念無念では済まない永遠の後悔となる。

『盗んではならない』云々のモーゼの十戒そのものが、すでに、元つ大神の天地を奪った中つ魔釣りの神の嘘の法律であり、その流れを汲むすべての法律は、泥棒の世界を維持するための法律にすぎない。アメとムチを利用して法律を定める神や仏には本当の霊力はなく、恐れ(快楽)を持っている存在を操ることが出来るだけである。嘘の神仏を信仰しても、本当の意味でのご利益や救いはない代わりに、罰や祟りもない。本当に無から産み出せる神は戒律など創らない。たとえ、全員が天地を取り荒らす泥棒であっても、全員を成敗して、もう一度、無から産み出せばよいからである。無から産み出せる神は、神仏を含めたすべての有を産めると同時にすべてを無に返すこともできるということである。それほどの力がある神だからこそできることであるが、天地自然の大泥棒を、泥棒し続けることを承知の上で生かし、泥棒であることを自覚させて天地自然の掟に戻れるように仕組みを構えた大神の情けとご苦労はいかほどのものか、おわかりだろうか。あなたは、元つ天地の大神を闇に葬って、天地の掟を破る大大罪を犯して(天国を壊して)いるとも知らず、アヤマ知の常識を信奉して平然としている。元つ天地の大神が『天恵を使ってはならない』と言ったら、あなたは即、滅びである。本当の無条件の愛とは、大神の誠意のことである。
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悪を裁くことが真理の如く思い込んでいる現代人たち。すぐに他人を裁き、「悪人」を死刑にし、身欲で我がまま放題を続けている人類に、大神の本当の情けの深さを分かろうはずもない。あなたは、生まれ変わり死に変わりしながら、天地自然の掟を破って、万象万物を破壊する大大罪を犯し続けてきたのである。天地の理法に反して、天地に不調和を響かせる者は、即、滅びであり、あなたは、本来ならば命はないのである。あなたが賭けたり捨てたりしている命は、あなたのものではない。すべてのすべてが元つ天地の大神のものである。無から産み出せない者には、自分のものは何もないのである。自分のものではないものを勝手に売り買いする行為を泥棒と言わずに何と言うのだろうか。天地の理法を外した人類は、自らを神の如く思い込んで、神が産み出した資源をすべて金に置き換えて、大神の天地を好き放題に荒らし回っている。自らに都合のよい仕組みを作り、その中でマヤカシの自由や天国を得るために、非難したり迎合したりして争っている。すべては大神の響きの顕現であり、現代文明のすべては、天恵があって、初めて存在しえるものである。元つ天地の大神が、すべてを真釣りに戻したら、真コトなき世界は、跡形もなく消え去る。

天地の理法は、唯一無二の絶対法則である。神仏も含めて、天地の理法を破った「神界の犯罪者」には、無罪か死刑か二つに一つ、異議申し立てをする資格は一切ない。それをするならば、掟破りを認めずに、違反し続けることを意味する。大神の真意が本当にわかったというならば、違反した事実を素直に認め、天地の理法に違反して天地を取り荒らしてきたことをお詫びし、滅びる前に知らせてくれた大神の情けに感謝して、たとえどんなことが起きようとも、自らのしたことをキッチリと清算することしか、この先を生き延びる術はないのである。自らが永遠に生きるか死ぬかの瀬戸際である。自らが今まで何をしてきたのか、今のままならどんな運命が待っているのか、ここでしっかりと考えて欲しい。すべては、あなた自身のためである。あなたがそのまま滅びたいなら、それでも構わない。最初で最後の機会を生かすか殺すか、それはあなた次第であり、あなただけの現実となる。

『借りたものは返せ』『盗んだ者は犯罪者だ』と言うならば、本当の債権者、本当の所有者が、本当の債権、本当の所有権を主張したら、その言葉がそっくりそのままあなたに返ることになり、あなたは、もう二度と、どこにも生き返ることはできなくなる。知恵の蛇の神を頂点とした神や仏も含めて、現代社会には誰一人文句を言える者は存在しない。もし、今のまま所有し続けようとして屁理屈をこねくり回すならば、天地窃盗罪は確定である。天地自然の律法による天地窃盗罪は国家転覆罪であり、その判決は、「切腹」のみである。
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『働かなければ、食べられない』世界では、全員が働くのをやめれば、その社会は崩壊する。従って、その社会を支配する(その社会で糧を得て、楽して自らだけの楽園を享受している)黒幕は、被支配者を働かせ続けるシステムを作り出す。例えば、法治国家で「納税の義務(=働かなければ税金は払えない)」というアヤマ知を法律に規定すれば、脱税は犯罪となる。犯罪者になりたくない者は働き続ける。役人は税金を強制徴収する権限を与えられ、支払わない者から「財産」を没収できる。人民が働かなければ税金は生まれない。税金が生まれなければ役人は生きられない。役人が生きられなければ、その世界の黒幕も命はない。『自分は何のために生きているのか』という問いがあるが、あなたは『泥棒の親分(とその手下、そして、その親分がつくる世界)を生かすために生きている』のであり、それは、結局は、『自分を生かすために生きている』ことに他ならない。それは、その世界がすべてだと自らが思い込んでいることがもたらす自認自行の目的であるから、そこでどんな仕打ちを受けようとも、神仏も含めて、それを選んだ自ら以外の誰にも文句は言えない。あなたは『生きるために働いている』のではなく、『働くために生きている』のである。

民衆が完全な自由に気づいたら、支配はできない。民衆に反乱を起こさせずに働かせ続ける(金を生み出させる、金融ゲームの原資を枯渇させない)ためには、民衆の自由を制限した分のガス抜きが必要である。民衆をマヤカシの自由の籠の中に封じ込めるために用意されたもの、それが、叶わぬ夢を実現した積もりにさせる趣味や娯楽(テレビ、音楽、美術、スポーツ、映画、ギャンブル、風俗産業等=通称3S=SEX,SCREEN,SPORTS)である。犯罪をしなければ健全な生き方であるかのように見えるが、3Sが不可欠な、快欲を求める世界そのものがケモノの略奪の世界であり、健全ではないのである。獣が獣を教育しても、獣性を増すだけで、酒を性と金にのめり込み、快欲と快適を追いかける世界に進んでいく。獣の響きは二極分裂の戦いの世界を作り出すだけで、永遠に平和は叶わない。

真釣りを外して実現できなくなった夢を仮想の世界で体験することで、自らの一時的満足感、癒しを経てバランスを戻す。その究極がインターネットである。獣の世界では「健全育成」は幻である。科学の勉強や宗教への信心、社会貢献やボランティア、助け合いの思想も、結局は、世の闇=自らの空虚感を埋めるものでしかないが、これらの思想は空虚感が埋まらない世界だからこそ現れたものであるから、それは永遠に埋まることはない。そして、それを提供する側から見れば、それ自体もビジネスの道具であり、真釣り外しを続ける限り、なくなることはない。元々は、仕事も娯楽も一つであり、自分で自分を自由に楽しめる世界であった。真釣り外した結果である苦や悪を形の道具で解消しようとし続けるなら、誰かが作った仕事に従事して貯めたストレスを、誰かが作った娯楽を食べて解消するという、霊的マスターべーションが不可欠な世界が永遠に続くことになる。「人」の響きを忘れ、「獣」の響きで天国を作ろうとしても、逆さまの世を続ける限り、それは叶わない。自らが、獣の響き(ヘビの知恵)と人の響きを持つ二重神格であることを自覚し、ヘビの世界の善と真コトの善との区別タテ分けをしなければ、滅びの世界に自ら飛び込むことになる。人の響きで獣の響きを導いて、人が獣を従える「健全な」姿に戻ることである。
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現代社会は、蛇の知恵の神を源とするピラミッド構造の最下層の社会である。人類のしてきたことは、『限りある(と思い込んでいる)資源』を奪い合って勝ち残りを決めるゲームに過ぎない。各々の「界」で、立場、財産、技術、知識、収益等々のトップがいるが、現代社会を牛耳るトップは一人であり、神の世界のトップも一人である。しかし、魔釣りの神代のトップは真釣りの世には存在できないから、たとえ今の世で蛇の知恵の神になろうとも、永遠の天国はない。勿論、知恵の神を超えることは絶対にできない。あなたは何を目指して生きているのか。あなたは何のために争っているのか。あなたの目指す天国は、生死時空を超えた世界である。それは、自らが元々いた世界のことであり、今の生き様のままでは、どう頑張っても、限りある今世の寿命の間で天国を体験することはありえない。

現代社会は、人間の姿をしたケモノの社会であり、ケモノがケモノを潰す、共食いの世界である。ケモノの調教は、教育であり、躾であり、訓練でもある。家庭や学校、社会が乱れるのは、ケモノの響きである者が、自らをヒト(真釣りの神)だと思い込み、本来はヒトの世界である天国を創ろうとしてきたからである。ヒトの天国を魔釣りのケモノが壊した末路が現代社会であるから、ケモノであることを自覚しないまま教育をしても、世が乱れるだけである。ケモノの世界はアメとムチを使ったピラミッド型で丸くおさまる。日本狼の絶滅は、ヒノモトの真コト(日本の大神)が表の世から消滅したことを意味する。国産の朱鷺の絶滅は、ヒノモトの神気(十気、時を統べる神の十理=真釣り)の封印が九分九厘完了したことの型示しである。姿形の整合性(バランス)を取ったとしても、それは、形の辻褄合わせ、「日本風の形」を残したに過ぎず、裏の響きはケモノに変わりはない。それどころか、形を天国にしようとすればするほど、裏の響きはどんどんケモノ化が進み、最後は、獣の本性丸出しとなり、共食いの末に自滅する。非常事態での日本人の秩序正しさは、獣を理性で抑えているだけであり、耐え切れずに爆発すれば、最悪の暴徒と化す。獣の性を封じ込め、善人であることを演じようとすればするほど、身魂は酷い姿となる。封印したエネルギーが多いほど、解放する時の爆発力も強力になる。狼の社会すら作れないケモノ人間に、大神の真釣りの天国を創ることなど、絶対に実現しない空想物語りである。

国際社会が混乱するのは、ケモノがケモノを調教して、ケモノの王になろうとして、主権争いをしているからである。蛇の知恵の神の子孫が牛耳る世界は、全員がケモノの響きである。ケモノはケモノにしかなれず、餌(領土、資源、お金、思想、命)の奪い合いの末に、王の一騎打ちで滅亡する。ケモノの世は、ヒトの世の復活で滅びるから、結局は、ケモノの世はマボロシである。もしどうしても、ケモノとして平和な世界を創りたいならば、子供の躾、生徒の教育の方法は「犬のしつけ方」を参考にするとよい。しかし、親や教師がケモノである限り、天国はできない。自らの調教もままならない者が、他人を調教しようとすれば、脈絡のない感情にまかせた独裁飼育となるか、教師(親、指導者)が生徒(子、被支配者)に迎合するしかないが、どちらも混乱を作り出すだけである。自由平等博愛の思想は、バラバラな世界を進める。リーダーが必要なケモノ社会で、平等や自由を唱えれば、好き放題に勝手なことを言い、争いを繰り返し、理想とは正反対の世界をどんどん進めた挙句、滅びの時に至る。まずは、自らがヒトの真釣りに戻ること、つまりは、自らのヒトの響きを思い出して自らの中のケモノをケモノとしてキッチリ調教することである。
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ケモノ社会は、相互依存の弱肉強食の世界しか作れない。管理教育は反発を生み、個性教育は自分勝手なバラバラな社会を生む。理性を持ったケモノの社会は、結局は、自然の調和の掟に反した世界であり、強力なリーダーが統率しなければ納まらない社会なのである。自由放任がよくないと言われるのは、それをすると獣の世界が壊れてしまうからである。その理由とする社会のシステム自体が、おかしいのである。支配の世界に自由はない。自由を求めて制限を強制するという矛盾。自由は自由であり、条件は一つもないのだが、それは、真釣りのヒトの響きを体現できる者だけの社会で可能なことである。人の世界を空想物語りにしてしまった獣の世界の自由は、支配者に忠誠を誓うならば、という条件つきであり、支配者の都合で、自由は奪われる。神の世界を封印した、この世だけの八方世界の平面志向である限り、本当の天国を実現することはありえない。蛇はどう足掻いても蛇である。自らの中の蛇を竜が封印し、竜の生き様を復活しなければ、蛇の毒牙にかかって自ら滅ぶ末路となる。ケモノは際限なく食べ続ける。ヒトが導かなければ、ケモノの世すら存亡の危機となる。自然界で、最も不自然な社会は「人間(人類)という動物」の世界である。ヒトとは真釣りの響きの神のことである。今の世は蛇が牛耳るケモノの神の世である。たとえ、現代社会の裏の裏の黒幕になったとしても、あなたには永遠の天国はない。

現代社会での「職業」は、泥棒の世界で、黒幕が楽をして天国を得るための仕組みを維持するための真釣りのマの字もない戯言であり、実際は、何の強制力も義務もないマヤカシである。しかし、その世界を真実だと思い込んでいる人民は馬鹿正直に働き続け、上納金(税金)を納め続ける。税金を払わないことに罪悪感を覚え、自ら進んでマヤカシの世界の維持に貢献し、自己満足に浸る。『働かざる者食うべからず』というアヤマ知の思想を植え付けられた人民を扇動し、金の世界で働かせ、上納金で楽して暮らす「役人(公務員)」と呼ばれる窃盗団運営組織の幹部ですらも人民を働かせ続けなければ自らの命がなくなる自縄自縛の仕組みを相互依存と呼ぶ。その中にいる限り、上下も自由も平等も公平もない偽の天国を目指して世界を進めていく。宗教法人、特殊法人、社会福祉法人、財団法人、学校法人等々の税金優遇策や、障害者、老人、乳幼児等の割引制度等々があるのは、現代社会の依存システムの中では、割得感を与えたり、ある仕事に寄与する者を優遇したりすることで、自ら進んで社会に貢献するように仕向けるために有効な手法だからである。自らは何もせずに楽しようとする、何も知らない人民に、弱肉強食の敗者の尻拭いをさせるためであり、ケモノの仕組みを教育し、大衆の反乱を未然に防止し、金がものを言う経済社会を維持するためである。無から産み出せる大神は、『働かない者は食べるな』とは一言も言っていない。元つ真釣りの世にはお金は存在せず、お金による誘導は全く意味を為さない。自然の中で生きる動物たちを見れば、一目瞭然である。自らの欲望のまま生きて天国の階段を昇っても、最後の階段は、崩壊である。あなたが『働かなければ食べられなくなったの』のは、あなたが働かなければ困る者が図った策略にまんまと嵌まった結果である。その世界に足場を置いて同意しているあなたには、たとえ餓死しようとも、どこにも文句を言うところはない。実際は、この世の黒幕は、働かずに食べるどころか、他人を働かせたお金を使って、神を金にすりかえた世界で天国の如き暮らしを謳歌しているのである。
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今の「国際社会」は、資源を金で支配する世界であり、その加工物の売り買いの自由度によって衣食住のレベルが決まる。金があるほど天国になる仕組みであるから、楽して天国を得ようとすれば、金で金を増やすマヤカシの仕組みに魅せられ、『いかに儲けを多くゲットするか』に血眼になって、金蔓のターゲットを探すゲームをし続けることになる。しかし、実際には「金融システム」を設計し、世に広めた、一部のエリートのみが自由に振る舞えるだけであり、一般庶民には高度な仕組みは理解できないから、上から下までどっぷりとその世界に嵌まってしまっている。貯蓄やローン、株の売買、円とドルの売買という言葉を疑うものは誰も居らず、当たり前のように、売買価格や貸し借りの金利、為替相場の動向を追いかけている。貸し出しも金利、預け入れも金利である。預金者は、預けている銀行の債権者であり、銀行は貸している預金者の債権者である。お互いに債権者であり、債務者である。実際は、お金の貸し借り、売買の世界は存在しないから、商法という決まりを作って、商売の仕組みを正当化して継続しなければ、金の仕組みは壊れてしまう。しかし、法律自体がマヤカシであれば、商法の正当性と強制力が消えるから、お金を仲立ちにする窃盗=商売も泥棒も同じ行為となる。結果、経済活動は自由選択のゲームとなり、それが不自然なものであれば、参加者は自然淘汰される。上納金をプールしている意味に黒幕が気づかないなら、金の仕組みが壊れれば、金の仕組みで天国を謳歌する野望を持つ、現代社会の黒幕も命がなくなる。黒幕の命がなくなれば、金融システムもなくなり、コンピューターも無用の長物と化し、本当の神の世界を闇に封印し、形のお金の世界で、誰かの決めた通りに生きて楽をしてきた、何をしてよいのか自ら考えられない庶民は狂死する。

生まれたときにすでにある、誰かから与えられたシステムを利便だけを追いかけて使っているならば、罠に落ちる危険性が大である。魔釣りの世には、本当の天使はいない。世の仕組みを設計した者は、自らの安泰だけを考えて、罠を仕掛けて仕組みを作る。巧妙なカラクリは、一流の学者ですら見破れない。見破ったとしても、保身のために公開しない。大衆に至っては、全く正体は見えていない。大神の神仕組みも含めて、システムの持つ意図を知り、システムのすべての構造を熟知し、システムを自由に使いこなし、自らの完璧な危機管理をして、仕組みの中にいる者を自由自在に操れるのは、設計した本人だけである。元つ大神のシステムでは、真釣りそのものの響きがなければ、何を企もうと世は滅ぶ。
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利子とは元金が産む利の子供である。元金という親の先祖は紙であり、銅や銀やアルミである。さらに遡れば、樹木であり、鉱石である。もっと遡れば、火であり、創造エネルギーであり、元つ大神の響きである。無から作り出せる神の世界に、金融、為替、ギャンブルがあるのはいかなることか。どこでおかしくなったのか。現代社会は、資源やその加工品、原爆、果ては、神のご利益まで売り買いする、金融システムを神とする「市場経済」という戦略を使ったお金の略奪競争である。売上のランキングが国のランキングであり、ランキングが上位の国ほど金が集まる仕組み、お互いに国債という借金の債権者になり、株式という紙を売り買いすることで会社、つまりは、その社員から取引先、顧客まで、すべてを売り買いする仕組みを作り出した。神を金に置き換えて、真釣りの天恵や知恵を魔釣りの思想で好き放題に使って、金に交換する(儲けを出す)仕組みを作り出し、個人から家庭、市長村、都道府県、州、国、国連まで、結局は、数学上の損得、即ち、帳簿上の収支決算の「+」を奪い合う略奪の世界が「文明社会」と呼ばれる末路の現代社会である。

物と金を交換するだけでは、物々交換と同じであるから意味がない。ビジネスという仕組みを作って、初めて、金の世界の王になるチャンスが与えられるのである。仕入れの原価は0と同じであり、在庫を抱えた状態では、借金しているのと同じである。売って儲けが出て、初めて、金の世で衣食住を自由に手に入れられる「神」を手にしたことになるのである。真釣りには損得はなく、損得があるならば、魔釣りの略奪の世界である。大神の真釣りの響きで無から産み出した天恵を魔釣りの響きで泥棒して、それを元手に金という紙や金属を集める。電子マネーや、為替ディーラーの例で分かるが、やっているのは、コンピュ−ター上の数字の操作であり、結局は、お金そのもの(現金)も、形に見えるように具象化した道具に過ぎず、現金のみで売り買いをしていた社会は、数字操作の世界であることを誤魔化すための、過渡期の段階なのである。実感を得させるために「お金」という偶像を具象化して形の売買をしているが、実体は、すべての物(行為、サービス)を数値化し、数字を増やしたり減らしたりして仮想売買をしているゲームに過ぎない。もっと言えば、万象万物を数字に置き換えて、数字を捜査することで快を奪い合う快欲追及競争である。大きな+数字を手にするほど自由=至福の体験ができ、−数字を手にするほど、誰かに操られて不自由になる(言い換えれば、金を貸せば操れる)「見事な」システムである。

神を金に置き換えた世界=お金(経済)に自らの命を預けている民の構成している世界では、お金(=命)=数字の操作権限を手にすれば、戦争や殺し合い、自殺をさせることは簡単である。世界を支配することや、自らの手を汚さずに邪魔者を消すことも自由自在となる。形で快を得る世界で、形をお金に置き換え、数値化し、それを、コンピューターを使って管理するシステムを作り出す。現金のやり取りの不便さを体験させた後に、カードを与え、ローンシステムの便利さを植え付ければ、便利や楽を追い求める大衆は、裏のカラクリに気づくこともなく、自らの欲望のままに快適生活を追いかけ、「金」の世界の虜になってしまう。当然、民の集団である国家も同じ仕組みであるから、金融システムの実権を握ることで、特定の国を操作し、破綻させ、離合集散させて、思い通りに世界を奴隷化することは簡単である。しかし、たとえ神を金に置き換えた世界を支配しても、その世界が、「この世」限定の有限の略奪の世界である限りは、結局は、自らが破綻することになる。
P102
人類の起源、魂の源は「神」であるから、自らが創造した結果は、すべて自らが引き受けることになる。魔釣りの略奪の世界が永遠に続くのであれば、永遠に略奪を続けることもできる。しかし、それとて、有限の世界の奪い合いである限りは、必ず破綻する時が来る。たとえ、今生だけのスパンで破滅の危機を乗り切ったとしても、生まれ変わる魂としての存在であるあなたは、永遠に転生し続けることになるから、必ず、自らが滅びを体験する時に居合わせる。そもそも、真釣りの世では、生死時空は一つであり、過去も現在も未来もなく、生も病老も死も、天国も地獄も滅びも存在しない。従って、あなたが真釣りならば、すでに生き通しであり、真釣り戻しの世界で魔釣りの世を体験しているだけであるから、生死を心配する必要は全くない。魔釣りのゲームが終われば、永遠の天国の現実に戻る。あなたが魔釣りならば、あなたはすでにどこにも存在しない幻であり、真釣りの世に戻れば、あなたは跡形もなく見えなくなる。生死時空を分裂させた魔釣りの響きがある間だけ、存在するように見えているだけである。真釣りの世では、魔釣りのあなたはどこにも存在せず、生き死にを賭けて争っているTVゲームの仮想現実の中の登場人物の一人に過ぎない。真釣りの神がスイッチを切れば、あなたの存在は幽霊のように視界から消える。蜃気楼のような存在が幻の世界を実体として進めてきたのが、人類の歴史であり、魔釣りのアヤマ知で何を画策しようとも、真釣りの大掃除を超えて生き延びることはありえない。

魔釣りの世界がある間は、魔釣りのアヤマ知の世界で好き放題に生きることができる。しかし、魔釣りのアヤマ知で世を進められるのは、後少しのことである。あなたをそのまま放っておいても、自動的に破滅(消滅)するが、大神の親心=情けによって、天地の理法に違反した魔釣りの響きの身魂を真釣りのミロクに生かすための最後の仕上げが用意されている。自動的に消滅するその前に、元つ大神の真釣りの神仕組みによって、大掃除をして真釣りに戻す最後のチャンスを与える仕組みが発動することになっているのである。魔釣りの世を進めたい者は勝手に進めればよいが、魔釣りの響きは、囚われを解くための仕組みである限り、永遠には許されない。天地の理法に違反した身魂を真釣りに戻すための期間限定のシステムである限りは、計画された時節が到来すれば、問答無用で真釣りに戻すことになる。仕上げの仕組みが発動した後は、自ら真釣りに戻らない限り、どんどん地獄の現実が進み、自らのしてきた結果を身を持って体験することになる。生死時空を超えた世界に生かされていた自らの実体そのままに、すべての自己責任を清算することになる。
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資源を加工した「お金」というマヤカシの道具を使った、略奪の知恵が作り出した金融システム(正確には、高等数学とコンピューターを使った略奪システム)をどう駆使しようとも、「すべて」を支配することは、絶対に不可能である。形で響きを、金で神を支配できるならいざ知らず、「この世」の「文明社会」だけを支配しても何の意味もなく、天地自然の理法を外したやり方では、自らの首を締め続けるだけのことである。さらには、支配者の策略にまんまと嵌まって、快欲を追いかけて、金の世界で自由や至福を得ようとしている「大衆(庶民、一般人)」も、識者と呼ばれる政治家や、宗教家や、学者も、全員が同罪であり、全く同じ運命を辿る。神から人まで一体不可分の世界で自由自在に天国を体験するためには、真釣りに戻るしか術はなく、魔釣りの世界(運命共同体)は破滅して終わる。現代社会の「豊かさ」や「経済発展」の本当の意味を知り、今まで、どんな世界で、何をしていたのかを正直に見て、自らの辿る運命を今ここでシッカリと考えてみることである。

電子化するということは、すべてのデータを自由に閲覧できる者が存在するということであり、それが政府機関ならば、法律での個人情報の保護は意味がない。すべてをコンピューター上にデータ化すれば、コンピューター上の操作で、金持ちにも破産者にも、無罪にも有罪にも、できるのである。現代社会で個人を個人たらしめているものは、データである。名前、生年月日、国籍、病歴、職歴、学歴、成績、購買歴、預金借金残高、家系、犯罪歴等々、電子世界を辿れば、すべてのデータを手に入れることができる。電子世界で誰かを殺す(死亡したことにする)ことも、別人に仕立て上げることもでき、電子的輪廻転生が可能になる。先端科学技術は軍事利用から始まり、軍事的に危険がない状態になった時(さらに先端の技術が開発された時に)民間に開放されるのである。インターネットも、電子レンジも、テレビゲームも、庶民にとっての最新技術や最新機器は、すでに軍のお下がりなのである。新しい技術には終わりがなく、庶民は、最新機器に買い換えるために永遠にお金を使い続ける(働き続ける)ことになる。庶民でいる限りは、どんなに頑張っても、本当の自由は得られないのである。軍の最高機密は誰も知ることはできない。庶民にはマヤカシや作り話に見えることも、真相を封印するためにそう思うように教育を通して洗脳されているだけで、実際は、どんな荒唐無稽な話でも実現の可能性はある。庶民から見れば、進歩しているように見えるが、政府や軍や企業が本気になれば、今すぐにでも、50年先に実現すると知らされている未来の生活も実現するのである。何らかの理由(儲け続けるために主導権を確保する、あるいは、軍事支配権を維持するため)で、小出しにしているだけである。インターネットの便利さ、自由さの裏に隠された本当の目的が何なのかを知らずに使っていれば、気づいた時には、とんでもない世界に放り出されることになる。
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ハッカーが犯罪者だと思ったら大間違いである。権力を握っている組織が、何らかの意図でハッキングを依頼した場合は、ハッカーは勲章を授与される。国民総背番号制の是非の議論があるが、全く意味がない空論である。文字、即ち、名前や地名がコード化できる限り、生まれる前から背番号がついているのである。すでに、民間レベルで電子管理されているのが現代社会であり、自治体のコンピューターへの侵入実権は、時間と税金の無駄である。この世にあるものは、すべて、数字に置き換えることができる。映像も、色彩も、振動も、波動もすべてが数値化できる。つまり、この世にあるものは、すべてコンピューターで処理できるのである。この本の文字もパソコン内では、コード処理されて、文字に変換され、印刷され、本の形であなたの目の前に出現したのである。上から下まで、進歩、発展神話にのめり込み、快楽と利便を追いかけ続けた挙句、現代社会の正体を知らずに、自ら進んでIT社会や電子政府というマヤカシに足を踏み入れている。インテリジェンステクノロジーとは、知恵の蛇の魔釣りの神の究極の物質化世界を作る技術なのである。電脳網、即ち、数字の演算処理電子脳の網がすべて管理する社会で、便利、快適、安全、簡単、ユニバーサル云々を追いかけた末に行き着く先は、全く逆さまの現実である。

この世、正確に言えば、文明社会は、高等数学の演算処理の作品である。一般大衆は、パソコンのCGや携帯電話やゲームを何も考えずに利用しているが、それを画面上に出現させるためのプログラミングとコンピューター内部の処理は緻密で、かつ膨大なものである。現実社会も同じことで、大衆の目には、物や金や預金通帳や数学の教科書やパソコンやインターネットやビジネスのような具体像として現れるだけであるが、その裏には、一般大衆には及びもつかない、とんでもなく緻密に計算され尽くしたシステムが動いているのである。そのシステムを設計し、組み上げ、形にして、実際の社会で自由自在に運用できるエリート集団が、お金と金融経済を道具にして、物を数字に置き換えた世界を自由自在に操作して天国を生きている。究極的には、すべてのデータを蓄積したコンピューターを破壊すれば、電子政府の支配する仮想現実での個人情報、地位、身分、財産は、一瞬のうちに幻の如く消えてしまい、現代社会という幻想に足場を置いているすべての者が「自分」を失うことになる。0から産み出せない限りは、始めからすべてが幻なのである。しかし、それは、魔釣りの響きの形の世界だけの話であって、この世でどんな企みがあろうとも、真釣りの響きだけは消すことはできず、自らの真中の真コトの響きを残せば、新しい世界で自由に自分を再生することができる。魔釣りの今世を支配する者も含めて、すべてが幻想の世界であり、本当の実体である元つ真釣り世が復活すれば、地球どころか、魔釣りの世界で作ったものは、神から人まで、あの世からこの世まで、すべてが消滅するのである。

金融経済の世界には、等価交換はありえない。元金、原資、原価は、お金ではない。100$と100¥のように、同じ数字でも単位を変えれば価値が変わる。変動相場という仕組みを作って、金の価値変換で、エネルギーを使わずに金を増やすゲームが、金で金を増やす金融システムである。しかし、金融システムが基にある市場経済も、天恵がなければ、ゲームはできない。当たり前のようにやっている物の売り買い=ビジネスの正体とは一体何なのか。現代社会を支配する、人類の歴史を通じて根底に流れている大きな嘘に気づかなければ、世の破滅は必至となる。人民を働かせた果実である税金を上納させた王から上納金を巻き上げて楽して暮らすのが、世の黒幕である。暴力団やマフィア、宗教団体の組織運営システムは、そのまま現代社会の映し絵なのである。その現代社会の中で快楽を得よう、生き残ろうとしているならば、どんなに清く正しい倹約者でも、破滅の道中にある。
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現代社会は、蛇の知の神の牛耳る世界である。蛇の天国を維持するためにその世界で考え出されたシステムを都合のいいように使って、蛇の世界で国力を誇ってきた日本国。そして、拝金教国の象徴に成り下がり、真釣りの真コトを闇に葬って魔釣りの神の神事に勤しむ日本国の王。西洋世界の王は、血統を重んじ、領地を奪い合い、その上納金で富を得てきた。現代社会の裏の黒幕も、表向きは略奪に見えない同じ仕組みで国際社会を牛耳っている。みなの幸せを願い、施しの仕組みを褒め称え、善人を演じて、いつのまにか黒幕に座らされた黒幕、世界を牛耳る知恵の神の仕組みを利用して『働かざる者(金を稼がざる者)喰うべからず』の世界で何の危険もなく(その代わりに自由もないが)偽の天国の暮らしを顕現しているその存在が、知恵の神の恩恵を最も受ける。外国にも国民にも人畜無害だから潰されることがないだけであり、最後は、元つ大神の大掃除の対象者の象徴となる。

皇室の祖神である天照皇大神は、魔釣りの天孫族であり、伊勢神宮は、神界のGHQ本部である。神界のヒノモトの占領は三千年の間、続いている。しかし、神の占領軍が何を企んでいようとも、すべては元つ仕組みに織り込み済みであり、九分九厘まで魔釣りに勝ちを渡したその後に、元つ大神のたった一発の元始爆弾で、魔釣りの世界はすべて焦土と化し、神から人まですべての世界が元つ真釣りの神代に戻ることになる。日本史では、実在が疑問視されている神武天皇は、実際は、人皇として即位した正神真神である。従って、それは「神代の岩戸閉め」を意味するから、その流れを汲む現在の皇室は、魔釣りの蛇の流れの子孫となる。「万世一系の天皇家」というのは、人皇の世(岩戸の中)の、形の歴史の中の話であり、本当のスメラミコトの正体を封印する魔釣りのアヤマ知だったのである。

日本の神響きを封印するために、唐欧米を使って、外来宗教で敬神を壊し、教育でアヤマ知の科学を植え付け、経済システムの中に取り込んで金の虜と為す。宗教、政治、経済、軍事の実権を奪って、日本人一人一人の身欲を煽る餌をばら蒔き、真中の真コトを邪鬼となして鬼門に封じれば、世界は蛇の思うがままとなる。大神を忘れ、世界の真中のハラを骨抜きにするための「蛇の知恵の罠」、三千年の策略にまんまと嵌まってしまった日本国。揺り篭から墓場まで「完全生活保護」を受けて暮らし、最高レベルの教育と衣食住を享受し、贅を慎み、弱者の気持ちを思い、国民の幸せだけを考える「魔釣り社会の最善王」は、一厘の差で、蛇の神の体現者となる。英国女王から騎士の勲章を授かり、皇族が英国留学し、魔釣りの科学の学者として世界に名を轟かせ、世話係の仮面を被った侍従と言う名の監視付きの皇居と言う名の隔離施設に住み、公務と言う名のお飾りの仕事で一生を終える「天皇」という存在が、実は、魔釣りの蛇の知恵の神の究極の権化なのである。日本人として真コトに悲しいことではあるが、本当に正直に考えれば、これが天皇家の正体である。
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儀式を守り、国の安泰と五穀豊穣を祈っていると言っても、祈る対象のその神は岩戸を閉めたあとの魔釣りの天孫降臨の神であり、皇祖が天照大神ならば、その源は知恵の神である。その世界で国祖神に安泰を祈り、伝統儀式を継承してきたとしても、その答えが現代日本の混迷だとすれば、それは何を意味するのか。日本は「世界の雛型」である。日本が何をしているかによって、世界の行く末が左右される。真釣りの源であるべき日本の王(スメラギ、皇族)が魔釣りの経済の上納金で生存を保障され、魔釣りの神の神事を続けて何不自由なく暮らし、人民が科学教、金融教を信奉しているなら、それは、知恵の神の実働部隊の王が全世界を奴隷にしていることを意味する。天皇家が本当の祀り(「真釣り」)をしていなければ、現代日本は、神社から学校まで、神から人まで完全なる魔釣りの奴隷であり、日本が魔釣りの源であれば、蛇が竜を支配する現代社会の末路は、破滅のみである。

「日本列島」は、元つ神気出づる唯一の地、真釣りを統べる三千世界の基(臍)であり、今も真コトの一厘の響きを奏で続けている元つ大神の御神体そのものである。真コトの一厘の響きを闇に葬ってアヤマ知の科学と金にのめり込み、衣食住から精神まで魔釣りに握られた日本国。日本=ハラが完全に腐っているならば、『神と悪魔の戦いのケモノの宗教』『世界は一家人類は兄弟姉妹』『金が支える金融経済システム』『科学、IT、慈善、裁判、福祉=相互依存』(体主心従霊属の魔釣り)に足場を置く、真釣りを外した「蛇の知恵の火」を基と為す、逆さまの「嘘の蛇の悪神」が統べる世界の末路は、神から人までただ一つである。ヒノモトが腐れば(苦去らなければ)魔釣り、腐らなければ(苦去れば)真釣りである。『真中の座に何様が座るかで、八方世界のマ釣りが決まる』それが、元つ仕組みである。今の世は、ヒノモト真中に蛇が座す、八方世界に蛇の頭が睨みをきかす、ヤマタノオロチが牛耳る世界である。そのヒノモトの有様を真実だと思っているすべての日本人のハラにいるのは、当然のことながら、竜の仮面を被った大蛇である。神代の昔にヒノモトが魔釣りで曇ったことが、世界が汚泥混濁の争いの歴史を歩んだ本当の原因なのである。

真中が真釣りなら世界も真釣りである。ヒノモト真中=世界のハラが腐らなければ、世界は今も真釣りのまま続いていた。世の大掃除もなく、嬉し楽しの幕の上がりで、真釣りのミロクに成ったのである。自らの真中に真コトの草薙の剣が封印されている。オロチの腹にはオロチが飲み込んだ剣がある。自らがオロチに負けて献上した剣である。真コトを響かせれば、オロチの腹の剣が真コトに共鳴し、魔コトのオロチは悶え苦しんだ末に、真コトの響きに戻る。大蛇が正竜に戻る。自らが真釣りに戻る。それが、真釣りが魔釣りを改心させる仕組みである。魔コトを捨てれば真コトが響き、真コトが響けばオロチが従う。魔コトに囚われ続ければ、オロチもろ共、自らが真コトに成敗される。ヒノモトの民が真コトを響かせればヒノモトに真コトが響き、ヒノモトに真コトが響けば、世界に真コトが響く。世界に真コトが響きけば、世界が真釣りに戻る。元々は、世は真釣りのみである。まずは、真釣り外した自らが真中の真コトを思い出し、真コトを鳴り成らせることである。草薙の神剣による各自のオロチ退治、ヒノモト真中の大掃除から、本当の世直しが始まる。
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霊主心従体属の真釣りの真コトの正神真神の竜が統べる天地の神法、分かり易く言えば、日本列島を御神体=聖地として崇める真コトの神の精神を拠り所とする本当の「世界統一教」に戻らない限り、世界の破滅となる。神から人まですべての世界が滅ぶか残るか。その鍵は「日本」である。本当の日本=ヒノモトに残る最後の真コトの一厘、本当の日本の神道(真コトの日本真道、神道=戦争ではない)の復活が、元つ真釣りの大神の救世の響きをこの世に降ろす唯一の術である。まず手始めは、御神体の神官=日本人の超大掃除である。この本は、現代日本と人類史の正体を明かし、心に巣食っている嘘を掃除する材料を提供することで、日本人が本当の日本人に戻って、残る一厘の真コトの道を日本に(そして世界に)復活するための、真コトの日本を担う人材を育てる再教育の教科書でもある。

世界を救う真コトの一厘。天皇から庶民まで、日本のお土に産まれ、育まれた日本人全員が思い出すべき真コトの一厘である。本当の日本の一厘を穢した事実は消せないから相応の大掃除はあるが、この一厘で元つ大神の御用を果たすことが、これから始まる世界の立て直しで日本が果たすべき天命である。これは空想でも理想でもなく、「元つ真釣りの大神の創造の法則」に基づいた元つ仕組みである。これを荒唐無稽の夢物語、狂った宗教家の戯言として闇に葬るのが、真釣り外した現代社会で教わった常識なのである。現代社会が逆さまであるなら、真釣りの世では、現代社会の常識が荒唐無稽となる。この本の話と現代社会の常識、どちらが本当の真実なのかは、現代社会を見れば明らかである。ハラとアタマの戦いとは、現代社会の魔釣りとミロクの真釣りの時空を超えた決戦である。真コトの一厘があることを思い出し、それを認めて心底から改心し、魔コトの宗教と科学を捨て、真釣り外した分の身魂の大掃除の辛苦に耐えて、見事ミロクの開闢の天命を果たして欲しい。

現代社会は、本当の神を知らない。神の戦争の結末を知らずに戦い続けている。真コトの神との戦いは、生死時空を超えた戦いであり、水爆も細菌兵器も役に立たない。たとえ、魔釣りの蛇の知恵の神が自らの総力を挙げて封じ込めようとしても、勝ちはない。ヒノモトが真釣りに戻らなければ、世界は破滅に向かう。真コトの神を知らない今の国際社会の中で日本が真釣りに戻ると、『日本の突然変異』『市場経済と民主主義への冒涜』『狂ったとしか思えない裏切り』『神国の復活』に世界は驚天動地の大混乱になる。『日本帝国主義の復活の脅威だ』『国際社会を混乱させるテロリストだ』『我らの神を冒涜する悪魔が正体を現した』と一致団結して責めて(攻めて)来るかもしれない。しかし、どんな状況になろうとも、決して真コトを動かしてはならない。今の立場を守ろうとして迎合してはならない。生死も立場も国の存亡も、すべてのすべてを元つ真釣りの大神と正神真神(ヒノモトの真コトの守護神)に任せて、真釣りという神法を厳格に守り通し、蛇の世で積み(罪)上げてきたすべての歴史を捨てる覚悟を決めて、非難、圧力、攻撃に見事に耐えて真コトを貫くことが、世界に真コトを示すこれからの日本の本当の「シゴト(国際貢献)」である。
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世を滅ぼす自分勝手な魔釣りの「私事(死事)」ではなく、真コトの一厘で世を支える真釣りの「支事」が、世界の中での日本の本職である。真コトの日本の守護神の総帥は、魔釣りの総帥の蛇の知恵の神をも産み生んだ、三千世界を統べる真釣る真コトの創造主、元つ真釣りの大神様である。それがどんな神なのか、何と言う神なのか、云々と神の正体を分かってから信じようなどというのは、真釣り外しの証であり、魔釣りの権化そのものである。そのままでいるならば、これから始まる総決戦では、寝返った裏切り者は賊軍と見なされて成敗の標的となることを覚悟しておくことである。魔釣りの勢力でも、真釣りに寝返れば、真コトの官軍として迎えられるということである。自らがどちらを選ぶのか、今ここから態度で示してもらいたい。難しく考えることはない。要は、真コトの日本人として何をすべきなのかだけを汲み取って、それを一言違わずに実行に移せばよいだけのことである。

真コトを磨けば、自動的に官軍の兵力として大神の旗の下に参戦できるのである。これは身魂の戦であり、今世で言う老若男女や知識や体力や宗教や財力や生き死は全くもって意味がない。女だから、子供だから、老人だから、などという現代社会の常識での言い逃れは通用しない。『そんな馬鹿げた話は信じない』それは、自らの永遠の滅びを意味する。霊界全土が遍く戦場と化すから、神や仏も含めて、誰一人(一柱)、戦を逃れることはできない。真釣りか魔釣りか、生き戻る道か滅びる道か、裏表、正反対の選択であり、官軍か賊軍か、どちらか一方の兵士になるしか道はない。万古末代、永遠に生きるか滅びるか、生死時空を超えた二つに一つの究極の踏絵である。究極のビックリ箱、本当のパンドラの箱が開いた時に肝を潰さないように今から少しでも真コトを磨いて準備しておくことである。

この本で語る話は、現代社会を信奉している日本人にとっては、とんでもなく馬鹿げた荒唐無稽な話に聞こえるはずである。「狂った」著者の精神構造を分析したくなるかもしれない。しかし、ここに書かれている話は、すべてのすべてが事実であり、これが嘘ならば、現代社会の常識が真実だということになり、そのまま生きていけば、明るい、光輝く天国がやってくるだろう。あなたが、どちらを信じる(選択する=実行する)かは自由であるから、著者が口をはさむ問題ではない。著者は、ただ、自らが求めていた結論であり、かつ、人類が求め続けてきた真コトの真実を公開しただけである。現代社会の真実と著者の真実のどちらが嘘か、どちらが悪か、どちらがマヤカシか、どちらが天国を作る方法か、この際限のない究極の禅問答については、著者自身が究極まで突き詰めた問題であり、自問自答を繰り返して自己矛盾を解消していった末に辿り着いた結論がこの本なのである。
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この本の話は、議論する余地はない。あなたの本当の姿を映す鏡であり、あなたが、最初に決めることは、あなたがこの本を要るのか要らないのかである。もし、あなたにとってこの本が不要ならば、その場でゴミ箱に捨ててもらって、今までの生き様に戻って頂いて一向に構わない。この本を読んでいる身欲のあなたは、この本から何かを得ようとしているのであるから、著者の言動に対して口をはさむ資格はない。数え切れないほどの恐れを乗り越え、長きに渡る体験を通して、真偽の裏付けを取った上でここに辿り着いている著者としては、例え自分一人だけしか信じていないとしても、霊界で殺され続けたとしても、自らが持っている今の考えを改める気は100%ない。著者に対しての忠告や警告や助言の類は一切辞退させて頂く。著者は、その正体を知った限りは、魔釣りの穢れ(怪我霊)の世界に戻ることは絶対になく、最後は、読者諸氏がどう判断するかの個人的問題となる。

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posted by 長谷章宏 at 20:59| 京都 ☁| 実践・日本真道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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